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死に神は「美少女」に限る。  作者: 芹澤
第四章 『世界』の目覚め

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建国祭と追跡者

「――――……」


 目蓋を押し上げた。見覚えのある天井が飛び込んでくる。自分の部屋だ。

 ものすごく鮮明な夢を見ていたような気がするのに、なにも思い出せない。

 頭がはっきりしない。体も重い。なんでだろう。

 重石で固定されたような体に目を向けると、不自然な膨らみがあった。


「……う、ん」


 喋った。ぼくは蒲団から腕を抜き出して、そっとシーツをめくってみた。すると、ぼくの鳩尾あたりに頭を乗せて眠る少女の姿があった。


「る、ルフッ」


 昨夜、なりゆきで家に連れてきてしまったルフにベッドを譲り、ぼくは床で眠りに落ちたはずだ。それなのになぜ、ぼくの蒲団の中で眠っているんだろう。

 無理やり体を起こすとルフが転がり落ちそうな気がしたので、軽く肩を揺すった。


「ルフ、起きろ、ルフ」


「ん――……」


 子どものように目をごしごしとこする。なんて可愛いんだ。

 だけどいまは悠長に眺めている場合じゃない。起きてくれ。


「ルフ、ねむい」


 一度上体を起こしたものの、ルフは力尽きたように落ちてきた。

 あぁ、思い出した。ルフの存在だ。『塔』のルフは探されている。ここに置いておくわけにはいかない。ル・ルーさんに伝えなければ。


「……あったかい」


 ぼくの胸板に頬をすり寄せながら、ルフは気持ち良さそうに唇を上げる。


「ルフ、あったかいの、好き。冷たいの、きらい」


 なんの衒いもない、寝言のような言葉だからこそ、わかる。ルフの本心だと。

 ぼくがル・ルーさんに連絡したら、ルフはまた幽閉されるだろう。それこそ、もう二度と脱出できないようなところへ入れられるかもしれない。


 迷うぼくの耳に、高らかな鐘の音がこだまする。

 街を一望する大聖堂の鐘が鳴らされているのだ。

 パッと目を開けたルフは、ぼくを押しのけて窓から外を覗いた。


「クロ、鳥だよ。まっしろな鳥」


「あぁ、きょうは建国祭だから、平和の象徴である鳩を放っているんだよ」


「けんこくさい? おまつり?」


「建国の英雄である二十二人のアルカナ像が花で飾られ、街中が花で彩られるんだ。もしかして、初めて?」


 肯定も否定もしないまま、ルフはぼくに近づいてきて裾をくいくいと引いた。


「……見にいきたいの?」


 強く頷くルフ。

 年に一度の建国祭はだれにとっても特別で、嬉しい日なのだ。ルフはそれを知らない。見ることもなく、教えてもらうこともなかった。そういうことだ。

 この機会を逃したら、ルフは一生涯祭りを知らないままかもしれない。それなら、一度だけでもいいから見せてやりたい。ル・ルーさんに連絡するのはその後でもいい。後ろめたさを感じつつも、ぼくはそう決めた。


「わかった。行こうか」


 そう答えたときのルフの顔。最初は目が開き、次に鼻が膨らんだ。唇だけはしっかり引き結んでいる。もしかして笑いかたを知らないのだろうか。


「嬉しいときは、こう笑うんだよ」


 とぼくは口角を吊り上げて歯を見せて笑って見せた。けど。


「変な顔」


 と一蹴される。変、って云われると悲しいんだけど。

 笑い方なんてぼくだって知らない。エル・トラにいたころは笑う必要なんてなかった。周りの大人が笑っていなかったから、単に知らなかったんだ。

 教えてくれたのはおじさんだった。

 あぁ、そうか。ここにいるルフは、あのころのぼくなんだ。


「でも、あの人の笑いかたより、好き」


 と頬を緩めた。

 どきっとするくらい可愛い笑顔だった。いまさらだけど、ルフは紛れもない美少女だ。



 祭りが行われる広場に集まる聴衆の中には、お面やマントなどで仮装している人もいる。


「息、苦しくないか?」


 ぼくは手をつないだルフに小声で問いかけた。


「へいき」


 くぐもった声が返ってくる。ルフはぼくが急きょ用意した仮面をつけている。目元だけがくり抜かれたウサギの面だ。屋台で売っていた。ついでにウサ耳のカチューシャをふたつ買って(ルフがお揃いにしたいと云うので)髪に差した。ぼくはともかくとして、ルフの銀髪に似合う。可愛い。


