あなたが忘れても、私が覚えている 〜世界を救う代償に私を忘れた勇者と、二度目の初恋を〜
焚き火の爆ぜる音が、静まり返った森に響く。
魔王軍の支配域に入ってから、夜の空気は一段と冷たさを増していた。
外套を深く羽織り直した私は、隣で剣を磨く幼馴染の横顔を盗み見る。
アルス。この国の希望であり、人類最強の勇者。
そして、私のたった一人の幼馴染だ。
「ねえ、見てアルス。雪だよ」
「そうだね、リーナ。初めて見たよ。綺麗だね」
彼はそれ以上答えず、再び剣を磨き始める。
―違う。
私達の住む村に、一度だけ、雪が降ったことがある。
幼い私達は、初めて見る雪に興奮し、一緒に一日中遊びまわった。
大切な思い出だ。だからこそ…
アルスの固有スキル《記憶変換》。
「自らの記憶」を代償に、膨大な魔力を生成する。
本人にとって大切な記憶であるほど、高出力の魔力に変換される。
このスキルの事を知っているのは、彼と私だけ。
「魔物だ! 索敵に引っかかった、総員戦闘準備!」
斥候のサムスが叫ぶ。
闇の向こうから、巨大なガーゴイルの群れが急降下してきた。
魔法使いのリリスが防壁を張り、戦士のモハメドのが前に出る。だが、敵の数は想定を超えていた。
「ちっ、数が多い! アルス!」
「わかっている!」
アルスが立ち上がる。
彼が剣を構え、深く息を吐いた瞬間、彼の周囲に青白い、異常なほどの魔力が渦巻いた。
夜の闇を塗りつぶすほどの輝き。
視界が白く染まる。
アルスの一振りから放たれた斬撃は、山を削るほどの威力を持って、ガーゴイルの群れを一瞬で消滅させた。
圧倒的な力。神の御業。
「さすが勇者様だ! 今のを見たか? これなら魔王だって恐るに足らないぜ!」
モハメドが興奮気味にアルスの肩を叩く。
アルスは少しだけふらつきながらも、いつもの爽やかな笑みを浮かべて応えていた。
誰も気づかない。
彼が今の一撃のために、何を「支払った」のか。
本人でさえ、失ったこと自体を曖昧な霧の向こうへ追いやってしまう。
彼が強く、頼もしい「英雄」になればなるほど、私の知っている「アルス」が死んでいく。
◇
数週間後。魔王城へと続く霊峰の麓。道端に咲く一輪の青い花を見つけ、私は思わず足を止めた。
それは、私たちの故郷の草原に群生していた『星涙草』だった。
「見て、アルス」
「ああ、綺麗な花だね。リーナはこういう寒色系の花が好きなの?」
心臓が、音を立てて凍りついた。
私の好みを「初めて知った」かのような、その真っさらな瞳。
嘘ではない。彼は本当に、忘れてしまったのだ。
私がこの花を髪に飾って笑った日のことも、彼が「リーナによく似合っている」と言って、不器用な手つきで花冠を編んでくれた午後のことも。
◇
魔王城がそびえ立つ魔の山脈に入ると、戦いは日常となった。
アルスの振るう剣は、日に日に鋭さを増していく。
一太刀ごとに真空が弾け、山を割らんばかりの閃光が闇を切り裂く。
その強さに比例するように、彼の中から「私」が零れ落ちていった。
激戦の中での束の間の休息。他の仲間たちが深い眠りについた深夜。私は、見張りを交代したばかりのアルスに歩み寄った。
「アルス、これ……覚えてる?」
私は首元から、革紐に通した簡素な指輪を取り出した。
それは、私たちが十歳の頃、村の祭りで彼が「将来の約束」として私に贈ってくれた、安物の銀細工だ。
アルスは指輪をじっと見つめた。
数秒。十数秒。
やがて、彼の瞳に一瞬の戸惑いが走り、すぐに穏やかな光に変わった。
「綺麗な指輪だね。防御魔法の込められた指輪かな?どこで手に入れたんだっけ?」
心臓が、氷に触れたように冷たくなった。
それは、彼が自分の小遣いを何ヶ月も貯めて買ったものだ。
渡す時に顔を真っ赤にして、「いつか本物を買うまで、これで僕を予約させてほしい」と言った。
私の初恋。彼の初恋。
そのすべてが、消費されたのだ。
「……そう。いいの。ただの古い指輪よ」
私は指輪を服の中に隠した。涙が溢れそうになるのを、必死にこらえる。
アルスは私の様子を気遣うように、隣に座り直した。
「ごめん。何か大切な事を忘れてしまったんだと思う。でも、この力を使わなければ、仲間を、君を、死なせてしまうかもしれない。それだけは、何があっても嫌なんだ」
彼は私の手を握った。
その温もりだけは、昔のアルスのままだ。
けれど、彼が私を大切に思えば思うほど、その「大切さ」が魔力の燃料として優先的に選ばれてしまう。このスキルの呪いは、あまりにも残酷だった。
アルスの見張りの時間が終わり、彼が深い眠りについたのを見て、私は一人、荷物置き場の陰に隠れた。
