運命の白糸
自分でいうのもなんだが、俺は顔立ちが整っている……らしい。たまに人気の少ない場所に呼び出しを食らっては異性から愛の告白をされる日々を送っていた。
しかし、今のところ、こういった色恋沙汰には全く興味がない。
俺は数度口の開け閉めを繰り返し、相手を追い返す。教室に戻ればクラスメイトに囲まれ「勉強を教えてくれ」だの「部活の助っ人に来てくれ」だのと懇願される毎日。
こうしてクラスの男女に囲まれ、誰かに頼られるというのは良いことだ。俺は中々に充実した高校生活を送っていた。
運動神経にも恵まれ、秀才と呼ばれ。五体満足に生まれ、生活には何一つ不便はない。だが、俺と通常の男子高校生を大きく隔てる存在がある。――それは、野望。
この世に生を受けたその瞬間から、俺はある野望を胸に抱いていた。
それは遥か遠い昔――……。
寝床に困っていた俺は、とある民家に吸い寄せられるように惹かれていった。そして、ある部屋で身を潜め、しばらく休ませてもらっていた俺だったが、その部屋をいたく気に入ってしまったのだ。
初めはすぐに出ていく予定だったのだが、これがまた居心地が良い。それに、その部屋の住人も俺に気付くこともなかったので徐々に徐々に、俺は自身が動ける範囲を広げていったのだった。
そんなある日――。俺はついに、その部屋の住人に見つかってしまった。
住人は女だった。それも若い。
女は俺を見るなり甲高い悲鳴を上げ、心底嫌そうな表情を浮かべた。
全く、失礼極まりない。睨みつける女に俺は微かに身じろぎをする。と、また劈くような悲鳴を上げられる。一体、俺はどうしたらいいんだ。
ならば奥に身を隠そう。と女の視界から消えてやろうという俺の親切心からとった行動にも関わらず、女は待ったの声をかけた。
一体全体、お前はどうしてほしいんだ。とうんざりした声を上げたかったが、所詮上げたところで女の耳には届かないだろう。軽く目を伏せる。
女は地を揺らすようにして何歩か歩むと、俺にその人差し指の先を突きつけてこういったのだ。
「ここは私の部屋よ! いつからいたのかは知らないけれど、なに勝手に主である私の許可なくアンタがいるのよ!」
興奮した様子の女はそう捲し立てると、次いで「いい!? 次に見つけたら殺すからね!」となんとも物騒なことを俺に言い放った。そして、あまりに急な展開だったので動けないでいる俺。
口を開けたままの俺に、女は更に続けたのだ。
「悔しかったら人間になって文句の一つや二つ、言ってみなさいよ!」
売られた喧嘩は今まで全て買ってきた。そんな俺がここで食い下がるはずもなく――。人差し指が突きつけられたあの時、あの瞬間。俺は自分自身へ強く誓ったんだ。いつか……いつか人間に生まれ変わり、あの女にぎゃふんと一泡吹かせてやる、と。
そして、現在。
あれから何年が経過したかは分からないが、俺はこうして人間に転生することができた。
時折、前の姿が恋しく感じることもあるが、これも全てあの女に復讐をするためだ。我慢、我慢。
そう自分に強く言い聞かせ、周りに集まる男女に目を向ける。と、いつの間にチャイムが鳴っていたのだろう。教室の扉が急に開いたかと思えば担任が中に入ってきたではないか。
「おーい、席につけよー」
たくましい肉体の持ち主である担任の言葉に慌て、各々が席に座る。その様子はまさに蜘蛛の子を散らすようだった。
内心でほくそ笑みながらその様子を傍観していると、なんの前振りもなく目と鼻の先に小ぶりの箱が差し出される。目を動かすと、白い歯を見せた担任が立っている。
視線で「これはなんだ、」と訴えると、実に明快かつ簡潔に「席替えのクジだ」と答えが返された。
そういえば「席替えをする」と聞いていたような気もする。
四つ折りにされた小さな白い紙が、いくつも入れられた箱の穴を見つめ、息を吐いた。周りははしゃいでいたが、俺は席替えなどどうでもよかった。 俺が執着することといえば、あの女に復讐をすることである。席の一つや二つ――とは思うものの、今はここのルールに大人しく従おう。
決心して手を突っ込み、一番初めに触れた紙を引いた。
クラスの全員がクジを引き終えたのか、満足そうに教卓の上に上がった教師は、黒板に予め書いていた、いくつもの四角い図形の中に次々と数字を書き入れていく。そこに書かれた先程引いた数値が今回の座席になるであろう。
前を見つめていると、次々と新たな席に向かって生徒が動き始める。気は乗らないが、しょうがない。
重い腰を上げ、ゆっくりと動き始めると右肩に感じた衝撃に、思わず手の中にあった紙が地に落ちる。
「悪ィ、白石!」
顔の前で両の掌を合わせ、頭を下げた友人に「おう、」と笑ってみせる。そのまま友人は落ちた紙を拾い、その内の一つを俺に差し出した。友人はその場で紙を広げ、はしゃぎながら席へ着く。俺の、新たな座席に。
思わず目を見開き、受けとった紙を慌てて広げる。引いてすぐに確認したあの時とは違う数字が、そこには記されていた。
(……おいおい、)
俺と違って、クジを引いてすぐに確認しなかったのだろうか。我が物顔で俺が座る予定だった席に座り、別の友人と談笑するアイツを思わず引き留めようとした手を、ゆっくりと下げる。そうだ、席にこだわりなんてないんだ。別にどの席に座ることになろうが関係ない。
本来の目的を脳内で繰り返していると、不意に横から「隣、よろしくね」の声が飛んできたので目を向ける。そこにいたのは……
「平生――だっけ」
「そう、平生。平生音だよ」
「よろしくね」と平生が笑う。屈託のない無邪気な笑みがとても印象に残った。美人ではない。――が、明るい笑顔に不快感は抱かない。
「俺の名前は」
「白石八雲くんでしょ?」
平生に「よろしく」と返すついでに俺も名乗っておこうと口を開いたが、先手を打たれ、思わず喉まで出かかった言葉を飲み込む。
平生と言葉を交えたことなど今までにあっただろうか。否、ない。何故、平生は俺の名前を知っている?
