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キタイ  作者: chengdu
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四、往時解析

 本心は行きたくもなかったが、融は決意を固めて学校に出てきた。

 あの後、融は鏡太を振り切って、自宅に帰ってしまった。

 しかし、逃げ回ってばかりもいられない。河原の時は良かったが、昨夜はヤクザにバッチリ顔を見られている。今朝、登校するのも、かなり用心しながらだった。

 今後の事を鏡太と話し合う必要がある。どうせ、鏡太のほうから融に近寄ってくるだろう。

 案の定、昼休みになると、鏡太がニコニコと声を掛けてきた。

「火継君、付いてきてもらってもいいかな。ちょっと話があるんだ」

 悲壮な決心をしているのに、けろりとした鏡太の顔を見ると、子供っぽいと思いながらも、融は反抗したい気分になる。

「俺にはない」

「あ、そう。ここで話していいなら、話すけど」

「分かった! 付いてきゃいいんだろ!?」

 憤懣やる方なく融が立ち上がったら、鏡太は「こっち、こっち」と手招きして、融を案内した。

 そこは屋上に続く階段の最上部だった。屋上へは扉に鍵が掛かっているので入れないが、そのように行き止まりになっている関係で誰も近付かない。

 この時勢、不良の溜まり場になるような所は監視カメラがあるはずなのに、ここには設置されていないらしい。こういう内緒話に持ってこい場所を鏡太が知っているのは、不良に呼び出された事があるからか。

「こんな所まで連れてきて、何だよ?」

 融の刺々しい態度には意も介さず、鏡太はポケットから携帯端末を取り出す。

「昨日、録音した火継君の言葉なんだけど……」

「そうだ! それがあれば、おまえはいつでも強い正義の味方だ。もう、俺は用済みじゃねぇか」

 一度、ヤクザに目を付けられたら逃れられない。それが分かりつつも、わざと清々した口調で融は吐き捨てた。

「そういう訳にはいかないんだよね」

「何でだよ?」

「録音した声じゃ、効果がないんだ」

「嘘吐け」

「嘘じゃないって。何なら試してみる?」

 鏡太は端末の録音再生に割り振られたキーを押した。「ズジェ‐イプト!」と叫ぶ融の声が流れ出る。改めて自分のセリフを聞き、融は恥ずかしくなった。

「思いっきり、殴ってもいいよ」

 眼鏡を取った鏡太は、融の前にあっけらかんとして立つ。融は無性に怒りが込み上げてきた。

 こいつのせいで、俺は訳が分からない状況に陥っている。何よりも平穏で平坦な生活を望む俺が、こいつのせいで……!

 熱くなりながらも、融は冷静に思考を巡らせた。

 もし、このまま何も考えずに殴り掛かったら、録音の声で効果があったとしても、融を利用するために、鏡太は真正面にパンチを受けるだろう。どうにかして、真偽を見破らなくてはならない。