口元を両手で覆い、声を殺して泣いた。
怖い。
アルスが死ぬことよりも、アルスが私を嫌いになることよりも、ずっと怖い。
私と彼が積み上げてきた十年以上の歳月が、最初から「なかったこと」にされていく。
私がどんなに彼を愛していても、彼の世界の中で私は「ただの旅の仲間の一人」に成り下がっていく。
(私はここにいるのに。あなたの隣に、ずっといるのに……)
◇
魔王城の最奥。玉座の間に満ちる重圧は、皮膚を焼くほどに濃密だった。
魔王の力は、これまでの敵とは次元が違った。アルスが放つ数多の斬撃を霧のように受け流し、嘲笑う。
パーティの中で無事なのは、私とアルスだけ。
そんなアルスもついに膝をついた。
聖剣の光が、今にも消えそうに明滅する。
「……くっ、まだ、足りないのか……」
アルスが自分の胸に手を当てる。
私は、彼の指が震えているのを見た。
勇者スキル《記憶変換》は、対象となる記憶が尽きれば、発動することすらできなくなる。彼の内側にある「燃料」は、もう底を突きかけていた。
沈黙が流れる。
アルスは、ゆっくりと私を振り返った。
その瞳には、今までになかった深い「揺らぎ」があった。
「……リーナ……ごめん」
その一言で、私は察した。
彼が何を代償としようとしているのかを。
彼の中に最後の一滴として残っているのは、私たちが旅に出る前、あの夕焼けの丘で交わした約束の記憶だ。
『世界を救ったら、またここに戻ってこよう。今度は、二人でゆっくりと……』
その記憶こそが、彼をここまで突き動かしてきた原動力。
そして、それを使えば、彼は私という存在の「根源」を失うことになる。
「これを使えば、終わる。……魔王を倒せる」
アルスの声は静かだった。
彼は、私に許可を求めていた。
世界を救うために、私との最後の絆を差し出していいのか、と。
「…………うん」
私は笑った。
視界が涙で歪んで、彼の顔がよく見えない。けれど、精一杯、一番綺麗な笑顔を作ったつもりだ。
「いいよ、アルス。……使って」
「……ごめん。……君とのことを、何ひとつ……思い出せなくなる」
「大丈夫よ。私が、全部覚えてるから。あなたが忘れた分まで、私が一生かけて、あなたの隣で語り継いであげるから」
アルスは、一瞬だけ寂しそうに目を細めた。
そして、力強く頷く。
「……ああ。……行ってくる」
瞬間。
アルスの全身から、これまでの比ではない、純白の閃光が爆発した。
彼が大切に抱え続けてきた、最後の一欠片の愛が、世界を救うための絶対的な力へと変換される。
余裕の笑みを浮かべていた魔王の目が驚愕に開かれる。
「貴様!一体何をした! その魔力、たかが人間風情に纏える量ではない!何を差し出した!」
「おおおおおおおっ!」
咆哮と共に、アルスが跳んだ。
一閃。
魔王の心臓を、白銀の光が貫く。
断末魔の叫びさえ光の中に消え、城全体が激しい振動と共に崩落し始めた。
光の渦の中で、私はアルスの姿を追い続けた。
彼が最後にこちらを向いた時、その瞳から、私を知る「光」が完全に消失したのが分かった。
世界は救われた。
そして、私の愛した「アルス」は、今、この瞬間、完全に死んだのだ。
◇
私は、崩れた石柱に背を預けて座り込むアルスのもとへ、一歩ずつ歩み寄る。
彼の周囲には、もはやあの白銀の魔力は漂っていない。使い古された剣が傍らに転がり、彼は呆然と自分の掌を見つめていた。
「……終わったのね」
私の声に、彼がゆっくりと顔を上げた。
その瞳に宿っているのは、敵意でも、親愛でも、安堵でもなかった。
それは、街ですれ違っただけの「見知らぬ誰か」に向ける、真っさらで礼儀正しい光だった。
「……はい。そのようですね。……怪我はありませんか、お嬢さん」
お嬢さん。
リーナ、ではなく。
胸を抉られるような痛みがあったけれど、私はそれを無理やり飲み込んだ。
泣かないと決めたのだ。
彼が世界のために、そして私のために差し出した犠牲を、私が涙で汚すわけにはいかない。
「ええ、私は大丈夫。……お疲れ様、アルス」
「……あなたは、僕の名前を知っているのですね」
彼は不思議そうに、けれどどこか寂しそうに微笑んだ。
今の彼にとって、自分は「名前だけを知っている空っぽの男」に過ぎないのだ。
「どこかで、お会いしましたか? なんだか、あなたがとても悲しそうな顔をしているので……僕が、何か失礼なことをしてしまったのではないかと」
「……ううん。会ったこと、あるわよ。ずっと一緒に旅をしていた仲間だもの。ちょっと……あなたが、あまりにかっこよく戦うから、感動しちゃっただけ」
私は努めて明るい声を出した。
