渇望編 - 7
この霧が能力者によるものなのか、それとも自然現象なのか。
急に天気が変わるということは有り得るが、修としてはこのタイミングで霧が発生したことこそ疑わしく思えた。
修斗は、ちゃんとあの少女の傍に居るだろうか。
「分断させておいて、各個に応対するってことかしら」
「多分。優先順位のようなものはあるかもしれないけど……一度に相手をする『能力者』は少ないに越したことはないだろうから」
「――ねえ、一つ、聞きたいことがあるのだけど、いい?」
弧羽は歩を進めながら、修の方を向く。
「君はこの先、『何が』起こったとしても――」
そこで一旦、弧羽は言葉を切る。
「目的を、やるべきことをやれる? 貫き通せる?」
「俺は――」
言いかけて、修は口をつぐんだ。
何も見えない未来。
希望があやふやな未来。
でも、例えこの先自分が為したことによって何も変えられないとしても、何も変えられなかったとしても――
「俺は――
俺の信念も意志も裏切らない。目的を達成し、やるべきことを貫き通す」
最後まで言葉を口にした後、修は何故こんなことを言ったのだろう、と思った。
だが、この言葉は、この気持ちは本物だった。
「ふふっ」
弧羽が笑った。
「どうした? 何かおかしかったか? 今の言葉」
「いや、何か、まっすぐだなぁって」
「ま、今時は熱血って感じでもないんだろうけど……そうしなきゃ、生きていけない気がするんだ」
「良いと思うよ、私。そういうの、カッコいいと思う」
「お褒めに預かり、光栄にございます」
「うむ、苦しゅうないぞ。もっと近う寄れ」
案外ノリの良い弧羽に少し驚きつつ、修は全く襲撃の無いこの状況に気を引き締める。
「……それにしても」
どれだけ歩いたろうか。
この霧の深さに、先の見えない不安が募る。
空どころか、一寸先すら――
修と弧羽の前には、ただただ霧が立ちこめるばかりだった。
何も見えないこの状況に、途方もない絶望の先に、ようやく終わりが見えた。
『壁』だ。
遂に、学園の外周に辿り着いた。
学園と、外の世界を隔てる、無色透明の絶望。
これこそ、あらゆる希望を無に帰す諦めの象徴だった。
どんな思いを抱こうとも、叶わぬ定めを悟らせる最悪の障壁。
だが、修は――その『壁』に触れた。
『何か』を望まねば、生き続けていられるであろうこの世界より。
自らが求めた答えがあるかもしれない外の世界へ。
『壁』に触れる今、その瞬間、修が抱いていたのは紛れもなく――
「伏せて!!」
弧羽が修を押し倒す。
地面へと倒れ込む間、修は先ほど自らが立っていた場所にコンクリート片が飛来し、ゆるゆると『壁』にめり込んでいくのを見た。
それはちょうど、蟻地獄に足を踏み入れた獲物が為す術無く飲み込まれていく様に似ていた。
――どこから、これを撃ち込んできやがった?
しかし、修は弧羽の背に回した手が熱を帯びているのを感じて、愕然とした。
ルビーを思わせる真紅の液体――
鮮血だった。
弧羽の背中を抉るように、コンクリート片が通り過ぎたのだろう。
この傷……治ったとしても痕が残るかもしれない。
もし、この傷跡が残ってしまったら。
様々なことが、修の脳裏をよぎる。
「――くッ!!」
自らの不注意を悔いても、もう遅い。
(あー、アー、てすテス。聞こえているか? 聞こえてんだろう?)
頭の中に、耳障りな音が響いた。
(んー。威嚇射撃ってヤツは一応やったつもりなんだがなぁ)
コンクリート片を撃った奴。
……指導員か。
(あんなのは、威嚇射撃とは言わないんだよ)
以前の経験から、修は言葉を思い浮かべた。
(そうかい、そうかい。まぁ、挨拶代わりにみたいなもんだ。ところで、そこにお嬢も居るんだろう?)