訝しんだ視線に気付いたのか、彼女は愉快そうに、からからと声を上げ軽快に笑った。その後に「有名だから知ってるよ」と続ける。……俺が、有名?
「運動神経抜群で、秀才で、尚且つ容姿もいい、非の打ちようがない罪な男だって?」
「ううん。“勉強もできて運動もできるのに時々、変なことを言う残念男子”って」
「ざ、残念……!?」
まさかそんな風に名を馳せているとは思いもせず、平生が間髪入れず――それも真顔で告げた言葉に思わず目を瞬かせる。
しばらくの間、呆けていると隣に座る彼女は小さく吹き出した。笑いの波は一度では収まらなかった様子で、我慢はしているのだろうが小刻みに震える身体は隠しきれていない。……さっきから一体、何がそんなに面白いのだろうか。よく分からない。
俺が眉を寄せる。ただそれだけで笑い零れる平生に白い目を向けていると、ようやく満足したのか、目尻に浮かぶ水玉を彼女は指の腹で弾くように拭う。
「いやー、白石くんってもっと変な印象があったんだけど、結構話しやすいね!」
明るく言い放つ平生に、俺はなんとも言えない複雑な心情に陥った。……果たしてこれは貶されているのだろうか。それとも褒められているのだろうか。
考えても答えは出なかったので、とりあえず顔をしかめて「お前、失礼だな」と返す。と、平生は少しだけ場都合が悪そうな顔を浮かべ「や、変な噂があったからさ」と慌てて付け足した。
「噂?」
それも単なる噂ではなく、“変な噂”ときた。俺自身、身に覚えはないが顔色を伺うように目を動かす平生がそういうからには、少なからず出回っているのは本当なのだろう。
促すように視線を向ければ、平生は逃げるように視線を宙に彷徨わせる。指先で頬を軽く引っ掻き、ようやく彼女はゆっくりと口を開いた。「気を悪くしたらごめんね」と謝罪の台詞を合間に置いて。
「白石くんが……自分の前世の話をする、とか」
徐々に小さくなる平生の言葉に思わず「あぁ、」と声が漏れた。そうだな、前世の話なんてしたら変わっているように見えても余儀ない。
語った相手の顔を思い出していると、ふと見られているような感覚を覚える。視線だけを素因へ向けると、真っ直ぐ向けられた瞳があまりにも純粋に輝いていた。無意識のうちに身体を仰け反らせたのは仕方がない。
「あの噂って本当だったんだ!」
何故、そんなにも食いつくのだろうか。
口元を何度か痙攣させ、口ごもりながらも肯定の意を唱えると、平生の表情は更に明るいものになった。
肯定してしまった手前「私も聞きたいなぁ、」と言われてしまうと、喋らないわけにはいかない。……何故か本能が「この双眸を陰らせてはいけない」と告げていた。
「……実は」
俺は、きっと忘れないだろう。「こんなに完璧な俺だけど、実は前世で蜘蛛だったんだぜ! しかも、その時出会った女に馬鹿にされたのが悔しかったから見返してやるために人間に生まれ変わったんだ!」……と、ほとんど息継ぎ無しで、席替えに至るまでの経緯を捲し立てた俺にただ一言「へぇ、きっとその女の子、虫が苦手だったんだろうね」と返した女のことを。
固く握った拳は、いつの間にか手汗で湿り気を帯びていて、それに気付くまで息をするのも、瞬くことさえ忘れて平生を見ていた。開いた口が塞がらないとは、こういうことを言うのだろうか。
「……なに?」
微動だにしない俺を不審に思ったのか「なにか変なこと言った?」と平生が首を傾げるまで、俺の時は止まったままだった。我に返り、開いたままの口を慌てて閉じる。
「お前、信じるのか?」
情けないことに、尋ねる声が動揺で震えた。質問に対して「嘘なの?」という問いが返ってきて、左右に首を振ってみせる。すると彼女は花が咲き綻ぶように笑み、こう言った。
「なら信じるに決まってるでしょ」
――初めてだった。
前世の話をして信じてくれた人間は勿論、最後まで相槌を打って話を聞いてくれるなんて。
どう表現すればいいか分からなくなるほどに、どうしようもなく喜ぶ自分がいて、顎に指をかけ「でも、その女の子ってどうやって見つけるの?」という平生の疑問も、俺の話が信じてもらえているからこそ浮上するものだと思うと、口元がだらしなく緩んでしまう。
「白石くんが生まれ変わってるってことは、相手の女の子も生まれ変わっている可能性があるってことだよね?」
もう一度「どうやって見つけるの?」と首を傾げてみせた平生に「ふふん、」と鼻を鳴らす。
「俺は抜かりない男だぜ? 実はあの時、女に糸をつけた。それも、強い感情で作られた特殊な糸で、人間には見えねぇんだ」
胸を張り、天狗になった俺に平生が「へぇ、」と感嘆の声を漏らす。どうだ、凄いだろう。
「じゃあすぐに見つけられるんだね」
そこまで言って「あれ?」と呟いた平生は何やら思案し始める。……そう。実はそんなに世の中、甘くはできていないようで。
平生の中で浮上しているであろう疑問の通り、女を見つけることができるなら俺はすでに行動へ移している。今も女への復讐を口にするということは目的が未だに果たされていないということ。
人間として生まれて既に十数年間――。俺はまだ、復讐どころか女に出会えてさえいない。
「……実は、俺も人間に生まれたから糸が見えねぇんだ」
左右に首を振れば「え、」と音を漏らした平生の目が点になる。
「じゃあどうやって相手の子を見つけるの?」
「もう一回、蜘蛛になるの?」と尋ねてきた平生に否定の意を素早く唱える。冗談じゃない!
