「力」の軍神エリアーデ
「それで? せっかくミサに行ったのに祝福を受けずに帰ってきたのかい?」
ミシンをガタガタと動かしながら、片手間にぼくの話を聞いてくれるのはジルだ。リリィ服飾店の社員(リリィさんの弟子)で、グノスメイジャン通り三番地に店がある。
「そうなんです。勉強という名のノルマを課されました。草むしり、庭にある像の磨き上げ、広大な屋敷内の掃除、窓拭き数百枚――死にそうです」
「はは。アルカナがだれか調べなかったことも、神聖な儀式を「見学」しようとしたことも、ぜんぶ自業自得だよ。そう思わないかい?」
ジルは青少年らしいさわやかな笑顔で痛いところをついてくる。
「ル・ルーさんが『死に神』のアルカナだって、ジルは知っていたの?」
「この街では有名だよ。葬儀と『死に神』は切っても切り離せない。逆にきみが知らなかったことが不思議なくらい。一言訊けば済むのにさ」
うぐぐぐ。反論できない。
「……そうだね、ぼくが全面的に悪い。だけど見学そのものは有意義だった。『死に神』の祝福がどういうものなのか、参列した信者を見てわかったよ」
腰が曲がり、杖をついてようやく歩いている老人。
なんらかの疫病にかかり、全身に包帯を巻き、そこからも血をにじませている病者。
死を目前に控えた人たちが放つ独特の空気に、ぼくは、恐ろしいものを見た気持ちでいた。
「きみは知らないようだから教えてあげるけど、参列した信者たちにとって、奥様が贈る『死に神』の祝福は唯一の救いなんだよ。苦しむことのない安らかな死と、迷わず天国に行くことを約束してくれる。やっとの思いで百万ペルカを貯め、ようやく迎える至福の瞬間なんだよ。そうは見えなくても」
『死に神』のアルカナによる祝福は、重複が許されるのだと云う。死を間近に迎えた信者たちは藁にすがる思いでミサを待ち望む。しかし間に合わない人もいる。そういうときは、連絡を受けたル・ルーさん自らが出向き、天国にいけるよう『死に神』のキスを贈るのだという。
ぼくは思い出していた。祭壇から追い出されたぼくと入れ違いに入っていった一組の夫婦のことを。奥さんは司祭たちに抱えられないと動けないような状態で、すでに目は虚ろ、手足は枝のように細かった。
『初めまして、奥様。死に神のルシェルシェと申します』
祭壇から聞こえてきた声に、ぼくは足を止めざるをえなかった。あのル・ルーさんの口から発されているとは思えないほど優しい声だったのだ。
『泣いていらっしゃるのですね。愛する人たちを置いていくのが辛いのですね。そのお気持ち、痛いほどわかります。お子様はまだ小さく、心配で仕方がないのでしょう。ですがご安心ください。あなたの手のぬくもりを、優しい声を、眩しい笑顔を、きっとお子様は生涯心のよりどころとして生きていくはずです。なにも心配することはありません』
去る人が、最後に思う心残りはなんだろう。ぼく自身のことはまだわからないけど、あの人にとっては、子どもなんだ。
『奥様、あなたは女神に選ばれ天に招かれたのです。あなたのお子様と違い、天には世話の焼ける天使たちが大勢いるに違いありません。ですから面倒見のよいあなたが呼ばれたのです。残されるお子様が立派に成長することが女神にはわかっているのです』
声が漏れてきた。本当にかすかな笑い声だった。
『死に神の名において、祝福を授けます。安らかな眠り、そして女神の御許に行くまでの穏やかな旅路。そしてあなたが全身で愛した人々の幸福。約束します』
ほんの一瞬、眩い光のようなものが祭壇を包みこみ、カーテンを揺らした。
あたたかい光だった。
