奪われた肉体
はっと意識が戻ったとき、ぼくは鳩の血社の庭に佇んでいた。
庭に設置された柱時計を見ると二時を差していた。
ルフが発した光によって意識が飛んだのが一時半ごろだから、ぼくはその足でまっすぐここに来たことになる。
なぜ? やはり、ぼくの中に潜んでいたディオン先生が体を動かしたのだろうか。
自分の体でありながら空恐ろしい。体内に隠れる場所があるのかどうかは知らないが、草の影から獣のようにぼくを狙っている様子を想像してしまった。
ル・ルーさんが云っていた。次に狙うのは「本物の肉体」だと。心当たりならある。二階の奥部屋に隠されたD.Dの棺だ。
あの部屋に近づきさえしなければいい、と思う。ここで意識を取り戻したのが幸い、このまま敷地を出よう。そしてもう二度と来なければいい。
ぼくはそう思って門に向かって歩き出した。もちろん自分の意思で足を動かして。
だけど門を抜けるというとき、不意に足が止まった。
ディオン先生のせいじゃない。
――もう二度と来ない。それは鳩の血社を辞めるという意味だと気づいてしまったからだ。
ル・ルーさんやライラさんのことを忘れるわけではないのに、この会社の一員でなくなるということが無性に悲しくなってきた。
ぼくはまだ、ここにいたい。
未練がましく振り返ったぼくの目に、信じられないものが飛び込んできた。
二階の窓。あの棺がある部屋の窓から人が吊るされている。
「ライラさんッ」
意識を失っているらしく、全身にきつく紐を巻かた上で窓の縁にごくごく簡単に引っかけられたロープから逆さ吊りにされている。
風が吹くとライラさんの体が揺れて、頼りないロープがほどけそうだ。壁に衝突する可能性もある。
ぼくは無我夢中で二階に駆けあがった。
奥部屋の扉を開ける。窓に駆け寄ろうとしたところで、不自然に足が止まった。棺の前だ。
「――なん、で」
足を止めたのはぼくの意思ではない。
ぼくの意識ははっきりしていて、棺なんかじゃなくライラさんを助けるために動きたいと思っているのに、金縛りにあったように動かないのだ。
どうしてだ。こんなこと、いままでなかった。
(ルフの力だ)
内側から響いてくる声。覚えのある、ディオン先生の声だ。
(ルフの力を受けたおまえの意識は過去に遡り、肉体とのつながりが一時的に絶たれた。そのお陰で、これまでは意図した頭痛や睡眠時などおまえの意識状態が低下したときでしか結ばれなかったボクと肉体との結びつきが強くなり、ボクの意識がより優先されるようになった)
なんだよ、それ。ぼくの体なのに支配権がないってことか。
(この肉体は、ボクのもの。ボクの意思で動く)
ぼくの意識とは裏腹に、ボクの体は棺の前に跪き、蓋に手をかけていた。
抵抗を試みても、それは二番手に落ちたぼくの意識であってボクの肉体においては優先されない。
たった一度離れただけでつながりを切ってしまうなんて、薄情すぎるよ、ぼくの肉体。
(いまのうちに好きなだけ悲しむといい。ボクはおまえのようなザコをいつまでも残しておくほど甘くはない。二度と浮上できないくらい深層心理の世界に深く沈めてやる。おまえは悲しむことすらなくなるんだ)
ふざけるな。これはぼくの体だ。母さんが産んでくれた、ぼくの体だ。
(ルカ先生か。惜しい存在だった。孤児だったボクが初めて好きになった女性だ。『太陽』の名が示すように、いつでも眩しく光り輝いていた。だからボクは――)
ぎぃ、と鈍い音を立てて蓋が開かれる。いつだったかぼくを襲った黒い風が触手となってボクの体を包んだ。しかしボクは焦ることもなく笑う。
「くだらない捕縛術だ。この棺を開けようとしたとき発動する。ベアトリスの仕業だな」
軽く手を振り払っただけで黒い風はあっけなく霧散した。
ル・ルーさんが施したトラップは簡単に破られ、とうとう棺が開けられる。
ぼくはそこに、ディオン先生の屍体が眠っているものと思っていた。
だけど――棺の中は空っぽだった。
「残念だけど、そこにあなたの体はないわよ」
ボクの首にぎらりと光る鎌。
鎌の鏡面に映し出された鎌の持ち主――それは、愛らしい容姿とは裏腹にカッと目を見開く『死に神』だった。