 家を出る前、鳩の血社に電話をかけた。おじさんのことを伝えておこうと思ったのだが、正直緊張していた。察しのいいル・ルーさんに問い詰められたら、ルフのことを吐いてしまいそうな気がしたのだ。


 一コール鳴った直後、ライラさんが応じた。すさまじく早い。


『Oui !(はい)奥様ですかッ?』


「……あ、クロムです」


『あぁ、なんだ。クロさんですか。二階から前転宙返りして出ちゃったじゃないですか』


 タダ者じゃないと思っていたけど、二階から宙返りって、何メートルあるんだ。


「あの、ル・ルーさん、いないんですか?」


『……ええ、ちょっと』


 声音が落ちる。なにかあったのだろうか。


「いつごろ戻るんですか?」


『私が知りたいくらいです。Xさんに』


「え?」


『なんでもないですー』


 意図して声音を抑えているライラさんの言葉を聞いていると、なんだか不安になる。


「ルフ、待ちくたびれた。おまつり、早く」


 声がしたかと思うと、背後からルフに抱きしめられた。まずい、この距離だとライラさんにも聞こえてしまう。


『……いまの、なんですか? ルフって』


「す、す、す、すいません。またかけなおします」


 ガチャン、と乱暴に電話を切った。

 いま思い出しても泣けてくる。言い逃れはできないだろう。ルフに祭りを見せたら、その足で鳩の血社に行くしかない。ルフには悪いけど、ぼくも生活がかかっている。


「……ってあれ、ルフ?」


 先ほどまで手を握っていたはずのルフがいない。路地に所狭しと並んだ屋台と人混みによって、小さなルフの姿はなかなか見つけられなかった。ウサ耳も役立たず。


「クロ、こっち」


 視線を低くし、必死になって探していたぼくをルフが呼んだ。頭上から。

 ルフは仮面を頭に乗せ、屋台の骨組みの上に座って足を揺らしていた。


「ここなら、クロ、見つけやすい。クロ、迷子」


 いやいや、いなくなったのはルフのほうだからな。


「あぁ、あの子の兄さんかい。ちょうどいい。五千ペルカ払ってもらおうか」


 そう声をかけてきたのは、屋台のおじさんだった。いかつい顔でぼくに手を伸ばしてくる。


「ご、五千ペルカ?」


「当たり前だ。あの嬢ちゃん、うちのクレープをぜーんぶ平らげたんだからな」


 見ればルフの口の周りはクリームで汚れている。


「素直に払うのか、それとも警察に突き出されるか、とっとと選びな。あん?」


 鬼のような気迫に、ぼくはなけなしの一万ペルカを支払った。もう財布には雀の涙ほどの小銭しか残っていない。なんでぼくが……。


「クロ、手、広げて」


 叫ぶや否や、ルフが高らかと跳躍した。ぼくは慌てて両手を広げる。ルフはそこへまっすぐ降りてきた。まるで天使のような軽さ。

 クリームだらけの口を綻ばせ、これ以上ないくらい嬉しそうに笑っている。


「クロ、楽しい、美味しい」


 この笑顔にほだされて許してしまうぼくは、やっぱり甘いのだろうか。


「――いたぞ、例の子どもだッ」


 高らかに響き渡った声。ぼくはハッとして振り返った。昨日ルフを追っていた公安部隊の制服が見える。


「ルフ、しっかり掴まれよ」


 ぼくはルフを抱いて人混みに飛び込んだ。あまりにも人が多くて進むのは大変だったけど、それは相手も同じだろう。声は聞こえるものの、一向に近づいてくる気配がない。

 ようやく人混みを抜けた。いざ走り出そうとしたぼくは、動くことができなかった。


「おや、昨日の少年じゃないか。グルだったとはな」


 あごに髭をたくわえた指揮官らしき人物。ぼくらを取り囲む銃口。

 しまった、別動隊が先回りしていたのか。


「見つけたぞッ」


 後ろから来た部隊が、一斉にぼくに跳びかかってくる。ぼくは腕をひねられ、これでもかと地面に押しつけられる。ルフは指揮官と対峙していた。


「クロ、痛い、放して」


 ルフの毅然とした眼差しに、指揮官はほくそ笑む。


「それはできない。罪人を匿った罪で事情を聴くとしよう」


「ルフ、悪いこと、してない。だからクロも、してない」


