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それから数日が過ぎた。
「やっほー!!」
「うぃーっす」
先に僕とアイカの二人で寛いでいると、ユズとワタルが小屋を訪れた。
あれからも仲間の募集は継続していたが、アイカ以降は新しいマモンが訪れることもなかったため打ち切ることにした。正直、この狭い小屋を使うなら四人が限界である。
僕らはいつものように小屋に集まった。数ヶ月前までは僕しかいなかったはずなのに、今やこの小屋にいる時は常に賑やかな空気が流れている。木でできた椅子が二つとテーブルが一つしかなかった小屋も、気づけばパイプ椅子が二つ追加されていたり、座りやすいようにクッションが用意されていたりした。キャンプ用のランタンも置いてある。
今日は、ワタルが大きな荷物を持ってきた。
布製の鞄からワタルが取り出したのは、一枚のキャンバスだ。
「道具、持ってきたんだ」
「駄目だったか?」
「いや、好きに使っていいよ。というかこの小屋、僕が建てたわけじゃないし」
床がボロボロだし狭いので、あまり絵を描く環境として向いているようには思えないが、ワタルがいいなら何も言わなくていいだろう。
もし、小屋の持ち主が僕らに気づいて出て行くよう言ってきてらどうしよう。そう思ったが、その時は普通に他の場所へ移動すればいいだけだ。大事なのは場所ではない。僕らはもう本当に欲していたものを手に入れている。
「あれ、前の絵と違うんだ?」
ワタルのキャンバスを見て、ユズが首を傾げた。
「ああ。こっちがコンテスト用の絵だ」
「へ~。進捗は?」
「八割。締め切りがギリギリで危ないんだけど、もうちょっと細部と背景をこだわりたいんだよな」
ワタルは絵を描き始める。
見た目にそぐわない研ぎ澄まされた集中力に、僕らは圧倒された。ワタルが描いているのは公園の絵だった。自然が好きなのだろうか、以前見せてもらった絵と同じように木々の枝葉や落ち葉が精緻に表現されている。
「なんだよ、喋ってくれないとやりにくいだろ」
「いや、邪魔しちゃ悪いというか、素直に魅入ってて」
「それはそれでやりにくいな」
ワタルが後頭部を掻きながら笑った。
どうか、ワタルの努力が報われますように。そう祈らずにはいられなかった。神様が実在するならそもそもマモンなんて存在しないはずだけど、今の僕には神様に縋ることくらいしかできそうにない。
そんな僕の、安易な神頼みを――神様は気に入らなかったのだろうか。
ワタルの身体が傾く。最初は僕の視界がおかしくなったのかと思い、目を擦った。でもワタルの身体は、少しずつ右側に傾いていって――。
大きな物音と共に、ワタルが倒れた。
「ワタル!?」
慌てて倒れたワタルに近づく。
顔は青褪めており、尋常ではない量の汗が出ていた。それに、口からは真っ赤な血が飛び出ている。
明らかに緊急事態だ。
僕はすぐにワタルの腕輪を見た。確かマモンの腕輪には、いざという時のために緊急通報機能が搭載されているはずだ。
「腕輪の通報機能を――」
「やめろ!!」
腕輪に手を伸ばした僕を、ワタルは必死に睨んだ。
その目は、怒っているというよりも懇願しているようだ。
「大丈夫だ、すぐ落ち着くから、誰にも言わないでくれ。……これがバレたら、病院に閉じ込められる」
一分くらいかけて、ワタルはゆっくり椅子に座り直した。
荒れていた呼吸が元に戻っている。確かに多少落ち着きはしたようだ。しかし、この雰囲気はもう元通りにはならない。僕らの注目を浴びて、ワタルは観念したように口を開いた。
「半年くらい前から、兆候はあったんだ。毎日大量に薬を飲まねーと、すぐに全身が痺れて動けなくなる。視界もぼやけてきたし、鼓動が飛ぶ頻度も増えてきた。頭痛や全身の倦怠感もある。典型的な末期のマモンってやつだ」
何の兆候かは、訊くまでもない。
マモンの行き着く先は、皆同じだ。
「だから」
絞りだそうと思った声が途切れる。
こちらを見たワタルに、僕は恐る恐る訊いた。
「だから、焦ってたのか。コンテストで入選したいって」
「ああ。もう時間がないからな」
ワタルはあっさり肯定した。――肯定してほしくなかった。