ル・ルーさんは、こうやって何人もの旅立ちを見送ってきたんだ。
「……なんてね、無知であることを恥じる必要はないよ。知りたいのなら訊けばいいんだ。ルシェルシェという名は本当の名前ではないらしいし、なぜ外見が幼いのか、どうやってアルカナになったのか――このあたりは、全部おれが訊いて答えてもらえなかったことだけどね」
「ぼくはたぶん、聞き方を間違えて罰を食らうと思う」
ル・ルーさんは天使のような外見に似合わず凶暴だ。この間は、云われていたドーナツをひとつ買い忘れただけで、敷地内の銅像(十字架だけでなく、胸を剣で貫かれたヴィーナスや地獄の番犬など不気味なものばかり)をピカピカに磨くよう命じられた。
「それは災難だったね。だけど自棄を起こして辞めてはいけないよ。奥様は不器用なだけなんだ。きみは、きみが思うよりずっと、奥様にとって大事な存在だと思う。先立たれたご主人さまに似ているのかもしれない……あっ」
明らかに失言だったらしく、ジルは口元を押さえてわざとらしく明後日の方向を見た。
「ル・ルーさんは否定していたけどやっぱり既婚者なのか? 未亡人? だから奥様?」
「――し、知らないよ。二階の奥部屋に「ある男性」の屍体を保管してあるって噂で耳にしただけだ。直接聞けるもんか。奥様には云わないでよ……ね?」
顔を赤らめてうつむくジル。ここにきて、ぼくは驚くべきことに気がついた。
「もしかして、ジルって女の子?」
「当たり前だろう。ジルコニアという名前がある。なんだと思っていたんだい?」
顔がきれいな少年だとばかり思っていたけど、たしかによく見ると胸の膨らみがある。申し訳程度に。つまり見た目と中身は必ずしも一致しないということだ。たぶんル・ルーさんも。
※ ※ ※
「よいしょ、っと」
リリィ服飾店を出た直後、ぼくは宙を舞う人間を見た。より正確に云えば、何者かに吹っ飛ばされ、高々と飛ばされる男だ。しかもこっちに向かってくる。
「ぬおっ」
間一髪で右側に逃れたぼく。男は背中から壁に衝突し、ぐぇ、と云ったきり白目を剥いて失神してしまった。
「あー、ごめんごめん。落下位置まで計算してなかった」
あっけらかんとした声の主は、女性だった。背が高くほっそりとしているものの目つきは鋭い。ル・ルーさんに似た凜とした強さは、ぼくの好みに合致する。
まさかこの細腕の女性が男ひとりを吹っ飛ばしたのか?
と疑問に思うまでもなかった。なぜなら、女性の左腕にも男が担ぎ上げられている。やはり失神しているらしく、肢体はだらしなく下げられている。
「せーの」
と投げ出された男の顔に見覚えがあった。
天国へ招待されるための、ありとあらゆる品々――副葬品がそろうグノスメイジャン通りでは、無防備に財布を持ち歩く貴族もいる。彼らを狙う顔つきの悪いスリのひとりだった。先ほど降ってきた男も、やはりそうだ。
「あら、ボーヤ。彼らと知り合いなの?」
ぼくの目線に気づいたのか、女性が思わせぶりに笑う。
「そいつらね、すれ違いざまにわざと体勢を崩してぶつかってきたの。こっちが怯んでいる間にもうひとりが背中側に回るっていう――なんだっけ、セクハラ?」
「いえ。スリです。この辺りでは有名なふたり組みです」
きっぱり否定したのは、ぼくが彼らとは無関係だと伝えたかった意図もある。
「そう、良かった。ただの民間人に手を出したら部下に怒られるのよねー」
涼しい顔をしている女性だけど、このふたりは刃物を携帯する盗みの常習犯だ。身軽で運動神経もよく、頭も回るので注意しろとル・ルーさんから口酸っぱく云われている。
「ボーヤは平気なの? 偏見で悪いけど、キミみたいな人が真っ先に狙われそうなのに」