「まさか! あの女に文句を言うために人間になったっていうのに蜘蛛に戻ってたまるかよ」
次、いつ人間として生を受けられるかもわからないというのに。果てしない時間を考えただけで身体が震えた。
――糸は俺が“一人前”として成長すると見えるようになっている。
そのことを告げると、平生の薄く開いた唇から僅かに息が漏れた。「よかったね」と安心したように笑う平生に「なんでお前が安心するんだよ」と俺が笑う。そうやって何気ない話を続けて、気付けば俺たちは授業開始のチャイムを憎く思えるほどに話を盛り上げていた。
こんなにも気の合うヤツなんて初めてで(それも女)。戸惑いながらも平生との会話を楽しむ俺がいた。
――さぁ、次は何を話そう。
何を話しても平生なら聞いてくれる、一緒になって楽しんでくれる。そんな確証もないのに確信を持って。俺は次の休み時間を今か今かと待ちながら、授業内容も右から左へ受け流して喋る内容を考えていた。
そうやって平生と話すようになってしばらく――。事件は、起きた。
教室掃除をしていた平生が短い悲鳴を上げたので、様子を尋ねてみる。しかし、返事はない。
いくら待てども返答は期待できない様子だったので、流石に何事かと眉を潜めたまま、平生に合わせて視線を動かす。
指先を向けることさえ嫌なのか、手にしていた箒の柄を向けたその先。蠢く黒いそれに、思わず身体が強張るのを感じた。
胴体に比べて長い、その手足。細い八本の手足は蠢き、虎を思わせる黄色と黒からは危険性が表れている。縦に長い胴は手足と同じ二色は鮮やかなまま、複雑な模様が描かれていた。誰よりも何よりも俺はこいつらのことを知っている。
――蜘蛛、だ。
模様からして女郎蜘蛛だろうか、なんて。頭の片隅でぼんやりと思考する俺の前で繰り広げられる、人間対蜘蛛の種族を超えた夢の――とは流石にいかないようで。平生の一方的な片思い(攻防戦)が今、火蓋を切って落とされた。
それだけは譲れないと言わんばかりに一定の距離は保ちつつ――平生の双眸が標的を鋭く射抜く。
居心地が悪そうに身じろぎする蜘蛛の気持ちが痛いほど分かり、無意識の内に握りしめていた拳が震えていることにようやく俺は気付いた。
平生の薄く開いた唇から身体同様、小刻みに震えた声が漏れる。「ここを、どこだと思ってるの」と。
戦いは長期戦に持ち越されると思ったが――、そうでもなかったようだ。先に痺れを切らした平生の姿に俺は何度か瞬く。大人しいと思っていたが、 やはり女子だ。虫は嫌いらしい。
「ここは教室よ! いつからいたのかは知らないけれど、なに勝手に主である人間の許可なく蜘蛛がいるのよ!」
なんとも理不尽だ。哀れ、蜘蛛。「その気持ちは痛いほど分かる。理不尽だよな。言っていること滅茶苦茶だよな」と心の中で呟き、人型に比べて遥かに小さな身体に心の底から同情する。
「悔しかったら人間になって文句の一つや二つ、言ってみなさいよ!」
大体、人間がそんなに偉いって……ちょっと待て。――今、なんて言った?
聞き覚えのある台詞に思わず動きが止まる。制止しようと伸ばした手はしばらくの間、宙を虚しく彷徨った。
蜘蛛に背を向けると鼻を鳴らしながら平生が教室を出ていく。目の前を過ぎていく背を俺は茫然と自分の前から見送ることしかできず、その腕を掴んでいたのは本当に無意識だった。
「どうしたの?」
問いかける平生に何も言えない。「聞きたいのはこっちだ」と喉元まで出かかった言葉をぐっと噛み砕き、飲み込む。
目を丸くさせ、視線を向ける平生にそれ以上に俺も驚きを隠せない。
「平生の旧姓って、何?」
何故か今、ここで尋ねなければならないと――本能が告げている。
理由も、大きく脈打つ動悸も、頭の中で徐々に膨らんでいく警告音のようなものも。今はすべて、不安要素にしかならない。
数分にも感じるほどの長い数秒の間、俺たちはただただ真っ直ぐ見つめ合った。
「中女だよ」
何も知らず、純粋に笑んだ平生の言葉に手の力が抜ける。かわすように、逃げるように俺の手から離れていく背。小さくなっていくそれに思わず自虐的な笑みが漏れた。――あぁ、なんだ。
「あの家の表札も、そんな苗字が書いてあったじゃねーか」
情けなく、その場にしゃがみ込む。開いた両足の間に両肘を入れるような形。そのまま腕の間に頭を挟み込んで。文字通り、頭を抱える。
「探し物が目の前にあるってこと、本当にあるんだな」
