優しい約束
窓から差し込む光だけが全ての部屋で、少女は鎖に繋がれていた。
寂しげに俯くと、さらりと流れる黒髪が白い肌をなぞり、悲しげに伏せられた瞳は澄んだ青空を閉じ込めたかの様に美しい。
しかし右足首に繋がれた鎖が日常を否定していた。
ゆっくりと椅子から立ち上がると、冷たい鎖がジャラリと音を立てる。鎖を気にする事なく、開くことのない窓に向け少女は歩きだす。
暗闇に慣れてしまった瞳には少しの光でも眩しいらしく、美しい瞳がそっと閉じられた。
やがて光に慣れたのか、ゆっくりと開いた瞳に映る景色には一面の緑が広がっていた。ここが何処かなど考える事さえ放棄して、ただ外の景色を眺めている少女は、唯一の扉が開く音と共に静かに振り返る。
「僕の求めていたものと違う。反省してください。」
部屋に響く声は落胆に満ちていた。
訪れた青年を見上げながら少女は首をかしげる。
「えー、上出来でしょ?ちゃんと鎖もあるし。ネグリジェも着たのよ?何が問題なの?」
儚げな雰囲気などぶち壊す明るい声に、青年は実に嫌そうな顔を少女に向ける。
「全てです。どこの世界にネグリジェの上に腹巻をする人がいるんですか。…確かに目の前にいるんですけどね!しかも毛糸のパンツ…」
二十代前半だと思われる青年から溢れるため息を聞きながら、まだ幼さの残る少女は自分の姿を見ながらも納得がいかない顔をしている。
「ちゃんと猫マークついてるのに?ほら!尻尾も付いてるんだよ!」
ネグリジェの裾を両手で持ち上げ後ろを振り向くと、少女は満面の笑みで青年にお尻を突き出す。
「可愛いでしょ!お気に入りになっちゃった!!」
嬉しそうに見せつけられる可愛い丸いお尻に釘付けになりそうな自分を叱咤し、青年は少女に近付く。
「男のロマンを返しなさい。僕の期待に満ちた心も息子も萎えさせた罪は重いですよ。」
青年は無表情で毛糸のパンツを掴み一気に下ろした。
そこに慈悲は感じられない。
「うひゃ!ちょっと、何するの!えっち!!」
思わぬ攻撃に顔を真っ赤にして座り込む少女が上目遣いで青年をなじるも、下着を見た青年の顔が怒りに歪んでいく姿を見て涙目になっていく。
「まさかのイチゴパンツ…しかも綿だ…と?どれだけ実用性を大事にしてるんですか!違うんですよ!折角の照れた顔も台無し過ぎます…!!貴方は男の純情をなんだと思っているのですか!」
心からの叫びが部屋に響き渡った。
「そんなの知らないもん!!女の子はお腹冷やしたら駄目なの!下痢になったらどうするのさ!」
少女も負けてはいない。
「女の子が下痢とか言わないでくださいよ!しかも暇だったんでしょうけれど鎖にリボンを結びすぎです!あ!僕のネクタイまで!嫌がらせですか!?」
すでに青年は涙目である。
「嫌がらせですけど何か?しかも1番お気に入りのやつにしてやったわ!この裏側に刺繍された肉球マークが好きだって知ってるんだからね!必死にアイロンをかけるがいいさ!」
少年の前で反復横跳びする度に鎖が音を立てる。
満面の笑みである。
「もぉ、嫌だ!天使みたいな姿で僕を魅了するのに中身が残念すぎる…!!君は僕に攫われたんですよ!?世間では拉致監禁って言うんです!それをされてるんです!そろそろ自覚してくださいよぉ!何で日に日に活発になっていくんですか!色んな事を試してるのに君に色気がなさすぎて泣ける…!!」
ついに青年は床に平伏した。号泣である。
仕事先で偶然出会った少女に一目惚れし、攫った青年の本業は凄腕の暗殺者である。
「私の言う事を聞いてくれないなら死ぬわ。もし私の言う事を聞いてくれるなら、喜んで貴方のものになるけど、どうかしら?」
少女を部屋に連れ帰ると、泣かれるどころか脅されると言う不思議な経験をさせられ今に至っている。
