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42  作者: 結月(綱月 弥)


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◎前夜迄/珠洲歌『鈴の詩』

それ、さ。

それ……

好きって、何なの?


白いこの建物が、嫌いだ。

何でだろう。

何でだろうね。

本気で理由を考えたことは無いけれど、一つだけ分かることがある。

ここには、何も無い。

良いことが、何も無い。


多分、だから、嫌いなのだと思う。

――なら、『ここに』良いことがあれば、ここが好きになれたと思う?


……そんなわけ、ないでしょ。



珠洲歌は一人、部屋の隅で座り込む。

部屋の隅なら、他に人が入り込む余地が無いから。

それなら、安心出来るから。




欲しいものなんて、最初は分からなかった。

しかし、珠洲歌には、いつしか何かを与えてくれる大人が寄り付くようになった。

大人がくれたものは、嫌悪と、苦痛と、甘いもの。

汚い存在だと思っていたそれらは、いつの間にか全部甘いものに分類されるようになった。

そして、欲しいものが出来た。

甘いものに触れている時の、あの安らぎ、心地良さ。

気持ち良いことが、優先されるようになった。

気持ち良くないことが、嫌いになった。

遠ざけるようになった。

汚いものを舐めることにも、抵抗を感じなくなっていた。

何か、それすらイイことであるかのように、そんな風に感じてさえいた。

少しずつ、少しずつ、珠洲歌は甘いもので形成されていった。

何の疑問も持たずに、今の状況を、とても規則正しく気持ちのイイ物なのだと受け入れていた。

吸い出すことも、漏らすことも、誰かの上でたゆたうことも。

全部、認めていた。

期待しなければ、特に問題ないから。

能力は、いつの間にか『そうなって』いた。

ぶつかり、広がり、撃ち抜く。

気に入らないものを好きに壊せる能力。

これがあれば、思い通りに出来ないことなんて、無い。



忘れていることが多い。

嫌なことが残っているのが、我慢出来ないから。

そうして、嫌なことはすぐに忘れてしまう。

嫌なことばかり忘れているつもりだったのに、いつの間にか、そうでないものまで忘れていくようになった。

だから、あまり長い期間に渡っての記憶が無い。


そんなあたしでも、いくつか忘れていないことがある。

二人の男の子。

その二人はどこか似ていたような気がする。

もちろん、ほとんど性格の違う人間ではあったのだけれど……


そいつは、いつも一人だった。

ふと、校舎の外を見ると、この学園で一番大きな樹によりかかって、どこか遠く――

多分空を見ていたのだろう。

時々眩しそうに目を細めているのが見えた。

「何、見てんの?」

返事は無い。

「ねえ」

相変わらず、である。

「ねえ、何を……」

言いかけたところで、遮るようにそいつは口を開いた。

「三回も言わなくても、聞こえてる」

愛想の無い、突き放したような声だった。

「あんたね……聞こえてるなら、返事しなさいよ」

「答えようとは思った。けど、聞かれたことに対する答えがまとまっていなかった」

怒っていいのか、悪いのか。

本人に悪気はなかったようなので、珠洲歌はその姿勢だけは認めることにした。

自分としては、それなりに寛容な対応だと思った。

「――ああ、そうだ」

思い出したように、そいつは口を開いた。

珠洲歌の方へ視線を合わせて、言葉を続ける。

「おれは、何を見たら良いのか分からなくってさ」

そう言うと、そいつは視線を落とした。

「でも、身近にあるものは全部、何も変わらない。だったら、せめて空を見ようと思ったんだ」

「ふうん……」

珠洲歌はそこで一呼吸おくと、続けた。

「意味不明」

珠洲歌の言葉を耳にして、そいつは露骨に眉間へ皺を寄せ、ぼそりと呟いた。

「だから、言いたくなかったんだ」

少し口を尖らせてそんなことを言う姿が、急に子供っぽく見えた。

先程まで歳に不相応な雰囲気を醸し出していると思ったら、随分と格を落としたものだ。

珠洲歌はつい、吹き出してしまった。

「笑うな。せっかく真面目に答えたのに……」

「ふふ、ごめんごめん。笑うつもりは無かったんだ。ホント、ごめん」

ニヤニヤとしながら、珠洲歌は謝罪の言葉を連ねる。

「……その割には、まだ笑っているようだが」

「ふっ、くく……だから、ごめんって言ってるじゃん」

「それは心から謝っていない顔だ。おれには分かる」

「いや、ちゃんと謝ってるって。ほら、この通り」

珠洲歌は、両手を合わせて、軽く舌を出して謝った。

「……あのな……まあ、良いか」

「もう、いいの?」

何を言っても無駄だと思ったのか、そいつは呆れたように小さくため息をついた。

そして、また空を見上げる。

「ねえ、あんた名前は?」

「名前を聞くなら、まず先にそっちが名乗るんだな」

その物言いのおかしさに、再び吹き出しそうになりつつ、珠洲歌は先に名前を告げる。

「あたしはスズカよ。シズネ、スズカ」

「名前のようにおしとやかに、とはいかなかったみたいだな」

「何か言った?」

「……いや、何も」

「で、あんたの名前は?」

「おれは   だ。  、   。」

あれ、覚えていたことの、はずなのに。

どうして、思い出せないのだろう。

思い出そうとすると、場面が飛ぶ。


---


「あたしじゃ、ダメなの……?」

それは、珠洲歌が初めて口にした言葉だった。

これまで、ずっと、自分が求められる立場に居た珠洲歌が初めて口にした言葉。

きっと、今の自分を鏡に映したら、捨てられた子犬のように見えたことだろう。

必死に言葉を請う者、哀れなあたし、惨めな状況かもしれない、けど……

「いや、そういうわけじゃないんだけど」

「じゃあ、あたしと――」

「ちょっと気になってるヤツが居てね」

そいつの一言は、重かった。

ちょっと良いなって思っていたのに、どうだったのか、分からない。

どっちだったのだろう。どっちの……


---


「ばっ!?」

いつの間にか後ろに居たそいつは、珠洲歌の呟きを復唱する。

「ふう……ん、わたしは空に、ね」

「……も、もしかして、聞いてた……?」

「左手を空にかざしてる辺りから、見てた」

そいつは悪戯っぽく笑った。

「詩人なんだな。性格に似合わず」

「うっ、うるさいわねっ!!」


---


途切れる、途切れてしまう。

嫌な記憶が、大切な記憶を道連れにしていく。

思い出そうとすると、気分が悪くなる。

大切なことだったはずなのに、触れられない。

思い出せない。

思い出したいのに。



時間は過ぎていくけれど、明日は何をしようか、なんて考えなかった。

ただ、今日よりも悪い日にならなければ良い、そう思った。


嫌なことから忘れて行くのに、何かのきっかけで思い出すのは、何故か嫌なことばかり。

不安になることがある。

いつか、いつか……

閉じ込めてきた嫌なことが、ふとしたきっかけで溢れてしまわないか。

目を背けてきた不都合なこと全てが、自分を押し潰してしまうのではないか。

白い部屋に横たわると、指先を頼りない月光が浮かび上がらせる。


「……そうね」


指先を見つめながら、珠洲歌は思った。

手に負えなくなったら、全部壊してしまえば良い。

そのための力が、自分には備わっているのだから。



『鈴の詩』 了

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