浮気の罪って、恐ろしいでしょう?
「私の可愛いシャオリア。よく聞きなさい。あなたのお父様が……な理由はね」
子どもの頃からお母様によく聞かされた話がある。
それを今思い出したのは、私の婚約者であるアッシュの浮気現場を目撃してしまったからでしょう。
よりによって事後。
行為の最中でなかっただけマシということにしておくことにします。
「無粋な女だ。人が楽しんでいるときに」
機嫌悪そうに頭を掻きながらベッドから降りると、最低限衣服を整える。
「シャオリア、ここを片付けておけ。終わるまで私の前に姿を見せるな」
私をメイドか何かと勘違いしているらしい物言いで、同衾していた少女の手を引いて部屋を出ていった。
この間デートしていた女性とは違う方でしたね。
まったく、お盛んなことで。
「また浮気したの?! あの発情猿!」
「イーファ、声が大きいですよ」
イーファは私の幼馴染。
伯爵家同士、姉妹のように育ってきて、こうして頻繁にお茶を飲む大の仲良し。
「いいわよ別に! あいつがそこら中の女に手を出してることなんてみんな知ってるんだから! この前はメリッサ、その前はユフィリア、その前は……あーもう、あいつが公爵の息子じゃなかったら、あたしがメッタメタにしてやるのに!」
「暴力はダメですよ。淑女たるもの、いつ何時も可憐でないと」
「シャオリーはもっと怒っていいの! なんでシャオリーみたいないい子とあの馬鹿が婚約なんて」
「公爵家から直々のお話だもの。無下には出来ません」
「政略結婚ってやつ? 下級貴族のツラいところよね……。それにしても、婚約前からあいつの女癖の悪さはわかってたんでしょ? こんな話、いくら断りづらいからってシャオリーのお母様が黙ってないんじゃないの?」
まあ、それはそうなんですけど。
「いろいろあるんですよ」
「うーん……」
イーファは納得いかないように苦い顔で唸った。
「そう膨れないで。せっかくのお茶会なんだから、楽しいお話をしましょう。そうだ、久しぶりにイーファのことを占いましょうか」
「ほんと? シャオリーの占いよく当たるから好き」
「何を占いましょうか」
と、私は紅茶のカップの縁を指でなぞった。
数時間後、楽しい時間はあっという間に過ぎ、イーファは名残惜しそうに馬車に乗った。
「何か困ったことがあったら何でも言って。泣きたいときにはあたしが胸を貸してあげるから」
「フフ、ありがとうイーファ」
「いいこと考えた。いっそのことシャオリーも他に男を見つけちゃいなさいよ。向こうが浮気するならシャオリーだって」
「それはダメです」
私は語気を強めにイーファに微笑んだ。
「ダメですよイーファ。浮気の罪は、恐ろしいんですから」
親が勝手に決めた婚約。
それも込みで、アッシュは最初から私に不満を持っていた。
可愛げが無く、自分に靡かず、ついでに容姿も彼の好みではないらしい。
「私の視界に入るな。そのみすぼらしい黒い髪、つり上がった目。まるで魔女だ。見るだけで気分が落ち込む」
デートはおろか、手を繋いだことも、まともに会話したことも無い。
不貞を繰り返しながらも私には身体さえ求めようとしないのだから。
私への周囲からのイメージは、「公爵令息に相手にされない憐れな令嬢」、「見向きもされない不遇に耐え、それでも彼を愛そうと、愛されようとする健気な婚約者」といったところ。
…………見当違いも甚だしい。
あんな男に埃程度の愛情もあるものですか。
もうすぐ頃合いのようですし、そろそろ彼には現実というものを教えてあげましょう。
数日後の夜、近況報告を兼ねた定期的な食事会が開かれた。
テーブルの向かいでは、アッシュが仏頂面で食事をしている。
目は合わず、会話もない。
早々に食事を終わらせて退席するつもりらしい。
