不穏な兆し
一体なにが起きたのか理解できなかった。
視界が暗闇に閉ざされる中、カチンカチンと甲高い金属音がひっきりなしに聞こえ、もしやだれかが刃を交わしているのかもしれないと目を開けた。
そこでおかしな光景を目にしたのだ。
「ようやく見つけたと思ったら、こんなところにいたとはね」
薄暗い店内で、ル・ルーさんがだれかと向き合って座っていた。
カチンカチンと鳴り響く音。それはナイフとフォークが操られ、ジウジウと湯気が立つステーキを切る音だった。
「まぁ、なんてうるさいんでしょう。躾がなっていないのかしら」
と、ル・ルーさんのマナーを向かいの席で笑ったのは、羽根つきのつば広帽で顔を隠している女性だった。肩が丸ごと出て豊満な胸の形がわかる色っぽい服を着ている。
そう云う女性も、先ほどからやけに音をさせている。
「わざとに決まっているでしょう。こんなところで刃物を振り回すほうが礼儀知らずだとわからないの?」
つまりカトラリーによる「つばぜり合い」なのだ。わかりづらいやりとりだ。
しかし問題なのは、どうしてぼくが天井から見下ろすような形でル・ルーさんと女性の食事風景を見ているのか、ということだ。重力を無視してあきらかに天井に張りついている。
ぼくの意識は直前までルフとともに公園にあった。そこでルフの体から放たれた光を目にした瞬間、ここに飛んでいた。
ゴーン、と鐘が鳴った。大聖堂の鐘だ。鳩が放たれる。
この時間、ぼくはまだ家にいた。これからルフとともに家を出ようというところだ。一体どういうことかと頭を悩ましていたぼくは、ルフの「リバース」の能力を思い出した。
――肉体、物質、精神、記憶。リバースの作用は、いろいろ。
これは可能性のひとつだけど、ぼくはリバースの力で意識だけ過去に飛ばされたのかもしれない。
「そろそろ本題に入りましょう」
一時間近く続いていたつばぜり合いは、ル・ルーさんが最後の一切れを口に入れたことで終結した。いや、ここからが本番か。
話し合う姿勢を示すためか、ル・ルーさんはナイフとフォークをそっと置く。
「ルクレ花屋の店主さま。ずいぶん挑戦的な手紙をくれたじゃない。クロムはわたくしのもの、ですって?」
唐突にぼくの名前が出てきて焦った。
「事実ですから」
「聞かせてもらえる? そのわけを」
テーブルに肘をついて前のめりになるル・ルーさん。顔は笑っているけど目は笑っていない。
一触即発の空気だ。
「最初に彼を引き取ったのは「あの方」です。奪われたものを返してもらっただけのこと」
女性の発言に、ル・ルーさんは明らかに不快そうな顔をした。
「盗んだ、の間違いでしょう? 一歳になったばかりのルカ先生の遺児は、祖父にあたるロゼウス氏が引き取ることになっていた。いつか覚醒するときまで静かに見守ることになっていたのに、あの男が盗んだ」
ルカと遺児。ロゼウスおじさんには娘がひとりいたと聞いたことがある。名前は知らないけど、亡くなったらしい。
「導師の願いを叶えるためには『太陽』が必要だったの。だから必要なものを揃えたまでよ。儀式は失敗してしまったけれど、彼の存在によって導師の魂は永らえた。ふたたび力を蓄えて目覚めるまでに十二年。その間に必要なものは用意できたわ」
「ほんと大バカよ、フォルトゥナ」
ぼくはそこではっきりと女の顔を見た。
『運命の輪』フォルトゥナ。銀髪で、ルフと同じ顔立ちをしている。
「あのとき、わたくしは遠くに使いに出されていた。置いていかれたの。だから今度こそお役に立ちたいだけ」
「死んだ母親と同じことを繰り返すなんて、まるで『リピート』ね」
「そのセリフ、そっくりそのままお返しするわ。ベアトリス。あなたは妹のイルフィナを懐柔しようとして『逆位置』されてしまったんだものね。とっさに自分の魂を切り離したから精神は守ったものの、『死に神』の逆位置である「不変」の影響でいつまでも肉体が年を取らない。本当のあなたはエリアーデと同じ年なのに、いつまでも子どものまま。なんて憐れなのかしら」
信じられない。ル・ルーさんとエリアーデさんが同い年? ルフに「リバース」された?
そのとき、窓がかすかに震えた。
フォルトゥナが素早く日除け傘を差した次の瞬間、窓ガラスが一斉に割れてふたりに襲いかかった。衝撃波が飛んできたのだ。
風は店内をぐちゃぐちゃに乱し、ル・ルーさんに隙を与えた。
「話はここまでです。予定よりすこし早いですがイルフィナが時を告げました。妹とともにあの方の元へ行かなければ」
傘で身を守ったフォルトゥナは、テーブルに乗ると遮るものがない窓から外に飛び出た。
「待ちなさい……ッ」
「『預言』します。あなたはもうすぐ、大切な人を失う」
預言を告げ、悠々と立ち去るフォルトゥナを追いかけようとするル・ルーさん。しかしガラス片で肩が裂かれ、血が出ている。
「ル・ルーさん、大丈夫ですか、ル・ルーさん」
ぼくは叫ぶ。聞こえていないかもしれないけど叫んだ。
するとル・ルーさんの視線が不自然に移ろった。ぼくを探すように辺りを見回す。
「……クロ、いるの?」
「います、ぼくはここです」
両手を振ってアピールしてみるものの、ル・ルーさんの目線とは重ならない。
目の前にいるのに。なんて歯がゆいんだ。
「クロ、いるなら聞きなさい。あなたの魂がここにあるということは、いま体を動かしているのはあの男――ディオンよ。目的があるの。次に狙うとしたら本物の肉体を――……」
あれ、ル・ルーさんの声が聞こえない。
霧のように姿が薄れていく。
なにかを訴えようと必死に喋るル・ルーさん。だけど声が聞き取れない。
ぼくの意識は、もっと強い……たとえば掃除機のようなものによって急速に引っ張られていた。