 そして、本当であろうと嘘であろうと、一発殴って、俺の鬱憤を解消してやる。

 それには……。

 融は大きく右手を上げ、鏡太の左頬を狙った。

 思った通り、鏡太は避けようとしない。

 その右手をすんでの所で止め、融は左手を鏡太の顎に向かって素早く振り上げた。

 面食らった鏡太が体を仰け反らせる。

 しかし、その反応は遅く、融のアッパーが鏡太に決まる――前に、融は拳を脇に逸らせた。

「ああ……あっ……!」

 それでも、鏡太はバランスを崩して尻餅を付いた。

「はあ……。びっくりした……」

「おまえが言った事、本当みたいだな」

 鏡太を見下ろしながら、融は息を吐く。

「え?」

「録音の声が効いてたら、不意打ちでも、昨日のような超人的な力を発揮して避けられるはずだ。おまえは今、それができなかった」

 怪訝な顔をした鏡太に、融が説明した。

「あはは、なるほど」

 感心する鏡太に向かって、融は問い掛ける。

「だが、俺が右手を繰り出した時、なぜ逃げなかったんだ? 俺を騙すにしても、あからさま過ぎてまずいだろう」

「一発殴らないと、火継君の気が済まないと思って。強引に引き入れちゃったし」

「バカが」

 そっぽ向く融を鏡太は、にこやかに眺める。

「火継君こそ寸前までは殴る気満々だったじゃん。何で最初だけでなく、後のも決めなかったんだよ?」

「それは……」

 あまりにも無防備な鏡太を見て、気が変わったとは言えず、融は嘯いた。

「殴って手を傷めたら間抜けだろ。おまえのアホ面、硬そうだしな」

「あっそっ」

 それ以上、鏡太も追求せず、話題を転じる。

「だから、今日の放課後、新崎君の家に行かない?」

「何が『だから』なんだよ?」

 脈絡のない誘いに、融は鏡太を横目で睨んだ。

「俺、やっぱり、火継君の言葉はキッタンゴだと思うんだよね。図書館で調べてもいいんだけど、俺たち、取っ掛かりすら分からないだろ? だから、新崎君にいろいろ聞きたいと思って」

「聞いて、どうするんだ?」

「この『ズジェ‐イプト』っていう言葉、十分くらいしか効力がないんだよ。その前のは五分くらいだったから長くなってるみたいだけど、それでも、まだ短いし。もうちょっと長く持ってほしいんだ。じゃないと、いつも火継君と一緒にいなきゃならない」

「それは嫌だ」

 融は心底うんざりした顔で答える。

「だろ? あと、他の言葉も知りたくない? たぶん、『ズジェ‐イプト』は『強くなれ』で、前のは『逃げろ』という意味じゃないかな。でも、あんまり、これを使わなくちゃ行けない羽目にはなりたくないから、別の呪文が知りたいんだ。例えば……」

 掛け直した眼鏡に手をやり、鏡太は思案した。

「『ケンカはやめろ』とか『仲良くしよう』とか」

「どっかの標語みたいだな」

と、融が鼻で笑う。

「それに、そうやって命令しても、強制的に従わされてるだけで、自分から進んで願った訳じゃねぇ。ヤクザの連中が暴力に訴えてるのと手法は同じだ」

「そうだね。その通りだ」

 鏡太は素直に同意した。

「ま、この事は置いといても、調べる価値はあると思うよ。火継君も自分の力が何なのか、知りたいんじゃない?」

「……」

 知りたいような、知りたくないような、知ってしまったら、もっと大変な事が起こるような、複雑な感情が渦巻いて、融は答えに窮する。

「しかし、新崎を引き込んでいいのか?」

 そんな思いを断ち切るために、融は全く違う疑問を口にした。

「うん……、迷惑掛けるかも知れない」

 融の問いを聞いて、鏡太の顔は少し暗くなる。だが、すぐに気を取り戻して言う。

「でも、俺が助けちゃったから、新崎君も、またヤクザに狙われる可能性がある。昨日の夜、襲撃された事を一応、警察に通報したけど、すぐ無罪放免になるだろうしね。護衛も兼ねて、なるべく新崎君とも付き合っといたほうがいいと思うんだ」

