6.金貨がもう一枚
亡き銅色の瞳のコッパーと、行方知れずのブッチに
その日は、昨日から続いている雨と風で朝から荒れ模様で、鉛色の空の下、小雨まじりの晩秋の風がいっそう寒々と吹きすさび、波しぶきあげる黒い磯の上で唸りをあげていた。
だが、その、漁師たちの姿さえない海岸のそばを、まだ小さな男の子が、一人でとぼとぼと歩いていた。
(やれやれ)
と、濃い栗色の髪と、青緑色の瞳をしたその男の子は思った。
(すっかり濡れちゃったな。まあこうなっても、人間の様に風邪をひく心配はないけど)
男の子は雨の雫が滴ってくる前髪を額から払い、自分の目指している、海岸沿いの小さな一軒家を見つめた。
長年潮風に洗われ、白いペンキが剥げてきている質素で古い家のその窓の奥には、暖かそうなオレンジ色の明かりが灯っていた。
「………」
男の子は家の前に立っと、階段を五段上がったところにあるドアを見上げた。この家には、昔は綺麗な金髪だった髪が、今やすっかり白くなってしまったおばあさんが、一人で住んでいた。
男の子はおばあさんの事をよく知っていた。おばあさんが生まる前からずっと。
彼女は難産の末に生まれたため(どんなお年寄りだって、生まれた時はもちろん赤ちゃんだ)、彼女のお母さんはお産の後間もなく亡くなってしまい、危うく彼女も死んでしまうところだった。
が、彼女はなんとか助かった。その時は、どんなに嬉しかった事か。
しかし、その彼女とも、もうお別れだ。男の子には、それがとても寂しかった。
男の子は階段を登り、天気のいい日には、おばあさんが時々日向ぼっこをしているポーチの奥の、ドアをノックしようとした。
が、彼がドアの前に立った時、ドアは内側から開かれ、その向こうにはおばあさんが立っていた。
「……?」
右手でドアのノブを、左手で空の牛乳瓶を掴んだまま、見知らぬ五、六歳くらいのその男の子を、彼女は少しばかり驚いた様な表情で見つめた。
「まあ」
濡れそぼった姿で玄関先に立っている男の子に、おばあさんは言った。
「まあ、ぼうや。どうしたの?」
「こんにちは。おばあさん」
彼女を見上げ、男の子はにっこりと笑って言った。
「はい、こんにちは。礼儀正しいぼうやだこと。何の御用かしら?それにしてもこんなに濡れて。よかったらこっちへ入って火にあたっておいで」
おばあさんは牛乳瓶をドアの外に置くと、外見と同じく質素な部屋の中へと男の子を招き入れた。
「ありがとう」
その彼女に、男の子は再びにっこりと笑った。
「さあさ、ここにお座り」
おばあさんは暖炉の前に古びた子供用の小さな椅子を引っぱり出すと、男の子を座らせ、彼の頭をタオルで拭いた。暖炉のそばには、白地に灰色斑の大きな猫が寝そべっていたが、猫は黄色い瞳で一度ちらりと男の子の方を見上げると、またすぐに目を閉じてしまった。
「ぼうやはどこの子だい?ここいらでは見かけた事のない子だけど。お母さんは?迷子になっちまったのかい?」
「ううん。迷子じゃないけど。でも、ちょっと雨に濡れちゃって」
男の子は暖かな火にあたりながら、気持ちよさそうに言った。誰かにこうして頭を拭いてもらうだなんて、彼にははじめての事だった。
「身体が乾いたら、お家まで送っていってあげるよ。……ミルクでも飲むかい?」
「うん」
男の子はにっこりとうなずいた。その彼におばあさんもにっこりと笑い、隣の台所へと入ると、小さな手鍋でミルクを温めて、すぐに男の子にミルクを持って来てくれた。ミルクの温かさは丁度いい加減で、子供用に甘く味付けがされてあった。
「熱くないかい?」
「うん。ありがとう」
おばあさんの、子供むけに作り慣れているホットミルクを味わいながら、男の子は言った。と、その彼の足元に、何か小さな黒い毛玉の様なものが、ぴょん、と飛びついた。
「?」
男の子は少しばかり驚いて、その飛びついてきたものを見下ろした。
それは、明るい銅色の瞳の、黒と茶の虎毛の仔猫だった。
「これ」
おばあさんは猫を男の子の足元から抱き上げた。
「ごめんよ。何にでも飛びついて遊び相手にしてしまうのさ。おまえはさっきたんとミルクを飲んだろう?こっちへおいで」
しかし、仔猫はちっともおとなしくはしておらず、すぐにおばあさんの膝の上から飛び下りると、今度は灰色斑の大猫の尻尾に噛みついた。大猫はまたも少しだけ目を開けはしたが、やはり眠そうにあくびをすると、仔猫にくるりと背を向けて丸くなった。が、灰色の立派な尻尾だけは、仔猫を構ってやるために、ぴたぴたと床をたたいていた。仔猫は灰色の尻尾に飛びついた。
「居眠りしながらでも、ちゃんと遊んでくれるんだね」
灰色の尻尾に飛びつき、転げまわる仔猫を見ながら、男の子は言った。
「お守り上手なものさ」
二匹の猫たちに、おばあさんは苦笑した。
「その猫はねえ、その仔の母さん猫じゃないんだよ。オスなんだよ、その猫は。もうおじいさんさ。こないだどこからか、その猫の後にその仔がついて来ちまってね。それからずっとここにこうしているのさ」
