三、不測連累
六時五十五分に、融は譲の家の前で鏡太と鉢合わせた。
「へえ、時間に正確なんだ」
鏡太が感心して言った。ちなみに、二人とも私服に着替えている。
「悪いかよ」
「ううん、全然」
斜に構える融に、鏡太は邪気なく答える。そこへ、二人が現れた事をモニターで知った譲が、元気よくドアを開けた。
「お待ちしてました! さあ、どうぞ中へ!」
譲に促されるまま、二人は家に足を踏み入れた。すでに食卓には料理が用意され、譲とよく似た雰囲気の女性が出迎える。
「この度は息子を助けていただき、ありがとうございます。何とお礼を言ったらいいか。ご自身の危険を顧みず、本当に勇気ある方ですわ。いくら感謝しても、感謝し足りないくらいです。それ加えて、日頃、息子が尊敬してやまない先生のご子息の方までお越しいただけるなんて。お祝い事が一遍にやって来たみたいですわ」
「お母さん、話が長いよ。ご飯が冷めちゃう」
堪らず、譲が母親の話を遮った。譲の母親は「まあ」と手を頬に当て、
「すみません、話し出すと止まらないもので。遠慮なく召し上がってください。お口に合うか分かりませんが……」
と、料理を融たちに勧めた。
腰が引き気味だった二人だが、「じゃあ」と、テーブルの席に座る。
「いただきます」
どちらからともなく挨拶して、食事を口に運んだ。
「おいしい!」
エビとネギのオムレツ、コーンポタージュスープ、ベーコンとインゲンのサラダ……。
特に凝った料理ではなかったが、素朴さの中に愛情が溢れている。
「良かった、気に入っていただけて! お代わりは充分ありますから、どんどん食べてください」
譲の母親は、手を叩いて喜ぶ。
久しぶりに温かい気持ちがして、融はいつもより倍の量を腹に収めてしまった。
「僕のコレクションをお見せします」
食事が終わった後、譲が融たちを自分の部屋に誘った。
中に入った途端、本棚から溢れたと思しき書籍がそこらじゅうに積み上げられ、壁という壁に様々な大きさの額が掛かっている壮絶な景色が目に飛び込む。
「すごいね……」
「歴史が好きで、関係する本や物を集めていたら、いつの間にか、こんなふうに」
鏡太の感想に譲は自嘲的に答えるが、その様子はいかにも嬉しそうだ。
「歴史と言っても、かなり広範囲なんじゃない? 世界史全部?」
「いえ、さすがにそれは。やっぱり東アジアが中心ですね」
そこで、譲は融にチラリと目を遣る。
「特に、モンゴル系やツングース系の諸民族に興味があります。中央アジアから中国の東北部に掛けて住んでいる人々の事です。日本と文化の共通性が多く見られるんですよ。火継先生の研究対象も、ちょうど同じで」
融は眉を少し動かした。
「さらに、先生はモンゴル語系の契丹語を調べていましたよね? 契丹は十世紀に中国北部で王朝を建てた時、自分たちの言葉の文字を作ったんです。こんな話、先生から聞いてませんでした?」
「いや、俺は親父の仕事に興味なかったし」
融の突き放したようなセリフを聞いて、明らかに譲は落胆した態度を表す。
「そうですか……。それぞれ好みがあるとは言え、実にもったいないです……」
内情を知らずに残念がるだけの譲が、融は癇に障った。
「外から見たら、大先生かも知れないけどな、家にもろくに帰らず、大学に籠りっきりで、挙句の果てに過労で追い詰められて、飛び降り自殺した奴だよ」
「それは……」
絶句する譲に代わって、鏡太が取りなす。
「一方に熱中すると、他が放ったらかしになりがちだからね。研究者としては立派だったんだろ?」
「ええ、もちろん! この本なんか注目を集めて、学会賞を取ったんですよ」
譲は机の上にあった一冊を手に持った。表紙には『契丹文字考』と印刷されている。
「火継先輩の家にもあると思いますけど」
「親父が死んだ時、持っていた本は、お袋が全部捨てた」
「あ……」
思いのほか、火継家の確執が深いのを知って、今度は鏡太も言葉を失った。
「え、ええと……、別の話題にしましょうか……」
「そ、そうだな……」
鏡太と譲がおろおろするのを見て、融は少し言い過ぎたと感じる。
「親父は家庭人としては失格だったが、こうして研究が認められてるなら本望じゃないか」
「先輩は大人ですね……」
しみじみと譲は感嘆を漏らした。
「そんなんじゃない」
譲から顔を背けた拍子に、融は鏡太と目が合った。鏡太は軽く微笑する。