「存在自体が罪なのだ。『塔』はこの国を不幸にする。『しるし』をもって生まれたことを恨め。――確保ッ」


 指揮官の声で一斉に群がる。しかし、ルフは男たちの手をすり抜けて跳躍した。三メートル近くある街燈のヘリに乗り、器用にバランスをとる。


「ルフッ」


 隊員はぼくを放りだし、全員が街燈に迫る。懐から取り出したのは銃だ。

 ドンドンドン、と立ち続けに発砲される。しかし、そのひとつとしてルフの髪を揺らすことはできない。軌道が変わり、周囲の建物に跳んでいくのだ。


「くそ。筐体反転リ・バウンドの能力だ。あいつを狙うな。すこし離れた外壁に向かって弾を撃て」


 指揮官の言葉で、あらぬ方向に銃弾が発射される。

 すると銃弾は空間のある一点で跳ね返り、ピンポン玉のようにルフの髪をかすめた。それだけじゃない。ぼくの足元にも何発か着弾して土煙を上げた。


「うわっ、ちょっと待て、待てったらッッ」


 ぼくの叫びもむなしく、男たちは銃を下ろさない。

 このままだと本当に危ない。


「クロ、まもる」


 ルフが動いた。高く跳んだかと思うと、服の端をなびかせながらぼくの前に着地する。まったく音がしなかった。それほど身軽だった。


「剣を抜け」


 銃を捨てた男たちが腰に差した刀剣を抜いて迫ってくる。

 ルフは動かない。このままじゃ串刺しになる。


「へーき。ルフ、こわくない」


 やっと聞こえるくらいの声。だけど余裕を含んでいる。持ち上げた左腕を男たちにかざした。


循環悪夢ターン・オーバー


 その言葉が聞こえた瞬間、ぼくは体中の熱という熱が蒸発したように感じた。

 気持ち悪かった。体の中をかき回されたような、吐き気さえする嫌悪感に占められた。


「クロ、顔、上げて。呑まれ、ないで」


 ルフに頬を撫でられる。それによって、嫌悪感はあっさり消えた。

 掲げたルフの手からなにが放たれたのか、ぼくにはわからない。ただ、刀剣を振り上げて駆け寄ってくる男たちの変化はよく見えた。

 その直前まで宿っていた敵意や使命感といった勇ましい表情が抜け落ち、物乞いでもするような絶望の色に変わった。途端に刀剣も地面に転がり落ちる。


「うわぁあああ、もうダメだ」


 男のひとりが膝をついて叫んだ。


「借金、子供の養育費、低賃金、もうダメだ。生きていける気がしねぇ」


「別れた妻が慰謝料要求してきやがった」


「子どもがバカ高い学院に入りやがって、学費いくらかかると思ってんだよ」


「口臭がひどいって振られた。五年だぜ、五年つきあって、いくら貢いだと思ってるんだ」


 ……どうしたことだろう。鬼気とした公安部隊の面々が、鬱陶しいくらいネガティブ思考に変わっている。殺伐としてきた。

 とりわけ嘆きが激しいのが指揮官だ。地面に這いつくばり、滂沱を流している。


「なにが指揮官だよ。おれをいくつだと思ってるんだ。もう定年まで一年しかねーんだぞ。年下の将校どもにいいようにあしらわれて媚びへつらって、高い賄賂払って軍人になったのに」


 お気の毒さまです。


「クロ、けが、ない?」


 ルフは何事もなかったように笑って、ぼくの頬についた土を払ってくれた。


「ルフ、いま、なにを?」


「だいじょうぶ、すこししたら、戻るから」


 大丈夫、と云ったのは、ぼくがあまりにも怪訝な顔をしていたからだろう。

 彼らの嘆きは想像以上に深く、放っておけば自害するんじゃないかと懸念してしまった。


「あの、お気を確かに」


 立ち去る際、せめてもの慰めにと、ぼくのウサ耳をつけてあげた。

 足早に歩きながら、ぼくはルフの能力について考える。

 おじさんにしてくれたリバースとは違う。あのときは肉体の時間が戻った。いまのは。


「ルフの力、肉体、物質、精神、記憶。リバースの作用は、いろいろ。いまのは、ルフたちを捕まえようとする気持ち、裏返し」


 様々な事象を「戻す」だけでなく、「裏返す」こともできるのだ。ル・ルーさんが云ってたアルカナを逆位置にする力もそれだろう。肉体が変わるだけでも驚くのに、精神面にまで影響するのかと思うと……。