 納得できる理屈かどうか判然としないが、新崎も俺と同じ可哀想な立場だなと、融は深く同情した。


 融と鏡太が連れ立って一年の教室に赴くと、幸いな事に、譲は自分の席に座っていた。

「余川先輩に火継先輩! どうしたんですか?」

 廊下に呼び出された譲は、大きな目をさらに大きくする。

 鏡太が率先して、譲の都合を尋ねた。

「あのね、今日、また、放課後に君の家へ行きたいんだけどいいかな? 部活はない?」

「大丈夫ですよ! クラブは今日、休みですし」

 当然のごとく、歴史好きの譲は史学部に所属していた。

「だったら、授業が終わったら一緒に帰ろう。迎えに来るよ」

「うわー! 感激です! うれしいです!」

 飛び上がらんばかりに、譲は全身で喜びを表す。

 算段が整って、三人は放課後になるのを待った。

 帰る道すがら、譲はスキップしそうな足取りで機関銃のように喋り続けた。それに、鏡太がニコニコと相手をする。融は渋い顔をして後ろを歩いていった。

「ただいまー!」

と、譲が元気よく帰りを告げると、

「お帰りなさい」

と言いながら、譲の母親が、のんびりと出迎えた。そして、すぐに譲の連れに気付く。

「あらあら、まあまあ! 今日もいらっしゃってくださって!」

「すみません。昨日に続けて押し掛けて」

 鏡太が恐縮しながら謝った。

「いいんですよ。後で、おやつでも持っていきますわね」

 満面の笑みを湛えて、譲の母親が台所へ引っ込んだ。

 譲の部屋に入り、母親が紅茶とクッキーを運び終えてから、鏡太はおもむろに口を開く。

「昨日、見せてもらった火継先生の本を、詳しく読ませてほしいんだ」

「僕は構いませんが……」

 譲は躊躇いがちに融のほうへ目を遣った。

「あの時は、いきなり怒鳴って悪かった」

 融が素直に詫びを入れると、譲は両手を大きく左右に振った。

「い、いえ、そんな! 僕は、ただ、先輩が嫌な思いをされないかと考えて……」

 譲を安心させるために、鏡太が説明する。

「その事については大丈夫。ある事情があって、先生の研究内容を知る必要があるんだ」

「ある事情って……?」

 譲が首を傾げるのを見て、鏡太は事もなげに打ち明ける。

「実はね、火継君は呪文が使えるんだよ。それがキッタンゴに関係してるみたいでね」

「おい!」

 キョトンとする譲を押し退け、融は鏡太に詰め寄った。

「協力してもらうには、ちゃんと話さなきゃダメだろ? この本だけじゃなく、他にもいろいろ教えてほしいし」

 鏡太は少しも悪びれずに話す。気を削がれた融は「勝手にしろ」と吐き捨てた。

「あのー、呪文って、その……、魔法使いが唱える、あれの事ですか……?」

と、恐る恐る尋ねる譲に、鏡太は、

「そう!」

と、単純明快に答えた。

「ええ? あー、呪文ですか……。えっ? 呪文!? ええええ!? 呪文んん―!?」

 初めは頭が付いていかなかったようだが、見る見るうちに譲の面相が驚きの表情に変わる。

「すごいですー! 本当ですか!? すぐにできるんですか!? 僕にも見せてください!」

 唾を飛ばさんばかりに、譲は融に迫った。

「そんなに近付くな!」

 融が譲の顔を横へ避けると、鏡太はからかうように融へ告げる。

「そこまでお願いされたら、見せるしかないね」

「おまえなー!」

 肩を怒らせて融は拒絶したが、鏡太と譲の期待に満ちた様子を見て、投げやり気味に息を吐いた。

「どうなっても知らないぞ……」

 融は譲のほうへ向き直る。そして、鋭く叫んだ。

「ズジェ‐イプト!」

 何が起こったのか理解できないのか、譲は呆然として佇んでいる。

「これで、新崎君は無敵のヒーローだよ。今のは『強くなれ』っていう呪文なんだ」