一人小さくぼやいて気付く。いつの間にか生徒の姿は忽然と消えていた。俺と蜘蛛を残して。それは、まるで俯く俺を嘲笑っているようだった。
視界の端で黒い塊が密かに蠢く。そのぎこちなさに俺は迷いなく手を伸ばし、その背を撫でた。
「ここにいると危ない。アイツが帰ってきたら今度こそお前、何されるか分からないぜ?」
逃げ道を指示し「今の内に逃げろ」と忠告してやれば、蜘蛛は何度か止まりそうになりながらも教室を出て行った。小さな背を見送り、完全に消えたところで肩の力を抜く。
「あれ? 白石くん、まだいたんだ」
視線を向けていたものとは真逆の扉から足を踏み入れた平生の姿に小さく息を漏らした。我ながらなんてタイミングの良い。後少しでも遅れていれば、恐らくあの蜘蛛の身には今頃、平生の悲鳴と進歩を遂げた人類のあらゆる武器が襲いかかっていたに違いない。
どうやら話を聞く限り、平生は掃除終了の報告をするために職員室に行っていたらしい。
誰も教室に残っていないというのに真面目な部分に呆れ顔を浮かべて向けてやれば、丁度、平生は何かを探すように辺りに視線を張り巡らせているようだった。それは、とても繊細に。
「? 何か探してるのか?」
何の考えもなく尋ねてみれば、あらゆる方向へ視線を動かしていた平生の動きが止まる。やがて、安堵の息を深く吐き出した身体から力が抜けた。
「お、おい!」
肩の力だけでなく、足の力も抜けたのか。その場に腰を下ろす平生に慌てて駆け寄れば、なんとも力ない笑みを向けられる。今にも溶けてしまいそうな笑顔に、思わず頬が熱くなった。
「よかったぁ、」
「え、」
「なにが」とは聞かなかった。全てを言い切る前に動いたのは平生の口だったからだ。
「さっきの蜘蛛、いない」
心の底から安心した素振りに、込み上げた熱が一気に冷めていく。
そうだ。忘れていた。コイツは、平生は。
「そんなに虫が苦手なら見つけた時にすぐ殺せば?」
皮肉交じりに上げた口角が僅かに痙攣する。瞬く平生の瞳が宙でかち合い、気まずさから思わず視線を落とす。
逃がしてやった小さな身体が過去の自分とかぶる。
あの女は俺を殺すつもりだったのだろうか。虫が苦手という理由で、なんとも勝手な感情に任せて。俺の人生は呆気なく終わってしまっていたのだろうか。
虫が苦手というからには素手で倒せるとは思えない。あの女が俺をすぐに仕留めず、席を外したのは道具を取りに行っていたのだろうか。
今の時代はあの頃とは違って便利な道具が数多く開発されている。手を汚さず、目を閉じてでも命一つ奪うことなんて大したことではないのだろう。虫けらの命一つぐらい。それはいともたやすく。
「いくら嫌いでもさ」
文明というものは人間の手助けをしても虫の役に立つようにはならないらしい。
平生も、発達した力を使って命を奪うのだろうか。虫一つの命なんて誰も気にも留めないだろう。こんなに小さな身体を持って生まれても精一杯今を生きているというのに。
「例え身体が小さくったって、あの子も今を生きてるから」
「は?」
続けられた台詞に拳が解けていく。コイツ――今、なんて言った?
「じゃあ報告も終わったし、私帰るね!」
理解できないまま立ち尽くした俺をご丁寧に残したまま、平生は軽快な足取りで教室を出て行った。遠くなる足音が止まる気配はない。そして、近付いてくる気配もなければ平生がひょっこり教室に顔を覗かせることもなく。どうやら宣言通り、本当に帰ったようだ。
「平生……か」
指の先を向けて、忌々しげに言の葉を吐き捨てる。そのまま立ち去る姿は、記憶に残るあの女と綺麗に重なった。
『いい!? 次に見つけたら殺すからね!』
平生に過去を話した。あくまで、掻い摘んで。台詞まで教えていないにも関わらず丁寧に一句一句、音にしたアイツ。口調も、その荒さも、息遣いも、何もかもが重なる。
子孫か――もしくは、生まれ変わりか。
どちらにせよ、俺の復讐相手はようやく見つかった。喜ばしいことじゃないか。平生とあの女。何かしら関係があるのは間違いない。
しかし、それを理解した上でも湧いてくる黒い感情がないのはどういうことなのだろうか。
今まで理性と共に戦ってきた、霧のように広がり、隅から隅まで浸食していく禍々しいもの。それが湧いてこないのは何故だろう。
昔のように「あの女をぎゃふんと言わせてやる」という気持ちが起きないのは何故だろう。今なら、それを可能にすることだってできるはずだ。……にも関わらず、何か行動を起こそうという気が全くと言っていいほどないのは、何故だ?
