渇望編 - 13 侵食輪廻の果て
耳元で、電子音が鳴り響く。
修は指先の感覚だけで音源を探り当てると、その音を封じ込める。
「ん……」
隣で、小さな呻き声が聞こえた。
聞きようによっては、色っぽい声に聞こえないこともない。
しかし、そんなことは今の修にはどうでも良かった。
寝返りを打つと、今度はけたたましく鳴り響くベルの音が安眠を妨害する。
「んーっ」
再び隣で呻き声が聞こえる。
さっきとは異なった、不快なニュアンスが含まれていた。
何故かは分からないが、音源が頭上から隣側に移動する。
こいつ、動くぞ。目覚ましの癖に生意気な奴だ。
ともかく、修は強烈な金属音を停止させようと手を伸ばした。
「……んっ」
柔らかい。
――ではなく、予想外の音だった。
次の瞬間。
「ぐっ」
修は何か、出来損ないの断末魔の如き呻き声をあげて、その打撃を受けた。
「いっ、て……」
鼻っ柱に、打撃はもろに直撃したようだ。
嫌な夢を見ていたような気がするのだが、起きたら起きたで良い事など無かった。
「……もう、修くん!」
痛みに耐えて向けた視線の先には、頬を若干紅潮させた少女。
「どうかしたのか?」
「ど、どうかしたのか? じゃないでしょ!」
「朝っぱらからそんなことする元気があるなら、さっさと起きる!」
なおも、布団に包まろうとする修。
「ほら、起きた起きた!」
「早くしないと、遅れるよ?」
「ああ、はいはい……」
朝はどうも苦手だ。
身体の節々が痛い。筋肉痛か……?
「それじゃ、ご飯作るから……」
手早く髪の毛を結いながら、弧羽は台所に立った。
その後ろ姿を見ながら、テーブルの前に座る。
「今日も頑張ってね」
エプロンをつけた弧羽が、振り返りざまに微笑む。
「ん、頑張る」
いつものように短く応える。
余り時間の無い朝ではあるが、弧羽の用意してくれた朝ごはんを手早く採る。
そうして、修は弧羽に見送られて家を出る。
金を、稼がないといけない。
安穏たる生活も、勤労の代価たる金の賜物ってやつだからな。
弧羽とは逆方向に、修は歩を進める。
修はラーメン屋、弧羽は商店街にある若者向けの服を扱っている小さなショップへ。
先にアパートに帰るのは弧羽。
……そうしよう、とか、特に決めたわけではないんだけど。
……何だか、新婚生活でもしてるみたいだ。
と思ったのも、少し前の話になるのか。
少しだけ晴天を仰ぎ見ると、修は店へと急いだ。
バイト先に辿り着くと、修は真っ先に店長に挨拶をする。
「おやっさん、おはようございます」
おやっさんは暖簾を掛けながら答える。
「よう、来たな。今日もしっかり頼むぞ」
「うぃっす」
修はおやっさんの言葉に軽く返事をすると、暖簾をくぐる。
「さて、今日もやるか」
開店時間。
行列が出来る店ってわけでもないが、ここの味はそこそこ評判らしい。
実際、修もそう思っていた。
そもそも此処へ来なければ、修たちは死んでいたかもしれない。
この店でバイトをすることになったのも偶然だった。
半年ほど前になるだろうか。
修も弧羽も、着の身着のままで、先立つものも無かった。
そんな状況でふらふらと歩いていて、力尽きたのがこの店の軒先だった。
世の中薄情な人間ばかりだと思っていたが、人情が息づくところはまだあった。
修と弧羽は、よれた制服姿のまま、おやっさんにラーメンをご馳走になった。
その時のラーメンの味は、今でも忘れられない。
……と、さっさと前掛けをしないとな。
掴んだ前掛けを着けると、修は小さく伸びをする。
皿を洗う、という単純な行為の中にも、世の中の真理というものは隠れているものだ。
誰かの使った皿を綺麗にし、また別の誰かに使ってもらう。
