◎前夜迄/修『終わりの始まり』
誰もが皆、俺を置き去りにしていく。
その不安が、いつも――俺を苛んでいた。
煮え切らない空を見上げ、無造作に零された冷たい雨の音を聴いていた。
誰かに助けてほしい、と願ったことは無い。
叶わないのが怖かったから。
裏切られるのが怖かったから。
でも、そのおかげで、ずっと誰かに触れることが出来なかった。
そうして、いつしかそれにも慣れてしまった。
同年代の人間を見る度、話しかけてみようかと言う欲求が生まれたが……
か弱いその感情は、肥大した『根底の恐怖』に遮られた。
拒絶されるのが怖かった。
一人でないことに憧れるのが、何よりも恐ろしかった。
一度一人でなくなってしまうと、一人になってしまった時、どうしたらいいのか――
不安で、とても不安で仕方が無かった。
一人でなくなってしまうことが、耐え難い孤独を生むきっかけにしかならないのなら。
ずっと交わらずに一人のまま生きていた方が良い。
修はそんな風に考えていた。
誰かと誰かが、なにやら楽しそうに話しているのを見ると、心の奥底が疼いた。
それでも、修は一人で『壁』にもたれていた。
目には見えない、色も無い、でも、確かにその場所にある。
何故か、心が落ち着いた。
誰に触れているわけでもないのに。
どうして、こんなに安らかな気持ちになるのか分からない。
修は『壁』に触れている時の穏やかな気持ちがとても好きだった。
度々指導員に文句を言われたが、修は彼らの目を盗んでは、『壁』に触れていた。
*
ある時、ふと修は気付いた。
何も無いと思っていた『壁』が、実は様々なものを含んでいることに。
触れると全く同じ温度があり、若干ならば押せる。
指が『壁』に沈み込み、また押し戻される。
不思議の過ぎる『壁』は、どういう訳だか修を癒し、外と世界を隔てていた。
その日のことを、修は思い出していた。
薄汚れた灰色の空、見たことの無い山の麓で車から降ろされる。
嫌な雰囲気が流れていた。
汚れた空と同じ色をした、指導員と呼ばれる人間が修の手を引く。
修は何が何だか分からなかったが、ここで指導員についていくと――
もう帰れないことだけは予感できた。
何より、表情の無い指導員が怖くてたまらなかった。
その指導員と、今ここへ修を連れて来た人間が同じように、無表情を顔に貼り付けているのが恐ろしくてたまらなかった。
曇天から、さらさらと小雨が降り注ぐ。
「どうして」
修は口に出していた。
「『父さん』――どうして、俺を捨てるの?」
指導員から重量感のあるスーツケースを受け取って、一度だけ父は修を見た。
修は父へ走り出そうとしたが、指導員に肩を掴まれて動けなかった。
降り注ぐ雨が、その勢いを増した。
修はただ、走り去る車を見届けることしかできなかった。
引き取りに来る日のことなど全く知らされず、修はその日からたった一つの拠り所を失った。
それはまるで、空が急に失われたような、大地が突然消えてしまったかのような――
ぽっかりと身体が空洞になってしまう感覚だった。
大きな何かが丸ごと欠落してしまう、そんな感覚。
しばらく、修は何を考えることも出来ずに、ただこの場所で指導員の言うなりになっていた。
――その日が来るまでは。
夢に見た少女は、少しだけ悲しみを帯びた瞳をしていた。
でも、視線を向けると優しげな表情を浮かべて修を手招いた。
不思議と心が安らいだ。
何をしゃべるでもなく、ただ傍に居るだけだったが、とても落ち着いた。
そんな夢を見ることが続いたある日のことだった。
少女は遥か彼方を指差した。
目には見えないが、何かある。
それは、何か途轍もなく広大な『壁』のようだった。
そんな風に感じられた。
少女が小さく頷くのを見て、修は軽く指を鳴らした。
そうすると、『壁』は少し揺らいだ。
修は揺らいだ『壁』が透明に輝くのを見た。
狙った場所から徐々に輝きが広がって、波紋のように修の網膜に映し出されていた。
夢はそこで終わりだった。
*
目を覚ました修が指を鳴らすと、信じられないことが起こった。
部屋の壁が欠けたのだ。
もう一度鳴らすと、ベッドの車輪が吹き飛んだ。
そうして――何も無かった日々は一変した。
『指導員』が三人つき、予定は分単位で刻まれ、修は記録を測られた。
一度に破壊できる物量、範囲。
能力継続の限界も確認の対象だった。
体力と共に、修の精神も磨耗していった。
この『学園』の施設内には同年代の人間が少なくなかった。
だが、人と接することに慣れていない修に話し相手は居なかった。
ある日、ピークに達した疲労が修を倒れさせた。
修は朦朧とした意識の中で、再び少女と再会した。
彼女は優しかった。
ただそこに居るだけだったのに、修の心は安らいだ。
少女はその白い手で惚けている修の手を引いた。
透明な『壁』が、目の前に現れた。
その『壁』に触れて、少女は何事かを修に告げた。
その表情が、凛とした瞳が修を捉えた。
少女は、以前見た時とは違う印象を受けた。
修は今、自分が為すべきことを考えるきっかけを得た。
自らを囲む全ては、乗り越えるべき不可視の『壁』。
こうしているうちにも、曖昧に消えていきそうな少女の面影を心に留めて、修は心の平静を取り戻した。
『まだ、俺にはやるべきことがある』
何を為すこともなく、終わる訳にはいかない。
まだ力の弱い修はこのカリキュラムをトレーニングと考えた。
衰弱していく精神と、疲労していく身体が想いを蝕んでいくのを感じながら、それでも。
目の前にある。
いつからか分からないけど、ずっと、周りにそれはある。
次の段階へ進むための、乗り越えるべき『壁』。
そうだ。
『俺は、俺の目的を果たす』
こんなところでくすぶっている訳にも、緩やかに下らない日常に飲み込まれてしまう訳にもいかない。
――なあ、そうだろ?
『終わりの始まり』 了