ふと、脳裏に平生の言葉が浮かび上がる。
『例え身体が小さくったって、あの子も今を生きてるから』
柔らかい微笑を浮かべていた。あの優しげな瞳。
平生の声で再生された台詞を口の中で転がしてみた。――あの女も、同じだったのだろうか。
あんなにも優しげに見つめていたのだろうか。俺の、命を。
清々しい気持ちで見上げた空は、心なしかいつもより晴れやかで、果て無く広大に感じた。
――翌日、朝から教室は熱気に包まれていた。
時期外れの転校生がやってきたのだ。それも、なかなかに顔立ちが整っている。
切り揃えられた前髪に、横髪もある程度の長さで左右一糸乱れず同じ長さで切り揃えられ。腰まで真っ直ぐに伸びた艶やかな黒髪もまた、切りそろえられている。
その髪型に思わず東北地方特有の郷土人形、こけしが脳裏を過ぎったが、艶やかな黒髪と長めの睫毛が天を向いている。その美しさは作り物ではなかった。否、完璧すぎる容姿上、逆に作り物かと疑ってしまう。しかし、やはり生きている。動いている。
異常なまでに白い肌や黒すぎる瞳は不気味だ。恐らく和服も似合うであろう。しかし、人形ではない。好意、嫉妬、好奇。色んな感情を孕んだ声が至るところで潜めきあう。息を潜めるような、囁き合い。断片的に会話を耳が捕える。が、如何せん興味はない。転校生もまた、身動き一つせず、ただ瞳を閉じていた。
苗字を口にし、続けて座席を指定する教師にようやく転校生、如露紅萌が動きを見せた。ゆっくりとした動作で伏せていた顔を上げ――瞼を上げる。
自意識過剰ではない。これは断言できる。あの時、黒い双眸は確かに俺を見つめていた。
――そう、俺だけを。
如露が俺を見据えたのはほんの数秒だった。先に目をそらしたのは俺だったが、視線は感じる。しかし、何をするわけでもなく。
如露は大人しく担任に言われた座席に腰を下ろし、前を見据える。真っ直ぐに伸びた背筋を後ろから見つめ、俺は僅かに目を凝らした。
凝らしたところで当然、何かが分かるはずもなく、数秒後には諦めて視線を外す。長々と話し続ける教師の声をBGMに頬杖をついたまま俺は窓から空を見上げる。
あの違和感はとっくに忘れていたにも関わらず胸につっかえるわだかまりはいつまでたっても消えず、俺の本能に囁きかけてくるのだった。
やがて用意されている時間を大幅に経過したところでようやく教師が退出していく。満足に満ちた横顔を見送っていると、横から声をかけられ、いつものように平生と会話を織り成す。その中で、ふと、視線を感じた。何気なく横目を向けると、その先にいたのは如露だった。
転校生の抗えぬ性というかなんと呼ぶか。お約束の質問攻めをしていたであろう生徒たちの戸惑う声を受けながらも、一切反応を見せない彼女は、こちらを見て――微笑んだ。
薄く微笑んだ如露に周りは一気に色めきだす。が、俺の背には冷たいものが走り抜けただけだった。そして――その時にはすでに、事件への秒読みは始まっていたのだろう。
一番初めは靴がなくなった。
鞄にゴミを入れられ、教科書は見るも無残に切り刻まれ。「どこの漫画だ」と言いたくなるが、隣から向けられる、眉を“ハ”の字にさせた笑顔が痛々しかった。
突如始まった平生の身の回り限定の異常現象は徐々に激化していく。
なくなった机、始まった平生への無視。いくらなんでもおかしすぎやしないか。急すぎる。前触れが何もなかったのを思い出し――俺はあることに気付いた。
同級生の行動が時折おかしくなる。
必要以上にぼんやりとし、いつもどこか遠くを見ている。その目は虚ろで、瞳の色も心なしか少し赤み含まれているような――。
考えたところで左右へ頭を振る。
いくらなんでもそれはない。どこのアニメだというんだ。脳裏に浮かんだ如露さえも振り払い――。だから最近、平生の周りに蜘蛛がよく発生しているような……そんな気さえ気のせいなのだと。俺は無理やり全てを思考から追いやった。
僅かに引っかかっていた予感も強ち間違っていないと気付いたのは、よく晴れた昼下がりのことだった。
――平生の姿が、ない。
気にするようなことでもないかもしれないが、その場にいたクラスの男子に向かって声をかけてみる。が、反応無しのまま俺の前を素通りしようとするので思わず目の前の肩を掴み、反転させる。「無視すんなよ」の言葉を用意していたものの、目が合った瞬間、俺は何も言えず固まっただけだった。否、衝撃が大きすぎて動きたくても動けなかったのだ。
「お、まえ――……」
喉が鳴る。掠れる声、消え行く語尾。
それでも無表情のままの男子。
コイツはこんな無表情ができるようなヤツだったっけ。コイツの目ってこんなに赤かったっけ――?
充血ではない。そんな度合を超えた赤みだ。遠く離れても認知できるであろう、赤。
うっすらと赤みがかった白目の部分。黒目はその比にならぬ濃さの赤だ。カラーコンタクトでもつけたのかと思いたいところだが、数十秒前に見たコイツの目はいつもと同じ黒だった。
「どういうことだ」
ふらつく足は情けなく、冷たい壁が背に触れる。そして俺の目が、見慣れた姿を捕えた。平生だ。それに、如露もいる。
この学校は五階建てになっていて、上から見るとL字の形になっている。俺は現在、自分の教室フロア、三階にいたが、平生たちがいたのは屋上だった。
校内にはそれぞれの端、計二か所に階段がある。その内の一つが大階段と呼ばれ、屋上に唯一繋がる階段になっている。そう、教室のすぐ隣にある階段だ。屋上にいるということはあの二人もこの階段を通ったに違いない。
少し見上げた形で、丁度視線の対角線上にいる二人を見て、小首を傾げた。
屋上は自殺防止に鉄条網が張り巡らされていて生徒一般にも解放されている。
そこから見る夕日が沈む風景は絶景という噂で、ベンチや草花も設置されていて生徒たちの人気の場所だ。……しかし、真冬は寒すぎるため、真夏は暑すぎる上に蚊が集まるため、訪れる生徒は少ない。確かに今の季節は丁度良い気温になっているだろう。実際に昼時はなかなか賑わっている場所だが――はて。こんな微妙な時間にあの二人は一体なにが目的であそこへ上っているのだろうか。後五分もすれば三限目は始まるというのに。
――早弁か?
不意に過ぎった考えは、手ぶらの様子である二人が打ち消してくれた。じゃあ、なぜ屋上に。
それにしてもあの組み合わせは珍しいな、と考えたところで何やら向こうの空気が穏やかでないことに気付いた。平生が最後の防壁である鉄条網へ徐々に追いつめられているように見えないわけでもない。
自殺防止という建前で存在する鉄条網だが、実際には腰上の高さまでしかないそれは、少しふざけただけで簡単に乗り越えることができる。
俺は恐ろしい勘違いをしていないだろうか。平生の身の回りで起きる不可解なこと、陰湿な出来事。如露が平生と直接関わったところを見たことがないのですっかり失念していたが――時期的なこともある。
平和だったクラスの平穏が狂い始めたのはいつからだった? それは如露が転校してきた時期と重ならないか? これが俺の考えすぎならいい。けれど、もし……。
もしも首謀者が如露だったとしたら――?