そんな最中、彼が頭を搔いているのを見やって、私は進言した。
「食事中にそのようになさるのは、あまり行儀がいいとは言えませんよ」
すると当然、キッと鋭い視線を向けられる。
「いっぱしに婚約者気取りか? 弁えろシャオリア。私はいつ婚約を破棄しても構わないんだぞ」
「弁えた方がよろしいのはアッシュ様の方では? あまりお遊びが過ぎますと、大変なことになりますよ」
「なんだと? 伯爵家の令嬢如きが私に意見するつもりか?」
「いいえ、ただの忠告です」
「ハッ、惨めな女だ。そうまでして自分の気を惹こうとは。よほど私に気に入られたいと見える」
アッシュは手をテーブルに叩きつけた。
「この際だから言っておく。私は貴様を愛するつもりなど一切無い。元々父上と母上が勝手に結んだ婚約だ。伯爵家がどんな汚い手で我が公爵家に言い寄ったかは知らないが、貴様のような女など妾にする価値も無い」
我が公爵家、ですか。
もう自分が家督を継いだかのような物言い、聞く人が聞けば不敬に問われてしまいますよ。
言及するだけ無駄なのでしませんが。
「男に媚びへつらいたいのなら、いっそ娼館にでも勤めたらどうだ?」
「…………」
いいですよね?
散々言われたんですから。
散々言い返しても。
「アッシュ様は、私の母についてご存知ですか?」
「リーシェン夫人だろう。隣国の皇帝に仕えた女官だったとかいう。今では落ちぶれた伯爵家の夫人だが」
「母の一族は代々とある営みにより国を栄えさせてきました。まじない師……占術を得意とする一族です」
「ようはペテン師だろう。くだらない」
「そう馬鹿にしたものでもありません。水晶、カード、筮竹などの道具を使えば、吉兆凶兆、陰陽八卦、視ようと思えば先の未来まで視ることが出来ますから。……と、ここまでは普通の占い師でも同じようなことが言えます。占術は占術。当たるも当たらぬも、日頃の行い運次第。ですが、まじない師は違うのです」
「違う?」
「まじないは呪いと書き、占術は転じて呪術となる。つまりは、他者を呪うことで繁栄を築いてきた一族ということです」
そこまで言って、アッシュの顔色が変わった。
「フン、何が呪いだ。バカバカしい。与太話なら他所でやれ。私は次の予定がある」
「もう少しだけ傾聴をお願いします。他の女性とまぐわうよりは、有意義な時間が過ごせるかと思いますから」
「貴様、よほど私の寵愛を受けたいと見えるな。そうまでして私の気を惹きたいか」
女に言い寄られて悪い気がしないのか、アッシュはどこか誇らしげに鼻を鳴らした。
「では失礼して。呪いと一口に言っても色々です。命を蝕むものからちょっとした嫌がらせまで。効果が大きいほどそれに伴う代償も大きくなり、呪い師の負担が大きくなります。呪術の詳細は私たちの一族しか知りませんが、呪い師の存在については、一部にのみ秘匿情報として扱われています。皇帝やこの国の王家、そしてごく僅かな貴族にも」
そう例えば、公爵家のような大貴族も。
「彼らは時折私たちに依頼するのです。呪ってほしい相手がいる、と」
アッシュは空気が変わったのを感じ、微かに喉を鳴らした。
「もちろんこの平和な世の中、誰かを呪い殺してほしいなんてことはそう頼まれません。お母様はともかく、私にそんな強い力はありませんし。ですが、誰かを呪うくらいのことは、私にも出来るんです」
そういえば、と私は小さく微笑んだ。
「頭、まだ痒いですか?」
アッシュは椅子を倒す勢いで立ち上がり、両手で頭を押さえた。
「き、貴様、まさか」
さっきまでの横柄な態度はどこへやら。
額には冷や汗を浮かべている。
「私を……わ、私を呪ったのか! なんて女だ! この魔女め! 恥を知れ! こんなことをして、ただで済むと思うなよ!」
「その言葉はそのままお返しします」