「さぁ、なぜでしょうね。見るからに貧乏だからですかね?」
本当は、ぼくが鳩の血社の社員だからだ。金のなさそうなひょろひょろした黒髪の少年に手を出すと、もれなく鳩の血社が迎えに来る。という虚実入り混じった噂が流されているらしい。
「ふぅん」
女性は胸の前で腕を組み、ぼくを観察している。
交差される腕は褐色の、よく焼けた肌だった。リリィさんのように地肌が黒いわけではないらしく、まくりあげた腕と衣服との境は白い。本来は色白で、とても華奢なんだと思う。
肩や上腕の隆起はなにかしらの訓練の賜物らしく、引き締まった腹部には割れ目もある。首筋で切り揃えられた黒髪はさらさらと風になびき、ガーネットのピアスが光った。
瞳の色は活き活きとした『竜の血』。腰には短刀。軍人かもしれない。
「友人の家に行きたいの。ここに来るのは初めてだけど、こんなにごちゃごちゃしているとは思わなかった。地図を持っていてもなんの役にも立たない」
それはそうだろう。近年増加している移民と、数年前に流行した疫病とがあって、葬儀関連の商売は広がりを見せている。新規で参入した業者が街の区割りを無視してあちこちに店を作り、増改築を繰り返すため、地図なんてあっても役に立たないのだ。まるで迷宮。
かくいうぼくも、街の奥にある一段高い屋敷を目指して歩いていなければ、路地裏で迷子になってしまうに違いない。
「すいませんが、ぼくも地理には疎くて」
「でも知っているでしょう? この街に店を構える『死に神』のことくらい」
どき、と心臓が跳ねた。
「もしかして、ル・ルーさんのお友達ですか?」
ル・ルーさんという名に、女性は反応しない。ぼくは云い直した。
「鳩の血葬儀公社代表の、ルシェルシェさんのお友達ですか?」
「ルシェルシェ?……あぁ、あの子はそう名乗っているのね」
あの子? あのル・ルーさんを「あの子」呼ばわり?
「知っているなら話が早いわ。そう、そのルシェルシェに用事なの。案内して」
「その必要はないと思います。丘の上にひときわでっかい屋敷が見えるでしょう? あそこが事務所兼ル・ルーさんの自宅です」
ぼくが示す方向をちらりとも見ずに、女性はこくりと頷いた。
「うん、知ってる」
話が違う。ぼくは混乱した。
「迷子になっているなんて云ってないでしょう。あの子の家に行きたいけど、突然押しかけても話を聞いてくれないだろうから関係者を探していたの。さ、行きましょう」
と、ぼくの腕に指先を絡め、寄りかかってくる。
「ま、待ってください。いまの話を聞く限り、あなたを連れていくとぼくの身が危うい気がするのですが」
「平気よ。万が一のことがあっても、良心価格で葬儀を挙げてくれるはずだから。なんたって葬儀屋なんだし」
「いや、そういう問題じゃないんです。そもそもあなたは」
云いかけたぼくは、二の腕に刻まれた刺青に視線を奪われた。
『Ⅺ(オンズ)』のアルカナ番号。アルカナの十一番め。
途端に違和感を覚えた。通常、刺青はおじさんの腕にあるように『i』と彫られている。つまり、小文字だ。
「あら気づかれちゃった。大文字はね、ホンモノって意味なの」
大文字の『XI』をもつ女性は、さして慌てるでもなく歯を見せた。
「……まさか」
「あたしは『力』のアルカナ、エリアーデ・サロヴァニアよ。よろしく」
いかなる困難な状況であっても、恐れず、圧倒的な力でねじ伏せる勇猛な女将校。先陣をきって戦場を駆け回り、一度の出陣で千人近い敵兵の首を狩ったという逸話もある。
軍神または血狂いと称される、女将校エリアーデ。
マニキュアが血で塗ったように見えて、ぼくは戦慄した。