最悪な事態が胸を過ぎり、俺は慌てて二人がいる屋上へ向かって駆けた。
すれ違うやつらの瞳が赤いのを見る度に、倍の焦燥感が俺を襲う。段を蹴り上げる回数は自然と早まり、姿勢は前のめりになっていた。
重い扉を目の前に、全体重をぶつけるようにして開け放つ。
鈍い音を立てて差し込む光。僅かな隙間に滑り込み、肩で息をするようにし前方を睨みつける。しかし相手は臆する様子もなく――ただ微笑んだ。
「なにしてるんだよ」
絞りだした声は自分でも驚くほど低かった。肩をすくめて「少しでも貴方さまの力になりたくて」。その返事で無意識の内に眉間へ皺を寄せていた。
「……なに?」
「私は八雲さま。貴方さまをお慕いしております」
「……は?」
突拍子もないことに我ながら阿保丸出しの声が出る。それを合図のように――何が起きているのか理解できていないという表情を浮かべた平生の肩が押された。
その瞬間、俺の両目に広がる世界の全てはスローモーション再生にした動画のようだった。細身の身体がゆっくりと傾き、歪んでいく表情が徐々に遠ざかっていく。落ちていくのだと脳はすぐに現状を分析し終えた。結論も出した。しかし、身体はそう簡単に動いてはくれない。
かろうじて平生の右手が角を掴んだ。
宙へ放りだされた平生の身体。相変わらず危険な状態に変わりはないが、ひとまず平生の寿命は少し伸びた。少なくとも落ちない限りは、死なない。とっさに如露を睨め付けてみるも、大した効果は見られなかった。反省の色は微塵にも見られない。
視界の端で平生の顔が僅かに歪んだのを捕えて、今はこんなことをしている場合ではないとコンクリートを蹴り上げる。
「平生! 大丈夫か!?」
これ以上落ちることを防ぐために、体重を支える手を掴み、もう片方の手も上げるよう指示を出す。
重力に従い力なく落ちた手が、ゆっくりと上がり――、完全に上がるまで待つ間の時間ももどかしく、俺は身を乗り出してその腕をとった。そのまま一気に引き上げる。
救われて死を認識したのだろう。平生の顔は青を通り越して土気色になり、その身は小刻みに震えている。
血の気を失った平生をもう一度見やり、俺は如露へ鋭く視線を飛ばした。
「お前……やっていいことと悪いことがあるだろ」
低い声が静かになった屋上の空気をよく震わした。
俺が助けると思っていなかったのか、平生が助かると思わなかったのか。もしくはその両者か――。肩で息を繰り返す平生を見つめる如露の顔には明らかな動揺の色が滲み出ていた。そこへ先程と同様、睨みつけてやる。と、数十秒前の余裕はどこへ消え去ったのか、如露は音にならない悲鳴を上げた。
喉元を僅かに引きつらせ、見開いた瞳が右へ左へと揺れ、肩は大げさに跳ね上がる。
潤んだようにも見えた瞳は、次の瞬間には吊り上っていた、そして燃えるような――赤。光の反射ではなく、ギラギラと光った瞳。その色は如露本人の怒りをよく表しているようで――ふと、ずっと脳にこびり付いて止まない赤と重なった。これは偶然なのだろうか。赤は、クラスメイトたちの瞳と一緒の色だ。
俺の本能が危険だと脳内で警鐘を打ち鳴らす。
「なぜお止めになるのですか!? 貴方は彼女を恨んでいたはず! だから私は、私は……っ!」
「な……っ!?」
――なんでお前がそれを知ってるんだ。
俺が恨んでいるのは平生じゃなくて、中女であって。いや、結局は平生へ巡ってくる感情だが、それをどうして如露が。
前世の話を信じてもらえない時点でクラスメイトにはその話をしていない。その話を知っているのは平生であって――平生が話した? いや、前世で出会った女と平生の繋がりを本人が気付く由もない。じゃあ、なんで。
「俺はコイツを恨んでいるなんて一言も言った覚えはない」
気になる点だが、今はそこを深く追求する場面ではないと判断し、動揺を無理やり押し殺す。
「それに、例え俺が平生を恨んでいたとしてもお前がコイツに復讐する義理はないはずだ。それも――俺の代理で、なんて」
言い方がキツかっただろうか、と一瞬、後悔が胸を掠めていった。
しかし、ここでハッキリと言っておかなければ。好意を寄せてもらえるのはありがたいが、想い上の空回りはこちらとしても迷惑極まりないのだ。
意をはっきりと口にすれば、如露の膝が笑う。彼女はその場でへたり込んだ。そのまま立ち上がる気配は、ない。
「私は……私はただ、八雲さまを……っ!!」
潤んだ瞳。
その瞳いっぱいに溜めた涙はそのままに俯いた如露に俺は本格的に狼狽えた。
