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42  作者: 結月(綱月 弥)


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6/33

◎前夜迄/拓『眼前に開く世界』 

ただの偶然だった。

全く、それはまるきり交通事故のようなものだったのだと思う。

それでも、拓にとっては人生を作り上げる偶然であり……

運命だか何だかの気まぐれという括りで片付けてしまいたくはなかった。

何者にも、どんなことにも縛られずに生きていけたら――

どれだけ素晴らしいだろう。

ただ、漠然とそう考えていた。

寄る辺無き想いの何と脆弱なことか。

それが無いのならば、生きているのか死んでいるのかさえ、僅かな差異であった。


負の感情は、存外身近にありふれている。

それが例え、この閉鎖された世界であろうと。

その少年の瞳は、どうやら、この世界の外を向いているようだった。

握り締めた左手を時々開いては陽の光にかざしていた。

少年の瞳に、諦めの色というものは見受けられない。

何に根ざしているのかは分からないが、強烈な意志が感じられた。

「なあ、お前さ……人間って、空を飛べると思うか?」

一瞬の間をおいて、少年は真っ直ぐに拓の目を見て言った。

「飛べる。飛ぼうと思えばな」

拓の中に小さな確信が芽生えていた。

こいつは、外に出るかもしれない、と。

根拠は無かったが、少年の瞳の力に、何故か拓はそんな予感を覚えていた。

「何だ、お前……やれば出来る奴なんじゃん」

「何のことを言っているんだ? 俺はまだ何もしていない」

「はは、気にするなよ。やっても出来ない奴が世の中には多いんだぜ。

やれば出来る奴ってのは、それだけ何か『持ってる』奴なんだと思うぜ」

「……まあ、確かに、やっても出来ないって言われるよりはマシかもな」

「それに、お前の視線は『壁』に遮られていない」

「『壁』か。『壁』なんて、本当は無い。

それを作り出しているのは、自分自身なんだからな」

拓はその言葉を聞いて、ますますこいつしか居ないと思った。

『壁』を超えて、外へ出ることが出来るのは。

きっと、この少年は何の枷に縛られることもなく、空を飛ぶことも出来る。

拓は押し込められた閉鎖世界の居心地よりも、この小さくかけがえの無い出会いに感謝した。

「何をニヤニヤ笑ってるんだ? 気持ち悪いな」

「ああ、気にするな。含み笑いだ」

「何を含んでるんだよ」

「希望的観測、だ。それでニヤけてた」

「何だ、そりゃ」

拓と同じように、少年は笑った。



囚われの姫……というのは言葉が過ぎるだろうか。

少女は、ただ安らかに目を瞑っていた。

風が頬を一撫でするだけで目を開きそうな、そんなまどろみに見えた。

その少女の裸体を隠すように薄い更紗の布が一枚被せられていた。

まるで、神話に登場する女神のように美しいものに見えた。

そして、それとは正反対に少女を取り囲んだ老人たちの姿がとても醜いものに見えた。

ヒトの卑しさ、浅ましさを余すところ無く形にすると、きっとこんな形になるに違いない。

老人たちのうち、一人が口を開いた。

「これは『根源』と繋がっておっての。

これが自らの意思で触れたものに力をもたらす」

拓は、きっとこの老人はどこか頭のネジが吹っ飛んでいるのだと思った。

ただ、少女がその意思とは関係無く、利用されるのであろうことは拓にも理解できた。

罪を背負わされたその少女は、自由に走り回ることも、草花に触れることさえ――

いや、瞳を開くことすら出来ない。

ただ、夢の中でしか少女はその意思で人に触れることは出来ない。

横たえられた少女を囲む老人が語ったその事実は、到底信じ難いものだった。


だが、拓が夢の中で会ったその少女は、現実の姿と違って、元気にはしゃいでいた。


拓も一緒になって夢中で遊んでいた。

その途中、拓がバランスを崩して転んでいた。

軽い擦り傷ではあったが、血が微かに滲んでいた。

水で洗い流そうとする拓を止めて、少女は傷口に触れた。

そうすると、傷は跡形も無く消えていた。

夢はそこで終わっていた。


目覚めた後、細かいことは思い出せなかった。

とても温かな気持ちになったことだけは覚えている。

そうして、少女を囲む老人に聞いた言葉。

この少女を助けたい。

助ける方法がある。

それは、この先の拓を突き動かす一つの指針となっていた。

その願いが果たされるまで。



