風天法師
三沢平四郎は北国越後の新発田藩で十六歳の小姓として十代藩主の溝口直諒公に仕えていた。
三月の殿様江戸入りに伴い、籠の横に従って雑務をこなしていたが、会津を通り白河を越えた辺りで、空に一匹の竜を見た。
「お殿様、竜です。天空に竜がおります」
平四郎の驚いた声に殿様は「止めよ」と四人の駕籠かきに停止を命じた。殿様自ら戸を開けられたので、平四郎は恐縮しつつも、さっと草履を地面にそろえた。
立ち上がった殿様は悠々と大空を見廻し「あれだな」と右手を上げた。
平四郎の見つけた竜だ。かなりの上空で、ドジョウのような大きさだ。
供の一行が皆それぞれに天を仰ぐと、竜はぐるぐるぐるりと三度、円を描いた。
すると、突風とともに地上に向かって白い竜巻が伸びて来た。
突然の事に、皆があれよあれよと言う間にも地面に達し、行列の横合いから殿様目掛けてまっしぐらに向かって来た。
「大変だ!」
平四郎は殿様を守ろうと必死だった。若いとは馬鹿なものだ。竜もドジョウも一緒だと勝手な理由を付けて、路端の竹竿を拾い、ただ一人竜巻に向かって走り「えぃ」と一気に突き刺した。
途端に平四郎は大空へと巻き上げられた。
回転して上下逆さまになり、ただ一心に殿様を探すと、目の端に殿様が「平四郎!」と叫んでいるのが映った。
一瞬後、平四郎が気付くと突風も回転も止んでいた。そこは一面雪のような白い大地で、草木一本たりとも無かった。これは、自分はもう死んで、あの世なのだと思った。
殿様は無事かと考えた。見える範囲では、あの世には来ていない。
「お殿様をお守り出来て良かった」
突然のお別れとご無事にはらりと涙した。
「お前だな」
声が聞こえた直後に、どこからか鬼が出現した。
「やられたー、鬼だ、地獄だったか」
平四郎は己を疑った。まだ十六歳、人を殺めてもいない。それなのに鬼が出た。地獄に来てしまったのだと思った。
「おいおい、地獄じゃない、天界じゃ。わしは風神じゃよ」
風神は「ほら」と風を起こして見せた。一陣の風は白い地面にぽっかりと穴を開けた。
どうやらここは雲の上らしい。穴から下をのぞくと地上の青い山河が見えた。
「俺がなぜ天界におるのだ?」
鬼と風神とは、何が違うのか。まるで無礼な態度で質問した。
「わしの使う竜が見えたのは、おぬしと殿様だけじゃ。話してみたくなった。それに良い度胸でもある。面白いのう」
この風神は神と言うだけあって良い奴なのかもしれない。
「話しをするといっても俺は十六歳で武勇伝の一つもない。兄が三人いたが、江戸の流行り病でもう全員死んでいる。気楽な四男坊で、野山に育ったため眼が良いのだ。学問は退屈でな、気ままに野山を走っているのが丁度いいのだが……」
「そうか。仕事は退屈なようだな?」
風神が笑った。
「馬鹿を言うな。お殿様はご立派なお方だ。小姓としてお側近くに仕えるのは名誉なことである。将来は俺も将として大役を任されてみたい。それには優れた技が欲しい。そうは言っても風神よ、勝手に天界に呼ばれては困る。人の世界に帰してくれ。早くお殿様のもとに帰してくれ」
風神は「そうさな」と考え込んだ。
「お前は学問より、山野を走るのが好きらしいな。特別に技を授けよう。『風天法師』と心で唱えよ。すると足が速くなる。『ふーてん・ほーし』じゃぞ」
平四郎が、瞬きをしている間に風神は消えた。
「話せてよかった。ありがとう」
遠くヤマビコとして声が聞こえて来た。
雷鳴が轟くと、平四郎は地上に寝ていた。草の匂い、青い空、白い雲。
「平四郎、大事ないか?」
尊敬する殿様が、覗き込んで見ていた。
それから平四郎は、自身に起きた不思議な体験を殿様にすべて話した。
「吉兆なり」と喜んで殿様は信じてくれた。大変にありがたいことだった。
その夜の宿で、余人は「頭でも打ったのだろう」と馬鹿にするので、平四郎は悔しくて多くを語らなかった。
早朝、殿様から腕試しに走らされた。
「先陣を切って物見に出よ。街道をしばし走って戻って来い」
「ははっ」
平四郎は先駆けの名誉を頂いた。草鞋を締め直して打刀を仲間に預けると、一気に駆け出した。
走る時に「風天法師」と心で唱えると全く疲れない。
十里(約40キロ)を一時(約2時間)で走るほどの、あまりの速さである。
戻って来た平四郎は殿様に報告する。
「道中、他家の参勤および無頼徒党など、おりませんでした」
息など切れていない。余裕もあった。
「何里駆けた?」
「ははっ、片道五里程でござります」
「そうか、まさに神速。いずれ役に立つ日もあろう。怪我や病気には注意せよ」