水の入ったグラスを手に取り、そっと縁を指で撫でる。
すると、アッシュは頭に違和感を覚え始めた。
「あ、頭が痒い! なんだ、これは! 貴様私に、いったい何をした!」
「なんてことはありません。私以外の女性と懇意にする度、少しずつあなたを蝕む呪いをかけたというだけです。さて、婚約してからというもの、あなたはどれだけの女性と褥を共にしたでしょう」
「ああ痒い! 頭の中を虫が這っているようだ! 気持ち悪い! た、助けてくれシャオリア!」
「あらあら大変ですね。あまり掻きむしらない方がよろしいですよ」
頭の中に虫が湧いて、脳と頭蓋を食い破る。
……そんな気色悪い呪術、好んで使うわけがないでしょう。
しかしアッシュの無様な顔ったら。
情けなく震えてみっともない。
「心配しなくても、死ぬような呪いではありません。このまま女癖が悪いままなら……ただ少し、禿げるだけです」
「たすっ、助け……へ? は、禿げる……?」
「はい。それはもうツルツルに。頭頂部から」
もっと具体的に言うなら側頭部と後頭部を残した変な禿げ散らかし方を経由します。
「へ、あ……」
「何を呆けているのかは知りませんが。とにかく、他の方に移り気などしなければいいだけです」
まあ、元の体質が体質なら将来的には、ですが。
そこは私の管轄外なので。
「ああ、そうです。あなたを呪ってほしいと頼んだのは、あなたのご両親です。息子の浮気癖を直してほしい、と。貴族の体裁のためか、あなたに酷い仕打ちを受けたご令嬢の一人に泣きつかれたか、そこはあずかり知らぬところですけど。フフ、さあアッシュ様。短い期間の婚約ではありますが、しっかりと矯正していきましょう。尤も、禿げてもいいのなら話は別ですが」
「しゃ、シャオリ、ア……」
「ああ、べつに私を愛したからといって呪いが解けることは無いので。しっかりとご自身の振る舞いを見つめ直してください。たとえあなたが禿げようと、私は笑うことはしませんから。ねえ、アッシュ様。浮気の罪って、恐ろしいでしょう?」
その後アッシュは人が変わったように態度を改めた。
とはいえ、宣告の後も数度は女癖の悪さを発揮したけれど。
どうやら最初は半信半疑だった彼も、日々抜け落ちる髪の量にようやく危機感を覚えたらしい。
運命の人を見つけたと、その女性を愛すると決めて以降、呪いに悩まされることはなくなった。
それでもだいぶスカスカな毛量にはなったようだけど、一応元婚約者としては、お幸せにと願っておきましょう。
「ちゃんと役目を果たせたようねシャオリア」
「お母様に教えてもらったあの呪い、効果はてきめんでした」
「それはそうよ。私が実際に試してるんだから。ねえ、あなた」
「ハッハッハ」
お父様、今日も今日とてなんて眩しい頭部。
まだお若いのに嘆かわしい。
「この人も昔は女癖が酷くて。だから禿げる呪いをかけたのに。結局禿げるまで浮気し続けたのよ」
「人は髪ではないからね」
格好つけたつもりでしょうか。
「いいのですかそれで?」
「私は結局、リーシェンが運命の女性だと気付くまでに時間がかかってしまっただけ。この愛に偽りも後悔も無いよ」
「はあ、そうですか。ところでお父様は見事にツルツルになってしまったわけですが、お母様は何故こんなお父様と結婚を?」
「だって、可愛いじゃない禿げてるのって」
ただの禿げ好きじゃないんですかそれ。
この呪いって、もしかして私利私欲のために作られたんじゃ……いえ、どうでもいいことですね。
「それにこの人は禿げてても格好良いもの。シャオリアも、恋をするならお父様みたいな人を選びなさい」
「そうですね」
でもやっぱり、浮気しない人が一番いいと思います。
願わくばそんな方と出会えますように。
浮気の罪は、恐ろしいですからね。