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あなたが忘れても、私が覚えている 〜世界を救う代償に私を忘れた勇者と、二度目の初恋を〜

作者: 唯乃
掲載日:2026/02/21

 焚き火の爆ぜる音が、静まり返った森に響く。


 魔王軍の支配域に入ってから、夜の空気は一段と冷たさを増していた。

 外套を深く羽織り直した私は、隣で剣を磨く幼馴染の横顔を盗み見る。


 アルス。この国の希望であり、人類最強の勇者。


 そして、私のたった一人の幼馴染だ。


「ねえ、見てアルス。雪だよ」


「そうだね、リーナ。初めて見たよ。綺麗だね」


 彼はそれ以上答えず、再び剣を磨き始める。


 ―違う。


 私達の住む村に、一度だけ、雪が降ったことがある。

 幼い私達は、初めて見る雪に興奮し、一緒に一日中遊びまわった。

 大切な思い出だ。だからこそ…


 アルスの固有スキル《記憶変換》。

 「自らの記憶」を代償に、膨大な魔力を生成する。

 本人にとって大切な記憶であるほど、高出力の魔力に変換される。


 このスキルの事を知っているのは、彼と私だけ。


「魔物だ! 索敵に引っかかった、総員戦闘準備!」


 斥候のサムスが叫ぶ。

 闇の向こうから、巨大なガーゴイルの群れが急降下してきた。


 魔法使いのリリスが防壁を張り、戦士のモハメドのが前に出る。だが、敵の数は想定を超えていた。


「ちっ、数が多い! アルス!」


「わかっている!」


 アルスが立ち上がる。

 彼が剣を構え、深く息を吐いた瞬間、彼の周囲に青白い、異常なほどの魔力が渦巻いた。


 夜の闇を塗りつぶすほどの輝き。


 視界が白く染まる。


 アルスの一振りから放たれた斬撃は、山を削るほどの威力を持って、ガーゴイルの群れを一瞬で消滅させた。


 圧倒的な力。神の御業。


「さすが勇者様だ! 今のを見たか? これなら魔王だって恐るに足らないぜ!」


 モハメドが興奮気味にアルスの肩を叩く。

 アルスは少しだけふらつきながらも、いつもの爽やかな笑みを浮かべて応えていた。


 誰も気づかない。

 彼が今の一撃のために、何を「支払った」のか。


 本人でさえ、失ったこと自体を曖昧な霧の向こうへ追いやってしまう。


 彼が強く、頼もしい「英雄」になればなるほど、私の知っている「アルス」が死んでいく。





 数週間後。魔王城へと続く霊峰の麓。道端に咲く一輪の青い花を見つけ、私は思わず足を止めた。

 それは、私たちの故郷の草原に群生していた『星涙草』だった。


「見て、アルス」


「ああ、綺麗な花だね。リーナはこういう寒色系の花が好きなの?」


 心臓が、音を立てて凍りついた。


 私の好みを「初めて知った」かのような、その真っさらな瞳。


 嘘ではない。彼は本当に、忘れてしまったのだ。

 私がこの花を髪に飾って笑った日のことも、彼が「リーナによく似合っている」と言って、不器用な手つきで花冠を編んでくれた午後のことも。





 魔王城がそびえ立つ魔の山脈に入ると、戦いは日常となった。


 アルスの振るう剣は、日に日に鋭さを増していく。

 一太刀ごとに真空が弾け、山を割らんばかりの閃光が闇を切り裂く。

 その強さに比例するように、彼の中から「私」が零れ落ちていった。


 激戦の中での束の間の休息。他の仲間たちが深い眠りについた深夜。私は、見張りを交代したばかりのアルスに歩み寄った。


「アルス、これ……覚えてる?」


 私は首元から、革紐に通した簡素な指輪を取り出した。


 それは、私たちが十歳の頃、村の祭りで彼が「将来の約束」として私に贈ってくれた、安物の銀細工だ。


 アルスは指輪をじっと見つめた。


 数秒。十数秒。


 やがて、彼の瞳に一瞬の戸惑いが走り、すぐに穏やかな光に変わった。


「綺麗な指輪だね。防御魔法の込められた指輪かな?どこで手に入れたんだっけ?」


 心臓が、氷に触れたように冷たくなった。

 それは、彼が自分の小遣いを何ヶ月も貯めて買ったものだ。


 渡す時に顔を真っ赤にして、「いつか本物を買うまで、これで僕を予約させてほしい」と言った。


 私の初恋。彼の初恋。


 そのすべてが、消費されたのだ。


「……そう。いいの。ただの古い指輪よ」


 私は指輪を服の中に隠した。涙が溢れそうになるのを、必死にこらえる。