「何だよ?」
「いや、火継君ってクラスでも超然としてて近付きにくかったけど、今日はいろいろ話が聞けて良かったな」
「話したくもねぇのに、おまえが勝手に寄ってきたんだろ」
融は辛うじて空いている場所に、むっとしながら腰を下ろした。
鏡太は再び微笑んだ後、壁に掛けられた譲のコレクションの説明を受ける。
「この札は何?」
「これは、西夏の通行手形ですね。もちろん、レプリカですけど。西夏は十一世紀に中国の西北部で建てられたタングート族の王朝で、独自の文字を作ったんですよ。この通行手形は、それで書かれています」
「漢字っぽいけど、『鬱』とか『薔薇』とかよりも画数が多くて、おどろおどろしい雰囲気だね。怪しいまじないに使ってそう」
「でも、呪文でも何でもなくて、普通に『関所を通る事を許す』と書いてあるだけです。西夏文字は、ほぼ解読されています」
「へえ、読める人には読める訳か。これも同じ?」
鏡太は隣の額縁を指差す。
「いえ、こっちは契丹文字です。通行手形と同じレプリカですが、ずっと価値が高いんですよ。手に入れるのに苦労しました」
譲が少し自慢げに胸を反らすのを見て、二人の話を聞いていた融が何気なく呟いた。
「単なる借用書じゃないか」
「え?」
目を大きく見開き、譲が振り返る。
「ひ、火継先輩……、読めるんですか……?」
「いや、何となくだが……」
我に返った融は言葉を濁した。
「契丹文字は、まだ完全に解読されてないんですよ!」
前のめりになる譲を避けて、融は言い訳を試みる。
「親父が書いた本の中で、ちらっと見たのを覚えていたんだろ」
「いいえ。これは先生も未詳だと言っています」
「……」
打つ手がなくなった融は口を噤んだ。それを見て、何かに思い当たった鏡太の顔がパッと輝く。
「もしかして、昨日の言葉が、これなんじゃ……」
「それ以上、しゃべるな!」
突然、融は激しい口調で鏡太を制止した。
今まで、ぶっきら棒だが落ち着いた態度だった融が急変したので、鏡太と譲は目を丸くする。
「ど、どうしたんだ……?」
驚いて、鏡太が尋ねるが、融は黙り込んだままだった。鏡太と譲は困ったように顔を見合わせる。
「だいぶ、お邪魔しちゃったし、そろそろ……」
鏡太は、頃合いを見て切り出した。
「そうですね。長い間、お引き止めして……」
「晩飯、すごくおいしかったよ。お母さんにもお礼を言っておいてくれる?」
「もちろんです。感激して卒倒するかも知れません」
鏡太と譲が玄関に向かいながら遣り取りをしている間も、後ろに付いた融は廊下を俯いて歩く。
「それでは……」
と、譲に送り出されてから、住宅街の静かな道をかなり進んだ所で、ようやく鏡太は融に話し掛けた。
「悪かった」
「……」
融に反応がないのを見て、鏡太は溜め息を吐いた後、意を決したように融へ向き直る。
「でも、俺は絶対、昨日の言葉がキッタンとか何とか言うのに関係あると思うな。火継君の様子も不自然だし」
「うるさい!」
融は鋭く鏡太を睨み付けた。
「ああ、やっと口を利いてくれた」
目を細める鏡太に、融は策略に乗せられた事を悟る。
「ねえ、お父さんに何か教えてもらってたんだろ? あの奇怪な文字が並んでるの、いかにも呪文っぽいもんな」
「俺は何も知らない」
「朝から、それ一点張りだね。よっぽどの秘密?」
「秘密なんか持ってない」
「やっぱり、門外不出な訳? 他人には言えないんだ」
「勝手な想像をするな!」
と、融が声を荒げた、その時。
「これから、こっちが仕掛けようとしたのに、もう、そっちでケンカをおっ始めてんのか」
という、野太い声が振ってきた。
融と鏡太がそちらのほうへ視線を送ると、黒いスーツを着た縦幅も横幅もある男たちが四人、にやにやと二人を眺めていた。
「おまえらは……」
戸惑う鏡太に、融が耳打ちをする。
「こいつら、まさか……」
「たぶん、昨日のヤツ」
鏡太のあやふやな答えに、融は訝しんだ。
「『たぶん』……?」
「いや、その前のかも」
「『その前』?」
「このところヤクザ相手が多くて、覚え切れないんだ」
「何やってんだよ、おまえは!」
融が怒りをぶつける。
「お友だちを巻き込んで、いけない子だねぇ、余川君は。しかも、昨日、会ったのに忘れたなんて、つれないなぁ」
四人のヤクザは、融たちの周りを囲んだ。
「うーん、これはピンチだ」
危機的状況にも関わらず、鏡太はのんびりと感想を漏らす。