使い捨てではない、循環する行為というものには輪廻にも似た崇高さを感じざるを得ない。
「おい、修! ぼやっとしてないで、さっさと洗っちまえよ」
余計なことを考えている間に、手が止まっていたようだ。
厨房で仁王立ちしている店長が、修に怒鳴る。
「うぃっす」
何か、拓の癖が伝染したのかもしれない。
あいつと話してると、色々と考えさせられる。
取り立てて難しい話をするって訳ではないが、何と言うか……
やはり『考えさせられる』という表現が正しいように思える。
次々と洗い物は溜まっていく。
考えている暇なんて、本当は無い。
少しはこの作業の流れに慣れてきたのかもしれない。
「修、遅えぞ! さっさと洗え!!」
厨房の方からおやっさんの怒鳴り声。
「はい!!」
基本的に、修は食器洗いを任されていた。
あとは、その他諸々、雑用。
作業自体はきつくはあったけど、文句は言わなかった。
たまには理不尽に思うようなこともあったが、それよりも頑張らなければという気持ちが勝っていた。
日も暮れ、帰宅ラッシュも落ち着いてくる頃……
「修、また寄ってくだろ?」
これだ。
個人的には、余り気が乗らない。
「またっすか?」
「いいじゃねえか。減るもんじゃなし」
「そりゃ、そうっすけど……」
「何だ、早く弧羽ちゃんとこに帰りたいってか」
にやにやしながら、おやっさんが尋ねてくる。
「いや、なんつうか」
「別に理由無いんならいいだろ? 行こうぜ」
「掛ける金とか無いんですって、マジで」
「カタいこと言うなよ、修」
結局、修と店長はそこへ行ってしまうわけだが……
どうせここでいくら稼いだって、表立って使うわけにもいかない。
……それに、何というか、賭け試合だからな。
胸を張って稼いだ金とは言い辛い。
特に、弧羽には。
ああ、また帰ったら弧羽にどやされるな。
修は深くなる夜空の藍色を眺めながら、押しの弱い己を悔やんだ。
行き倒れかけた修たちを助けてくれたのは、ラーメン屋のおやっさんだった。
それから、生きるために働いた。
そうするうちに、何か、この場所から抜け出せなくなっていた。
弧羽が声を掛けてくる。
「修くん。寝転がってないで、手伝って」
鼻にかかった、甘ったるさはあるが、澄んだ声。
「分かった」
修は起き上がり、小さなベランダへ向かう。
能力は、学園を出てから人前では使っていない。
だが、誰も居ない場所を見つけては、維持に努めていた。
それだけは欠かさずに行っていた。
自分のジーンズを持ち上げると、鈍い音と共に手の平サイズの物体が畳に落下する。
「ん……?」
視線の先には、ずぶ濡れの携帯電話があった。
「ああっ、また洗濯してる……っ」
弧羽は非難がましい声を上げる。
「いや、何と言うか……ごめん」
「もう、洗濯物を出す前はちゃんとポケット確認して……って何度も言ってるのに」
謝罪の言葉も効果無し。
弧羽は尚もブツブツと言葉にならない不満を口元に溜め込んでいる。
携帯電話は、おやっさんに勧められて持つことにしたものだ。
名義だなんだと、今のご時世簡単に物を持てるものじゃない。
修と弧羽、そして佳代はおやっさんに「持っていて損はしないだろう」と言われるまま携帯電話を持った。
何かしらの情報を得るためにわざわざパーソナルコンピュータを持つ必要もなく、確かに便利ではあった。
唐突に、機銃掃射のような音が響いた。
「……っ!」
修が部屋を見回すと、音源はテーブルの上にあった。
「あっ、メールだ」
部屋に響く轟音を事も無げに受け止めて、弧羽はテーブルに歩み寄る。
「テーブルに置くの、やめないか」
携帯電話がテーブルの上で立てる轟音は心臓に悪い。
