五、無謀突入
譲の家を辞して、数歩も行かないうちに、鏡太が融に尋ねる。
「お父さんの事、恨んでる?」
融は鏡太を一瞥してから、
「恨まない訳ねぇだろ。何にも言わずに、いなくなっちまいやがって」
と、鬱陶しげな口調で返した。
「俺は恨んでほしくないな。黙ってたのは、何か事情があったはずだよ」
「事情って何だよ? 人を混乱させといて迷惑千万だ」
「だけど、本当の事が分からないうちは、お父さんを責められないだろ?」
「どうせロクでもない事だ。今までの行状を考えるとな」
父親は、いてほしい時に、ことごとく傍にいなかった。そうでなくても、普段から顔を合わせようともしなかった。
固く目を閉じる融を見て、鏡太は悲しそうな顔をする。
「それでも、お父さんを許してあげなきゃ。もう、やり直せないんだよ?」
「分かってるさ……!」
融は思わず鏡太の腕を掴んだ。
「ごめん。言い過ぎた」
鏡太が、ゆったりと融の手を引き離す。
「じゃ、俺、こっちだから。火継君も注意して帰ってね」
と、融が手の感触に気を取られているうちに、鏡太は走り去った。
しばらく、鏡太の後ろ姿を見送っていた融も、自分の家のほうへ歩き出す。
「全く、どいつもこいつも!」
融は何もかもに無闇に腹が立って、足を踏み鳴らした。
鏡太に対しては、形容しがたい感情が湧き上がる。巻き込まれたと被害者意識を持っていたのに、事実は正反対で、こちらが巻き込む羽目になるとは。
そして、何もかも黙ったまま、死んでしまった父親。
いきなり重い命題を与えられて、精神がおかしくなりそうだ。自分が何者なのかも判然としないのに……。
契丹文字考、自殺の真相、万厳会、呪文書、殺人の証拠、奪還方法……、様々な単語が頭を巡る。
それらを追い払うように顔を上げると、いつしか、自宅の前に着いていた。
家の中は静かだった。普段と同じだ。母親は仕事に出ている。今日も遅くなるのだろう。帰ってこないかも知れない。最近、特にがむしゃらに働いているようだ。まるで、父親の死を忘れたいかのように……。
そんな事は絶対ないと、すぐに融は頭に浮かんだ考えを全面否定する。あのお袋が、くよくよ悩むなんて……。
自分の部屋に入って、融はベッドに身を投じた。軽いバウンドが体を打つ。枕に顔を埋めると、先ほどの悪夢が蘇った。いくら考えても答えは出ないのに、意思に反して、脳は働き続ける。
万厳会は呪文書を奪って、何をする気だ? 親父を殺してまで手に入れたのだから、絶対に極悪な事を企んでいるに違いない。強奪から二ヶ月過ぎているが、何か綿密な計画でも立てているのか……。
しかし、どうやって呪文書を取り返せばいいのか? あのヤクザのリーダーを始め、相手は屈強な男ばかりだ。腕力だけでなく、ピストルなどの凶器も普通に持っているだろう。
こうしてぐずぐずしている間に、呪文書を使われたら……。そんな者がいるはずがない! だったら、俺は何だ? 俺以外にも能力者がいる可能性は……?
