渇望編 - 20
拓に言われてアパートへの帰途に着く。
しかし、当然ながら抱えた不安が消える訳でもない。
電気の消えたアパートの部屋。
嫌なことを思い出させる。
修の目的であった、そのことを。
死ぬような思いをして辿り着いたその場所には、誰も居なかった。
絶望ではなかった。
むしろ、それよりも――
想像し得なかったほどの、空虚。
ただ、その場所に『何もない』ということだけを突きつけられるような、そんなこと。
まず、家に再び戻ることを考えていたのだが――
望んだ結末は、そこには無かった。
『学園』に送られる前に、かつて自らの帰るべき一つだけの場所であった、その家はもう無かった。
それを認識した瞬間、心の中にある『何か』が音も無く崩壊するような感覚に見舞われたことを覚えている。
その日から、修の心にはぽっかりと抜け落ちた感覚がある。
何かを望む、ということ。
そして、それが裏切られたときの、あの気持ち。
辛いとか、悲しいとか。
そんな感慨すら湧いてこない。
ただ眠りにつけば良いのに、再び頭の中を巡る懊悩。
強く待ち焦がれても、眠気は訪れそうになかった。
翌日。
結局ほとんど眠ったかどうか分からない状態で修は「さんみ」へと向かう。
仕事に身が入らない。
「修!」
仕事が終わってからとなると、夕方になる。
洗い物をゆすぎながら、修は天井を見上げる。
今日は休むべきだった。
今更そう考えても遅いが、目の前にうず高く積まれた食器を見ながら悶々とした気持ちを持て余す。
「あ、は……はい」
「お前、ぼうっとしてんなよ! 食器足んなくなるだろうが!!」
思わず、口をついて言葉が出た。
「あの……おやっさん」
「何だ?」
「すいません、帰っていいですか?」
やはり不安な心を抑えることは出来ない。
修はおやっさんに事情を説明することにした。
――もちろん、弧羽が居なくなったことについてのみ、だが。
「分かった。今日は残りの仕事はいい。探しに行け、修」
「ありがとうございます」
「非が有るなら素直に謝る、無いならちゃんと話し合う。何にせよ、早く迎えに行ってやれよ」
特に喧嘩をしたわけでもないのに、おやっさんは妙な気を回す。
少し勘違いしているきらいがあったが、前掛けを片付けた後、修は軽く頭を下げて「さんみ」を出る。
そして、アパートの部屋に戻ることにした。
もしかしいたら、戻っているかもしれない。
過剰な期待はせず、修は部屋のドアノブを捻る。
「ん?」
鍵は開いていた。
修は急いで靴を脱ぎ、部屋に入る。
ちゃぶ台の前に座っている人影が見えた。
「弧羽……?」
違う。
こちらに背を向けたその人影は、『制服』を着ている。
修は身構える。
こいつは――
「またお会いしましたね、『修くん』」
そう言って、そいつはこちらに向き直る。
見覚えがある。
こいつは、あの賭け試合で拓と戦っていた奴だ。
しかし、今の口振り。
修を『その呼び方』で呼んだ。
弧羽が修に語り掛ける時の呼び方で。
このタイミングでここに現れたことと言い、挑発的な態度にも程がある。
「何か知っているのか」
「『何を』知っているのか、でしょう。六番の狩野、修くん。実際に対面するのは初めてでしたね」
そいつは管理番号で修のことを呼称した。
『学園』の人間である、ということは疑いようもない。
極めて淡々と、その人物は言葉を発していく。
「僕たちは、学園を脱走した人たちを連れ戻すように言われて来ました」
拓にこいつの話を聞いた時に考えた想像は当たっていた。
――僕『たち』。
一人で来ているわけじゃない、ということ。
拓に聞いたことを思い出す。
『学園』に報告するつもりはない、ということ。
いや、しかし拓に聞いた情報の限りでは『何』を学園に報告しないのかが分からなかった。
こうして直接接触を図ってきた以上、何か意図があるのだろうけど。
「ああ、自己紹介が遅れましたね。僕は相良と言います。相良、収」
「……何をしに来た」
「君自身が一番よく理由を理解しているでしょう」
「学園へ戻ってください。さもなくば……」
もったいつけて言葉を区切るが、その先に語られるであろう言葉は修にも容易に予想がついた。
「古河さんが手の届かない所へ行ってしまいますよ」
そう言って、相良は笑みの形に目を細めた。
「彼女……弧羽さんを助けたいのなら、是非も無いことだと思いますよ」
落ち着き払った態度の相良は穏やかな瞳で修を見つめる。
「『学園』に戻れば、弧羽は無事でいられるのか?」
「ええ、おそらく」
曖昧な物言いだった。
「おそらく、とはどういことだ」
「彼女は僕が担当したわけではありませんし、誰の手に渡るかも推測でしか分かりません。ですから、彼女に優先する事項が無いのであれば、そうするのが得策じゃないかと思います」
「……まさか、それを言いに来ただけなのか」
「帰ってきて頂くように言われましたからね。一応、その指令には沿っているんです」
「でも、力ずくって感じじゃないな……何をしに来たんだ、あんたは」
「ああ、君も僕の担当じゃないですから」
「敵……なのは確かなんだろうが、よく分からないヤツだな」
「ふふ、敵であるのは否定しません。所属する場所が場所ですからね」
「『学園』からの刺客ってヤツか」
「荒っぽいのは好きじゃないんです。だから、そういうのは大抵他の人がやるんですけどね」
「いいのか? こんな所で呑気に世間話なんかしていても」
「君にとっては重要な話でしょう? 構いませんよ。……それに、さっきも言いましたが君は僕の担当じゃありませんから」
「他のヤツが来る――か」
「その前に、面白い話をしましょう」
相良は手の甲を修の方へ向け、高く掲げた。
修は身構える。
「ご心配なく。敵対行動ではありません」
修の答えを聞くまでもなく、相良は行動を起こす。
部屋の空気が変わる。
「……何をした」
「『外』から見えないよう、聞こえないようにしただけです」
「能力、か」
「その通り。壁に耳あり障子に目あり、とはよく言ったものですからね」
「何を語りたいんだ、お前は」
修の言葉を受けて、相良は微笑んだ。
「ご老人方は安寧を求めている……けど。僕はそういった考え方は持ち合わせていません」
「ご老人方? 誰のことだ」
「あなたも属していた学園――通称、『黄金の子供たち』計画の出資者です。スポンサーってヤツですね」
漏らしてはいけないはずの情報なのだろう。
わざわざ能力を使ってこの会話の情報を外部と遮断している。
しかし、学園から脱走した能力者にそこまでして内部の情報を漏らすこいつの意図は何だ?