「ふぅん」
男の子はおばあさんの事を赤ちゃんの頃からずっと知っているのだから、もちろん、三日前に仔猫がおばあさんの所へやって来た事も知っていたが、何も知らない様な顔して言った。
そして男の子は、暖炉の前のテーブルに置かれた、白い布に目を止めた。白い布には刺繡をするための丸い木枠がはめられていて、木枠の内側には、まだ未完成の、色とりどりの刺繡の花が咲いていた。
「素敵な刺繡だね」
男の子は言った。おばあさんはテーブルクロスやハンカチに刺繡をして、それを町の雑貨屋に買ってもらって家計の足しにしている事を、男の子はもちろん知っていた。
「ありがとう」
おばあさんは微笑んだ。
「私にはそれくらいの事しかできなくってねえ。でもこの頃は、目も弱ってきてしまって、それでさえろくに出来なくなっちまったけど」
「…………」
少しばかり寂しそうに言うおばあさんを、男の子は見つめた。
「もう出来ないの?」
「そうだねえ」
おばあさんは小さくため息をついた。
「もうじき出来なくなっちまうんだろうねぇ。昔は息子たちにちょっとでもたくさん食べさせてやりたくて、よく夜なべで仕上げたりしたものだけど。でも、もう今はだめだねぇ。すぐに目が疲れちまって。……歳はとりたくないものだねぇ。て言ったって、自分のパン代くらいは自分で稼がないとねぇ。息子たちの仕送りにたよってばかりはいられないもの」
と、そう言ってから、おばあさんはふと思った。あれ、まあ、私ったら。こんな小さな子に、何を愚痴っているんだろう……。
「仕送り?」
そのおばあさんに、男の子は言った。
「ああ、隣町に、二人の息子と娘が一人いてね」
こんな事、子供に話す事じゃないのに、とおばあさんは自分を少し恥ずかしく思いながら言った。
「ここの磯にも昔は魚がいっぱいいたんだけどね……今じゃ隣町の浜の方が魚がとれるから、息子たちは隣町に引っ越して行ったのさ。息子たちも、娘の婿さんも漁師だからね。それで漁でもらったお金を、私にも届けてくれるんだけどね。この頃じゃあ、もう一人でいるのは物騒だから、自分たちのところに来いって言ってくれるんだけど……」
男の子は、もちろんおばあさんの子供たちの事も知っていた。
おばあさんのだんなさんもこの町で漁師をしていたが、その稼ぎで食べていけない時は、おばあさんが見事な刺繡やレース編みをして、それを売って、家族を食べさせていた。
そして十年前にだんなさんは亡くなって、漁場としてさびれてゆく一方のこの町から、おばあさんの子供たちは離れていったのだった。
「でも、この町には、うちのひとの墓もあるし……お嫁に来てからずっと住んでるこの家から離れたくないんだよ。息子たちのところだって、そんなに楽な暮らしをしてるわけでもないだろうし」
そう言いながら、まあ、私ったら、どうしてこんな事を言っちまうんだろう、とおばあさんは思った。こんな小さな子を相手に……。
「まだまだたくさん刺繡が出来るといいね」
男の子は言った。
「そうだねぇ」
おばあさんは寂しそうに笑った。
「もう少し元気でいられるように、神様にお祈りしなくちゃあね」
「それがおばあさんの一番の願い?」
「そうだねえ……」
小さな椅子から、いくらか身を乗り出し気味にしてたずねる男の子に、おばあさんはちょっと考えた。
「若い頃と同じくらいに、とまではいかないだろうけど……」
おばあさんは何事かを思いながら言った。
「そうだねえ、もう少し……レース編みや刺繡でもらえるお金がもう少し、多くなるといいんだけど」
「どれくらい?」
「そうだねえ……月々の、今の代金よりももう一枚くらい、金貨が多くもらえるようになればいいんだけど。そうしたら……」
おばあさんは暖炉の前で気持ち良さそうにしている猫たちを見つめた。
「そうしたら、この仔猫に、たんとミルクを飲ませてやれるようになるんだけど。この子は今育ち盛りだから、いつもお腹一杯にしてやりたいねえ。私は今のままで何も不自由には思ってないけど」
「ふぅん」
男の子はおばあさんをじっと見つめて言った。
「それがおばあさんの一番の願い?」
「そうだねえ。この歳にもなれば、そんなたいしたお願いもないからねえ」
「…………」
そうか、と男の子はおばあさんを見つめながら思った。昔から、正直で優しい人だったこの人らしいや、と。
「それはそうと……寒くないかい、ぼうや?私の息子の、子供の頃の上着でよかったら……」
「ううん」
男の子はにっこりと笑って首を振った。
「おばあさんが拭いてくれたから、すっかり乾いちゃったよ」
「そうかい?」
おばあさんは男の子を見つめた。そういえば……髪の毛も、服もあれだけ濡れていたのに、もうすっかり乾いている?しかし、いくら火のそばにいるからといって、こんなに早く……?