 アルスは私の様子を気遣うように、隣に座り直した。


「ごめん。何か大切な事を忘れてしまったんだと思う。でも、この力を使わなければ、仲間を、君を、死なせてしまうかもしれない。それだけは、何があっても嫌なんだ」


 彼は私の手を握った。


 その温もりだけは、昔のアルスのままだ。


 けれど、彼が私を大切に思えば思うほど、その「大切さ」が魔力の燃料として優先的に選ばれてしまう。このスキルの呪いは、あまりにも残酷だった。


 アルスの見張りの時間が終わり、彼が深い眠りについたのを見て、私は一人、荷物置き場の陰に隠れた。


 口元を両手で覆い、声を殺して泣いた。


 怖い。


 アルスが死ぬことよりも、アルスが私を嫌いになることよりも、ずっと怖い。


 私と彼が積み上げてきた十年以上の歳月が、最初から「なかったこと」にされていく。


 私がどんなに彼を愛していても、彼の世界の中で私は「ただの旅の仲間の一人」に成り下がっていく。


(私はここにいるのに。あなたの隣に、ずっといるのに……)


 

 

 

 魔王城の最奥。玉座の間に満ちる重圧は、皮膚を焼くほどに濃密だった。


 魔王の力は、これまでの敵とは次元が違った。アルスが放つ数多の斬撃を霧のように受け流し、嘲笑う。


 パーティの中で無事なのは、私とアルスだけ。

 そんなアルスもついに膝をついた。

 聖剣の光が、今にも消えそうに明滅する。


「……くっ、まだ、足りないのか……」


 アルスが自分の胸に手を当てる。


 私は、彼の指が震えているのを見た。


 勇者スキル《記憶変換》は、対象となる記憶が尽きれば、発動することすらできなくなる。彼の内側にある「燃料」は、もう底を突きかけていた。


 沈黙が流れる。


 アルスは、ゆっくりと私を振り返った。


 その瞳には、今までになかった深い「揺らぎ」があった。


「……リーナ……ごめん」


 その一言で、私は察した。

 彼が何を代償としようとしているのかを。


 彼の中に最後の一滴として残っているのは、私たちが旅に出る前、あの夕焼けの丘で交わした約束の記憶だ。


『世界を救ったら、またここに戻ってこよう。今度は、二人でゆっくりと……』


 その記憶こそが、彼をここまで突き動かしてきた原動力。


 そして、それを使えば、彼は私という存在の「根源」を失うことになる。


「これを使えば、終わる。……魔王を倒せる」


 アルスの声は静かだった。


 彼は、私に許可を求めていた。


 世界を救うために、私との最後の絆を差し出していいのか、と。


「…………うん」


 私は笑った。


 視界が涙で歪んで、彼の顔がよく見えない。けれど、精一杯、一番綺麗な笑顔を作ったつもりだ。


「いいよ、アルス。……使って」


「……ごめん。……君とのことを、何ひとつ……思い出せなくなる」


「大丈夫よ。私が、全部覚えてるから。あなたが忘れた分まで、私が一生かけて、あなたの隣で語り継いであげるから」


 アルスは、一瞬だけ寂しそうに目を細めた。

 そして、力強く頷く。


「……ああ。……行ってくる」


 瞬間。

 アルスの全身から、これまでの比ではない、純白の閃光が爆発した。

 彼が大切に抱え続けてきた、最後の一欠片の愛が、世界を救うための絶対的な力へと変換される。


 余裕の笑みを浮かべていた魔王の目が驚愕に開かれる。


「貴様!一体何をした! その魔力、たかが人間風情に纏える量ではない!何を差し出した!」


「おおおおおおおっ!」


 咆哮と共に、アルスが跳んだ。


 一閃。


 魔王の心臓を、白銀の光が貫く。


 断末魔の叫びさえ光の中に消え、城全体が激しい振動と共に崩落し始めた。


 光の渦の中で、私はアルスの姿を追い続けた。


 彼が最後にこちらを向いた時、その瞳から、私を知る「光」が完全に消失したのが分かった。


 世界は救われた。


 そして、私の愛した「アルス」は、今、この瞬間、完全に死んだのだ。





 私は、崩れた石柱に背を預けて座り込むアルスのもとへ、一歩ずつ歩み寄る。


 彼の周囲には、もはやあの白銀の魔力は漂っていない。使い古された剣が傍らに転がり、彼は呆然と自分の掌を見つめていた。


「……終わったのね」


 私の声に、彼がゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に宿っているのは、敵意でも、親愛でも、安堵でもなかった。


