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 扉の隙間から差し込む朝日が、僕の目を覚ました。

 全身が痛い。寝る時は床に毛布を敷いておこうと決めていたが、完全に忘れていた。ワタルが寝るまでは自分も寝ないつもりだったのに、いつの間にか眠ってしまった。


 すぐ隣では、ユズが静かに寝息を立てていた。

 そして目の前の椅子にはワタルが腰掛けている。昨晩と全く同じ、変わらない姿勢でキャンバスを見つめていた。


「ワタル?」


 声をかけても反応がない。

 寝ているのだろうか。

 僕は身体を少し傾け、ワタルの正面に立てかけられているキャンバスを見た。


 美しい絵だった。

 公園で生きる動物と虫と植物が、細部まで拘りをもって描かれていた。芸術に詳しくない僕の目には掛け値なしに優れた一枚のように感じる。


「ワタル、完成したんだね」


 もう一度、声をかけてみる。

 しかし返事はない。


 嫌な予感がした。眠気と同時に血の気もサッと引く。

 すぐに立ち上がった僕は、椅子に座っているワタルの身体を正面から見た。


 服もジーンズも真っ赤に染まっていた。口元に血の垂れた跡が残っている。吐血を止められなかったから、放置して絵を描き続けたのだろう。ワタルがはいていたジーンズは鮮やかな青色だったが、今はほとんどが赤黒い色に染まっている。


 テーブルには薬が散らばっている。一通り飲んだが、それでも血は止まらなかったようだ。


「ワタル!!」


 思わずワタルの身体を掴んで叫んだ。

 ワタルの身体はゾッとするほど冷たかった。生き物に触っているというより、ぶよぶよのゴムに触っているかのような感覚だ。理性ではなく本能が、これは人ではなく物なのだと錯覚してしまうような気分だった。


「カズキ君、どうしたの!?」


「ワタルが! 目を覚まさない!!」


 僕の叫び声を聞いて起きたユズが、ワタルの姿を見て絶句する。

 だが泣いている暇はないし、混乱している暇もない。


「ユズ、腕輪の通報機能を使ってくれ! 後で一緒にワタルを外へ運び出そう!」


「分かった! カズキ君は!?」


 僕はスマートフォンを取り出した。

 もしかすると、二の次にするべきことかもしれないけど――。


「僕は、この絵をコンテストに送る……!」


 以前、ワタルは締め切りがギリギリだと言っていた。絵を郵送する時間のことも考えると、一分一秒を争うかもしれない。


 もし、ここまで必死に描いた絵が、締め切りに間に合わなかったという下らない理由でコンテストに参加できなければ……僕ならマモンとしての死を迎える前に、舌を噛み千切って自ら死ぬ。そんな思いをワタルには絶対にさせたくない。


「ワタルの大事なものだ。絶対に、届けないと……!」


 脳裏で、ワタルとの日々を思い出した。

 この男の覚悟を無駄にするわけにはいかない。

 涙で視界が滲む中、僕は手続きを始めた。


 ◆


 それから、一ヶ月以上の時が経った。

 あれから僕らは、放課後になると秘密基地には通わず、隣町の病院へ通うようにしている。


 病室の中央で、ワタルは静かに眠っていた。

 幸いワタルはまだ死んでいない。しかし、いっこうに目を覚まさなかった。


「今日も、目を覚まさなかったね」


「うん」


 黙って眠るワタルの顔を見ていると、アイカの瞳がじわりと涙に潤んだ。

 ワタルの入院が決まった日、アイカは「自分も秘密基地に残ればよかった」と激しく後悔していた。あの時、あの場にもう一人いれば、二人が眠っていても誰かがワタルのことを見ていられたかもしれない。そしたらこの状況を避けられたかもしれない。そう思っていた。


 でも僕は、悲しくは感じていても、後悔という感情はさほどなかった。

 何故ならワタルは成し遂げてみせた。


 ワタルは凄い奴だ。僕の想像の何倍も凄い奴だ。でもそんなワタルですらマモンの運命には抗えなかった。ワタルもそれを分かっていたのだろう、僕らはこの運命には抗えないのだと。


 だからワタルは残そうとしたのだ、自分が生きていた証を。

 そしてその絵は完成した。根拠はないけれど確信がある。あの絵は間違いなく完成したものだった。僕はあの絵からワタルの魂を感じた。まるで、肉体からあの絵に乗り移ったかのように。