「ここで絵を描くことにしたのも、教室で倒れたら親に告げ口されて止められると思ったからなんだ。両親は俺を療養させたいみたいだが……冗談じゃねー。まだ俺は、俺が生きた証を残せていない」
掠れた声で、ワタルは己の執念を吐露した。
「なんで、そんな状態でも絵を描けるの?」
アイカが震えた声で尋ねる。
僕もマモンだから、末期の状態については何度も調べていた。ワタルは今、耐え難い苦痛の中で生きているはずだ。それでも絵を描く理由は何なのか。
「治らないからだ」
短く、ワタルは答える。
「じっとして治るなら、多分、何もしなかったと思う。でもそうじゃない。これはマモンなら誰にでも訪れる、避けられないものなんだ。……自分は特別不幸なわけじゃない。そう思ったらやるしかないだろ?」
ワタルは笑みを浮かべる。
それが無理矢理作られた表情であることは、誰が見ても分かった。
「世の中には、マモンなのに凄い奴らがたくさんいる。……アイカもその一人だ。俺が言うのもなんだけど、マモンなのに何かに打ち込めるなんてすげーよ」
「私は別に、そこまで頑張ってるわけじゃ……」
「そんなわねけーだろ。努力したから成果も出たんだ」
アイカを真っ直ぐ見つめながら、ワタルは言った。
それからワタルは、僕とユズの方を向く。
「自分がマモンであることを隠さないカズキも、マモンの居場所を作ってみせたユズも、俺にとっては凄い奴だ。皆、マモンという運命と戦いながら、必死に生きている」
僕も、きっとユズも、そんなことないと心の中で返事をした。でも僕らの気持ちなんてワタルには関係ないのだろう。
ワタルの中で僕らは尊敬に値するらしい。その意思が揺らぐことはない。
それは僕にとって、この上なく誇らしいことだった。
「お前らと出会えて、それが分かってよかったよ。だから俺も必死に生きてみせるんだ。……先達として、かっこいい背中を見せなきゃだしな」
そう言って、ワタルは一枚の絵と向かい合った。何事もなかったかのように。
静かな小屋の中で、キャンバスを撫でる筆の音だけが聞こえる。
その背中を見て、僕は形容し難い感情に突き動かされた。何でもいい。ただ何かをしなくちゃいけない。ここで黙って突っ立っているだけなんて、絶対に嫌だ。
「何か、私たちに協力できることはある?」
拳を握り締めたユズがワタルに訊いた。
見れば分かった。ユズも、ワタルが発する熱にあてられたのだろう。
「教室にいくらか画材を置いてきちまってな。取ってきてもらってもいいか? この調子だと、移動するだけでもしんどくてな」
「お安いご用だよ!」
頷くユズの隣で、僕も口を開く。
「僕も手伝うよ。ここに篭もるんだったら食事とか必要ない?」
「欲しいな。肉が食いてー!!」
「買ってくるよ。あんまり量は用意できないかもだけど」
話し合った末、ユズが画材の調達を、僕が食事や生活用品の調達を担当することになった。アイカはここでワタルの様子を見ている。さっき倒れたばかりなのだから、誰か一人はワタルを見ておかなくちゃいけない。
ワタルは腹を括っていた。
僕らにできることは限られていた。
だから、僕らも腹を括るしかない。
この誇り高い先輩を、最後まで支え続けるのだ。
◆
次の日、僕はクラスのHRが終わると同時に我先にと教室を出て、秘密基地に向かった。
小屋の扉を開けると、そこには既にワタルの姿があった。
「もう来てたの?」
「ああ。入り浸って悪いな」
筆を止めることなく、ワタルは言う。
と、そこで僕は、ワタルの服装が昨日と全く変わっていないことに気づいた。そんな僕の視線に気づいたのか、ワタルが微笑する。
「学校、サボることにしたんだ。幸い今までも何度かやってきたし、バレねーだろ」
「……家には帰ったの?」
「いや。友達の家に泊まるって電話した」
つまりこの小屋で夜を過ごし、そのまま今に至るというわけだ。
ワタルは自覚しているのだろうか。その声は昨日よりも小さくなっており、その目は昨日よりも虚ろになっていた。
止めた方がいいんじゃないか。そんな気持ちがないと言えば嘘になる。
でも、同じマモンだから理解できた。ここで僕が止めたらワタルは激怒するだろう。
「悪い、そこの眼鏡取ってもらってもいいか?」
ワタルがテーブルの上に置かれた眼鏡ケースを指さす。
「眼鏡なんてつけてたっけ?」