「えっ? どうして?」
「何かしらの着信が入る度、心臓が止まりそうになるんだ」
「そんなに驚くことかなぁ」
「そんなに驚くことなんだ」
「そうかなぁ」
「そうなんだ」
若干間延びするようなやりとりをしながら、案外あっさりと弧羽の方が折れた。
「じゃあ、今度から柔らかい所に置くようにするね」
「そうしてくれると助かる」
「はーい」
弧羽は返事をしつつ、テーブルの上にある、訳の分からない妙ちくりんなアクセサリーと思しき物体がやたらめったらぶら下がり、完全に重量制限オーバーの携帯電話を手に取った。
「さてさて、何のメールかな」
ちなみに、弧羽のメールの相手は、佳代しか居ない。
厳密に言うと、修のアドレスも登録されてはいるのだが……
「何で着信音、鳴らさないんだ?」
「うーん、だって、急に鳴ったらびっくりするでしょ?」
「……机の上に置いてる方がびっくりすると思うんだが……」
不思議なことに、携帯電話を持ってから、何故か弧羽は着信音を鳴らそうとしなかった。
公共の交通機関を利用しているわけでもあるまいし、バイブレーションにしておく必要は無いと思われるのだが。
修は弧羽と住んでおり、取り立ててメールで交流を図る必要が無かった。
もう一人、一緒に学園を出た仲間である燈先拓は、おやっさんからの住む場所の世話等を断って一人で生活していた。
携帯電話についても、拓は「最先端の技術って奴は、余り性に合わなくてね」と言って持とうとしなかった。
そして、こうも言った。
「依存すると、抜け出せなくなるからな。何事も……さ」
腕組みをしながら、拓は修にそう言った。
「感覚を鈍らせたくないってのもあるかな」
「……何のことだよ?」
「決まってるだろ。『能力』だ」
拓は右手の人差し指を立てて、修を見据えた。
「おまえは鈍ってないだろうな? ……っつっても、皿洗いしかしてなかったら仕方ないか」
「一応、人目を忍んで感覚だけは忘れないようにしてる。この先使うことがあるのかどうかは分からないけどな」
「ふーん。ま、俺の場合は生活に直結してくるから、維持するだけじゃなくて磨かざるを得ないってこともある」
「生活に直結って……まさか……」
「そう、そのまさかだ」
「もう足を洗え」
「……へ?」
「コソ泥なんて、らしくないぞ。もっと派手に生きろ」
「――誰がコソ泥だ。オレを何だと……」
「みなまで言うな。自首しよう……今なら罪も軽い」
「おい」
「何だ」
「オレが何をやってると思ってるんだ、おまえ」
「『能力』を生かした泥棒なんじゃないのか」
「違う。オレがやってんのはホラ、あれだ。あの――」
その時に拓が言っていた収入源というのが、また現実離れしており、修はそんなことで稼いでいるとは思っていなかった。
見世物の一種らしく、暇があったら見に来いと言ってはいたが、生憎、修の予定とその見世物の日程は全く合わず、一度も見たことはない。
そのため、それが本当かどうかということも確認出来てはいない。
「ね、修くん」
物思いにふけっていた修の視界に、弧羽の顔が割り込んでくる。
いつの間にやら洗濯物は綺麗に干されており、メールの確認から返信まで一切合財が終わっていたようだ。
「バイト代入ったら、美味しいもの食べに行こうよ」
「ああ、良いな。行こう」
「うんっ、約束ね! どこに行こうかな……」
早くも思案する弧羽を横目に、修はどこか上の空で窓の外へ視線を送る。
「依存すると、抜け出せなくなる――か」
赤く燃えるような夕陽の光が、修の左手を射した。
依存出来る平穏な日々が残り短いことなど、その時の修は知る由も無かった。
つづく