“男子たるもの、女を泣かせてはいけない”というなけなしの――男としての自尊心が過去の俺を責めだす。
「泣く、の……か……!? 泣くのかっ!?」
涙が一粒零れ落ちるその前に。せめて……せめて一つぐらい弁明させてくれ。
淡い願いを込めて伸ばした手。しかし、その手が如露の肩に触れることはなかった。
落とした顔はそのままに、如露の目だけが上がる。顔を覗き込もうとする俺と如露の視線が合うのは自然なことで。……なのに心が落ち着かないのは何故だ。
視界は赤の双眸にからめ捕られ、一瞬だけ全ての動きが活動を休止した。ただ、その間だけのことだった。
僅か一秒の停止を合図にしたように如露の身体は倍に膨れ上がり――。ありとあらゆる部位が盛り上がり、生々しい音を発する。その聴覚に怯え、固く瞳を閉ざす平生は今にも倒れてしまいそうだ。
危うい平生の身体を抱き留める俺は昼下がりの屋上にふさわしくない物影で事の様子を捕えることしかできなかった。
二足歩行を行っていた、スラリと伸びた白い足と同様、これまたスラリと伸びていた腕はなくなり、代わりに両サイドから四本ずつ細長いものが現れる。一本一本厳重に覆っている毛はしっかりとしていて。真っ黒いボディに、特徴的な模様。そして――赤い、目。
平生が小さな悲鳴を上げる。それも仕方がないかもしれない。こういうものが苦手な平生じゃなくても一般人なら卒倒ものであろう出来事が今、俺たちの目の前で起きている。
「如露……お、まえ……!」
大きな影、気付けば俺たち人間に縦横三倍以上はある巨大な蜘蛛がいた。
女朗蜘蛛。
急な出来事に加え、常識を遥かに超えた大きさに思わず息を詰まらせる。が、腹に描かれた色鮮やかな模様。その形には見覚えがあった。
それはあの時、教室にいた蜘蛛だった。……いや、あの時はまだ一般的な大きさだったはずだ。それがなんだ、目の前にいるのは化け物サイズの大きさではないか。
前世の同胞とはいえ、その大きさに思わず身がすくむ。
「お前……何者、」
情けなく掠れた声に巨大蜘蛛は微かに身動きし「長い年月を生きた私は通常ではあり得ない姿と力を手に入れました」と直接語りかけるようにして如露そのままの声が脳内に響いた。
人間との対話能力もあるのかと感心すると同時に、昔、通常の寿命を遥かに超え、長く生きたものには妖力が宿ると耳にしたことがあるのを思い起こす。俺も、前世で寿命を迎えることなく生きながらえていたなら、如露のようになっていたのだろうか。思わずそんなことを考えてしまうほどの迫力だった。
人間になれるのも、本来の姿がこれほど大きいのも妖力によるものに違いない。
如露が転校してきてすぐ、俺が感じた違和感は仲間と認識していたのか、はたまた如露の身に秘められた妖力を感じ取っていたのか――。
如露は最初の一言を皮切りに、ぽつりぽつりと徐々に言葉を漏らし、紡いでいく。
「気味悪がられ、誰とも関わらず。ただ一匹寂しく生きていた私はある日、一人の殿方と出会いました」
薄く開かれた唇から一人称が吐き出される少し前から、これは如露自身の話をしているのだとそれとなく察していた。
「そのお方は暴虐無人な人間の女から私を守り、逃がして下ったのです」
“殿方”が他の誰でもなく俺を指していることを悟り、顔に籠る僅かな熱を誤魔化すように視線を宙へ彷徨わせた。そんな俺へ追い打ちをかけるかのように「……初めてでした」と如露は続ける。息と共に体外へ吐き出すように、ひっそりと囁くような声に神経が働き、何かが背筋を駆け抜けていった。
優しくされたのは初めてだったと如露は更に告げる。そして、ずっと俺を想っていたことも。
砂糖でも吐き出すように甘い口調で、蕩けるように熱を秘めた潤んだ瞳で。まるで正義の味方だと言いたげに続ける如露がたまらなく俺を落ち着かせてくれなかった。
「以前より、あの場所にいたので八雲さまの過去も聞きました」
「私は蜘蛛なので八雲さまが仰られていた糸にすぐ気付いたんです」。如露の台詞に思わず「なるほど」と声が漏れる。
なるほど。それなら全て辻妻が合う。
ずっと教室にいたなら俺の話も全て聞いているだろうし、俺たちには見えない糸が如露に見えるのも当たり前だ。そして如露が平生を狙ったことも全て合点がいく。如露は、蜘蛛だから。
「如露、さん」
隣からの震える声に、我に返る。
そうだ、普通なら気絶してしまうような出来事が起きているわけだが、平生は大丈夫なのか?
