渇望編 - 18
――速い。
たった一瞬で、この場の空気の質が変貌を遂げる。
オレンジのパーカーが自らの体を起こしたのは、フロアの行き止まりにあたる場所だった。
瞬きをしてしまう直前、修はその状況を目の当たりにした。
カメラの性能が追いつかないような速度での移動、そして打撃の瞬間。
微かな映像のブレが見えた矢先、ブレの発生した箇所に居たはずだったオレンジのパーカーが忽然と消えている。
唐突に牙を剥いた黒コートに対して、拓は攻撃の構えを崩さない。
甲高い音を鳴らして床を蹴り、みるみる加速する。
相手の能力が分からないうちは様子を見る――なんて、定石は拓にはないようだ。
相手にも考える暇を与えず、拓は跳んだ。
黒コートの待ち構える場所へ。
仁王立ちしていた黒コートは素早く半身になり、自身の『両側』に居る敵を迎え撃つ。
果たして、拓のアタックは不発に終わり、オレンジのパーカーは打ち込んだ動作のままで固まっていた。
木刀の切っ先は誰の身体を捉えることもなく、虚空に戸惑うばかりだった。
切っ先の向こうには誰も居ない。
その背後から伸びる腕が、再びオレンジのパーカーを壁に激突させる。
やはりカメラにはインパクトの瞬間は捉えきれない。
ブレが発生した瞬間に対象物は吹き飛んでいる。
この試合が異様な立ち合いである、ということを修は観衆の空気から読み取るまでもなく察した。
人間対、人間の戦闘とは違う。
この試合の映像だけ見ていると、まるで拓とオレンジのパーカーが共同戦線を張っているように見えかねない。
しかし、その二人の間にも互いが視線をそれぞれに送る場面があり、気を抜いたら一撃入れてやろうという意思はあるようだった。
見えない速度で攻撃を行う黒コートは、他の二人に対して攻撃方法の時点でアドバンテージを取っている。
対する二人には、決定打が無い。
いや、正確には拓には『能力』を使うという隠し球があるのだが、それこそここで使うべきものではないだろう。
その時、にわかにプロジェクタ前の観衆がざわめくいた。
拓を含めた三人が戦闘を行っている四階以外のフロアには、いつの間にか人影が無くなっている。
修は拓の動向に注目する余り、他のフロアで何が起こっているのか見逃していた。
屋上フロアから順に、カメラの映像が途切れていく。
誰か、いや、『何か』がフロアを降りてくる。
七階の映像が途切れ、六階の映像を途切れさせ、五階を通過するそれは、遂に拓が交戦中のフロアに到達する。
「ああ、駄目だな。こんな所で遊んでちゃ、ねえ」
どこの物だか分からないが制服を着用しており、見た目は若い。
四階に到達したのは、制服を着用した小柄な少年だった。
だが、その容姿に不釣り合いな程に備えた威圧感は『不気味』以外に形容の仕方が見つからない。
闇夜を切り取ったかのような、その出で立ち。
四階フロアのカメラに移った矢先、その制服姿の少年は拓の真後ろに移動していた。
磨かれたエメラルドのような輝きを湛えた瞳。
余裕綽々の面構えをした制服の鼻先には、動きを予測されていたかのようにブラスナックルを嵌めた拓の拳が突きつけられている。
動きが止まった拓に対して、好機と見たのかオレンジのパーカーが距離を詰めようとして――その動きを止める。
先ほどまでとは、全く異なる形での木刀の構え。
ふと制服の方へ視点を移すと、オレンジのパーカーを射抜くような視線が見て取れた。
まるで、「手を出すな」と言わんばかりの強烈な意思を含んだ視線だった。
「探していたんだ、君を」
制服の少年は、そう言って拓を真っ直ぐに見つめる。
拓も少年を睨みつけたまま動かない。
構えたままでじりじりと距離を詰めるオレンジのパーカーが映り、そして黒コートがカメラの視界に入ってきたのがその直後。
「おまえに用は無い」
黒コートは走りこむ姿勢、前のめりにヘッドスライディングを決めるような形で床に崩れ落ちる。
そのまま、黒コートは動かない。
……動かなくなった。
この光景を目の当たりにして、オレンジのパーカーは更に警戒を強める。
しかし、少年の方はというと、敵意剥き出しの相手を気に留める様子はさらさら無い。
張り詰めたオレンジのパーカーの気配は、制服の少年の意識を向けさせるには至らない。
隙だらけなのか、その真逆なのか。
少年は相手に何も悟らせない癖に、しっかりと身の危険だけは相手に感じさせている。
「不躾かもしれませんが、他の方法で接触するより容易いと思い、この場を選びました」
「何の用だ?」
「その答えは、君自身が一番よく知っていると思うのだけれど……」
はぐらかす少年の言葉が気に障ったらしく、拓はイラつきながらも再び同じ質問をした。
「何の用だっつってんだよ。試合中だぜ? 一応」
「それならご心配には及びません。このフロアに居る人以外、全員既に倒しました」
「……お掃除、ご苦労さん」
「礼には及びません。早く君と話がしたかったこともありますし……ああ、でも」
制服の少年はオレンジのパーカーに向き直る。
透き通るようなエメラルドの瞳が妖しく煌いた。
「邪魔者は先に始末しておきたいな」
ごく自然に、そんなことを口にした。
拓と話している間もずっとオレンジのパーカーがその隙を狙っていたにも関わらず、制服の少年は全く焦る様子も無い。
少年は能動的に働きかけることなく、相手の動きを封じていた。
この場で主導権を握っているのは、最も小柄な少年だった。
「何だって同じです。余計なものは削ぎ落とさないといけません」
回れ右をするように、くるりと方向転換をした制服の少年は、オレンジのパーカーの方へ詰め寄る。
つい今しがたまで、虎視眈々と隙をうかがって距離を詰めていたオレンジのパーカーは、今度は少しずつ後ずさる。
修はこの制服の少年が、普通の人間だとは思えなくなり始めていた。
これは、この感じは何だか――能力者と相対した時の『それ』じゃないか。
修自身は、能力者と戦ったことはそれほど多い訳じゃない。
だが、完璧に近い『死の恐怖』を嫌になるほど味わわされている。
あの時の恐怖、縮み上がるようなその感覚は今も鮮烈に心の奥に刻み込まれている。
「始めには恐怖を」
言いながら、制服の少年はオレンジのパーカーに一歩踏み出した。
「何処へ向かおうと、逃れることなど出来やしないのだから」
制服の少年は更に一歩踏み出し、勝ち鬨を吼えるように右腕を掲げた。
「自らの無力を呪い――」
呼吸のリズムを縫うように、オレンジのパーカーが疾走する。
木刀が制服の少年を捉える距離に来た瞬間、打ち込みが届く直前に掲げた右腕を振り下ろす。
「不可避の敗北に慄き、絶望の底に沈め」
オレンジのパーカーは、制服の少年の言葉が終わらないうちに糸が切れた操り人形のように崩れ落ちる。
ほんの一瞬の出来事だった。
静寂が空間を満たしていく。
言葉通りに排除した制服の少年は、拓の方に歩みを進める。
「――『強い』な、おまえ」
「まあ、それなりには、です」
他愛も無い言葉をかける拓は、一体何を考えているのだろうか。
こちらの映像からでは推し量ることしか出来ない。
ブラスナックルを握り直す拓は、覚悟を決めたように床を蹴り出した。
加速するスケートボードが今まさに飛び上がらんとした時、カメラの映像が途切れた。
つづく