あの空に届かない――と、思いたくはなかった。

少なくとも拓は、一度や二度の失敗で諦めるつもりはさらさら無かった。

変化を望むなら、何かを願うなら、こんなところで終われるはずがない。

先生が言ってくれた言葉に報いるためにも。

拓は空を仰いだ。

まともに壁にぶつかって外へ出られないことは分かっている。

『自分の能力』では、それは出来ないことも。

なら能力を最大限に活用するやり方で越えていけば良い。

『壁』は空を完全に封じているわけではない。

それなら、鳥のように天高く羽ばたければ、外へ出るのは可能なことではないかと。

拓は来る日も来る日も、空を仰いだ。

外へ出られる日のことを思い描いては、天高く羽ばたいた。

昨日は一昨日よりも、今日は昨日よりも、明日は今日よりも高く舞い上がった。

そうしていくうちに、気付くことがあった。


この『壁』の高さには終わりが見えないのに、拓の能力で到達出来る空には既に――

終わりが見え始めていたことに。

その事実に気付いた時、拓は歯噛みをした。

それでもなお、拓は空を諦めるつもりは無かった。

いつか、そういつか――

少しずつでも高く飛べるなら、いつか空に届く。

今まで触れることすら出来なかった空に到達出来る。

拓は『その日』が来ることを信じ続けていた。

自分の望む日が、現実となる日のことを。


憂鬱の支配する虚空を蹴り、誰のものでもない、蒼く抜ける天井をひたすら目指して。

羽ばたく鳥と並び、それを眼下に置いた瞬間、異変が起きた。

その鳥が真っ二つに切断されて地上へと落下していくのを見た。

『何か』が拓にも迫っていた。

目に見えない殺意のような負の感情、それが拓を捉えようとしていた。

拓は身を捻った。

身体から力が抜けていく。

コマ送りで地上へ近づいていくのを、拓は感じていた。

まるで、太陽を目指したイカロスがその翼を失った時のように。

何故か、他人事のように、拓は落下する自らのことを思った。

空に拒絶された鳥は、ただ大地に叩きつけられるより他にない。

ああ、やはりヒトは鳥になれない。

憧れるだけ無駄な、そんな唾棄すべき想い、願い。

賢い人間ならば、聞き分けただろう。

ヒトに、翼は無い。

空なんて、飛べやしない。

そう決まっている。

世界はその結果、事実としての否定で塗り固められている。


拓は思った。

このまま何もしなければ、ここで終わりに出来るのだろうか。

助けたい人が居るのに。

そんな願いを捨ててしまえば、楽になれるのだろうか。

嫌な世界から、辛い現実から、目を背けてしまえるのだろうか。

こんなんじゃ、また、どやされるだろうな。

少しだけ歪んだ唇は、笑みの形になっていたかもしれない。

「悪い、先生。オレはここで――」

不意に浮かんだ言葉。

















「謝れるような言葉があるなら、それすら失ってしまうまで生きろ」

















不意に、本当に不意に、思い出す先生の言葉が過ぎった。

そして、その言葉は続いた。

「全て失ってさえいないのに、何を甘えているんだ」

せんせい、センセイ、先生。違うんだ。未来が分からないんだ。

どこまで空を翔けてもそびえ立つ『壁』がある。

どれだけ高く飛んでも、終わりの先が見えないんだ。

そびえ立つ終わりの『壁』が、拓を空から引きずり下ろそうとしていた。

なおも先生の声が、頭の中で響いていた。


「誰かを救えるのは自分しか居ない? 何を自惚れている。

違う。自分を救えるのは、自分しか居ない。

自分さえ救えない、変えられない奴が、何を救える? 誰を救える?

誰も救えやしない。

それを諦めている奴には。全て諦めている奴には」


大地は拓の命を飲み込もうとしていた。

だが、その瞬きする間に、答えは出ていた。


「オレを救えるなら、誰かを救うことも出来るんだな……?」


ならばオレはオレを救う。

オレはオレを裏切らない。

そして――君を助けてやる。

ああ、やるよ。

オレはやってやるぜ。

オレが願ったこと全て、ただの一つも取りこぼさずに。

全て叶うまで続けてやるさ。


知っている。ホントは全て知っているんだぜ。

とっくに答えが出ていることなんて。

なら――それなら。

あとは認めるだけだ。


「オレは空を飛べる」


見上げた空の青さに笑みを浮かべ――

拓は、再び羽ばたいた。



『眼前に開く世界』 了

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