第5話:深淵を覗く時、深淵もまたこちらを見ている(たぶん)
「あ、すみません。そこ、僕が掃除する場所なので、ちょっと失礼しますね」
現れたのは、これまた地味な顔立ちの男子生徒だった。 名前は……確か、サトウとかスズキとか、そんな感じのやつ。Dクラスですらなく、ただの「清掃係」として雇われているモブだ。
彼は俺たちの足元を、実にていねいに、無駄のない動きで掃き清めていく。 俺はその光景を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……アリス、見ろ。あいつの動きを」
「え? 掃除してるだけでしょ?」
「違う。あいつ、箒を動かす瞬間に『空気抵抗を完全にゼロ』にしてる。見てみろ、埃一つ舞い上がってない。それどころか、箒が通った後の空気が、分子レベルで整列してやがる……!」
「……え、嘘でしょ? ただの用務員さんじゃないの?」
俺は驚愕した。 彼はただの背景だ。だが、その「背景としてのクオリティ」を維持するために、彼は無意識に(あるいは超意識的に)空間の清浄化を極めている。 彼が歩いた後には、一欠片のチリも、雑念すらも残らない。
「(……なんてやつだ。俺が指からビーム出して喜んでる間に、あいつは『日常』という名の静寂を極めてやがる。あれこそが真のモブ……究極の背景技術だ!)」
俺は感動のあまり、握っていたパンの手が震えた。 俺たちはまだ甘い。目立ちたくないと言いつつ、派手な魔法で魔獣を消したりして、どこかで「個」を主張していた。 だが、彼は違う。彼は世界の一部になりきっている。
「……あの、掃除終わりましたので。お邪魔しました」
彼はペコリと頭を下げて去っていった。 その去り際、彼の足跡は地面に残っていなかった。地面が「彼が踏んだ」ことすら認識していないのだ。
「……負けた。完敗だ」
「何に!? 何に負けたのよ!? あんたの基準がもう異次元すぎてついていけないんだけど!」
「アリス、修行の内容を変えるぞ。次は**『気配を消す』んじゃない。『世界に許される』**んだ。あの清掃員さんのように、そこにいても誰も違和感を抱かない、究極の同化を目指す!」
俺は立ち上がり、去りゆく清掃員の背中に向かって、心の中で深く敬礼した。 この学園には、まだまだ名もなき達人が潜んでいるらしい。
「よし、まずはあの箒の動きからコピーだ! アリス、お前は雑巾で『因果律』を拭き取れ!」
「できるわけないでしょ!!」
俺たちの「モブ道」は、まだ始まったばかりだった。