 それは、街ですれ違っただけの「見知らぬ誰か」に向ける、真っさらで礼儀正しい光だった。


「……はい。そのようですね。……怪我はありませんか、お嬢さん」


 お嬢さん。

 リーナ、ではなく。


 胸を抉られるような痛みがあったけれど、私はそれを無理やり飲み込んだ。

 泣かないと決めたのだ。

 彼が世界のために、そして私のために差し出した犠牲を、私が涙で汚すわけにはいかない。


「ええ、私は大丈夫。……お疲れ様、アルス」


「……あなたは、僕の名前を知っているのですね」


 彼は不思議そうに、けれどどこか寂しそうに微笑んだ。


 今の彼にとって、自分は「名前だけを知っている空っぽの男」に過ぎないのだ。


「どこかで、お会いしましたか? なんだか、あなたがとても悲しそうな顔をしているので……僕が、何か失礼なことをしてしまったのではないかと」


「……ううん。会ったこと、あるわよ。ずっと一緒に旅をしていた仲間だもの。ちょっと……あなたが、あまりにかっこよく戦うから、感動しちゃっただけ」


 私は努めて明るい声を出した。


 嘘を吐く。彼を守るための、優しい嘘だ。


 もしここで「私たちは愛し合っていたのよ」なんて伝えても、記憶のない彼を追い詰めるだけだ。愛とは、強要するものではない。


「……そうですか。仲間。……それは、心強い」


 アルスは立ち上がろうとして、足をもつれさせた。

 私は迷わずその肩を支える。

 かつては彼が私を支え、守ってくれた。これからは、私が彼を支える番だ。


「これから、どうするつもり? 世界中、あなたが救った人たちが、あなたを待っているわよ」


 私の問いに、アルスは遠い空を見上げた。


「わかりません。何も思い出せない。自分がどこで生まれ、誰を愛していたのか。……ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚だけがあるんです」


 彼は自分の胸を、もどかしそうに押さえた。





 世界が平和を取り戻してから、ひと月が経った。


 私たちは、喧騒の続く王都を離れ、ある場所へと向かっていた。


 緩やかな斜面を登り切ると、そこには見渡す限りの草原が広がっている。風が吹くたびに、青い『星涙草』が波のように揺れ、甘い香りを運んでくる。


 かつて二人が旅立ちを誓い、そして最後に「燃やした」記憶の場所。


「……綺麗な場所ですね。リーナさん」


 隣を歩くアルスが、感嘆の声を漏らした。


 今の彼は、王都で英雄として崇められる「勇者」ではなく、一人の青年として穏やかな日々を送っている。

 私との関係も、この一ヶ月で「気の置けない親友」のような距離までようやく近づいたところだった。


「ここはね、あなたの故郷で一番見晴らしがいい丘なのよ」


 私は、何気ないふりをして言った。

 彼の中には、まだ何も戻っていない。私が何を語っても、それは彼にとって「誰かから聞いた物語」に過ぎないのだ。


 ふと、アルスが立ち止まった。


 風に煽られた彼の手が、不意に自分のこめかみを押さえる。


「……アルス?」


「……いえ。少し、目眩がしただけです」


 彼は眉をひそめ、一点を見つめていた。

 それは、丘の頂上に立つ一本の大きな椚の木だった。


「……変だ。ここに来たのは初めてのはずなのに。……あの木の下に、誰かが座っているような気がする。笑いながら、僕の名前を呼んでいる女の子が……」


 アルスの声が震え始める。


 記憶は、一度消えれば二度と戻らない。それが《記憶変換》の絶対的なルールだ。


「リーナ……。……僕は……」


 彼の瞳から、一筋の涙が溢れた。


 本人はなぜ泣いているのか分かっていない。

 ただ、魂が、理屈を超えて激しく揺さぶられている。


「……約束、した?」


 アルスが、掠れた声で呟いた。


 記憶が戻ったわけではない。断片的な情景が、光の残滓のように脳裏を掠めただけかもしれない。

 それでも、彼は私の方を向き、震える指先で、私の胸元に隠された銀の指輪に触れた。


「……思い出せなくて、ごめん。……でも、ここに来て分かった。僕は、君に……もう一度、会いたかったんだ」


 それは、記憶としての「再会」ではなかった。


 何も持たない一人の人間として、再び私を選び直した「宣誓」だった。


 私は、堪えていた涙を隠すのをやめた。


 彼の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくる。


「……う、うん。……おかえり、アルス」


 アルスは戸惑いながらも、優しく私の肩を抱き寄せた。


 その温もりは、あの頃と同じで。


 けれど、これから積み重なっていくのは、かつての思い出の続きではない。

 

 私たちが今日から新しく書き記していく、真っ白な歴史だ。


「リーナ。……今の僕には、何もありません。君との思い出も、君が捧げてくれた時間に見合うだけの言葉も」


 アルスは一度言葉を切り、真っ直ぐに私の目を見た。


「……だから。……これから、よろしくお願いします。僕に、もう一度だけ、君を隣で守る権利をください」


 差し出された右手を、私は両手で包み込むように握りしめる。


 記憶が愛を証明するのではない。


 たとえ何度忘れても、何度でも目の前のあなたを愛すると決めること。その「選択」こそが、私たちの愛の正体なのだ。


「はい。……喜んで」


 丘の上、吹き抜ける風が二人の声をさらっていく。


 失ったものはあまりにも大きい。

 けれど、私たちの手の中には、新しく芽吹いたばかりの、小さな、けれど確かな「これから」が握られていた。


 あなたが忘れても、私が覚えている。


 そしていつか、私たちが共に新しい思い出で溢れた時。


 その時は、二人で笑って話しましょう。


 ――「はじめまして」から始まった、二度目の初恋の物語を。




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