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42  作者: 結月(綱月 弥)


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渇望編 - 2

逆流した胃液の海にでも浸かっているような、そんな居心地の悪さ。

この苦く淀んだ空気の向こうから、歩いてくる人影がある。

余裕を持って、指導員が歩いてくる。


その姿を確認すると同時、唐突に視界が遮断される。

視覚が奪われる前、目に入った物は覚えている。

暗闇の中、修は――

一つの可能性に賭けた。

この学園での生活に不審を抱いているのが自分だけではなければ――

もし、他にも自分と同じように考える人間が居るとしたら――


「学園を出たい奴は扉を叩けッ、思い切りだ!!」


ありったけの声で、修は叫んだ。

こちらへ向かってくる指導員の能力は分からない。

邪魔をされるかもしれない。

だからこの声が、あの分厚い扉の向こうまで届くのかも分からない。

だが、その叫びは――!

この三階にある多くの扉から、意思を表す音が響いた。


「そのまま扉を叩き続けろ! その横の壁を吹き飛ばす!!」


暗闇の中、修はその足を前に進める。

必死に扉を叩く音、開ける穴はその隣に位置すれば良い。

両側の壁に『圧壊』を行い、扉の真横の空間を吹き飛ばす。

更に歩を進めようとした矢先、指導員が急ぐ靴音。

靴音が耳に入ると同時に、聴覚が失われる。


――不味い。

悪化する状況の中、指導員が居たと思しき場所と自らの立つ場所を思い描く。

この指導員の能力は、五感を奪うものだろうか。

他の身体機能がカットされてしまう前に、修は指導員の靴音を聴いた場所と自らの立ち位置との間を吹き飛ばす。

当たっているのかどうかなんて、もう分からない。


修がヒヤリとした感触を首筋に覚えるのと同時に、触覚が消える。

地面に足を踏みしめて立っているのか、歩いているのか。

『どうなって』いるのか分からない。

修は人の気配を読むなどという、そんな器用な芸当は出来ない。

真の暗闇に放り込まれ、全身麻酔が効いたかのような状態の中、修はこの状況を打開する術を模索する。

このままでは不味い。


(そうだな。お前はやはり殺した方が良い)


タイミングを見計らったかのように、声が響く。

聴覚が奪われたこの状況の中、その声は修の脳内で反響しているように聞こえる。

視覚、聴覚、触覚が奪われ、既に指導員の正確な場所は分からない。

手当たり次第に辺りを攻撃すれば、他の学園生を巻き込んで危害を加えかねない。


(変な気は起こすな。お前が能力を発動するより、頚動脈が血を噴き出す方が早い。ぶしゅっ! てな)


指導員が口を開く間に修は再び、考えを巡らせる。


(大体、まあ大体は分かるんだよ。お前の考えていることは。でも、なあ……一応理由は聞いておかないと、さ)


修の頚動脈に刃物らしき冷たい感触をぴたりと当てたままであろう、指導員は続ける。


(書類とかデータとか、大人には処理しないといけないことが色々あるワケよ)


心底、修はすぐに自分を殺してしまわない指導員に感謝した。

そして、わざわざ自らの能力の限界を曝け出してくれたことにも。

どうやら感覚を奪い、直接相手の脳へ思考を伝達することは出来るらしいが――

『こちらが何を考えているか』までは分からないようだ。


(どうしてこんなことしやがった? ほら、口元の感覚だけ戻してやるから答えろ)


ここから形勢をひっくり返すには、どうすれば良い?

その逡巡が終わらないうちに、首筋に冷たい感触が蘇る。

ナイフだろうか、ともかく刃物には違いない。

指導員は『口元』とは言ったが、首筋の辺りまで感覚が戻っている。

刃物をあてがわれた箇所が軽く熱を帯びる、じわりと血が滲む感触。

妙なことをしたら即座に殺す気だ。先ほどの言葉は嘘ではない。


なら……どうする?

『圧壊』とは、物体の固有振動数に対して最も効果的な共振を与えて破壊する能力である。

ただ、音を鳴らせれば良い。

だが、指も鳴らせず、拳を振るって風切り音を出すことすら不可能な現実――いや、それでもこの状況で音を鳴らすには。


「俺は――――」


次の瞬間、瓶の栓を抜いたような甲高い音が廊下中に響き渡る。


(ぅおっ?!)