「そんな悠長にしてる場合じゃないだろ!?」
堪らなくなって叫ぶ融に、鏡太は鮮やかな笑みを返した。
「火継君が昨日みたいにしてくれたら逃げられるよ」
「なっ……!」
融は鏡太の襟元を掴んだ。
「何度説明したら分かるんだ! 俺は何も知らねぇ!」
「またまたー。君も強情だね」
「バカか、こいつは! 本当に言えるんなら、とっくに言ってる!」
「えっ……? 本当に?」
「本当だ!」
「ええ!?」
やっと、融の言葉を信じた鏡太が仰天する。
「どどどどうしよう?」
「俺が聞きたいくらいだよ!」
融が吐き捨てると、リーダー格の男が拳を振りかざした。
「相談は、そこまでにしときな!」
「うわっ!」
辛うじて、融たちは第一撃を避けたが、次から次へと攻撃の手が加えられる。それでも、包囲の中を掻い潜って、融と鏡太は道を一直線に走り出した。
「畜生! 何で俺がこんな目に!」
融は鏡太に向かって毒突く。
「ごめん! だけど、昨日の事は実際に起きたんだ!」
「まだ言うか!? 俺だって訳が分からないんだよ!」
「じゃあ、言葉を発したのは認めるんだね!?」
「ああ、認めてやるよ! だが、何を言ったのか、自分でも分からねぇ!」
融がヤケクソで叫ぶのと同時に、前方から黒スーツが現れた。敵は二手に分かれて挟み撃ちにしたらしい。
「絶体絶命だ……」
後ろを振り返りながら、鏡太が顔面を蒼白にして呟く。融は肩を激しく上下し、鏡太を罵った。
「おとなしくしてりゃいいものを、余計な真似ばかりしやがって」
「お友だちの言う通りだ。余川君は、いい子ちゃんすぎる」
黒服のリーダーが、二人の間を徐々に詰めてくる。鏡太は眼鏡を外して胸のポケットに入れ、融の前に直立した。
「やるなら、俺だけにしろ! こっちは関係ない!」
「おい!」
融は鏡太の影から止めに入る。
「厄介事に巻き込んで、本当に悪かった。君の事は何とかするから」
「ちょっと待て……!」
と、融が鏡太に掴み掛かろうとした瞬間、融の腕は追い付いたヤクザに絡み取られた。
「麗しい友情だ。では、お友だちには余川君が盾になる姿を見ていてもらおうかな」
「放せ!」
リーダーの嫌味なセリフに逆上し、融は必死に抵抗するが、両手は二人掛かりで頑丈に握り固められていた。
「くそっ!」
その間に、リーダーは鏡太の前に進み出る。鏡太は歯を食い縛り対峙した。
「万厳会に対して、二度と歯向かえないようにしてやる!」
渾身の力を込めた拳が、鏡太目掛けて振り下ろされる。
その刹那。
融の唇は、本人の意思を離れて動いた。
「ズジェ‐イプト!」
まるで、時が止まったかのようだった。
鏡太は拳を真正面から受け止め、そして、跳ね飛ばした。
それから、脇に従っていた黒服の腹に蹴りを入れ、融を羽交い絞めにした残り二人の手を払い除けて、それぞれに一発ずつ鉄拳を浴びせる。
瞬く間に、巨体の四人の男は地面の上に伸びて転がっていた。
「あ……ああ……」
凍り付いたようになっていた融は、肩に置かれた鏡太の手で意識を取り戻す。
「ま、また……」
融は額に流れる嫌な汗を拭った。
「すごいよ、火継君! 俺、スーパーマンみたいになっちゃった!」
「でも、俺は何も考えずに……」
「たぶん、頭の奥のほうに呪文が眠っているんだよ。思い出したら最強だ!」
「そんな事、できる訳……」
「大丈夫。今の、ちゃんと録音したから」
「え!?」
鏡太の思い掛けないセリフに、融は目を見開く。
「きっと、ピンチになったら言葉が出てくると思ったんだ。だから、眼鏡を取った時にスイッチを入れた訳」
得意そうに鏡太は、自分の携帯端末を融の前にかざす。
一瞬、思考が飛んだ融だったが、次第にふつふつと怒りが込み上げてきた。
「……てめぇ……!」
「怒らないでよ! 俺も危険な賭けだったんだからさ!」
悪びれずに笑う鏡太を見て、融は急激に頭が冷めていった。
「本当に、おまえって奴は……」
「協力してくれるよね? 俺に」
「う……」
いよいよもって、融は逃れない運命に手足を縛られた心地がした。
契丹文字は、こんな感じです。
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ついでに、西夏文字も。
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