やはり、呪文書を取り戻すのは、早ければ早いほうがいい。だが、方法は……。……余川が……。いや、ダメだ! こんな中途半端な力では……。
そこで、融はガバッと身を起こした。
「まさか、あいつ……!」
急いで、携帯端末を操作し、鏡太を呼び出す。だが、ずっとコールが鳴るだけで、一向に繋がる気配はない。
次に、鏡太の場所をトレースした。端末に電源が入っていれば、鏡太の現在地が分かるはずだ。
「ここは……」
サーチした結果、鏡太は場末の繁華街にいるようだ。個人の家があるような住所ではない。
全てを悟って、融は家を飛び出した。
鏡太の居場所は、寂れた街の一角にある雑居ビルの中だった。玄関の正面には、黒地に金縁の大きな表札が掲げられている。そこには、縁と同じく金色の文字で「万厳会」と書いてあった。
「趣味わりぃ」
向かいのビルの陰から表札を眺めた融は、憎々しく独りごちた。
後先考えずに駆け付けたが、もし鏡太が中で窮地に陥っていても、どう救い出せばいいか想像もできない。結局、見ているだけしかないのか。融は自分の無力さに歯噛みする。
融が逡巡しているところへ、玄関の扉が開け放たれて、鏡太と共に数人の男が飛び出してきた。黒服のリーダーも混じっている。
「余川……!」
鏡太は立っているのが信じられないほど、ボロボロの姿だった。しかし、最後の気力を振り絞って、この場から逃げようとしていた。
さらにヤクザたちが鏡太を追い掛けようとした時。
「もういい」
という冷たい声が制止した。
融は、とっさに声のほうへ顔を向けた。
そして、その姿が目に入った途端、融の体は金縛りに遭ったようになった。
年のころは融と同じか少し上だろう。細身だが、全身に威圧感が漲っている。そして、何もかも射抜くような恐ろしいほどの眼力を備えていた。
「ですが……!」
リーダーが不服そうに抗議すると、男は冷酷に言い放つ。
「こんな重大事を報告せずに、意見できる立場か?」
リーダーは少し鼻に皺を寄せたが、男に何かを囁かれて、すぐに愛想笑いを浮かべた。
「分かりました、白根さん」
リーダーのほうがずいぶん年上なのに、至って丁寧な言葉遣いだ。
白根……。
融は、その名前を胸に刻み込む。
間違いない、奴は……。
この間に、鏡太は足を引きずりながら脇道へ入っていった。
ヤクザたちが完全に中へ引っ込むのを見て、融は鏡太の元に駆け寄った。
「余川、しっかりしろ!」
融の呼び掛けに応じて、鏡太は、うっすらと目を開ける。
「火継君……。見付かっちゃったね……」
「何て無茶な事を……」
「無茶じゃないよ……。……力は残ってるんだ……」
言い訳する鏡太に、融は頷いた。
「ああ、そうらしいな」
「分かってた……?」
「別れる前に俺の腕を掴んだだろ? あの時、何となく。実際は家に帰ってから気が付いたんだが」
「……そっか……」
鏡太が苦しげに息を吐く。
「万厳会に入ってから、しばらくは順調だったんだけど……、……ものすごい奴が現れて……」
「もう喋るな」
それ以上聞くに堪えず、融は鏡太に話すのを禁じた。
「……大した怪我はないんだよ……。ただ……、打撃に……精神が……付いて……いか……な……」
段々と鏡太の声が先細り、とうとう糸が切れたようにぐったりとなった。気を失ったらしい。
「どうしたもんかな……」
融は鏡太を抱えたまま途方に暮れる。
まずは病院に連れていくべきだろう。しかし、呪文が体に及ぼしている影響が分からない。いろいろ検査されて、妙な結果が出てきたら、どう説明すればいいのか。
本人も怪我は大丈夫だと話していた、ここは、家で寝かせて様子を見るか……。
鏡太を肩に担ぎ直し、融は歩き出した。痩せ型なのに意外と重い。
融は息を切らして大通りを目指し、そこでタクシーを拾った。面倒を嫌がる運転手を説き伏せ、融の家まで送ってもらう。
自宅に到着すると、融は死んだ父親の部屋へ鏡太を運んだ。ベッドに鏡太の体を下ろしたら、どっと疲れが出て、融は置いてあった椅子に座り込む。
部屋の中には大きな書斎机とその椅子、それにベッドがあるだけで、がらんとしていた。
鏡太たちに話した通り、母親が一切合財捨てたせいで、壁に作り付けられた本棚には何も入っていない。いや、大判の青いファイルが一冊だけ、端に置き忘れられていた。それが余計に空虚さを強調する。
かつては研究用の書籍や関連の文物で溢れ返り、床が軋むほどだった。父親は滅多に家に帰ってこず、帰ってきたら帰ってきたで、ずっと部屋に籠っていた。融の父親の思い出と言えば、その後ろ姿しか頭に浮かんでこない。