と、解説する鏡太に、

「そ、そうでしょうか……? 確かに、何だか風が体を通り抜けたような気がしましたが……」

と、譲は半信半疑の様子だ。

「それ、それ! 嘘だと思うんだったら、俺に向かってきてごらん」

 鏡太は譲を挑発する。

「で、では……」

 唾を飲み込みながら、譲は拳を固めて鏡太の正面に立った。

「待て! それはまずいだろ!」

 融は慌てて止めに入る。

「なるほど。昨日の俺と同じくらいの強さになってたら、怪我するもんね。火継君も真面目に呪文を掛けたんだ」

「てめー! また、俺を試しやがったな!」

「じゃ、済まないけど、俺から攻撃させてもらうよ」

 融の抗議を軽くいなして、鏡太は譲と向かい合った。

「は、はい!」

 譲がぎこちなく身構える。

 「えい!」という掛け声と共に、鏡太の右手は譲の左頬に狙いを定めた。

 それを、譲が軽やかに避ける――はずだったが、バチン!と破裂音が鳴って、見事に張り手がクリーンヒットしていた。

「痛ぁーっ! 先輩、とっても痛いですー!」

「ごっ、ごめん! ……おっかしいなぁ。こんなはずじゃ……」

 左頬を押さえて涙目になる譲の横で、鏡太がしきりに不思議がる。

「やっぱり、まぐれだったんだよ。呪文なんて、この世にある訳ないじゃねぇか」

 半ば安心した融が冷笑した。

「そんな事ない! 俺の時は確かに効果があった! じゃ、今度は俺に掛けてくれ!」

「諦めの悪い奴だな。そんなに言うなら、やってやるよ!」

 融は鏡太に向けて、再び「ズジェ-イプト!」と声を張り上げる。

「俺自ら試してやるぜ!」

と、融は間髪入れずに鏡太の顔面にストレートを打ち込んだ。

 すると、鏡太は目にも留まらぬ速さで融の手首を掴み、そのまま融自身の腕で首を羽交い絞めにする。

「くうっ……!」

「ほら、嘘じゃないだろ?」

 喘ぐ融を平然と押さえ付けたまま、鏡太は譲に確認させる。

「は、はい……」

 呆気に取られた譲は、つかえながら返事をした。

 呼吸できなくなってきた融が鏡太に喚く。

「い……いい加減に……手を放せ……!」

「ごめん、ごめん」

 鏡太はパッと融の手首を解放した。

「くそ……!」と口の中で呟き、融は荒い息を整えてから、

「ズジェ-イプト!」

と、自分に向けて呪文を掛けた。

 そして、融の思わぬ行動にまごつく鏡太へ、すかさず左肘を食わせる。

 ところが、またもや、鏡太は驚くべきスピードで、それをかわし、空を切って前につんのめった融を抱き止めた。

「こんな所で転んだら、怪我するよ」

「……うぅ……」

 融は鏡太の腕を振り解く。

 大いに屈辱を感じた融だったが、歯軋りするより仕方がなかった。

「ど、どうやら、火継先輩の呪文は余川先輩限定みたいですね……」

「何で、俺だけ掛かるんだろ?」

 譲が目をしばたき、鏡太は首を捻って不思議がった。そんな様子を、融が忌々しげに見る。

「単細胞な奴は掛かり易いんじゃねぇか」

「効果がダイレクトに伝わるのかもね」

 鏡太が愉快そうに融へ話すと、「嫌味が通じてねぇ」と、融は舌打ちした。

「でさあ、今の呪文、本当にキッタンゴだと思う? そうだったら、他の言葉も分からないかなぁ」

 さも問題がすでに解決されたごとく、鏡太が譲に問い掛ける。譲は激しく首を振った。

「とんでもない! 契丹語の権威だって、そんな事、分かりませんよ!」

「え? どうして?」

「契丹語は、とっくに話し手がいなくなった、死んでいる言語です。どんな発音だったのか、研究は進められていますが、どこまで行ったって、結局、推論の域を出ないんですよ。現代みたいにレコーダーがない限りは」