「視力が急に落ちてきたんだ。視野も狭くなってるから、顔を近づけなきゃ上手く描けねー」
眼鏡を受け取ったワタルは、それをつけて顔をキャンバスに近づけた。
「結構、キツいな。ちょっと前までできていたことが、次々とできなくなるってのは」
ワタルは少し苛ついているようだった。
しかし、すぐに感情が表に出ていたことを自覚し、気まずい顔をする。
「悪い。余計なこと言っちまった」
「いや、勉強になるよ。僕もいつかそうなるんだし」
「はは! やっぱりカズキは強いなぁ」
強いのは僕じゃなくてワタルだ。
恐怖と苦痛の中で、それだけ笑えて、周りに気を使えるなんて。僕には到底できそうもない。
ワタルが通った道は、いつか必ず僕も通ることになる。
その、いつかが訪れた時の僕は、果たして今よりも成長できているだろうか。
「ユズたちがまだ来てないけど、食事を買ってくるよ」
「頼む。今日も肉が食いてーな」
任せて、と言って僕は外に出た。
貯金が残り少なくなってきたので、スマートフォンで「マモン スーパー」と検索する。三駅離れたところに、マモンなら千円割引されるスーパーがあるらしい。時間はかかるが、マモンなら交通費が不要なのでその店へ向かう。
惣菜コーナーで肉類をまとめて買った。ワタルが好きなのはこってりした味付けで、チキン南蛮とか、豚カツとかだ。消化器の機能は間違いなく低下しているはずだが、それでも好きなものを食べて活力を得たいらしい。
「いらっしゃいませ」
惣菜を入れた籠をレジで出す。
「お会計は――」
「これでお願いします」
左手首の腕輪を見せると、レジ打ちをしていた女性はぎょっとした。
「……はい。分かりました」
気の毒な奴を見るような目で見られるが、今はそういう些事に構っている暇はなかった。
すぐにまた基地へ戻る。小屋の扉を開けると、ユズとアイカの姿もあった。
「お待たせ。一応、皆の分も買ってきたけど」
「やった! ワタル君、一緒に食べていい!?」
「そりゃ勿論」
四人分の紙皿と割り箸を出し、各々好きなタイミングで食事ができるようにする。
「今日は僕も残るよ」
「じゃあ私も残ろっかな」
僕とユズがそう言うと、ワタルは筆を止めてこちらを向いた。
「お前ら、そんな簡単に決めていいのかよ?」
「大丈夫。僕の親は放任主義だから」
「私も。あんまり興味を持たれてない感じだから」
ユズもそうだったとは知らず驚いたが、別に変な話ではない。
十八歳までしか生きられない僕らに、全力で愛情を注いでくれる親はどのくらいいるだろう。最初は優しくても、次第に周りの目を気にして疲れてくるのだ。
「そっか。皆も大変なんだな」
そう言って、ワタルはまた絵を描き始めた。
椅子の上でじっと黙っているアイカに視線を向ける。
「アイカはどうする?」
「……ごめんなさい。私は難しいかも」
「仕方ないよ。暗くなる前に帰った方がいい」
アイカは申し訳なさそうに顔を伏せた。
気持ちは分かるが、罪悪感を覚える必要はない。
「親が心配してくれるのは、幸せなことだよ」
アイカは家族から愛情を注がれていることを僕は知っていた。なら、それは何よりも大事にするべきものだと思う。僕らは別に、家族との関係に罅を入れてでもここに残ると言っているわけではない。僕らは最初から罅が入っているから問題ないのだ。
「あ! 私、着替えだけ取ってくるね!」
ユズが立ち上がる。
アイカが小屋から出やすくなるように気を使ったのかもしれない。その気遣いを察してか、アイカもそれ以上は悩むことなく「また明日」と言ってユズと共に小屋を去った。
二人きりになった小屋で、僕はワタルを見つめた。
一生懸命、絵を描いている。まるで自分の中から魂を絞り出して、それをキャンバスにぶつけるかのように。
「ワタル」
静かに、僕は声をかけた。
「前に見せてくれたハンカチの汚れ。本当は絵の具じゃなくて、血なんだよね?」
「……バレたか」
ワタルは小さく笑った。
最初にアイカが気づいた、あのハンカチについた赤い汚れ。あれは絵の具ではなく、アイカが予想した通りの血だった。
ただしそれは、ワタルの血だ。
ワタルの身体は、あの頃からとっくに限界を迎えていたのだ。
「頑張れ、ワタル」
「ああ。頑張るさ」
僕はワタルから目を逸らさなかった。
その大きな背中を、一分一秒でも長く目に焼き付けるために。