禁断の術(リップクリーム)
「エル・トラにいたころ、クロはディオンから『祝福』を与えられていたのよ」
ずらりと並んだ本を、ル・ルーさんは一冊二冊と抜き取っては床に放り投げていく。
その後ろ姿を見守るリリィさんの腕には気絶したライラさんが抱かれていた。意識は戻らないものの、呼吸は安定していて顔色もいい。無事だ。
「一般的な祝福は他人の意識に介在するほどの強制力はないけれど、それはアルカナが加減しているというだけ。直接血を入れれば、意識――魂の一部を混入させることもできるでしょうね。儀式に失敗したディオンは必死だったろうから」
どさ、どさ、と本が積み上げられていく。表紙を見る限り関連性はなさそうだ。
「でもクロムさん本人は、祝福を受けていないと思っていたんですよね?」
ジルの言葉に、ル・ルーさんは手を止めずに頷く。
「そうね、迂闊だったわ。クロの左腕は火傷の痕に覆われていた。あの火傷そのものが祝福の証だったのよ。ロゼウス氏から徘徊行動については聞いていたけど、まさかディオンが宿っているとは思わなかった。ディオンもすぐに体を乗っ取ることはできず、長い時間をかけて肉体を奪う機会を狙っていたんでしょう。浴室のカビみたいなものね」
「奥様、喩えが乱暴では」
「あの男の鬱陶しい性質はカビ以外の何者でもないわ。七つも年上のくせに、学院ではわたしやエリアーデをゴミみたいに見下して、ほんと腹が立つったら。ルカ先生に向ける笑顔とは真逆で、それが余計に……」
手を止めたル・ルーさんは、顔を赤くして拗ねたように頬を膨らませている。
「もしかして、奥様の初恋って」
ジルの鋭い指摘に、ル・ルーさんは癇癪を起こした。
「あんなもの恋に含まないわ。年上でちょっとカッコ良かっただけで、性格は最悪だったもの」
あのーぅ、皆さん忘れていませんか。
いま屋敷は放火されていて、この部屋だっていつ火の手が回るともしれないのに。
……うーん、でもそうか。ル・ルーさんは面食いなのか。
軽く二十冊は抜いただろうか。スカスカになった本棚がカチリと音を立てた。
ル・ルーさんが本棚を横へずらすと、そこには人が歩いてゆけるくらいの空間が生じていた。
「行きなさい、地下への通路よ。防火壁で囲んであるわ。正しい手順を踏まないと開かないよう仕掛けがしてあるの」
感心するリリィさんとジルを、ル・ルーさんは先に行くよう促す。
煙が満ちてきた室内にひとり残ったル・ルーさんは、視線を漂わせた。
「……クロ、いる?」
はい、いますよ。
ぼくも刈られたときにはどうなるかと思ったけど、なんてことはない。
ル・ルーさんとフォルトゥナの食事風景に出くわしたときのように、天井辺りを浮遊しているのだ。
「『死に神』の勘というのかしら。なんとなくだけどね、さまよう魂の気配を感じるの。姿を見られるわけではないけれど、時々ノイズのように声が聞こえる。変な感じよ」
ル・ルーさんの口元は皮肉に歪んでいる。
「クロ、あなたはいま、どんな顔をしているのかしら? びっくりしている? 怒っている?」
ふつうですよ、案外この状態も悪くないです。
「ごめんなさい。わたしの失態よ。『死に神』の祝福でディオンを上書きすれば良かったのに、本当にごめんなさい」
顔を上げてください。ル・ルーさん。
「肉体から離れた魂は、いつ昇天してもおかしくない。だけどあなたを逝かせはしない。代表としての義務を果たし、肉体を取り戻すわ。ついてきて」
ル・ルーさんが手を伸ばしてくる。はっきりと、ぼくの姿を捉えていた。
「頼りにしていますよ、代表」
ぼくの声はル・ルーさんに届いたようだ。
だってル・ルーさんの顔には、いつもの自信がみなぎっている。
「奥様、こちらです」
先に地下に降りていたジルがランプを手に待っていてくれた。ぼくはル・ルーさんの肩にしがみつくような形でついていく。