「みんな、ルフ、怖い。だから、ルフ、ずっと、ひとり」


 ルフの小さな手が、ぎこちなくぼくの手を握ってくる。

 怖いのだ。ルフも。淋しいのだ。あれほどの力をもっていても。

 自分の「中」に直接影響してくるルフの力は、なるほど、怖いものだ。精神をいじられるかもしれないのだから。アルカナだって人間である以上、畏怖を抱くのは当然のことだ。

 だけど。


「ぼくは、怖くないよ」


 ぼくは知っている。ルフが素直なことも、人を傷つけることを恐れていることも。


「ありがとう。ぼくより子どもなのに、二度も助けてもらっちゃった」


 するとルフはなぜかムッとしたようにぼくをにらんだ。


「ルフ、子どもじゃない」


「それはどうかな?」


 ルフの頭に手を伸ばす。ルフはなにをされるのかわからない様子だ。


「よしよし」


 ウサ耳の間に指を通し、髪を撫でた。ルフはきょとんとしていたが、しばらくそうしていると気持ち良くなったらしく、「えへへっ」と云って頬を赤らめた。

 ほら、子どもだ。こんなにも素直で、可愛い。


「クロ、あれ、なに?」


 ぐい、と手を引っ張られる。屋台に人だかりができている。みんな、甘い匂いに引き寄せられているのだろう。


「揚げたてのドーナツだよ。食べたことは?」


 ぷるぷる、と首を振るルフ。同時に、ぐーとお腹が鳴った。クレープをたくさん食べたのに、もうお腹が空いたのか。


「りょーかい。すいません、一個ください」


 ドーナツを買ったぼくたちは、広場のベンチに並んで腰かけた。

 揚げたてのドーナツはほかほかと湯気が立ち、ふりかけられたパウダーで粉雪のようにキラキラと輝いている。それを勲章かなにかのように掲げるルフの顔といったら。

 嬉しい、珍しい、どうしたらいいのかわからない、そんな顔をしていた。恐る恐る舌が出てきて、表面をぺろりと舐める。


「熱ッ……甘い……わかんない」


 ふたたび舌先で舐めようとするので、笑ってしまった。


「舐めるんじゃなくて食べるんだよ。割ってあげる」


 ルフはぼくが割ったドーナツのひとつにかぶりついた。


「ん――……C'est delicieux !(美味しい)」


「そりゃあ良かった」


 ドーナツは嗜好品だ。ぼくもおじさんに買ってもらうまでは食べたことがなかった。


「クロ」


 小指くらいのごくごく小さな最後のひとかけらを、ぼくに差し出している。


「くれるの?」


「ん」


 ルフは優しい子だ。美味しいものだとわかっているのに、分けてくれるなんて。


「わかった。じゃあ半分こ」


 小さな欠片をさらにふたつに割った。もはや豆粒くらい小さいけど、こめられた想いはドーナツ三百個分くらいあると思う。


「はい、ルフの分」


 ルフは一旦手を出したものの、すぐに背中側に引っこめた。ぼくの目をじっと見て、口を開けて見せる。


「食べさせろって?」


 口を開いたまま頷くルフ。甘えているのかもしれない。ワガママだなぁ、可愛いけど。

 ルフが開いた口からは、きちんと生え揃った歯と濡れた舌が見えた。キスしたらどうなるんだろう。なんだか妙な気分になりながら、ぼくはそっとドーナツの欠片を近づける。


「はい、どうぞ」


 ルフの口内にドーナツをそっと投げ入れるだけのつもりだったけど、間近に迫った指はルフの両手によって突然捕まえられ、指ごと食べられてしまった。


「むふ、むふふ、んふふ、むふ」


 なにか云っているけど判読不明だ。ルフはなかなか指を離してくれない。ルフの口内は当然だけどあたたかくて、湿っていて、なんていうか、すごくヤらしい。

 ルフが力を緩めた隙に、なんとか指を引き抜いた。


「ルフ、子ども、じゃない、もん」


 唇を尖らせるルフ。やばい、可愛い。ぼくの指はしっとりと濡れている。