嘘を吐く。彼を守るための、優しい嘘だ。
もしここで「私たちは愛し合っていたのよ」なんて伝えても、記憶のない彼を追い詰めるだけだ。愛とは、強要するものではない。
「……そうですか。仲間。……それは、心強い」
アルスは立ち上がろうとして、足をもつれさせた。
私は迷わずその肩を支える。
かつては彼が私を支え、守ってくれた。これからは、私が彼を支える番だ。
「これから、どうするつもり? 世界中、あなたが救った人たちが、あなたを待っているわよ」
私の問いに、アルスは遠い空を見上げた。
「わかりません。何も思い出せない。自分がどこで生まれ、誰を愛していたのか。……ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚だけがあるんです」
彼は自分の胸を、もどかしそうに押さえた。
◇
世界が平和を取り戻してから、ひと月が経った。
私たちは、喧騒の続く王都を離れ、ある場所へと向かっていた。
緩やかな斜面を登り切ると、そこには見渡す限りの草原が広がっている。風が吹くたびに、青い『星涙草』が波のように揺れ、甘い香りを運んでくる。
かつて二人が旅立ちを誓い、そして最後に「燃やした」記憶の場所。
「……綺麗な場所ですね。リーナさん」
隣を歩くアルスが、感嘆の声を漏らした。
今の彼は、王都で英雄として崇められる「勇者」ではなく、一人の青年として穏やかな日々を送っている。
私との関係も、この一ヶ月で「気の置けない親友」のような距離までようやく近づいたところだった。
「ここはね、あなたの故郷で一番見晴らしがいい丘なのよ」
私は、何気ないふりをして言った。
彼の中には、まだ何も戻っていない。私が何を語っても、それは彼にとって「誰かから聞いた物語」に過ぎないのだ。
ふと、アルスが立ち止まった。
風に煽られた彼の手が、不意に自分のこめかみを押さえる。
「……アルス?」
「……いえ。少し、目眩がしただけです」
彼は眉をひそめ、一点を見つめていた。
それは、丘の頂上に立つ一本の大きな椚の木だった。
「……変だ。ここに来たのは初めてのはずなのに。……あの木の下に、誰かが座っているような気がする。笑いながら、僕の名前を呼んでいる女の子が……」
アルスの声が震え始める。
記憶は、一度消えれば二度と戻らない。それが《記憶変換》の絶対的なルールだ。
「リーナ……。……僕は……」
彼の瞳から、一筋の涙が溢れた。
本人はなぜ泣いているのか分かっていない。
ただ、魂が、理屈を超えて激しく揺さぶられている。
「……約束、した?」
アルスが、掠れた声で呟いた。
記憶が戻ったわけではない。断片的な情景が、光の残滓のように脳裏を掠めただけかもしれない。
それでも、彼は私の方を向き、震える指先で、私の胸元に隠された銀の指輪に触れた。
「……思い出せなくて、ごめん。……でも、ここに来て分かった。僕は、君に……もう一度、会いたかったんだ」
それは、記憶としての「再会」ではなかった。
何も持たない一人の人間として、再び私を選び直した「宣誓」だった。
私は、堪えていた涙を隠すのをやめた。
彼の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくる。
「……う、うん。……おかえり、アルス」
アルスは戸惑いながらも、優しく私の肩を抱き寄せた。
その温もりは、あの頃と同じで。
けれど、これから積み重なっていくのは、かつての思い出の続きではない。
私たちが今日から新しく書き記していく、真っ白な歴史だ。
「リーナ。……今の僕には、何もありません。君との思い出も、君が捧げてくれた時間に見合うだけの言葉も」
アルスは一度言葉を切り、真っ直ぐに私の目を見た。
「……だから。……これから、よろしくお願いします。僕に、もう一度だけ、君を隣で守る権利をください」
差し出された右手を、私は両手で包み込むように握りしめる。
記憶が愛を証明するのではない。
たとえ何度忘れても、何度でも目の前のあなたを愛すると決めること。その「選択」こそが、私たちの愛の正体なのだ。
「はい。……喜んで」
丘の上、吹き抜ける風が二人の声をさらっていく。
失ったものはあまりにも大きい。
けれど、私たちの手の中には、新しく芽吹いたばかりの、小さな、けれど確かな「これから」が握られていた。
あなたが忘れても、私が覚えている。
そしていつか、私たちが共に新しい思い出で溢れた時。
その時は、二人で笑って話しましょう。
――「はじめまして」から始まった、二度目の初恋の物語を。