「暗殺者を脅すなんて有り得ないですよ…!しかも最初はお嬢様っぽかったのに今は全力で笑いに走るし…そもそも快適に過ごせる様に整えた部屋を…こんな薄暗い寂しい部屋にさせるなんて鬼畜すぎる!改善させてください!」
平伏したまま顔だけ少女に向けると、いつも間にか目の前に少女が座っていた。イチゴパンツが丸見えである。
「だって猫かぶってるの面倒なのよ?それに、まだ飽きてないから嫌!折角の機会なのに勿体ないもの。あ!あれもしたい。何だっけ…えっと、縛られたり鞭で打たれたりするやつ?」
「何それ!?SM?SMの事なんですか?そんなの何処で覚えてきたんですか!?僕が我慢してるのに興味持っちゃ駄目です!ちょっと責任者呼んできてくださいよ!僕が説教してやる!!しかもイチゴパンツだって僕は買った覚えないし…」
諦めたのか起き上がり少女の足首から鎖を外し抱き上げると、これだけは譲れないと主張した天蓋付きの豪華なベッドに少女と共に寝転んだ。
「今の私の責任者は貴方でしょ?ちなみに協力者は貴方の家族なので諦めてね?」
悪戯が成功して満足したのか、嬉しそうに擦り寄る少女の頭を撫ぜ青年は苦笑した。
「…暗殺一家を手玉に取るとか悪女すぎです…。君に触れるこの手が命を奪ってるんですよ?家族を奪ったのに君は全然怖がらないし…むしろ生き生きしてて僕達は不安になったんですよ?しかも君を攫ってから共に過ごす内に、人形と呼ばれていた僕達に感情まで思い出させて…ひどいですよね」
優しく少女を抱きしめ口付けると、今は自然に浮かぶ微笑みを浮かべた。
「いらないって言われ続けてたのに、私を愛した貴方や優しさをくれた貴方の家族が悪いのよ。それに私の心も体もあげるんだから、代わりに貴方を貰ってもいいでしょう?ほら、私は悪くない!」
青年の腕から抜け出し起き上がると、えいや!っと掛け声を上げながら思いっきり抱きつく少女を、苦笑しながら仰向きになった体全部で受け止め抱きしめる。
見つめ合いながら何度も口付け微笑み合う。
そこには幸せが満ちていた。
「ただ黒髪なだけで嫌う人達など必要ないでしょ?貴女から外を奪った責任なら喜んでとりますよ。本当は独り占めしたいのですが、そろそろ僕の家族も我慢が出来なくなってきたみたいなので、少し遅くなってしまいましたが、僕のお嫁さんになってください。」
人形と呼ばれる程に整った顔と無表情が常だった青年は、蕩けるような笑顔で少女に愛を囁く。
「ふふ、黒持ちは嫌われて当然の世界なのに…そんなの同じ黒を纏う貴方には関係ないものね。私を隠した家も私を否定した外もいらないわ。これからは貴方の家族が私の家族になるもの!すごく嬉しい!たくさん思い出をつくりましょう!旦那様は私が幸せにしてみせるから楽しみにしててね!」
暗殺一家の一員になる事を、これ程喜ぶ人間を青年は知らない。それが愛する少女である事の幸せを噛み締める。
「僕も君を誰よりも幸せにしますよ。死にたがりの僕に生きる希望をくれてありがとう。嫌われる筈の僕を好きになってくれてありがとう。僕はいつか君をおいて逝ってしまうだろうけど、最期まで君を想い続けます。来世というものがあるのなら、僕は君を必ず見つけだしますから…覚悟してくださいね?」
「歪んでしまった私の心を、受け入れてくれた貴方が私の居場所なの。貴方が逝ったら私も逝くわ。もし子供がいたのなら独り立ちを見送ってからになるかもしれないけど、私の心は貴方と一緒に逝くから寂しくないもの。そして生まれ変わったら、また一緒に過ごしましょ?ふふ、今から楽しみね。」
それは2人の交わした優しい約束。
いつしか2人に子供が生まれ、心を知ってしまった青年が、我が子の成長を見守る事なく、愛する家族を残して逝ってしまっても続く約束の物語。
いつしか少女が青年の歳を追い抜く頃、新しい物語が扉を開く。