「こ、こんなことするのは、子どもだろ。つ、次にこんなことしたら、お、怒るからな」


 ハンカチで唾液を拭うも、恥ずかしいくらい指先が震えている。


「……クロ、嫌だった? ごめんね」


 怒る、という言葉を気にしたのだろうか。ぼくの膝の上にルフが乗り上げてくる。重すぎず、だからといって軽すぎない体重が心地いい。顔が間近に迫ってくる。ルフは超絶美少女だ。屍体ですら見惚れたくらい。それがいま、目の前で呼吸しているなんて奇跡みたいだ。


「へ、へいきだ。ぼくはもう十五で、おとな、だからな」


 ど、動じてなんかいない。こんなことくらいで。


「もうしないから、泣かないで」


 ぺろり、と頬を舐められた。


「ひっ――……」


 ぼくの声は上ずった。

 子どもだと思っていたルフが、一気に大人になったような気がするのはぼくだけだろうか。純粋に見えて、案外したたかなのかもしれない。お陰で寿命が十年くらい縮まった。


「ねぇさまにも、あげたかった」


 ぽろりと呟かれた言葉で、我に返る。そうだ。心を許してはいけない。ルフは敵側にいる。フォルトゥナも近くにいるはずだ。


「ルフ。知っていることを教えてほしい。きみたちの目的は、なんなんだ」


 ぼくの態度が変わったからだろうか、ルフの眼差しが変わった。


「どうしてアルカナ同士で争わなくちゃいけないんだ」


「……ねぇさま、ルフ、助けてくれただけ。ねぇさま、あの人、助けたいだけ」


「あの人?」


「『世界』のアルカナ、ディオン」


 ズン、とこめかみが痛んだ。銃で撃ち抜かれたのかと思うほどの衝撃だった。

 『世界』のアルカナ。ディオン。ディオン・ダーリング。

 エル・トラの――――『先生』。


「……クロ」


 ルフが心配そうに覗き込んでくる。ぼくはあの頭痛に耐えていた。

 この頭痛に見舞われるようになったのはいつごろからだろう。ぼくの意識を阻害するようにタイミング良く顕れるのは、どうしてだろう。

 ぼくは、一体。


「そこまで」


 その声で、既に取り囲まれていることに気がついた。

 ルージュ・リュビよりも更に格上のノワールの軍服だ。精鋭部隊。数百万人いる軍人のほんの一握りだけが着用を許される。彼らを率いる人物がルフの首に腕を回している。


「エリアーデ……さん」


 わずかな気配もさせずに背後に回り、抵抗の余地なく銃口を向ける相手。

 女将校エリアーデ。その眼光は、見たことがないほど、鋭い。軍服姿を見るのは初めてだ。知己のぼくでも、圧倒的な黒に呑まれそうになる。


「クロムさん、こちらへ」


 いつの間にか背後に立っていたライオネルさんは、半ば強引にぼくをベンチから引き離した。


「なぜ『塔』と行動していたのか、事情はあとでお伺いします。抵抗しても無駄ですよ」


 優しいながらも、厳しい口調だった。

 ぼくが離れると同時に、周りに人影が立つ。一般人を装っているが、ルフを見る眼光の鋭さがそれを否定する。


「ルフ、久しぶり。公安部隊がお世話になったわね。取り逃がしたというから来ちゃった」


 冗談めいた口調だが、エリアーデさんの警戒は一向に解けない。むしろ鋭さを増している。

 一方のルフは……静まり返った、湖底の眼をしている。

 諦めたようにも、悲しんでいるようにも見える。伏し目がちの、感情の読めない目だ。


「……やだ」


 ぽつりと呟かれた声。離れているのに、はっきりと聞こえた。


「ドーナツ、もう一個、クロと、一緒に」


 目に見えて、エリアーデさんの顔色が変わった。


「退避……」


「ルフ、もう、冷たいところイヤ――ッッ」


 ルフの体からあふれ出した光が、一瞬にしてぼくらを呑みこんだ。

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