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42  作者: 結月(綱月 弥)


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◎前夜迄/和早『あえかな日々の果て』

何が望みなのかも分からないのに。

行き着く先なんて、あるのだろうか。


頭痛が治まると、和早はぼんやりとそんなことに考えを巡らせていた。

考えが過ぎるとまた頭痛がぶり返すため、ただ表面を撫でるだけの思考ではあったが。

そうでなくとも、考え始めると底無しに思い悩んでしまう和早には必要な方法だった。

ある程度で思考を切り上げると、割れるような頭痛を味わわずに済んだ。

カリキュラムの度、和早の心は掻き混ぜられた。

無機質なガラスの棒でビーカーを捏ね繰り回すような、そんな感覚だった。

最初に何度か吐いたのを覚えている。

ベッドに寝かされていて、気付くと体の芯まで冷え切っているような、そんな日が続いた。


だが、慣れてくると、ぐるぐると心を掻き混ぜられることが気持ち良くなってきた。

まるで誰かと交わっているみたいで、ぬるぬるとしていて、ぐちゅぐちゅとしていて。

病みつきになるような、そんな感覚。

でも、その度にどうしてだか、汚いものが見えた。

ヒトの汚いものが、ずっと見えていた。

欲望はあんなに赤黒い色をしている。

まるで、地獄の底のような、まるで血塗れの肉の断面のような、見ていられない醜さ。

なのに、それが心地良く思えることがあった。

なら、自分もその醜いものと同じだと、和早はそう思っていた。

その醜い赤黒いモノを舐めたい、舐めて欲しい。

交わりたい。

ふと浮かんでくるそんな考えがとても恐ろしかった。

自分がもう、自分というヒトでなくなるような、そんな感覚がとても恐ろしかった。

とても怖かった。


手の届く場所に、目に見える傍に、綺麗なものが欲しかった。

触れさせて、浄化させて欲しかった。

汚れのこびりついた自分も、ほんの少しで良い、何とかして欲しいと思っていた。



嵌め込まれた窓の外には、作り物のように青ざめた空があった。

変わらずに、千切れた雲を浮かべて、この世界の出来事を知らないふりをして。

それが何だか、和早には気が食わなかった。

誰の手も届かず、灰色に汚れてもいつの間にか青の色彩に洗われてしまう。

この空の在り方そのものが、とても気に食わなかった。


いつだか、陰鬱に沈む気持ちの中で、ふと見上げた青空の中にその少年は居た。

ヒトが青に溶け込んでしまいそうなくらいに、空と戯れていた。

どうしてだか、和早にはその様子が羨ましく感じられた。

あんなに吐き気を催す青空を見ているのに、その空を見上げていてさえ、少年が羨ましく感じられた。

惚けている自分に気付き、和早は苦笑した。

自分があんな綺麗なものに憧れるなんて、と、自嘲気味に溜め息をついていた。

自分の体は常に誰かのおぞましい感触で汚れているのに。

多分、どれだけ手を伸ばしてみても、あの空も、青に抱かれた少年にすら、触れることが出来ないだろう。

それから、和早は空を望むことはしなくなった。

存在しないと思うことにした。


その日から、和早の空は色を失った。

ある時、『壁』を見ていた私に話し掛けてくる人物が居た。

何に怯えているのか知らないが、必要以上に萎縮している少女だった。

天気が良い、なんて、心底どうでも良いことを口にしていた。

まるきり、興味を惹かれない切り出し方をするな、と和早は驚いた。

でも、何となく……話し掛けられること自体は悪い感触ではなかったように思えた。

だから、和早は、その意味の無い戯れに、他愛の無い会話に付き合ってみることにした。

何を話したか詳しく覚えてはいないが、それでも言葉を交わしている間、頭痛がすることは無かった。


いつだったか、定かではない。

その少年を見たのは。

彼の抱えている何か――おそらく孤独であろう。

それは和早にとって、存外、自分に近いものがあるように思えた。

彼がそれを、苦痛と感じているのかどうかはともかく。

そして、彼が視線の先に持つ執着が気に掛かった。

そこまで執着の対象となるものが、いったい何であるのか。

強烈な感情であることが遠目からでも見て取れた。

少年に近づいた和早は、尋ねてみることにした。

「ねえ、あなたはどうしてあの子に話し掛けないの?」

和早の言葉は、遠回りすることなく直球であった。

「いや、おれは、ただ……」

「気に掛かることがあるなら、話せば良いのに。

少なくとも、今よりも状況は変わると思うんだけど」

和早がそう言うと、少年は押し黙ってしまった。

その少しの沈黙の後、少年は口を開いた。

「状況が今より悪くなると分かっていても……そうした方が良いと思うか?」

「まだ、何もしてないじゃない、あなた」

和早のその言葉を受けて、その少年は再び黙ってしまった。

「本当に、ハッキリ言うんだな。少し驚いた」

「そうね。わたし、『意味が無い』と思うことを口にしたくないから。

中途半端な慰めでも欲しかった?」

「いや……そういうつもりは無かったんだが、そう見えたのなら、そうだったのかもしれない」

少年は目を充血させているわけではなかったけど、和早には、今にも泣き出してしまいそうな雰囲気を感じ取れていた。

だから、下手な慰めを言うつもりはなかった。

おそらく、この少年に必要なのはそういう類のものではない、と和早はそんな風に感じていた。

想像よりも、素直な言葉を返してくるのにはやや驚かされてはいたが。

和早はヒトを目の前にして、そんなことを考えていた。

自分の考えていることはもっと空虚で、終わりが無くて、それで――

そんな風に思いながら、和早は少年がポツリポツリと語る言葉に耳を傾けていた。



意味の無い会話も、何かに対する執着も。

和早にとっては一時の安定をもたらしてくれるかもしれない要素のように感じられた。

その時だけは、得体のしれない頭痛に悩まされることがなかったから。

些細なことのように他人に思われるとしても、それは和早にとっては、行動を左右するに足ることに違いなかった。

世界を狭める檻の中で、色を失う日常の中で、和早自身を救えるのは――

そういった『どうでもいい』ものに他ならなかった。

ただ、そんな風に気付いた方法さえ、『壁』の前では須らく意味を失っていく。

未来という希望的観測も、心という電気信号の錯覚も、これ以上拡大していく望みも全て。

『壁』は例外無く遮断してしまう。

それはもう、どうにも変化しないことを義務付けられてしまっている閉じた世界の筋書きと同じだった。

あの『壁』まるで生命そのものさえも吸い取られているように感じられた。

ゆるゆると停滞する思考は、誰かの思うつぼであるかのように、一つの結末に辿り着く。

この日常の繰り返しを甘んじて受け入れていた。

失われていくことばかり、見つめていた。

変わらない安らぎだけ望んでいた。

赤黒い、醜い快楽に抗えなくなっていた。

身体の中身全てを吐き出してしまいそうな頭痛を堪えながら、和早は視線を移した。

まだ欠片ほど残っている心のどこかでそれを止める声を聴きながら。

和早の視線は無色透明の『壁』を見つめていた。

『壁』が遮らない灰色の空は、どこまでも遠く、和早にはそれこそ……

その存在が嘘のように思えていた。

こうして、失っていく、失われていく。

手の届かない世界も、変化を忘れてしまった自分自身を形成するものも。


再び酷くなる頭痛に苛まれながら、和早の視線は『壁』に釘付けられていた。



『あえかな日々の果て』 了

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