「そっか……」

 明らかに落胆した表情の鏡太を慰めるために、譲は言い添える。

「でも、さっき話したように、想像はできます。火継先生の本に、これまで判明した文字が載っていますので見てみましょう」

 譲は『契丹文字考』を手に取り、ページをめくった。

「確か『ズジェ‐イプト』と言ってましたよね? 『ズジェ』の『ズ』はz-かzh-か……」

 門外漢には意味不明のセリフで譲が唸る。融と鏡太は、そんな姿を見ているだけしかできなかったが、しばらくして、譲も頭を抱え込んでしまった。

「ああああー、ダメです! 僕程度の知識じゃ、全然、分かりません!」

「わ、悪かった! ちょっと調べたら、すぐに分かると思ってた俺が浅はかだった!」

 泡を食って、鏡太は譲に詫びを入れる。

「すみません。お役に立てなくて……」

 申し訳なさそうにする譲を、鏡太は明るく励ます。

「気にするなって。そう言えば、未解読が多いって言ってたもんね」

「そうなんです。契丹は独自の文字を作ったんですが、それも一種類だけではなく、契丹小字と契丹大字という二種類も作って使い分けていたんです」

「契丹……ショージとダイジ?」

 狐に摘まれたような顔で、鏡太が聞き返す。

「契丹小字は表音文字、契丹大字は表意文字と考えられています」

「表音……、表意……。何か国語や英語の授業で聞いた事があるぞ。漢字は表意文字で、仮名やアルファベットは表音文字だって……」

「その通りです。契丹語の文章は日本語の文章と似ていると言って差し支えないでしょう」

「へえ!」

 いたく感心した後、鏡太が真面目な顔をする。

「そもそも、契丹という国や人々が、どういうものか、全く知らないんだ。その辺りから教えてくれる?」

「はい、分かりました」

 譲も調子を取り戻して語り始めた。

「契丹がモンゴル系の民族だと考えられているというのは、前にもお話しましたよね? 契丹の伝説では、白馬に乗った神人と青牛の牛車に乗った天女が結婚して八人の男子を生み、これが契丹の祖先になったと言われています。八人の男は、それぞれ部族の始祖と言う訳で、これらをまとめて契丹八部と呼びます。互いに激しく争った時期もありましたが、七世紀の始めごろから連合する機運が高まり、ついに十世紀に入って耶律阿保機(やりつ あぼき)という英傑が現れ、中原の混乱に乗じて東北部へ南下し、契丹国を打ち立てました。その勢力圏には漢族が住む地域も入っていたので、契丹は、自分たち遊牧民を支配する北面と農耕民に対する南面というように体制を二元化しました。しかし、国の中枢には南の人間を関わらせず、古来伝わる独自の政治を進めています。こうして、契丹は絶頂期を迎えましたが、契丹人よりさらに未開の民だった女真族(じょしんぞく)が台頭してきて国力を弱らせ、十二世紀に滅びました。亡国の民となった契丹人は各地に四散し、特に西へ向かった皇族は一大勢力をなしたのですが、その亡命国家も八十年ほどで滅び、隆盛を誇った民族は他民族と交じり合い、歴史に埋もれてしまいました……」