ファイルの鮮やかな青が目に染みる。そう言えば、融が小学生の頃、一度だけ両親揃って遠出をした事があった。父親の実家に遊びに行ったのだ。その時の空の色がファイルの青に似ている。今はもう、父親の親族は死に絶え、田舎の家も放置したままだと聞いた。
鏡太の寝顔を見ながら、つらつらと融が昔に思いを馳せていると、不意に鏡太の目が開いた。融はとっさに視線を外す。
「火継君……。……ここは……?」
「俺の家だ」
融は明後日の方向に顔を逸らしたまま答えた。
「ああ……、俺、気を失っちゃったんだね……。助けてくれて、ありがとう……」
「どうしようもない奴だ。本当に大怪我はしてないのか?」
「平気、平気」
そう言って、鏡太は起き上がろうとする。
「まだ寝とけよ」
融が止めると、鏡太は「うん」と素直に従った。
「火継君、怒ってない?」
「怒りを通り越して、呆れて物も言えねぇ」
「ははは、そうだね……」
恥ずかしそうに、鏡太は鼻の頭を指で突付いた。
「でも、俺、どうしても呪文書を取り返したかったんだ。もちろん、自分の都合のいい事を考えてたり、ヤクザに渡したままじゃ危ないとか心配してたけど、それだけじゃなくて……」
「分かってるよ。おまえがそういうヤツだって事は」
融は椅子の背に腕を乗せて答えた。
「ごめん……。お父さんの形見だと思ったら、いても立ってもいられなくて……」
融は鏡太に返事をしなかった。
「この部屋、お父さんの?」
虚ろになった本棚を見て、鏡太が尋ねる。
「ああ……」
「そう……。物がなくなっても、思い出はあるもんね」
一生懸命に父親との仲を取り持とうとする鏡太を、融は奇異に感じる。
「おまえ、家族は? 多かれ少なかれ、親父なんて鬱陶しいもんだろ?」
「俺、孤児なんだ」
あっさりと身の上話を告白した鏡太とは反対に、融が焦る。
「悪い事、聞いた……」
「ううん。両親の姓くらいしか知らなくて、全然記憶がないから、かえって悲しまなくて済んでるよ。母親は未婚で俺を生んだらしくって、施設に預けたまま、それっきりだって」
鏡太は屈託なく喋る。
「その施設が今時にしては良い所でね、毎日が楽しかったよ。先生たちは優しかったし」
「おまえを見てたら分かる気がする」
他に言いようがなくて、融は曖昧に濁した。
「そう? 高校に入った後は、施設を出て一人暮らしだけど。国から援助してもらってるんだ」
再び黙り込んだ融に、鏡太が声を掛ける。
「ごめん。気を遣わせちゃった?」
融はムカッとして言葉を返す。
「俺の事は根掘り葉掘り聞いたくせに、おまえ自身の事は何も話してなかったんだな」
「こんな事話しても、おもしろくないだろ? 気まずくなるだけだし」
陽気に笑う鏡太に対して、融は言い返す気力もなくなった。
「それは置いといて……、俺が負けた相手なんだけど……」
融は触れたくない話題が出たと思う。
「ああ、見た」
「え? そうなのか? 普通の人間じゃないだろ?」
「あれは能力者だ」
白根という男がまとう、他を圧倒する雰囲気を融は脳裏に浮かべた。
「やっぱり……。今はもう効果がなくなったけど、万厳会に行った時には確かに力が残ってたんだ。なのに、全く太刀打ちできなかった……」
鏡太が上半身を起こして、太腿の上で両手を固く結ぶ。
「あの白根っていう奴は、呪文書を使いこなしてるみたいだ」
融は椅子から立ち上がり、鏡太に背を向けて、空の本棚を睨んだ。
「俺に……、俺に力があれば……!」
慌てて、鏡太が融をなだめる。
「火継君のせいじゃないよ! あんなヤツがいるなんて予想できる訳ない」
「いや、呪文書が奪われたと分かった時点で考え付いていた」
「それは……」
鏡太もその可能性を疑っていたらしく、言葉に詰まった。
部屋に静寂が訪れる。
二人とも今後の方策に頭をフル回転させていた。
やがて、どちらとも一つの案に思い至った。
「火継君は呪文書がなくても、呪文が使えてるよね……?」
「ああ……。だが、ほんの少しだけだ」
「さっきの過去の場面が見れる呪文、覚えてる?」
「何となく」
「だったら、もう一度唱えてみるのは……? 何かまた見れるかも。それで、他の呪文も思い出すかも……」
そろそろと躊躇しながら、鏡太が提案する。
その呪文を使う際、融は心身共に辛い状態になる。それを思い遣って、鏡太は無理強いできないらしい。
しかし、融はきっぱりと言い切った。
「やってみよう。新崎の傷のように、きっかけになる物があればいいみたいだ」
「……あのファイルは?」
鏡太は例の本棚に残った青いファイルを指差した。