薄暗い地下室には、巨大な耐火金庫と一基の棺。
「奥様、これは?」
「サン・ルシェルなんて嘘よ。ディオンはずっと、ここで眠っていた」
ル・ルーさんは慣れた様子で棺の施錠を解くと、ゆっくりと蓋を開けた。
先に覗き込んだジルが、思わず頬に手を当てる。
「奥様……おれ、おれ……どうしよう、胸がドキドキしてきた」
どうしたことだ。あのジルが女の子の腰つきになっている。
「わかる? わかるでしょう、ジル。わたしがとっておきたくなる理由」
「たしかに。目の保養です」
女の子同士の会話、という感じだ。
ぼくもディオン先生の顔を覗いてみた。たしかに鼻筋は通っていて、睫毛も長くて、すべてのパーツが不自然なほど揃っている紛れもない美形ではあるけど、こんなもん三日で飽きる。
それよりも驚いたことは、棺に開いた穴から通されているたくさんの管につながれているものの、規則的に胸が上下していたことだ。
そう、先生は生きているのだ。
「死んでないわ。十二年前から昏睡状態のまま。だからこそディオンの魂もクロの肉体に留まっていられた」
後から覗きこんだリリィさんは「たしかにカッコいいけどぉ。中身がなさそうね」とすぐに興味を失った様子だ。さすがリリィさん、男の中の漢ッ。
「奥様は未亡人で、亡きご主人の屍体を保管しているって噂があったんですけど」
ジルの問いかけを、ル・ルーさんはあっさり否定する。
「『奥様』という呼び方は親しみを込めた異称のようなものだし、保管していたのはディオンの肉体ね。エル・トラの火事のあと肉体を回収した際、どこに保管するかアルカナ間で議論したの。大罪人といえどアルカナを処刑することはできないしね。けれど面倒ごとを嫌がって皆が拒否した結果、わたしの元に置くことになったのよ。それだけのこと」
噂はやはり噂でしかなかったのだ。なんだかホッとした。
話は済んだ、とばかりにル・ルーさんはぼくのほうを見上げた。
「クロ、いるわね。わたしの血を使い、一時的にあなたの魂をディオンに入れるわ」
――……え。よりによって、ですか?
「感謝しなさい。きっと一万回転生してもこの容姿にはなれないからね」
ふたたび鎌を出現させたル・ルーさんは、その鎌で自分の指先を切った。血がにじみ、鎌が赤く光り出す。ぼくはそこに引き寄せられた。
不思議な感覚だ。体が溶けていく。
鎌の形は不自然に歪み、やがて、リップクリームになった。
ん? なぜリップクリーム?
というぼくの疑問を放置し、ル・ルーさんは薄い唇にリップクリームを丹念に塗った。
血とぼくの魂が吸着されている。
――……まさか。
「いくわよ」
その「まさか」だった。ル・ルーさんのリップクリームで艶々になった唇が、ディオン先生のそれに重ねられる。
「はぅッ」
ため息をもらしたのはジルかリリィさんか。
そんなことはどうでもよくて、ぼくはひたすら息苦しかった。
「ん……んふ、ふ、ん……」
熱い。苦しい。喉が。呼吸が。
「ぶはぁーーーー」
ぼくは思いきり息を吐きながら、同時にル・ルーさんの体を押しのけた。
「どうやら成功したみたいね」
ぼくを見下ろすル・ルーさんの顔。濡れた唇。潤んだ瞳。心なしか、恋する乙女。
「どうやら……って、もしかして失敗するリスクがあったんですか?」
発した声は、ふつうのぼくのものとは違うハスキーボイスだった。
「いまだから云うけど、成功する確率は一割にも満たなかったわ。なんたって禁忌の術だもの」
なんて危険な橋ッ。
「祝福や肉体を共有していたことによって素直に馴染んだみたいね。ほんと、成功して良かったわ」
とびっきりの笑顔で胸をなで下ろすル・ルーさん。
あなたは悪魔ですよ。いや、死に神か。
どっちにしろひどい。