「へー、なるほどね……」

 とりあえず相槌を打った鏡太だったが、見るからに半分も理解していない様子だ。

「はん! 何が『なるほど』だ。脳みそ空っぽなのに、今のが理解できる訳ねぇだろ」

 まだ腹立ちが収まらない融が、これでもかと鏡太に毒を吐く。

「少しは頭に残ってるよ! ええと、つまり、契丹という国が滅びたんで、契丹人はいなくなったんだよね?」

 同意を求めた鏡太に、譲は苦笑交じりに答えた。

「本当に最後の最後の部分だけですが、合っています」

「ほら! 次は火継君が覚えてる所を言ってみて!」

「なっ……! 何で俺がおまえに試されなきゃいけねぇんだよ!」

「そこまで俺をバカにするんだから、当然全部覚えてるよね?」

「あ、当たり前だろ!」

「じゃあ、最初から説明してよ」

「ぐっ……!」

 低次元で争う二人の間に、譲が両手を差し込んで割って入る。

「まあまあ、僕も一気に話してしまいましたし……」

 助かったと思った融が譲の左手を見ると、巻いてあった包帯が解けている。

 渡りに船とばかりに、融は譲にその事を指摘した。

「おい、包帯が取れかかってるぞ」

 救世主へのお礼も兼ねて、包帯を直してやろうと融が手を伸ばす。

「すみません……」

 譲の手首には、指の形をした青痣がくっきりと付いていた。よほど強い力で握られたのだろう。

 包帯の端を持とうとした拍子に、融は少し痣に触れてしまった。

 その途端。

「うくっ……!」

 突然、キーンという耳鳴りが起こり、融は側頭部を押さえた。

「ど、どうしたんだ……?」

 鏡太が面食らって尋ねる。

「何だか……、いきなり……」

「頭が痛いのか?」

「いや……、喚き声が聞こえてくるような……。それも一斉に……」

 襟元を握り、融が呻く。

「喚き声……?」

 鏡太と譲が顔を見合わせた時。

 融の口から呪文がほとばしり出た。

「キュピ‐ヌプク……!」

 融の言葉は部屋全体を覆って、徐々に内装を変えていく。

 白い壁に本を満載したスチール棚、大きな机と椅子。どこかの研究室のようだった。

 同時に、言葉の一部は中央で固まって、黒い靄を発し、やがて、人影を二つ、形作った。

「お……親父……!?」

 少し透けていたが、目の前に出現したのは、まさしく火継玄穂だった。床にうずくまり、口元には血が流れている。

 そして、玄穂を見下ろしているのは、例の万厳会のヤクザだった。

 玄穂が叫ぶ。

「それが何か分かっているのか!?」

「キッタンとやらの呪文書だろ?」

 ヤクザは悠然と手にした物を掲げた。糸で綴じられた古文書のような薄汚い冊子だ。

「それをどうする気だ!? おまえらが簡単に使えるものじゃないぞ!」

 玄穂が再び叫ぶと、ヤクザは嫌な笑い声を立てた。

「先生が知る必要はねぇな。この先の事も」

 ヤクザは玄穂ににじり寄り、腕を鷲掴みにした。

「何をする……!」

 玄穂は腕を振り解こうともがくが、屈強な男の力で捕らえられては、なす術もない。ニヤけ笑いを浮かべたまま、ヤクザは、もう片方の手で窓を開けた。

 夜風に吹かれて、玄穂とヤクザの髪がなびく。ヤクザの目的を悟ると、玄穂は色を失った。

「やめろ! やめてくれ!」

 玄穂は力を振り絞り、男の腕に取りすがるが、無駄な抵抗なのは歴然としていた。

 段々と玄穂の体が窓枠を乗り越えていく。

「親父っ……!」

 融は思いっきり手を伸ばした。

 しかし、融の手は空を切って、父親の姿は闇の向こうへ消えていった。

 がっくりと融が膝を折るのと同時に、ヤクザの姿も消え、元の譲の部屋に戻った。

「い、今のは……」

 夢から覚めたように、鏡太が口を開く。

 肩で激しく息をしたまま、融は絶叫した。

「親父は……! 親父は自分で飛び降りたんじゃなかったのか!? ヤクザに突き落とされて殺された……!?」

「今のが本当だとしたら、そうなるかと……。僕の傷にヤクザの記憶が移ったのかも……」

 譲が答える。ほとんど思考が停止した状態だが、それでいて的確な返事だった。

 眉をきつく寄せた鏡太が憤る。

「あのヤクザが……! 契丹の呪文書だって……!?」

「そんな本があったなんて……。火継先輩の呪文みたいなものが書かれているんでしょうか……?」

「万厳会のヤツは、そいつを盗んで、どうするつもりだ……?」

「はっきりとは分かりませんが、良からぬ事だと思います。先生の命を奪ってまで、手に入れたんですから……」

 鏡太と譲の疑問の応酬を聞いているうちに、融の頭は次第に冷めてきた。

「魔法の存在を知ってたんだな、親父は」

 絶対零度のような融の声に、鏡太が戸惑う。

「そう……らしいね……」

「他に何を隠してる? 俺は何なんだ? 呪文が使えるのは親父のせいか?」

 矢継ぎ早に出る融の問いに危うさを感じたのか、鏡太が逆に尋ねた。

「お母さんは何か話してた? 直接魔法の事じゃなくても、契丹の事とか……」

「いや全く。お袋も俺と同じように、親父の仕事に無関心だったからな」

「そうなんだ……」

 何事か思案していた鏡太が、次に出した言葉はとんでもないものだった。

「まずは万厳会から呪文書を取り戻さないと。奪われたという証拠があれば、殺人だったと主張できる」

「何をほざいてるんだ。取り戻すなんて無理に決まってるだろう」

「大丈夫だよ! 俺には火継君の力があるし」

「おまえはバカか! いつまで持つか分からないんだろ。途中で切れたら、どうするんだ?」

「それまでに解決するから!」

 根拠のない鏡太の自信に、融はクラクラした。このまま言い争っても平行線に違いない。

「俺は警察に通報する。再捜査したら、何か出てくるかも知れない」

「僕も、そのほうがいいと思います。万厳会を相手にするなんて、先輩が危険過ぎます」

 今まで黙っていた譲が、鏡太に訴えた。

「でも、火継君のお父さんは自殺として片付けられてるだろう? 警察も丸め込まれているんじゃないか?」

「それは……」

 融は少し口ごもったが、毅然として言い返す。

「やっぱり駄目だ。もっと確実な方法じゃないと認められねぇ」

「俺は一刻を争う事態だと思うな。悪い予感がする」

「俺だって分かってるさ! でも、どうすればいいんだ!?」

「だから、俺が……」

 自分を指差す鏡太に向かって、融が徹底的に拒絶する。

「こんな不確かな状態で、俺はおまえに呪文を掛けるつもりはない! それに、俺の親父の尻拭いのために、赤の他人を巻き込みたくねぇ!」

「他人じゃない! 友だちだ!」

「友だちなんかじゃ……!」

 一旦、口にしたセリフを飲み込んだ後、融は俯いて、「友だちだって他人だろ」と、低く唸った。

 はらはらとしながら二人を見守っていた譲が取りなす。

「今日のところは、休まれてはいかがですか? いろいろあって、疲れていらっしゃると思いますし。明日、また、対策を立てましょう」

「……そうだね……」

 答えを返さない融の代わりに、鏡太が返事した。

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