「目を覚ましたら、コンテストの結果は教えた方がいいのかな」


 眠るワタルを見つめながら、アイカが呟く。


「ワタルが訊いてきたら答えよう」


 絶対に、開口一番に訊いてくるはずだ。

 そんなことは分かっている。


「私たちも、すぐにこうなるんだね」


 そんなユズの言葉に、僕らは何も言えなかった。

 僕は卑怯だ。ワタルが起きていた頃は、自分も覚悟ができているみたいに装っていたくせに……いざこの光景を目の当たりにすると足が竦んでしまった。


 死ぬのは、やっぱり怖い。

 こんな僕の心を果たしてワタルは見抜いていたのだろうか。

 結局、僕は強くもなんともない、ただのマモンだ。人である以前にマモンなのだ。


 その時、病室の扉が開いた。

 扉の向こうからやって来たのは、スーツ姿の女性。

 ワタルの母だ。


「貴方たち……」


 ワタルの母は、僕らを見て目を細めた。

 僕らは無言で会釈して、立ち去ろうとする。しかしワタルの母は僕らが素通りするのを許さなかった。


「貴方たちが、ワタルに無茶させたんじゃないの?」


 人を人と思わない、冷たい発言だった。

 僕は耐えた。アイカも辛うじて涙を堪えた。

 でもユズは爆発した。


「そんなことない! 私たちはワタルと友達で、分かり合えていた!」


「否定の言葉になってないわよ。同じマモンだったら何をしてもいいの?」


 ワタルの母は、僕の手首についている腕輪を見て言った。

 普通の人はマモンを見たら同情する。その点、マモンを生んだワタルの母は当事者側の人間だから同情はしなかった。ただし代わりに抱く感情がいいものとは限らず、ワタルの母は露骨に僕を面倒臭がっていた。


「仮に、ワタル自身が無茶をしたがっていたら、どうすればよかったんですか?」


 僕はワタルの母に訊いた。


「止めればいいに決まってるでしょ」


「どうしてですか?」


「どうして?」


 そんなことすら分からないのか、とでも言わんばかりの視線に貫かれる。

 ワタルの母は、あからさまに僕を蔑むような目で答えた。


「マモンは寿命が短いんだから、せめて少しでも長く生きたいでしょ?」


 その返事を聞いて、僕は悟った。

 ああ、この人は理解していないんだ。

 僕たちマモンのことを。息子であるワタルのことを――。


「カズキ……お前は何も、悪くないぜ……」


 ベッドの方から声が聞こえた。

 その声は、僕らがずっと聞きたかったものだ。


「ワタル!!」


 ワタルの母を押しのけ、僕らはベッドに駆け寄った。

 一ヶ月以上、ぴくりとも動かなかったワタルの顔が、ゆっくりこちらを向く。


 ワタルだ。

 僕たちの仲間――ワタルだ!


「なあ……コンテストの、結果は……どうだった……?」


 やっぱりワタルは真っ先に訊いてきた。

 でも、一瞬の気の緩みがそうさせたのか、僕らはその問いかけに対する覚悟を失ってしまった。


 言い淀む僕らの反応を見て、ワタルが察する。


「ああ、そっか。……駄目だったのか、俺」


 僕は頷くことすらできなかった。

 ワタルが送った絵は、どの賞にも入選しなかった。

 自分が生きていた証を残したい。そのためにコンテストで入選し、自分の絵を展示したい。……そんなワタルの夢は、叶わなかった。


「そんな目、すんなよ。俺は、満足してる」


 ワタルが僕たちを見て言った。


「こんな短い人生でも……何かに向かって、全力で挑戦できたんだ。……ありがたい話さ」


 きっと、多くの人はたとえ百年生きることができても、何かに向かって全力で挑戦することはないだろう。


 だからワタルは偉大だった。ワタルはやっぱり凄い奴だった。

 凄い奴だから……報われてほしかった。


「最後に、正々堂々と勝負できてよかった。すっげー悔しいけど……それでも、悔いはない」


 悔しいけど悔いはない。矛盾していそうな言葉だったが、ワタルの胸中ではその二つの感情がちゃんと独立していることが伝わった。


 瞼から涙が落ちそうだったので、全力で堪える。

 だって、ワタルが笑って見送ってほしそうな顔をしているから。


「先に行くぜ……お前らのおかげで、最後まで楽しかったよ」


「ああ……僕らもすぐに、そっちへ行くよ」


 笑え。――笑え。泣いちゃ駄目だ。

 これは悲しいことではない。ワタルは今、マモンの天寿を全うするだけなのだから。ワタルはマモンとして、精一杯、悔いのない人生を生きたのだから。


 だから笑え。

 ワタルの人生を、最後の一瞬まで肯定してみせろ。


 歯を食いしばって涙を堪える。

 そんな僕の顔を見て、ワタルは優しく微笑んだ。


「こんなふうに死ねるなら……マモンも、悪くねーなぁ……」


 ワタルは目を閉じた。

 その目が開かれることは、もう二度となかった。



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