(まさか、知ってて攻撃してきたのか)
その問いには答えず、声の主は言葉を続ける。
(居るんだな……良かったよ。当たったかと思ったからなぁ)
――こいつ。
(まぁ、聞けよ。一応な、学園内で緊急に会議が開かれた。そこでな、今回の事件に関わった奴は厳罰と決まった)
指導員は、そこで一旦言葉を切る。
(お嬢はな、六番、お前にそそのかされただけとしてお咎めナシだ)
特別扱い、か。
修斗との会話が蘇る。
弧羽が学園にとって、重要人物であるのは間違いない。
うつ伏せに倒れた弧羽は、小刻みに震えながら息を荒げている。
『壁』を背に、修は未だ健在している霧を睨みつける。
おそらく、一人で逃げるよりも弧羽を連れて逃げる方が、追っ手は厳しくなるだろう。
そこまで思い至ったところで、修は自分が何を考えているか、省みる。
「――何考えてるんだ、俺は」
何てことを考えてる……こんなのは下らない机上の計算だ。
だが、ここで自己嫌悪に陥っているヒマなんかない。
弧羽は俺を守ってくれた。
そして、その弧羽はこの学園を出たがっている。
事実と、今認識すべきことはそれだけで十分だ。
(ええ、と、狩野、修だったか……六番のおまえさんは)
(何だ)
(独断専行した墨染と同じく、処分しろって通達が入った)
(お咎めなし、のお嬢様がこっちに居るのにどうやって俺を処分する気なんだよ)
(はっはぁ……そうだな。お前が人質にとっているんだものな――じゃあ、死んでもしようがないよな)
底冷えのするような、何の感情も含まない物言いだった。
(まとめて死ね)
頭の中で響く、その言葉を合図に無骨なコンクリート片が飛来する。
(ちょっと、交野さん!!)
慌てた様子の別の指導員の声が響く。
霧が揺らぐ、とっさに鳴らす指、砕け散るコンクリート片。
次のコンクリート片。
攻撃の手は休まない。
修は弧羽を庇うように位置取りながら、この状況に対する違和感が湧き上がってくることに気付いた。
コンクリート片が霧から浮かび上がるのを見ては、指を鳴らした。
『圧壊』を受けて形を失うコンクリート片。
辺りに散らばるそれが増えていくのを見ながら、体力が消耗していくのを感じる。
ここまで来て……
俺は外に届かないのか。
ああ、違う。
俺だけじゃない、着いてきてくれた学園生まで巻き込んで、こんな――
逡巡する思考を遮るように、一際大きな塊が霧の中から現れる。
修は深く右腕を引き、虚空を殴りつける。
巨大なコンクリート片は、歪に炸裂し、修と弧羽を避けるように地面へ落下する。
修はやっと気付いた。
これは、最早追撃などではない。
『ただの』纖滅戦だ。
「お嬢さん」として気に掛けられているように思われた弧羽すら巻き込んで――
少なくとも、今の攻撃から理解出来るのはそんなことだった。
「――くっ」
断続的に霧の中から飛来するコンクリート片は、修の精神力すら削り取り始める。
現れるコンクリート片、指を鳴らす、破砕されて地面へと落ちる。
再びコンクリート片。
払い除ける指。
表面を砕かれ、落下する。
未だ指導員の能力は底が見えず、攻撃の止む気配は無い。
埒が明かない。
修の疲れを見越したかのように、一際大きなコンクリート片が視界の中に飛び込んでくる。
「糞ッ!」
虚空を殴りつける修。
崩壊するコンクリート片、その一部がこちらへ向かってくる。
修には、その様子が冗談のように見えた。
コマ送りで落下する欠片。
能力を使う度、先の戦闘において、指導員の爪がめり込んだ傷が痛む。
熱を帯びたそこが、真紅に染まる。
「ぐっ……」
修は唇を噛んだ。
想像が追いつかなかった。
自分が適わないぐらいの強大な相手にぶち当たった時のことを。
断続的に痛みの走る脇腹。
修は額に脂汗を浮かべながら霧の向こう、指導員が居るであろう場所へと視線を送る。
どこへ攻撃すれば良い……?
