第5話 ヒトの道理
──おかあさん、あのね、今日はお花屋さんごっこするから、庭に出ていーい?
──見て! ニィナと、おかあさんの絵、描いたの! かわいく描けたでしょ?
──おかあさん、えへへ、ニィナはね、おかあさんが世界でいっちばん、だいすき!
(ニィナ。私の大切な子。あなたのためなら、私はなんだってできる。こわいものなんてない)
目を覚ますと、硬い長椅子の上に横たわっていた。
体が穏やかに揺れている。
どうやら波の揺れだった。
ロベルタは今、海上にいるらしかった。
ぼんやりと小窓の外を見上げると、月がよく見える。
今日は満月らしい。
ニィナは丸い月を見ると喜ぶので、彼女に教えてやらねばと思った。
──ニィナ、ニィナはどこだろう。
勢いよく体を起こす。体制を崩して床に倒れ込んだ。
両手を後ろで縛られているらしく、思うように動けない。
床を肩で支えるようにして起き上がると、扉が錆び付いた音を立てて開いた。
「目が覚めましたか」
「…………」
ジュラルはわざとらしく大股でロベルタに近づく。
睨みつける女を気に入らないとばかりにため息を吐くと、その薄い腹を蹴り上げた。
咳き込む様子を気にもかけない。
男はロベルタの髪を掴み上を向かせる。
「危うく騙されるところでしたよ。嘘がお上手だ」
「……ニィナはどこ」
「さあ?今頃は海の底ですかねぇ」
目を見開く。首を振ってもがいた。髪の毛が引き抜かれていくが、構わない。
「あの子には手を出さないと約束したでしょう!!!」
「そう言われましても。決まりですから」
どんな小さな種であっても、恨みの元は残さない。
それはいつか牙を剥くかもしれないのだから。
泣き喚いていた小さな子供を思い出す。
念には念を入れるのだ。
「わたくしの仲間が帰ってきたら出発します。向こうでは快適な生活を約束しますよ」
「そんなものいらない!! あの子を返して!! ニィナっ、ニィナを返せ……!!!!」
甲高く吠える女は、半狂乱になってジュラルに飛びかかった。軽くいなす。
これだから女は、母親は嫌いだ。
身内に対してどこまでもヒステリックになる。
手がつけられない。
神経を逆撫ですることばかり言う。
従順でない女は嫌いだった。
下を向いて男の機嫌を伺って生きていれば、多少は可愛がってやるのに。
ジュラルは先ほどよりも勢いをつけて、足を上げた。
脇近くにめり込んだ靴底に、脆弱な固さを感じる。
このまま骨を折ってしまうのは簡単だった。
「あなたをここで殺せないのが、惜しくてたまらないですよ」
それから数度、女を痛めつけた。特に顔を蹴ってやると赤く腫れ上がって一層醜くなった。
その姿を見てふと興醒めし、男はロベルタを置いて陸に上がる。
むしゃくしゃとした気持ちがおさまらなかった。
懐に忍ばせた煙草を咥え火をつける。ゆっくりと煙を口の中に溜めて、肺まで流す。
背後の草木から、気配が近づている。一つだった。
誰か先に帰ってきたのだろうか。あの家と子供一人を処分するのに、一体どれだけ手間をかけているのだろう。
苛つきが再び頭をもたげた。
しかし、それを悟られないようにジュラルは振り向かないまま問いかけた。
「ようやく終わりました? 早く帰りましょう。他の者はどうしたんです」
「みんな死にましたよ」
聞き覚えのない声だった。
ピタリ、首元に冷たい金属が触れた。
(しくじったか)
これだから田舎育ちのぬるい剣士は困る。
威勢ばかりが良くて、全く役に立たない。
背後にいるのは、年若い青年だった。
しかし殺しには慣れている風だ。
手を汚すことを少しも躊躇いはしないだろう。
ジュラルは話を切り出した。
「何故ここが分かったんです?」
「一昨日かな、散歩していた時に偶然。軍がよく使うやり方だから、すぐピンと来たよ」
青年は、何もかもお見通しだと言いたげだった。
「どうして、嘘を吐いた?」
ニィナがレジスタンスだと言った男達は皆、大陸軍の者だった。
家で殺した時に、見覚えのある徽章が目に入っていたのだ。
「軍人だと分かれば警戒されると思いましてね。まぁ彼女らは大陸での境遇をご存知なかったようですが……。とんだ茶番でしたよ」
ところで、とジュラルは煙を吐き出す。
「そんなに無防備でよろしいのです?」
何かが、背後に迫る。
アスレインは素早く振り向くと、眼前まで迫っていた刃を弾いた。
鉄の乾いた音が闇夜に響き渡る。
「護衛くらい、いるに決まってるでしょう」
薄ら笑いなら、ジュラルは言った。
少し離れた木にもたれかかり、悠々と煙草を吸い続けている。
アスレインに斬りかかってきた男は、彼よりほんの少し年上に見えた。
両手に、長さの異なる剣を携えている。
赤茶色のくせっ毛の青年は、恨めしそうにアスレインを睨みつけていた。
口元が、小さく動いている。
小声で何か言っているようだ。
「それじゃ聞こえないよ」
剣先を相手に向けながら問いかける。
相手はさらに目を鋭くさせた。怒りで顔がこわばっている。
「お前がッ……! お前がみんなを殺したのか! あんなにッ……良い人達だったのにッ! グスッ」
(泣いた?)
言葉の半ばまで言ったところで、耐えきれなかったのだろう。男の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
その様子は、少しばかりアスレインを動揺させた。
「たかだか数週間程度の関わりでしょう」
「16日と5時間だッ!!」
うんざりとした様子のジュラルに食ってかかり訂正する。涙が地面を濡らした。
「……ノーマンとチャルズは、俺に飯を奢ってくれた。ダレンとデレグは、ポーカーの遊び方を教えてくれた。フィリルとはあまり話さなかったけど、家族思いのいい奴だった。みんないい奴だ!それを知らずに、お前は殺したのか!?」
「そうだね。君みたいにお喋りじゃなかったから」
「……対話を試みる前に、殺したのか?」
信じられないものを見た、と目が見開かれる。アスレインも同じ気持ちだった。
敵として相見えて、これほど長く会話したことはない。
唇の震えは、やがて体全体の震えとなり、彼を揺らした。
怒りで身を包み、けれど我を忘れて飛びかかるわけでもなく、ジッとアスレインを見据えている。
「人が人を殺す道理なんて無い……。話し合えば、解決する道もあっただろうに、あんまりだ……」
男が、両手を構える。
細剣を持った右手を上段に、短剣を持った左手を中段に置いた。
二刀流の構えだ。
「俺の名前はロシェド・フュリー。ここでお前を殺し、彼らへの手向けとする」




