◎前夜迄/珠洲歌『鈴の詩』
それ、さ。
それ……
好きって、何なの?
白いこの建物が、嫌いだ。
何でだろう。
何でだろうね。
本気で理由を考えたことは無いけれど、一つだけ分かることがある。
ここには、何も無い。
良いことが、何も無い。
多分、だから、嫌いなのだと思う。
――なら、『ここに』良いことがあれば、ここが好きになれたと思う?
……そんなわけ、ないでしょ。
珠洲歌は一人、部屋の隅で座り込む。
部屋の隅なら、他に人が入り込む余地が無いから。
それなら、安心出来るから。
欲しいものなんて、最初は分からなかった。
しかし、珠洲歌には、いつしか何かを与えてくれる大人が寄り付くようになった。
大人がくれたものは、嫌悪と、苦痛と、甘いもの。
汚い存在だと思っていたそれらは、いつの間にか全部甘いものに分類されるようになった。
そして、欲しいものが出来た。
甘いものに触れている時の、あの安らぎ、心地良さ。
気持ち良いことが、優先されるようになった。
気持ち良くないことが、嫌いになった。
遠ざけるようになった。
汚いものを舐めることにも、抵抗を感じなくなっていた。
何か、それすらイイことであるかのように、そんな風に感じてさえいた。
少しずつ、少しずつ、珠洲歌は甘いもので形成されていった。
何の疑問も持たずに、今の状況を、とても規則正しく気持ちのイイ物なのだと受け入れていた。
吸い出すことも、漏らすことも、誰かの上でたゆたうことも。
全部、認めていた。
期待しなければ、特に問題ないから。
能力は、いつの間にか『そうなって』いた。
ぶつかり、広がり、撃ち抜く。
気に入らないものを好きに壊せる能力。
これがあれば、思い通りに出来ないことなんて、無い。
*
忘れていることが多い。
嫌なことが残っているのが、我慢出来ないから。
そうして、嫌なことはすぐに忘れてしまう。
嫌なことばかり忘れているつもりだったのに、いつの間にか、そうでないものまで忘れていくようになった。
だから、あまり長い期間に渡っての記憶が無い。
そんなあたしでも、いくつか忘れていないことがある。
二人の男の子。
その二人はどこか似ていたような気がする。
もちろん、ほとんど性格の違う人間ではあったのだけれど……
そいつは、いつも一人だった。
ふと、校舎の外を見ると、この学園で一番大きな樹によりかかって、どこか遠く――
多分空を見ていたのだろう。
時々眩しそうに目を細めているのが見えた。
「何、見てんの?」
返事は無い。
「ねえ」
相変わらず、である。
「ねえ、何を……」
言いかけたところで、遮るようにそいつは口を開いた。
「三回も言わなくても、聞こえてる」
愛想の無い、突き放したような声だった。
「あんたね……聞こえてるなら、返事しなさいよ」
「答えようとは思った。けど、聞かれたことに対する答えがまとまっていなかった」
怒っていいのか、悪いのか。
本人に悪気はなかったようなので、珠洲歌はその姿勢だけは認めることにした。
自分としては、それなりに寛容な対応だと思った。
「――ああ、そうだ」
思い出したように、そいつは口を開いた。
珠洲歌の方へ視線を合わせて、言葉を続ける。
「おれは、何を見たら良いのか分からなくってさ」
そう言うと、そいつは視線を落とした。
「でも、身近にあるものは全部、何も変わらない。だったら、せめて空を見ようと思ったんだ」
「ふうん……」
珠洲歌はそこで一呼吸おくと、続けた。
「意味不明」
珠洲歌の言葉を耳にして、そいつは露骨に眉間へ皺を寄せ、ぼそりと呟いた。
「だから、言いたくなかったんだ」
少し口を尖らせてそんなことを言う姿が、急に子供っぽく見えた。
先程まで歳に不相応な雰囲気を醸し出していると思ったら、随分と格を落としたものだ。
珠洲歌はつい、吹き出してしまった。
「笑うな。せっかく真面目に答えたのに……」
「ふふ、ごめんごめん。笑うつもりは無かったんだ。ホント、ごめん」
ニヤニヤとしながら、珠洲歌は謝罪の言葉を連ねる。
「……その割には、まだ笑っているようだが」
「ふっ、くく……だから、ごめんって言ってるじゃん」
「それは心から謝っていない顔だ。おれには分かる」
「いや、ちゃんと謝ってるって。ほら、この通り」
珠洲歌は、両手を合わせて、軽く舌を出して謝った。
「……あのな……まあ、良いか」
「もう、いいの?」
何を言っても無駄だと思ったのか、そいつは呆れたように小さくため息をついた。
そして、また空を見上げる。
「ねえ、あんた名前は?」
「名前を聞くなら、まず先にそっちが名乗るんだな」
その物言いのおかしさに、再び吹き出しそうになりつつ、珠洲歌は先に名前を告げる。
「あたしはスズカよ。シズネ、スズカ」
「名前のようにおしとやかに、とはいかなかったみたいだな」
「何か言った?」
「……いや、何も」
「で、あんたの名前は?」
「おれは だ。 、 。」
あれ、覚えていたことの、はずなのに。
どうして、思い出せないのだろう。
思い出そうとすると、場面が飛ぶ。
---
「あたしじゃ、ダメなの……?」
それは、珠洲歌が初めて口にした言葉だった。
これまで、ずっと、自分が求められる立場に居た珠洲歌が初めて口にした言葉。
きっと、今の自分を鏡に映したら、捨てられた子犬のように見えたことだろう。
必死に言葉を請う者、哀れなあたし、惨めな状況かもしれない、けど……
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「じゃあ、あたしと――」
「ちょっと気になってるヤツが居てね」
そいつの一言は、重かった。
ちょっと良いなって思っていたのに、どうだったのか、分からない。
どっちだったのだろう。どっちの……
---
「ばっ!?」
いつの間にか後ろに居たそいつは、珠洲歌の呟きを復唱する。
「ふう……ん、わたしは空に、ね」
「……も、もしかして、聞いてた……?」
「左手を空にかざしてる辺りから、見てた」
そいつは悪戯っぽく笑った。
「詩人なんだな。性格に似合わず」
「うっ、うるさいわねっ!!」
---
途切れる、途切れてしまう。
嫌な記憶が、大切な記憶を道連れにしていく。
思い出そうとすると、気分が悪くなる。
大切なことだったはずなのに、触れられない。
思い出せない。
思い出したいのに。
*
時間は過ぎていくけれど、明日は何をしようか、なんて考えなかった。
ただ、今日よりも悪い日にならなければ良い、そう思った。
嫌なことから忘れて行くのに、何かのきっかけで思い出すのは、何故か嫌なことばかり。
不安になることがある。
いつか、いつか……
閉じ込めてきた嫌なことが、ふとしたきっかけで溢れてしまわないか。
目を背けてきた不都合なこと全てが、自分を押し潰してしまうのではないか。
白い部屋に横たわると、指先を頼りない月光が浮かび上がらせる。
「……そうね」
指先を見つめながら、珠洲歌は思った。
手に負えなくなったら、全部壊してしまえば良い。
そのための力が、自分には備わっているのだから。
『鈴の詩』 了