ただでさえ小さな蜘蛛に過剰な反応をみせるぐらいなのに巨大蜘蛛――それも数十分前までは人型を模していたものが現れ、普通に会話をして。
震える唇が薄く開かれる。俺はそこから何が飛び出すのかと固唾を飲んで。笑んだ平生に息が詰まった。
「如露さんは白石くんのこと、真っ直ぐ想ってるんだね」
「それって凄く素敵」と続けた平生に俺は目を丸くした。蜘蛛の姿なので憶測だが、如露の目も丸くなっているに違いない。
何を言い出すかと思いきや――、自分を殺そうとした相手に一体なにを言ってるんだ、コイツは。
「怒って……いないのですか?」
自らの意思で形容を変えることができるのだろうか。人型から蜘蛛へと戻る時とは反し、文字通り、瞬く間に人間の姿へ戻る。そんな如露の問いに対し「なんで?」と平生が首を傾げた状態のまま疑問符を飛ばす。
「だって私は……貴女を……!」
殺そうとしたのに。
その言葉は続かなかった。ただ、平生は柔らかな微笑を浮かべ続けている。そのまま平生は「確かに色々びっくりしたけど」と笑い飛ばした。思わず「その色々を軽く受け止めるなんて順応性高すぎるだろ」と横槍を入れそうになったが、喉元までせりあがったそれを無理やり飲み込む。
「方法は確かに間違っていたかもしれない。けれど、それだけ想える相手がいるって素敵なことだよ、如露さん」
「恋って人を綺麗にするっていうけどさ。元から美人さんだったけど、今、凄く綺麗だよ」。続けられた言葉に如露の頬が僅かに色づいた。……おいおい、どこのイケメンだ。
平生は「そういう相手がいるってちょっと羨ましいなー」と自身の頬を軽く引っ掻きながら続ける。平生はおどけた様な口調だが、俺はそうやって誰かを許せる心を持っているお前が凄いと思うし、羨ましいと思う。
「ね、如露さん。如露さんは私のこと嫌いかもしれないけど、私、如露さんと仲良くなりたいんだ」
「だから、私とお友達になってくれませんか?」そう言って差し出された手を如露は初め、穴が開くほど見つめ――、平生の笑顔を見つめ、次いで俺の顔へと交互に視線を移した。
打ち合わせしたわけでもないのに、二人の頷きが重なった時、如露は目尻に溜めた涙を乱暴に拭い、慌てて平生の手をとった。
恐る恐る伸ばした手を包み込む平生の手つきが、笑顔が。とても眩しくて目を背けたくなる――それと同じぐらい、目を離したくないほどに心地よかった。
やっぱり、コイツには敵わない。
如露に平生の名言を聞かせてやろうか。平生は小さな命もちゃんと見てくれているのだと、長年の復讐心を払拭した真実を告げようか。
平生の温かさや優しさをあえて俺が言葉にしなくても、恐らく今の如露には伝わっているだろう。それは、屋上に映る手が繋がった影や、空へと溶けていく二人の笑い声が物語っていた。
生徒の様子がおかしかったのも、如露が一枚噛んでいたらしく、次に登校する頃にはすっかり全てが元に戻っていた。
操られていた際の記憶も消え去っているらしい。すれ違う度に声をかけてくるクラスメイトたちを見やり、安堵の息を吐き出す。
戻ってきた日常に口角を上げて教室の扉を横へスライドさせる。と――
「八雲さま――っ!!」
弾丸の如く突っ込んできた何かをまともに食らい、開いた口からは蛙が潰れたような、なんともいえない音が飛び出した。
驚きながらも身体に張り付くそれを引きはがす。その勢いに、持ち前の綺麗な黒髪が宙を舞った。
名前の呼び方で予想はしていたが……それは見事に的中し、俺の前にいたのは如露だった。きょとんとした如露を前に、俺は金魚のように口の開け閉めを繰り返す。
「なっ!? おま、帰ったんじゃ!?」
人さま――否、例え蜘蛛さまだとしても指を突きつけるのは失礼と知りながらも、指を差さずにはいられない。
俺だけでなく、平生にも人間じゃないことを知られ、もう姿を見せないと思っていた。少なくとも学校ではもう二度と現れないぐらいには。そう思っていた。のに、まさか、こんなにも堂々と人間に混じって生活するなんて――。
「何故? 八雲さまと想いあうその日まで私、戻りませんわ」
俺の腕に、自身の腕を絡み付けてくる如露。空を煽り、内に秘めたる息を吐き出した。……最早、抵抗する元気も残っていない。
――どうやら騒々しい日々はまだまだ続くようだ。
壁を張っていた小さな蜘蛛を見、あのお決まりの台詞を突きつける平生の後姿に俺は口元を緩ませた。
【後書き、その他諸々】
「運命の白糸」は、とある大賞に送ろうと昔書いた作品でした。
実話を元にした話でしてあの時、実家にあの蜘蛛が現れなければきっとこの作品も生まれていなかったと思われます。
友人等に読んでもらい「校舎の描写がないために構造が想像しにくい」と指摘を受け、改善した結果急に突っ込んだのがよく分かる作品になってしまいました。
又、作者自身も感じていたものなのですが「ヒロインの心が寛大すぎて感情輸入できない」点。殺されかけたというのにこうもあっさり許せるわけがありませんよね。
虫が嫌いだと言いつつ実は昔、ヒロインは蜘蛛に助けられたことがある。それから一方的に「害」と決めつけて殺生せず、同じ生き物として考え方を改めるようになった――そして、その蜘蛛は紅萌だった。
(昆虫に対して強気な態度になってしまうのはいくら命の恩人とはいえやはり苦手なものは苦手だから)
という展開もいいなと思いつつ書き直せていません。
後、あとがきを書きながらふと思いついたんですが昔助けてくれた蜘蛛=八雲で「お前、殺されかけたっつーのになんであんな簡単に許せるんだよ」っていう八雲の質問からのカミングアウトで「今思えばあれが私の初恋だったなー」「え、(そんな記憶があるようないような)」なんてイベント発生とかでもいいですよね(白目)
平生さんは命の恩人である蜘蛛が八雲であることは知らないので、何気ない一言だったんですがその言葉にずっと囚われて悶々と悩み続ける八雲もいいかもしれません。
もう1つ言うと全く本編では出なかった設定ですが紅萌ちゃんは常に腹巻(黄色と黒の横縞)をしています。
「蜘蛛が前世という設定や蜘蛛だった白石と人間との出会いという発想自体は良い」と褒めていただいたのでもっと伸ばしてやりたかったのですがそこは自分の力量不足ですね。もっと精進し、いつかこの作品をより良いものにしてやりたいと思います。
当作品を書いていて
・たくましい肉体の持ち主である担任の言葉に慌て、各々が席に座る。その様子はまさに蜘蛛の子を散らすようだった。
というシーンがありますが、主人公が蜘蛛なだけあってここの表現は結構お気に入りです。友人にも褒めてもらえたので更に嬉しいです。
平生さんに「勉強もできて運動もできるのに時々、変なことを言う残念男子」と言わせるのも楽しかったです。ここを言わせたかっただけだったのかもしれません。
キャラクターの素敵な名前を考えてくれた友人、読んでくれた友人、アドバイスをくださった方々、並びに読んでくださった皆様方!
長々と続きましたが、最後まで御精読ありがとうございました!!
これからも頑張っていきます。