「大胆なことを言うんだな……スポンサーの意向に逆らうのか」
「ふふ、その為の保険をさっき掛けたんですから」
「へえ……何か狙いでもあるのか?」
「教えません」
唇の前に人差し指を持ってくる相良。
「ただ、混沌を呼ぶものでありたいんです、僕は」
教えない、と言っておきながら相良は答えている。
……いや、本心は『それ』じゃないのだろう。
だからこそ、答えた。
「……迷惑なヤツだな」
「そう思うのは人それぞれ、でしょう?」
相良は屈託の無い笑顔を見せる。
「混沌を呼びたい。しかし、残念なことに僕の能力は戦闘向きじゃないんですよ」
「どうだかな。進んで自らの能力の一端を晒す、なんてのは余程『自らの能力』に自信を持っているヤツでなければ出来る芸当じゃない」
「何を考えてるか分からない、ですか……それなら」
そこで一旦言葉を区切ると、相良は口の端を歪めて笑った。
「君と一緒に出て来た緋先 拓君だって、何を考えているのか分からないでしょう」
「……どういうことだ」
「君は質問が多いね。自分で考えたらどうかな? 答えは自分で見つけるものですよ」
「それが例え、叶わぬ想いの――夢の先にあるものであろうとも、ね」
「人を惑わせるような物言いをしておいて、それか」
「いや、本当に質問が多いなって思ったんです。君は」
「未知の情報をちらつかせて、その答えを自分で考えろってのも無理な話だと思うんだがな」
「それが君の甘えさ」
「好きに言ってくれるじゃないか」
「世の中には、理不尽でもそれがまかり通るものの方が多いからね。重要なのは、『それが正しいかどうか』ではなくて、『それが意味を持つか』どうか」
「……よく分からないな、それ」
「今分からなくとも、いつか分かる時が来るよ」
相良は修の瞳を真っ直ぐに見つめてくる。
何故だか、弧羽を彷彿とさせる眼差しだった。
「さて、来客のようだし、そろそろ僕はお暇しようかな。思ったよりも話し過ぎたかもしれないね」
……来客?
部屋のドアノブに手を掛けて、相良は振り向いた。
「最後に一つだけ言っておくよ。君が求めている答えは『学園』にある」
「『学園』、だと?」
「刺客を全て倒すのもよし、自ら学園に向かうのもよし。ここからは君の選択次第です」
「ここに留まることは出来ない……のか」
「残念ながら、ね。『留まる』ことは出来るでしょう。だけど――『留まり続ける』ことは不可能なんです。それこそ、この世界を創り出した神でもない限り――いや、違うな」
相良はほっそりとした顎に手をやる。
「この世界を創り出した神ですら、留まり続けることが出来ない。だから物語を造るのでしょうね」
その言葉は修に向けていっているというより、自らが確認するためにしゃべっているようだった。
「続けない限り、未来は無い。そして、未来が作られなければ、存在したはずの過去も無い。そして、未来が消えてしまえば――世界は消える。問題はその先だ。
世界を失うと同時に、神は価値を失くす。神を筆頭に、世界には『続ける』ことにしか道は無い。選択肢なんて、本当は有り得ないんです」
修は長々と御託を並べる相良を怪訝そうに見やる。
「神が先か、世界が先か――僕たちには永遠の命題ですよ」
「問いの答えになってないぞ。それに……頭、大丈夫か。お前」
「ふふ、よく言われます。でもね、退屈な人間だと思われないことこそ僕には重要なんです。だから、それは褒め言葉です」
立ち上がり、ドアを開ける相良は、修へ視線を投げ掛けながら続ける。
「さあ、今度こそ本当に刺客のご登場。『君の』物語の始まりですよ。もう引き返せない」
「おいッ!」
「ここへ何をしに来たか、聞きましたよね? 実はお願いをしに来たんです。僕の願いは一つ――」
何事か言い放った相良によって閉じられるドア、その次の瞬間――
電熱線がスチロールを溶かすように、木製のドアは滑らかに切り裂かれた。
修にとって、約束された絶望が幕を開ける。
つづく