殿様からお褒めの言葉を頂いた。
「ははっ、有難き幸せにござりまする」
あまりにも嬉しくて平四郎は全身全霊で殿様に平伏した。
それからの道中では、退屈な供の一行にとって、平四郎は格好の噂の的となった。
「片道五里も走ったなど嘘だ」
「嘘と逃げ足だけ上手い若造が」
「腰抜けだ。戦場では逃げるであろう」
殿様に愛される平四郎への妬みであろう。嫌みや陰口を言われた。
平四郎は心の中で激しく怒ったが「いずれ役に立つ日もあろう」と仰せになった殿様の言葉を胸に、忠勤にはげんだ。喧嘩で怪我をしてしまっては大事な時に走れない。いずれ自分の活躍場所は出来るだろうと堅く信じた。
江戸は神田まで来ると煙が周囲を覆っていた。
「火事だ。材木屋から火が出たぞ」
男女が叫んで逃げ回っていた。今日は北からの風が強い。
「いかん。この強風では下町は全焼だ。すぐに馬引けぃ!」
殿様は駕籠を下りて騎馬に移った。
「奥が心配だ。幸橋外の藩邸まで一気に駆けるぞ。皆、わしに付いて来い」
「ははっ」
供廻りは殿様の馬を追い掛けて一斉に走り出した。全員かなり必死である。
平四郎も走った。心中で「風天法師」と唱えながら。
周りを見れば、狂ったように火事から逃げる人や荷車。その混んだ雑踏の中に殿様の騎馬と自分しかいない。大事な殿様を守らなければならない。
浜離宮近くの新発田藩邸へ、殿様と平四郎は駆け抜けて来た。
平四郎が開門を告げる。
「ご開門! 溝口伯耆守様、ご帰着。お殿様である。ご開門!」
ギギギと表門が開いた。あわてて中間が馬のくつわを取ると殿様は下馬して、邸内に入った。
平四郎も小姓として、どこまでも付いて行く。藩邸留守居の人数は少ないようだ。
「歌、歌!」
「殿、お帰りなさいませ」
正室の歌姫様がおいでになられたので、平四郎はさっと片膝を着いて控えた。
「歌、火事だ、逃げるぞ。荷物など足手まといだ、身一つで逃げよ」
「して、どちらまで?」
火事は江戸の華。小火騒ぎなら、しょっちゅう起こる。歌姫様に動じる様子は見られなかった。
「品川宿にしよう。平四郎、先走りして宿場本陣を確保せよ」
平四郎は咄嗟に平伏した。
「恐れながら申し上げます。この大火を逃れるため、大名こぞって宿を確保しようとするでしょう。宿場本陣を得るには、お殿様かご家老様のような格式が必要です。平四郎では、只うろうろするばかりで、逃げ足だけ速いと馬鹿にされます」
悔しいが身分が低くては如何にもならない。殿様の期待に堪えられないのが、とても辛かった。
「平四郎、陰口など気にするな。宿場本陣の件、わしが馬で出向こう。お互い竜が見えたという力量を発揮するときぞ。平四郎は雨戸を閉め、そこら中に水を撒け。火事に勝って再び会おうぞ」
そう言って殿様は、自らの陣羽織を平四郎に掛けてくれた。
「留守頭を命じる」
「ははっ」
平四郎は感激で身が震えた。殿様の期待に応えるため、絶対に火事から藩邸を守るぞと決心した。
「いざ参る」
「お気をつけて」
殿様は凛々しい表情で、品川宿へと向かった。お供には藩邸の藩士たちと歌姫様と侍女も付き従った。
殿様の陣羽織を着た平四郎は、大急ぎで屋敷中の雨戸を閉め、そこいら中に水を撒いた。
水を運ぶのに手桶二つを抱え「風天法師」で駆け廻る。火事場の馬鹿力と神速の足が、疲れを見せなかった。
遅れること一刻(約30分)から二刻の間に、神田で分れた供廻りが、それぞれ藩邸に到着して来た。
殿様の陣羽織を着た平四郎が、死に物狂いで水を撒いて走り廻っているのを見て、誰もが驚いた。
「殿、殿! なんだ、平四郎ではないか。その姿はどうしたのだ?」
「はい。お殿様から直々に留守頭を命じられました。お殿様は品川宿に居ります。御前へ急いで参上して下され」
この言葉を何度も繰り返した。
先輩諸氏は「ならば、わしも火消しをするぞ」と言って多数が加勢してくれた。
文政の大火は翌朝には鎮火した。
神田から日本橋、京橋、芝の一帯を焼いたが、藩邸だけは無事だった。
煤まみれになった平四郎は、大仕事をやり遂げた。達成感は格別である。
重役の一人が「よくやった平四郎」と褒めてくれた。「よくやった」「よくやった」と先輩諸氏も声を上げて喜んでくれた。
「ありがとうございます。お陰さまで……」
じんと眼頭が熱くなった。
「では留守頭三沢平四郎殿。藩邸無事の報告をお殿様に知らせて来ておくれ」
「承知しました」
平四郎は生き生きと品川宿のお殿様のもとへと走った。「風天法師」と唱えながら。