「ミルク、ありがとう。ごめんね、仔猫の分、減っちゃったね」
男の子は空になったコップを見つめ、それから仔猫に目をやった。
「なに、それくらいは大丈夫さ」
おばあさんは言った。
「明日の分までちゃんとあるから。もう一杯、飲むかい?」
「ううん。ぼく、もう行かなくちゃ」
男の子はそう言うと、椅子から立ち上がった。
「そうかい。で、どこへ行くんだい?雨が降ってて寒いのに……私が送ってあげるよ」
「ううん。大丈夫。それに、もう雨も上がったみたいだし」
男の子は再びにっこりと笑い、窓の外を眺めた。見れば、男の子の言うとうり、いつの間にやら雨はやんで、鉛色の空には陽の光が射し込みはじめていた。
「あれ、まあ」
おばあさんもその淡い光の柱を見つめながら、椅子から立ち上がった。
「じゃあね、おばあさん」
男の子はおばあさんに言った。
「どうもありがとう。いつまでも元気でね」
そして男の子は、ドアへと歩いて行った。
「あれ、お待ちよ、ぼうや。あんたみたいな小さな子が一人で……」
しかし男の子は立ち止まらず、背伸びをしてドアのノブを掴み、おばあさんを振り向いてもう一度にっこりと笑うと、外へと出て行った。
「ぼうや」
男の子の後を追って、おばあさんも玄関口へと出た。
見れば、男の子はもう家の前の通りへと出て、小さな後ろ姿を見せて、どこかへと……雲の間から射し込んでいる陽の光の元へと、歩き去ってゆくところだった。
「…………」
おばあさんは、光の中を歩いてゆく男の子を見つめた。
そして男の子の頭の上には、小さな光の輪が浮かんでいて、背中には白い翼の様なものがあるようにも思えた。
しかし、もちろんそんなものが、あの男の子にあるわけが……?
そしておばあさんはふと思った。
私ったら、どうしてあの子にあんな自分の身の上話みたいな事を言っちまったんだろう?
まるで司祭様にでも……いやいや、まるで神様にでも相談事をするみたいに?
おばあさんは明るくなってゆく空を見上げた。
そして、雲間から白い光の柱が何本も降り立って来ている空を見つめ、もう何十年も見慣れているはずのこの我が家の周りの風景が、何やら神々しい様にまで思えて、そのすばらしい眺めをしばらくのあいだ見つめていた。
「では、彼女が最後まで元気で幸せに暮らせるよう、お願いします」
あの、おばあさんのところにたずねてきた男の子は、もう一人の、彼とよく似た背格好の男の子に言った。
が、男の子の姿は、おばあさんのところへやってきた時の姿とはまたちがった姿をしていた。
男の子はスモックの様な白いふわふわとした服を着ていて、頭の上には小さな光の輪が浮かび、背中には白い翼が――おばあさんが陽の光の中で見たものと同じものが――あった。そして、男の子と一緒にいる、もう一人の男の子にも。
「はい。わかりました。精一杯の役目をつとめます」
そう言うと、もう一人の男の子は小さな白い翼を羽ばたかせ、自分の守るべき人のところへと……あのおばあさんの元へと、飛び立って行った。
その姿を、男の子は少しばかり寂しそうに見送った。
光の輪と白い翼を持つ彼等は守護天使、と人間たちに呼ばれる者たちだった。
守護天使である男の子は、自分に与えられた役目として、あのおばあさんを今までずっと守護してきたのだった。
だが、守護天使というものには時々“守護のいれかえ”というものがあって、男の子は、ずっと守ってきていたあのおばあさんの守護を、他の天使と交代しなくてはならなくなったのだった。
彼女がまだ母親のお腹の中にいる時からずっと見守ってきていたのだから、最後まで彼女のそばについていたいのだが……しかし、それもしかたがない。彼女の守護には新しい者があたって、自分にはまた新しく守護すべき者が定められたのだから。
彼は、自分が新任者に言った言葉の通り、あのおばあさんが最後まで幸せにいる事を願い、そして自分がおばあさんのために願った事が、少しでも彼女のためになるようにと思った。
守護天使は、守護している者が変わる時、それまで守護してきた者の願いをひとつだけかなえてやる事ができるのだが――彼は、あのおばあさんが言っていたささやかな願いをかなえてあげることにした。
金貨がもう一枚……
彼女が丹精込めて縫いあげるあの刺繡やレース編みの月々の代金に、金貨がもう一枚多く、彼女の元にもたらされるように、
と。




