渇望編 - 3
三階へ身を引いた拓へ正確な行き先を告げようとしたが、修は思い直した。
今しがた説明した時とは状況が違う。
大声で叫ぶのは不味い。
だが、焦る修の表情を見て悟ったのか、ついてきた中に居た三人組の女の子の一人が手を握ってくる。
「私に任せてください。彼に伝えます……言葉を思い浮かべて」
早口でまくし立ててはいたが、その子は冷静だった。
(拓、聞こえるか? さっきも言ったが、俺たちは西へ向かう。錆び付いたベンチのある、学園の西だ。……必ず来てくれ)
一瞬の沈黙の後、返事が来た。
(必ず行くぜ)
(ああ――必ず来い!)
修は二階でも穴を開け、ついに一階へ到達する。
と、その瞬間。凍りついた手で心臓を掴まれるような、そんな悪寒に襲われる。
ついてきた学園生たちは、一人を除き、皆顔面を蒼白にしてある一点を見つめていた。
一階の天井に、何か居る。
かちかち、と矯正だらけの歯を噛み合わせ、おぞましい姿で天井に張り付くものを確認するが早いか、修は指を鳴らした。
四つん這いで天井に張り付く『それ』は、かさりかさりと生理的嫌悪を催させる動きで『圧壊』の直撃を避ける。
そして唐突に、修の背後でザラザラと何かをぶちまける音――
ばら撒かれて勢い良く転がるそれが、突然命を吹き込まれたかのように弾き飛んでくる。
鈍く光る金属球に拠る、点ではなく、面での攻撃。
この無数の小さな標的に対して、『圧壊』での各個対処は間に合わない。
殺られる――
あと一刹那で修の身体へ無機質にめり込むはずだった金属球が、何の脈絡も無くその工程を終える。
標的を目前に、緩やかに、確実にその運動エネルギーを失っていく様が見てとれた。
――『壁』……?
正確に六角形をした、半透明な黄金色の『壁』が、修の命を救った。
「惚けている場合じゃないでしょう、早く!」
そう叫ぶ声の後、『壁』に防がれ勢いを失った金属球が廊下に散らばり落ちる。
西へ向かうには……修が見据える廊下の端から出るのが一番近い。
それには、今尚天井にへばりついてこちらの様子を伺う指導員をやり過ごさないといけない。
「防御は私に任せて」
聞き覚えのある声。
「弧羽……?」
「――来るわ!」
弧羽が言ったそばから、金属球が防がれるのを見た。
学園生を背に庇いながら、修はいよいよこちらに照準を合わせてきた指導員の動きを追う。
目の前には壁にへばりつく指導員、背後には金属球を飛ばす指導員。
本格的に、荒事専門の指導員が出てきたようだった。
壁から壁へと飛びつき、指導員は的を絞らせない動きで距離を詰めてくる。
あの指導員が体術を得手にしているのなら、この距離では修の能力に対して相性が良い。
遠距離戦を得意とするこちらにとっては不利である。
――懐に飛び込まれる前に決着をつけたい。
牽制の為に、修は指を鳴らす。
素早い動きでそれをかわす指導員は、ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべる。
繰り出される『圧壊』を悉くかわし、変則的な動きでじりじりと距離を詰めてくる指導員は、やがて修の二メートル先にまで迫る。
「き、ひき……きききひ……」
ついに、二本の足で地上に体重を任せた指導員は、類人猿のように前屈みの姿勢を維持する。
「ひひ、きゃひひ……」
持ち上げた首を傾げ、奇声と共に不自然に白い、矯正だらけの歯を見せてニタニタと笑う。
両手の指先をゆらゆらと蠢かせると、指先に装着された数センチほどの短い刃物のような金属製の爪が見て取れた。
あまり長さを求めなかったのは、接近戦を想定してのものだろう。
指導員の頭部付近に向けて指を鳴らす修が見たのは、大袈裟に上半身だけ反らして『圧壊』を避ける姿だった。
「――なるほど」
意味が無い。
先ほどからの牽制に一切効果が無いことを承知した修は、小細工をやめた。
緩んだ攻撃の手を見るや、上半身を立て直した指導員は一瞬にして修の懐に飛び込んでくる。
「あっ」
修を見守る学園生の誰かが声を漏らした。
抱擁するような距離、敵対象の過度な接近による窮地。
殴りかかった右拳は事も無げにかわされ、カウンター気味に指導員の爪が修の脇腹へ沈み込む――
瞬間、指導員の身体はふわり、と数センチ後方へ浮かび上がる。
しかし、自ら飛び上がった訳ではない。
「?!」
当たらなかった右拳と同時に、修は左手で指を鳴らしていた。
ほんの一瞬とは言え、動きを止められた指導員は既に、ただの無防備な的だった。
それでも三日月のように瞳を歪め、指導員は溺れるように空中を掻き毟る。
辛うじて届いた指導員の爪に頬を刻まれながらも修は再び指を鳴らし、『圧壊』を行う。
指導員の身体は更に高く宙へ押し上げられる。
風を切り、右拳を斜め上へアッパーのように掲げる。
今度はへばりつくのではなく、天井へ叩きつけられる指導員。
勢いで回転し、修の左手はカーテンを剥がすように再び風を切る。
修の『圧壊』の直撃を受けて左側の壁にめり込む指導員は、自らの作り出した蜘蛛の巣状のひび割れが崩れると同時に廊下へ崩れ落ちる。
脇腹に熱を感じ、修は手を当てる。
――血だ。
それほど深くないとは言え、鮮やかな赤が目に沁みる。
目の前に倒れ伏す指導員に注意しながら、修は尚も金属球でこちらを狙う指導員を一瞥し、位置を確認する。
そして指揮者の如く両手を掲げ、交差させて振り下ろすと同時に両手の指を鳴らす。
金属球に拠る攻撃を無効化する弧羽の更に向こう側――
廊下に程近い箇所を中心に吹き飛ぶ音が耳に入ってきた。
当てるつもりで狙っていたが、もし当たっていなくとも最低限の威嚇にはなる。
「後ろは頼んだ」
弧羽に向かって、修は声を掛ける。
「分かった」
下手に指導員にかかずらっていても状況を悪くするばかりだ。
弧羽が後ろを護っているなら、金属球を飛ばされても問題は無い。
後方で護りに入っている弧羽の存在は心強かった。
修は脇腹を押さえながら歩を進める。
西へ向かう。最短距離で。
学園生たちを引き連れて、廊下の突き当たりに行けば、校舎の外へ――
だが。
この時、修は読み違えていた。
何人居るのか全容の知れない、指導員の詰め所が存在する廊下の突き当たりを目指すべきではなかった。
既に三人の指導員を倒して、少なからず昂揚があったのだろう。
一刻も早く校舎を抜ける為とは言え、より危険の多いルートを選択してしまった。
立ちはだかる指導員、廊下の突き当たり、指導員の詰め所を目前にして。
「――君か、この騒ぎの元凶は」
直ぐ気付かされることになる。
先の一瞬の選択が、致命的な状況を招くことに。
つづく