あの頃の少女の面影を残した愛しい我が子が、ついに巣立ちを迎えたのだ。
「ふふ、貴女も好きな人が出来る歳になったのね。あら、隠しても母親は子供の事がわかるのよ?私は貴女の味方だから安心して恋を貫きなさい。それに…ほら、貴女の恋の相手が迎えに来てるみたいよ?」
「母様…でも…。」
母を残して行くことに戸惑いを感じている我が子に、優しく微笑む。
「貴女の帰る場所は彼の場所でしょ?貴女も私の娘ですもの、家よりも彼を選びなさい。私も父様の側に逝くわ。そろそろ寂しがってるでしょうしね。何よりも私が彼の側にいたいの。」
暫く悩んでいた少女は、母に背を向け歩きだす。
扉を開くと立ち止まり振り返る。
互いに最後だと分かっていても、その顔に悲しみはない。
「私の為に生きててくれてありがとう!貴女が私の母でよかった。私も貴女の様に生きるわ。いつか私が2人の側に逝く時は、また一緒に暮らしましょう!父様に会ったら私の分まで抱きしめてね!」
少女は微笑みながら部屋を出る。
ゆっくりと扉が閉まり部屋が静まり返る。
「やっぱり、あの子は君に似てるね。選んだ男が僕に似てるのが気に入らないけど…我慢するよ。そろそろ待ちくたびれたから一緒に逝こうか?」
ぼんやりと浮かぶ光が、徐々に青年の姿に変わっていく。
「あらあら、せっかちね。貴方ったら死んでからも側にいるんですもの驚いたわ。魂だけになっても触れるし…でも私にしか見えないから他の人には言えなくて困ってたのよ?あの子にも最期まで言えなかったわねぇ。それにしても若い頃の貴方に似た人を選んだから笑ってしまったわ。ふふ、ずっと敬語で話すから嫌われてるのかしら?って悩んでた時には思わず貴方の顔を見てしまったもの。懐かしいわね。」
生前から言われ続けてる事を蒸し返されて、青年の顔が歪む。
「自分でも君に対する執念を感じたよ。最期まで君を想って死んだ筈なのに、気付いたら目の前に君がいて僕も驚いたしね。そうそう!あの時は君が何もない所を見て笑うから、あの子が困っていたじゃないか。あの頃は…それが当たり前だったんだ、仕方がないだろ?反省して直したんだから、そろそろ許してくれないか?ねぇ、焦らさないでくれ。もっと強く君を抱きしめたいんだ。」
両手を広げ催促する姿に微笑みながら、用意していた道具で部屋に火を放つ。
ゴウゴウと音を立て燃えていく部屋を気にする事なく、青年に走り寄る。
「死んでからも一緒なんて最高ね!」
青年に抱きつくと、いつの間にか少女の姿に戻っている事に気付く。
「あら?年上になれたと思ったのに…でも若返れて嬉しいわ!また一緒に幸せをつくりましょ!」
少し残念そうな少女だったが、青年に口付けられている内に満面の笑みに変わっていく。
「歳をとった姿も可愛かったよ?笑い皺も僕は好きだったしね。うん、でも君はこうでなくちゃ!さぁ、一緒に逝こう。皆まっているよ。」
少女を大切に抱き上げると青年は歩きだした。
空へ、空へ、何処までも高く。
「ねぇ、あの子がくるまでは、また新婚生活をおくりましょ?そして生まれ変わったら今度は一緒に外へ遊びに行きましょうね?今から楽しみだわ!」
「そうだね、僕も楽しみだよ。本当にずっと一緒にいられるなんて夢みたいだ…。生まれ変わっても僕は君を離さないからね?君も僕を離しちゃ駄目だよ?」
微笑み合う2人は空にとけて消えていく。
罪を犯した青年は、少女が共にいる事で時間をかけて浄化され、やがて2人は生まれ変わる。
「会いたくて迎えに来てしまったよ。さぁ、一緒に行こう。」
変わらぬ姿で両手を広げる青年に少女は微笑む。
「えぇ!わたしも会いたかった…!!」
時代が変わっても繰り返される2人の幸せ。
何度でも2人は出会い、愛し合い共に逝く。
優しい約束は続いていく。…永遠に。