融がファイルを取り上げて開いてみると、パラリと一枚の紙切れが落ちる。
「何だ、これ……?」
紙には漢字ばかりがズラズラと書き連ねてあった。その几帳面な文字に融は見覚えがある。
「親父の字だ」
「ちょうどいいんじゃない? お父さんについて何か分かる気がする」
「……」
いざ、試そうとすると、融に少し迷いが出た。先ほどの苦しい感覚や、見てはいけないものを見る恐怖が湧き上がってくる。
だが、怖がっている場合ではない。
なぜ、鏡太を見逃したか分からないが、白根には鏡太の存在が知られてしまっている。融の事も、ヤクザのリーダーから聞いているだろう。時間に余裕はなかった。
融は大きく息を吸い込んで、紙切れに手を置き、記憶の片隅に残る呪文を唱えた。
「キュピ-ナプク……!」
今回は耳鳴りがする嫌な感覚はなかった。その代わり、無数の映像が頭に流れ込んできた。
融は歯を食いしばって、目がチカチカするような痛みに耐える。
しばらくすると、一つの鮮明な光景が浮かび上がった。
五歳くらいの幼い頃の融が椅子に座っている。机の上には、古びた冊子があった。例の呪文書だ。
冊子には奇妙な文字が並んでいる。本来なら、日本語も満足に読めない年齢なのに、幼い融は、その文字を難なく読んだ。
意味を理解しただけでなく、口から言葉を発したのだ。
その途端、部屋じゅうに突風が巻き起こる。
慌てた父親の玄穂が融の口を押さえた。困惑した表情で融を見ている。
そこで場面は変わって、今度は融は現在に近い年齢になっていた。
玄穂が融の前に立っている。呪文書を手に持ち、何やら日本語ではない言葉を唱える。
すると、融は、自分の中の魂が抜ける感触がした。いや、魂が縮まる感触と表現したほうが妥当かもしれない。
融の異端な力が押し込められていく。玄穂の暗示によって魔力が封じられているのだ。
「……この……苦し……みから……解放……されるのは……」
今度は、日本語を話す父親の声が切れ切れに聞こえた。
徐々に暗くなる融の瞳を見て、玄穂が痛ましそうな顔をする。
「俺は……、親父の重荷なのか……」
気を失う前に、融はそう呟いた。涙が一粒、頬を伝っていく。
実際の融の目からも涙が零れていた。
「……火継君……! 火継君……!、火継君!」
鏡太に耳元で叫ばれて、融は我に返った。
「ど、どうしたんだ!? 何があった!? そ、それに泣いて……!」
よっぽど鏡太のほうが狼狽していて頼りない。
「へっ、呪文を間違えちまったようだな。俺だけ過去の映像を見た」
と言って、融は涙をぐいっと手の甲で拭いた。
「どうやら、俺は子供の頃から魔法を使えたらしい。それを親父が封じ込めていた」
「ええ? お父さんも呪文が使えたの?」
「さあ。俺に暗示が掛けれただけかも知れない。ヤクザに襲われた時、何の抵抗もしてなかったしな」
「そうだね……。でも、火継君の力を敵に気取られないためとか……」
「死んじまったら元も子もないだろう。暗示は掛け続けないと効果がないようだ。最近も親父にやられていた。今、呪文がポロポロ出るのは、暗示が解けつつあるせいだな」
そこで、融は皮肉っぽい笑いを浮かべた。
「親父にとって、俺は厄介な息子だった訳か。だから、暗示を掛ける時以外は、あんなに避けていたんだ」
「そんな事ないよ! 大切に思ってたはずだ!」
「じゃあ、何で俺には話さず、封じ込める一方だったんだ!? 本当に大切なら、打ち明けるべきだろ!?」
「それは、何か事情があって……」
「ふん! さっきから、そればっかりだな! おまえは、やたらと親父の肩を持つが、同情できるようなヤツじゃねぇんだよ!」
「違う! それは絶対違う!」
珍しく、鏡太が本気で怒った。
「これを見て!」
と、青いファイルをぐいっと差し出す。
「さっき、火継君が魔法に掛かってた時に、勝手に開けちゃったけど……」
それは火継家の簡単なアルバムだった。ある写真では小さい頃の融が父親と一緒に写っている。融は大きめの石に座り、父親が横手に寄り掛かっていた。
「ほら、二人とも、楽しそうに笑ってる」
「カメラがあったら、誰だって無理にでも笑うだろ」
融が捨て鉢に言った。鏡太は言葉を続ける。
「ここ、見て」
と、写真の幼い融を指差した。
「お父さん、火継君の腰に手を添えてる。火継君が石から落ちないように自然と支えているんだね」
思わず、融は自分の腰に手を触れた。かすかに温もりを感じる。
「お父さんは本当に火継君を大切にしていたんだ。どうでも良かったら、こんな事しないよ」
「親父……」
「ね? 黙っていたのも、きっと火継君のためだったんだよ」
