消えた屍体
全身の筋肉が張りつめた。自分の両腕が別物のように持ち上がり、ぼく自身の首を絞めた。まるで別人が力を加えているようだ。やめろ、やめろ、と叫んでも、指先に込められた力は揺るぎない。
遠のく意識を、なんとか振り絞る。
死にたくない、死にたくない。それだけを願う。
死にたく、ない。
想いがピークに達したとき、ふいに指先の力が緩んだ。ちゃんと呼吸ができる。強い疲労感があるものの、体の自由は取り戻した。
「ふしぎね。わたくしの預言に逆らうなんて。よほど強い加護を受けているのかしら」
疲労困憊で動けないぼくを見下ろしていた女は、服の上から左腕に触れてきた。生地越しに手の熱を感じる。痛いくらいだ。火傷の痕が息を吹き返したように拍動して、全身へ痛みを拡げる。脂汗が浮かんで、無性に喉が渇いた。
『――あついッ』
瞬きすると、ぼくの目の前を火の粉が舞っていた。雨のように降ってくる。
『熱いよ、熱いよ、助けてよ、だれか――みんなッ』
この声はぼくだ。エル・トラの火事に見舞われたぼくの叫び声だ。
ぼくは走った。先生がいる礼拝堂へと。
熱でドロドロに溶けた礼拝堂の扉は、幸い、ぼくひとりが通れるだけの隙間を作ってくれていた。
『せんせい、先生、火です、燃えてます、逃げないと』
祭壇に佇む背の高い人影に向かって、ぼくは叫んだ。
炎の熱気で、頭がおかしくなりそうだった。顔も体も、ぜんぶ熱い。痛い。
『先生、はやく。みんなを助けて』
先生に駆け寄ろうとしたぼくは、なにかにつまずいてバランスを崩した。それは真っ黒に焼けた人間だった。
通路を埋め尽くす、おびただしい数の人間。友達や、信者さん。
『ディオン先生』
ぼくはようやくしがみついた。先生に。
『逃げる? バカなことを云うな』
先生が声を震わせる。
『どうしておまえは逝かないんだ。みな、ボクの言葉に従って炎に包まれたのに。どうしておまえだけが生きている?』
それは、ぼくが列から離れたからだ。トイレに行きたかった。それだけだ。
『この『儀式』には、千人の命が必要なんだ。ひとりたりとも、欠けてはいけない。それなのにおまえのせいで』
振り返った先生は、見たこともないおそろしい顔をしていた。
ぼくは恐怖のあまり後退る。
こんな先生は知らない。怖い。怖い。怖い。
ぼくは逃げようとしたけど、先生の手が素早く伸びてきて左腕を掴んだ。
骨が折れるような衝撃と熱とで、ぼくは叫んだ。
――たすけて。助けて、おかあさん。
いままで一度も口にしたことがない名を、そのとき初めて呼んだのだ。
「あら、なんてこと」
女の手が離れていく。ぼくは脱力感でいっぱいになり、その場にうずくまった。あの熱を思い出して、まだ息苦しい。
「まさか「ここ」にいらっしゃったとは」
どうして女がこんなに楽しそうなのか、ぼくにはわからない。あまりいい予感はしないけど。
体を起こす気力もないぼくの顔を、女の冷たい指先が捉える。そのまま上向きにされて、なにかの儀式のように唇をあわせた。凍てついた唇の感触に、ぼくは身をよじる。それが精一杯の抵抗だった。
「『預言』します。あなたは目覚める。もうすぐ」
なにを云っているのか、もはや考える力もなかった。しだいに意識が遠のいていく。だけど、乱れたフードの隙間から、二の腕の刺青が見えた。
「いいのよそれで。眠って、忘れてしまいなさい。『運命の輪』はもう狂いはじめたのだから」
ぼくは抗えず目蓋を落とした。
ぼくはどれくらい眠っていたのだろう。
目を開けると、ル・ルーさんの怒ったような顔が目の前にあった。
「あ、うぁ、すいません、すぐ仕事に」
上体を起こそうとした途端、上から額を叩かれた。
「いいから寝てなさい。自分の状態が確認できるまで、むやみに動かないほうがいいわ」
と無理やり頭を押された。枕にしては温かいと思ったら、なんとル・ルーさんの膝枕。弾力があるのにやわらかい。
「クロ。そのままでいいから、口を動かしなさい。どうしてあなたが倒れていたのか、わたしたちがいなかった間の一部始終を教えなさい」
ル・ルーさんの言葉には、焦りのようなものが含まれていた。眼差しも鋭い。
傍らで腕を組んでいるエリアーデさんも、別人のように険しい顔つきだ。
ぼくは一部始終を説明した。と云っても、エリアーデさんが離れた後『だれか』がやってきた――という曖昧な云い方しかできなかった。
「それだけ? 特徴は? 性別は? 人数は? なにか云ったの?」
「……わかり、ません」
ついさっきのことなのに、思い出そうとすると言葉に詰まる。頭の中に靄がかかったように記憶が曖昧になり、交わした言葉も思い出せない。おかしいと思うのに、記憶が輪郭を失う。
「ここまで不自然に覚えていないということは、なんらかの術をかけられたということね。襲撃してきた女を問い詰めたけれど、知らないの一点張り。女は一方的にエル・トラ孤児院の考えに傾倒していて、この辺りの住民に教えを説いていたみたい。でも、なんの力もないただの民間人。なんでも『塔』の礼拝があると手紙があり、象徴として手に入れたかったらしいの。手紙の差出人は不明。あたしが爆炎に気を取られている隙に現れ、まんまと計画を果たしたというわけ。たぶん手紙の主と同一犯」
エリアーデさんが素早く状況を整理する。
計画が果たされた? どういう意味かわからない。
「見てみなさい。自分の目で」
ル・ルーさんの手を借りながら、ぼくは上体を起こした。
「屍体が――……ない」
ぼくはようやく事態の深刻さを悟った。
花びらが敷き詰められた棺の中は、空になっていたのだ。