ピンポイントで狙撃を受けたかのように、指導員の手から刃物が飛ぶ。

修は思い切り、舌を鳴らしたのだ。


(こいつ)「っ……! があぁ、指、が……っ」


直接頭に響く声と、シームレスに繋がる形で指導員の驚愕の声が微かに聞こえてくる。

指導員の集中力が途切れたせいか、制限されていた自らの感覚が戻り始める。

まだ指導員の反撃は無い。痛みで集中力を欠いた今、恐らく即座の能力使用は厳しいはず。

今度はこちらの番だ。

体勢を崩したであろう指導員が声を漏らした場所へ、修はまだ痺れたように感覚の戻らない指をイメージだけで動かし、鳴らす。


「ご、ふっ」


霧がかったようにぼんやりとしていても、戻り始めた視覚は『圧壊』で宙に突き上げられた指導員の姿を修に伝える。

間髪入れずに再び指を鳴らし。


「ぶふッ」


回転して勢いをつけた左腕を振り下ろす。


「がは……っ!」


巨大なハンマーで殴りつけられたかのように、指導員は三階の床に叩きつけられる。

這いつくばったまま、痙攣している。

修は理由を知りたがった指導員に答えてやることにした。


「俺は『ここ』じゃ終われない――例え誰に何と言われようと」


これで二人目。息が上がっている。

ほぼ全力での連戦だ。

修は両の手でグーとパーを交互に作り、指先の感触が戻ってきたのを確かめる。

『壁』まで、能力はある程度温存しておきたかったが、そう甘くはない。

簡単には出られない。

既にこの騒ぎは学園の人間が知るところとなっているだろう。

ここまで派手に暴れたんだ、更に指導員が出てくる。そう考えて間違いない。

先ほど吹き飛ばした壁から、幾人かの学園生が廊下へ踏み出すのが見えた。


――そうだ。

修は単独での強行突破を想定していたが、自分の他に自由を望む学園生の存在を知った。

ならば彼らの扉も破壊し、助けながら進んだ方が良いだろう。

あれだけ叫んだのだ。

最早修一人での勝負では済まされない。


「ここを出たい奴は扉に張り付いて叩き続けろッ! 横の壁を吹き飛ばす!!」


思い切りの大声を発し、修は再び廊下を歩き出す。

扉を叩く音、それが聴こえる右手の壁を吹き飛ばし、廊下を隔てて同じく鳴らされた扉が存在する左手の壁もこじ開ける。

そうして廊下へ踏み出した学園生たちは、誰を先頭に進むべきか瞬時に理解すると、『彼』の後に続く。

能力を使用するごとに、頭が痛む。

どの程度までやれるのか、分からない。

それでも、阿修羅の如き勇壮な表情で前を見据え、一歩ずつ廊下を踏み締める修が其処に居た。

およそ十人ほどを引き連れ、階下を目指す。

――だが、そこで修ははたと立ち止まる。


先ほどまでは、続けて攻撃を仕掛けてきたのに、周囲には指導員らしき人影が一向に現れない。

感覚を奪う指導員を倒してから、ぱたりと攻撃の手が止んでいる。

いや、それどころか『辺りに人が居る様子』すらない。

学園生も含めて、まるで誰も存在していないかのように。

こちら――脱走を図らんとする学園生に向けた対策が完了したのかもしれない。

短く不気味な静寂。


「気をつけて」


後ろについてくる学園生が言った。

その次の瞬間、出し抜けに、この三階に到達可能なポイント全てから足音が響いてくる。

二階から三階へ向かう階段、四階から三階へ向かう階段。

修が四階から三階へ降りる為に開けた穴に向けて。

それぞれから、こちらへ向かう足音が聞こえた。

自分の能力と、それで出来ることは分かるが、ついてきている他の人間のことは知らない。

……自分と同じ、学園生であることを除いては。

誰がどんな能力を持っているのかも分からない。

誰に何処を任せるかなんてことも、これでは決められない。

そうしている間にも、足音はこちらを目指して近づいてくる。

しかし、やる。

やらなければならない。


「進むべき道は俺が拓く……良いか?」


無言だったが、学園生らが皆、一様に頷くのが見て取れた。


「じゃあ、聞いてくれ。これからまた階下へ穴を開ける。攻撃に使える能力を持ってる奴は最後に来てくれ」


修はそう言って、ついてきている学園生を見渡した。


「じゃ、俺が最後尾に行こう。殿しんがりって奴を務めさせてもらうぜ」


「ああ、頼む」


短く、強風の中に曝したような髪型。どうやら、見覚えのある奴のようだ。

燈先、拓。

その姿を見て、修はよく分からない安堵を覚える。

コイツが居れば頼もしい……はずだ。


「……拓」


「いつかやる、と思ってたぜ」


「そうか」


「連れない答えだな」


「ああ。談笑は、『ここ』を出てからだ」


「……違いねえぜ」


しかし、修は一瞬考えた。

全員が同じように脱出できるとは限らない。

一塊で動くと、それだけまとめて狙われる可能性が上がる。

何より今、既に状態は袋の鼠と言って過言ではない。

脱出する為に学園生を解放したのが逆に仇となるのか。

――いや、こうなった以上、巻き込んだ以上、皆まとめて脱出させる。脱出してみせる。

この場所を出て行くのだ、自らの可能性を縛る、この場所から。


「これから、西へ向かう。西側の『壁』まで」


「……『壁』?」


首を傾げる幾人かの学園生が居た。

修はそう呼んでいたが、知らない学園生が居るのも無理はない。

『学園』と外を区切る最大の障害。

『学園』敷地内の最も外側に存在しており、近づこうとすると指導員に阻まれる。

実際にそれを見たのは、常に指導員の目を盗んで行動することばかり考えていた修ぐらいのものだろう。

『壁』に触れ、その在り様を確認出来たのは。


「『壁』は、学園と外を隔てる障害物みたいなものだ」


説明も短く、修は指を鳴らして三階の床を砕く。


「飛び降りられるか?」


先に降りた修が、ついてきた学園生の中でも仲睦まじく手を繋いでいる三人の女の子たちに声を掛ける。


「うん、大丈夫。行こう」


手を繋いでいる女の子のリーダー格と思われる娘が先導し、三人仲良く手を繋いでまとめて飛び降りてくる。

続いて、残りの奴も飛び降りてくる。

だが、最後尾を務めていた拓の姿がない。


「拓ッ! 何やってんだ!!」


「やべ……来やがった! 先に行けっ、必ず追いつく!!」


「おいッ」


見上げた三階、拓は修を見下ろしながら、親指を立ててニヤリと笑った。

「おまえ――」

そして、まだ何か言おうとする修の言葉を待たず、拓は二階を見下ろす穴から身を引いた。




つづく

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