「……」
鏡太からファイルを受け取り、融は目線を下に落とした。
写真の中の父親は若い。その顔が、先ほど魔法で見た父親の姿に重なった。「この苦しみから解放されるのは」と言った父親は、痛ましそうな顔をしていた。ただ嫌々、融の相手を務めていると判断するにしては、複雑な表情だった。
「……まあ、とりあえず……」
溜め息を吐きながら、融が話す。
「余川の言う通りに考えとくか。俺の力を封じ込めた理由が分かるまでは……」
融の態度がわずかに軟化したので、鏡太は微笑む。
「さすがに、お袋もこれは捨てられなかったみたいだな」
照れ隠しに、融は母親を揶揄した。
「そう言えば、火継君のお母さんは?」
「働きに出ている。今日は帰ってこねぇだろう。元々、仕事一筋の人だから」
「へえ……」
鏡太がニコニコしながら融を見る。
「何が、そんなに嬉しいんだよ?」
「火継君が家族の事を話す時、できてた眉間の皺がなくなったからさ、良かったなと思って」
「バカか、おまえは」
憎まれ口を叩いた後、融は暗く呟いた。
「結局、昔話が出てきただけか……」
今回も呪文を使って辛そうにする融を見た鏡太は、すぐさま融を労った。
「でも、火継君が自由に魔法を使えないのは暗示のせいだって分かったよ」
「それがいつ解けるのか、解けたらどのくらいの力になるのか、その力で白根ってヤツに対抗できるのか、何もかもさっぱり見当が付かねぇ」
「焦っても、どうしようもない時はどうしようもないさ」
そう言って、急に真剣な顔付きをした鏡太が告げる。
「何でも一人で抱え込まないで。俺はバカかも知れないけど、できるだけ力になるよ」
一瞬、融は拒否しようと考えたが、
「ああ、よろしく頼む」
と、素直な言葉が口を突いて出た。
それを掻き消したいかのように、手にしたファイルを勢いよく閉じる。
「晩飯、食ってくか? 新崎の家みたいに手作りじゃないが」
「ありがとう! 実は今月、ピンチだったんだ」
それから、ふと玄穂の字が連なった紙切れのほうを見る。
「これ、何が書いてあるのかな、漢字ばっかりだけど。相……何だ、この漢字?……有……神……人……これも読めない……白馬……。あー! 俺、漢文は苦手なんだ!」
鏡太はギブアップし、紙を融に投げて寄越した。
「だらしねぇな……、相傳有神人乘白馬自馬盂山浮土河而東有天女駕青牛車由平地松林泛潢河而下至木葉山二水合流相遇為配偶生八子其後族屬漸盛分為八部(神人ありて白馬に乗り、馬盂山より土河を東に浮かび、天女ありて青牛の車に駕し、平地松林より潢河を下に浮かび、二水合流す木葉山に至りて遭遇し、配偶をなして八子を生み、その後、族属は漸盛し、分かれて八部をなすと相伝う)」
「すごいー! 漢文、得意なんだね!」
鏡太は手を打って融を褒めた。
「お父さんの遺伝かな? ……ん? これ、新崎君に聞いた話にあったような……」
「そうだったか?」
図らずも、融の理解度は鏡太と同レベルだと明かしてしまった。
「確か、契丹の伝説で白馬に乗った神人と青牛の牛車に乗った天女が結婚したとかどうとか言ってたよ」
「青牛の天女……」
ファイルの色を見ながら、融は額に手を当てた。
「何か……、思い出し……そうな……」
苦しげに喘ぐ融を、鏡太が労わる。
「今、無理に思い出さなくても、明日、新崎君に聞いたら、きっと分かるって」
「そうかな……」
「ほらほら。また、一人で考え込んでる。頼れる部分は頼らなくっちゃ」
「……ああ」
融は鏡太の忠告に従った。
「それじゃ、飯にしよう」
「わー! ごちそうになります!」
「レンジで温めるだけのだぞ」
二人は台所に行った。融が冷凍庫から二食分のグラタンを取り出し温めている間に、鏡太は慣れた手つきでお茶を沸かす。
テーブルにそれらを並べてから、融と鏡太は向かい合わせに座った。鏡太がうれしそうにスプーンを取り上げる。
「昨日に続いて、大勢と食事だ」
「たった二人で大勢か?」
鏡太の大袈裟な物言いに、融が茶々を入れた。
「一人より多かったら大勢だよ」
おかずを口に運びつつ、鏡太が力説する。
「俺、大人数の所で育ったからさ、一人では食べた心地がしなくって。一人が二人になると、倍以上に美味くなるんだよ」
いつも一人だった融は、正直、その感覚が分からなかった。しかし、確かに、普段より料理はおいしい気がする。
以前と比べて、自分は変わったのかも知れない。融の心の中に、ぼんやりとそんな考えが浮かぶ。だが、不思議と後悔や嫌悪の気持ちはなかった。
明日、譲の家に行く約束は、自分が交わしておくと言い残して、鏡太は帰っていった。