状況は、『壁』へ迫ろうとしている今、最も悪いものとなった。
どこから攻撃を仕掛けてくるのか。
度重なる戦闘と、それに付随する体調の低下。
弧羽の防御も望めない。
修の苦悩に追い打ちを掛けるように、コンクリート片が飛来する。
状況は苦しいが、それでも身体の条件反射は追い付いた。
鳴らす指、砕けるコンクリート片、握り拳大ほどのつぶてが迫ってくる。
「あ……」
次の行動は間に合わない。
側頭部を掠めたコンクリート片が修の後ろへと消えていく。
くらりと眼前の景色が角度を変える。
次の瞬間には、修の上半身は大地に伏していた。
前方には、既にこちらへ放たれたコンクリート片が見える。
霧深いこの状況の中、目標を違えず、こちらへと向かってくる。
だが修は目をつぶることはしなかった。
コンクリート片が自らの存在を押し潰そうと迫るのを見ながら、ふと、修は脇に抱えた弧羽のことを考えた。
俺が倒れてしまったら、弧羽はどうなる……?
ほかの学園生は……?
薄れていく意識の中、修は再び指を鳴らさんと、前方へ手を伸ばす。
その指先、修の腕に寄り添うように、誰かの腕が伸ばされる。
「……弧羽……?」
風に曝される砂城の如く、消えていく、意識。
漆黒。
――昔のことは、よく覚えていない。
否、きっちりと思い出そうとすれば思い出すことが出来るのだろう。
ただ、嫌なことは心の中、見える場所にまで浮かび上がらせないようにしていただけだ。
何かから目を背けて、嫌なことから逃げていただけなのか。
――それじゃあ、これは?
今回のことは?
これも。
これも何かから逃げているだけなのか?
関係の無い人間まで巻き込んで?
――ちくしょう、チクショウ、畜生。
様々な思いが渦巻く。
自分の選択が、今この瞬間まで来たこと、全てが『正しくない』道筋であったのか。
一度悪いことが見つかると、連鎖するように負の思考は膨らんでいく。
自らの目的を果たす為ならば、何がどうなってしまっても良いのか。
自らの問い掛けに、修は徐々に追い詰められていく。
何の変化も望めない場所で、何も為せずに死んでいく。
ああ、嗚呼。
未来を望むことすら間違っていたのか。
分からない。
自分が捨てられた子供なのだ、という事実。
どこまで行っても変わらないその事実が、修の心に大きな穴を開ける。
その空洞は、あれからずっと埋まることが無かった。
『拠り所』を失ってから、ずっと、空虚が支配する心の中に、人間らしい温かみなんて何も存在しなかった。
鬱屈した心の中で、息が詰まるような感覚があった。
いつしかそれは、耐え難い『心の死』に向かって膨張していく。
誰も信じられない。
いつか無くなってしまうのが怖い。
それが、手に入れたものが、そっくりそのまま空洞になってしまう。
それなら――、一人のままでいい。
そうすれば、傷つかなくて済む。
一人で居ると、どこまで行っても一人だけれど、失うことは何もない。
(何も、ない?)
自分じゃない誰かの声。
(本当に? 一人で居れば、何も失わずに生きていける? 誰とも、何も築かずにいれば、傷つかずにいられる? 世界と関わらずに、ただ一人で――それは、本当に生きていることだって、そう言えるの?)
聞き覚えのある声で、語り掛けられる。
(――そんな辛そうな顔をしているのに?)
違う、俺は、そんな――そんなんじゃない。
でも、時々考える時がある。
一人、孤独でいる安らぎよりも、他人の存在を感じたいと。
自分では到底考えつかないような、そんな問いについての答えが――
他人と居ることによって、何か見つかるんじゃないかって。
自分が抱いている疑問が実は、何気ない解によって事足りる、そんなものじゃないかって。
そう考えているのに、怖いんだ。
これまでにない安らぎを得ることによって、失う時の痛みが耐え難いものになることが。
怖くて、怖くて堪らない。
それを思うと、怖くて、怖くて――
見えない不安に、押し潰されそうになる。
再び、聞き覚えのある声。
(そのままで、生きていけると思う? そうやって不安な気持ちのまま、何もせず――)
だから、何もせずに生きていくつもりなんてない。
ずっと、このままではいけないと思っていたんじゃないか。
それなのに、少し痛みが走っただけで、少し上手くいかなかったぐらいで歩みを止めて。
俺は、そんな――
「なら、起きなさいっ!!」
つづく




