異国緑(クロムグリーン)の瞳
「クロ、クロはどこ」
ル・ルーさんがぼくを呼ぶ声で、ふっと風が弱まった。みるみる形を失い霧散していく。
「クロ。お客様が帰るわ。お見送りを」
「はい、ただいま」
ぼくは部屋を飛び出して、螺旋階段を駆け下りた。が、途中でつまずいて体勢を崩し、残りの段数を一気に転がり落ちてしまう。
「なにしているの?」
呆れ顔のル・ルーさんが近づいてくる。顔を上げようとしたけど、首が痛くて呻くしかない。
「す、すいません。に、二階の掃除をしようと思って」
「そんなこと頼んでいないわ」
硬い声。奥部屋に入ったことを疑われるのではないかとヒヤヒヤした。
「どーしたの?」
ゆっくり近づいてくるエリアーデさんを振り返ったル・ルーさんは、わざとらしく声音をやわらげた。
「なんでもないわ。上を掃除しようとしていたから、二階はわたしのプライベートスペースだから気にしないでいいと云ったのよ」
「そうよね。見られたくないものもあるよね。敵将から奪った武器とか武器とか武器とか」
「武器オタクのあなたと一緒にしないで」
どうやらル・ルーさんは、エリアーデさんに隠したいものがあるようだ。
なんとか立ち上がったぼくに、エリアーデさんが近づいてくる。スッと背後に回ったかと思うと、突然首に手刀を落とした。
「ぶへっ」
すさまじい衝撃があり、ぼくは前のめりになる。
「な、なにするん……あれ、首、戻った」
ひどくひねって固まっていた首が、すんなり動く。
「うふふ。アルカナの秘技のひとつよ」
「ただのツボ刺激じゃない」
得意げなエリアーデさんにル・ルーさんが冷や水を浴びせる。親しいのかそうでないのか、わかりにくいふたりだ。
「テディは相変わらずの仏頂面ね。そんな顔で葬儀屋が務まるの?」
「お生憎様。きわめて順調よ。こうして社員も増えたしね」
ぼくに水が向けられる。エリアーデさんはぼくを見て、にっと不敵に微笑んだ。
「クロム、だっけ。顔色が悪いわ。体も冷たい」
ぼくに近づき、胸に手を這わせてくる。
「そそ、そうですかね」
おでこがピタリと合わされる。体がカッと熱くなった。
「あたしが暖めてあげましょうか? もちろん、直に」
胸に這わされた手が、変なふうに動く。
「あ、ああああああ」
「そこは辞退しなさいよ。ばかじゃないの」
やけにイライラしているル・ルーさんは、くるりと向きを変えて出入口へと向かってしまう。
「うふふ、妬いてる」
エリアーデさんの手からやっと解放された。疲れる。
「か、からかわないでくださいよ」
「無防備なんだもん、構いたくもなるって。聞いたわ。キミ、まだ祝福を受けてないのね。テディからお金を借りて礼拝堂に向かったら、今回はあの子が担当だったんだって?」
「……そうです」
見学のためでした、とは口が裂けても云えない。
「あのね、祝福を授けるとはいえ、アルカナ自身が礼拝堂に姿を見せることってほとんどないの。血を溶かした精油があればいいんだもの、代理を立てるのがふつうなの。あの子だって、ふだんはライラちゃんを遣わしていたはず」
なにを云わんとしているのか、ぼくはエリアーデさんの目をじっと見てしまった。
「キミが来るのを見越してたってこと。びっくりする顔が見たかったんでしょう。あの子は昔からひねくれているからねー。『ばか』は愛情表現なのよ」
おかしそうに笑いながら、エリアーデさんはぼくの肩を乱暴に叩いた。
ル・ルーさんは、もしかして、ぼくのこと……。いやでも、ペットって云われるし、社員としての扱いはひどい。だけど本当に困っているときは手を差し伸べてくれる。
「クロ。もしキミにその気があるなら、あたしが無償で祝福を授けてもいい」
意外な申し出に、ぼくは目を瞬かせる。嬉しいけど、疑問が湧いた。
「――……どうして、初対面のぼくにそんなに優しいんですか?」
自覚がなかったらしく、エリアーデさんはいまさらのように深く考え込んだ。
「優しい? そうか、なんでだろー、うーん。初対面って気がしないの。あたしこれでも無口なんだよ。軍神は黙っているほうがサマになるから、必要以上のことは喋らないの」
ぼくからしたら喋りすぎるくらい喋っているように感じるけど、たぶん肝心なことは口にしていないはずだ。
竜の血色の目を細めていたエリアーデさんは、おもむろに手を伸ばしてぼくの髪と、目と、唇に触れた。
ぼくはドキッとして硬直する。
「テディとあたしの共通の知り合いでね、黒髪の、そう……キミの名と同じ異国緑の瞳をもつ人がいたのよ。キミとあの人はなんとなく似ている。だからかな」
「と、友達ですか?」
「そんなんじゃないよ。もっと特別」
手を放してあっけらかんと笑うエリアーデさんだけど、詳しくは話したくないようだ。
「たぶんテディも同じ。だから放っておけない。いや、違うわね。目を離したら――」
ぼくから目をそらし、窓のほうを見た。顔を見られたくないのだと思った。
「天使に攫われそうな気がしちゃうのよね」
自分の腕で肩を抱く。軍神である彼女の弱い部分を見た気がした。
「その人は、亡くなったんですか?」
もしかしたら、未亡人という噂は本当なんじゃ。
「随分前にね。とても特別なヒトだった。あの子のあんな泣き顔を見たのは、あれが最初で最後かな。だからキミは、あんまり心配させないであげて」
くしゃっ、とぼくの髪を撫でて、エリアーデさんは歩き出した。
ル・ルーさんやエリアーデさんの過去になにがあったのかは、わからない。
だけどわかったことがある。
ぼくは、ますます死ねなくなったらしい。




