二つ目
宝石箱を美しいものにするならば先ずは箱を完璧に作り上げなければならない。
箱とは誰の事であるかと言えば当然、私。
エルド・ルティアだ。
朝食として用意されたパンケーキにナイフで切り込みを入れてフォークで丁寧に口に運んでいく。
九歳とは思えない程洗練されたマナーが映し出されているのだろう。
目の前のお兄様の口があんぐりと空いている。
人が変わったとでも思っているのか、驚きのあまりお兄様の持つフォークが皿と当たりカチン、と音を立てていた。
確かに九歳の私を思い返すのであればマナーも覚えているものはどれも付け焼き刃でお兄様から見ればお粗末なものだっただろう。
それが一日で様変わりしているともあれば別人と疑われても仕方は無い。
私は三日後にアルを迎えなければならないのだ。
あの時の私はお粗末なものだったかもれないが、今回は少しでも綺麗な状態の私でアルを迎えいれると決めている。
それに、十八年間で染み付いた癖をそう簡単に変えることは出来ない。
食事マナーなどその最たる例だ。
クレイお兄様の紹介をしましょう。
名前はクレイ・ルティア
私の二つ上のお兄様でルティア家の正当後継者だ。
使う魔術は私と同じ炎の魔術。
家の跡取りとしての勉学に励んでいて成長してからは経済面に強くなったというのが私の認識だ。
流石私と同じ血を引いているだけあってか、白髪碧眼で顔も整っている。
社交界に出ても人気が高く壁の花すらも手を伸ばしたくなる存在だ(そうだ。兄の人気は人伝で聞くばかりだった。)
そういえば、この兄は私の最期にどうしていたのかと思い出す。
(…リルシアの元にいたわね。)
妹が出来たことが嬉しかったらしいお兄様は、私が物心つくその前から私を溺愛していた。
抱き締め、キスをして、散歩に連れ出して、と仕事で忙しいお父様とお母様の代わりに沢山愛してくれたのは誰でもないクレイお兄様だった。
愛される事は嬉しかった。
私はお兄様のことが大好きだった。
お兄様も私の事が大好きだと言ってくれていた。
けれど、リルシアと出会ってからお兄様は変わってしまった。
リルシアの為に出来ることを考えて、リルシアの為の贈り物を見繕う。
過去の私がそんなにリルシアがいいの?と聞いた時には
「彼女は聖女という役割を世界から与えられてしまった人なんだよ、普段は明るく振舞っているけど、誰かが支えてあげないといけないんだ。」
と、答えていた。
(お兄様はだんだんと私よりもリルシアを優先するようになっていった。)
ソルが奪われてしまったことも悔しくて悲しくて許せなかったが、お兄様が私を見なくなった事も、リルシアを憎む一因になっていた気がする。
(リルシアと出会わなければ、と思う。でも、学園に通わないなんて選択肢を取れるわけもない)
(そもそも、よく考えてみればリルシア・ミラーには聖女の力があるのだから人を魅了するという点に置いても力が使用できるのかもしれない。)
アンデッドとなって向かいあった時のお兄様は私に対して
”エルド。お前でも役に立てる事があって良かったな。”
と冷たい青の瞳で言い放った事を思い出す。
つきりと頭が痛くなって眉間に皺を寄せた。
(大好きなお兄様でも、リルシアと出会ってしまえば変わってしまう。ならば、初めから期待などしない方がいい。もしくは、)
思いついた事を言葉にしようと現在のお兄様に目を向ければ驚いた表情のまま固まっていた。
にこり、と微笑んで「お兄様」と声を掛ければお兄様はハッとした表情で空いた口をきゅと閉めて応える為に表情を作り直すと私の微笑みに応える様に口を開いた。
「どうしたんだい、エルド」
大好きなお兄様の表情。いつだって優しくて目を細めて笑ってくれる。
変わらないはずの瞳が私を蔑む為に暗く染まるのは勿体ない、と思えたのだ。
「お兄様は私の事が好き?」
「あぁ、勿論だとも。愛しい妹君よ、僕の愛を疑うのかい?」
「いいえ。」
「では、どうしてそんな質問をするんだろう。僕が何か君に酷い事をしてしまったのかな」
「私、悪夢を見ましたの」
「悪夢?」
「お兄様が私の事を嫌う夢ですわ」
手を擦り合わせて怖かったのだと表情に映す。
「な、そんな、夢、だよ。ありえない話だ!」
「そうでしょうか…私はいつまでもお兄様の事が好きですわ。でも、お兄様はいつか私の元から離れてそして私に言うの。お前でも役に立てることがあって良かったな、と」
驚いた表情のお兄様はぶんぶんと大きく首を振る。
そして、メイドに一つ「すまない、今は許してくれ」と断りを入れると立ち上がり私の元へと駆け寄る。
座ったままの私に覆いかぶさるように抱きしめ頭を私に擦り付ける。
「エルド、夢の中であったとしても僕が君にそんな事を言うなんて。僕が君を嫌う事なんてない。
僕はいつまでも君の味方となるよ」
怖い夢を見たんだね、とお兄様は頭を撫で私の髪を梳く。
朝の光で照らされるお兄様は美しい。
私の髪を掬いその先に小さく口付ける。
「だからそんな僕を諦める様な悲しいことを言わないで。僕だっていつまでもエルドの事が好きだよ」
こんなに愛してくれて信じてくれるお兄様があの女と出会ってしまえばこちらを見なくなってしまう。
私の傍にいる事とリルシアの傍にいる事。
どちらがお兄様にとっての幸せなんだろう。
そんな事を考えながら大きくはない背中に手を回して抱きしめ返した。
私は何度この問いを自分の中に抱えるのだろう。
「お兄様が幸せになれる選択をしてくださいね」
私がお兄様の耳元で呟けば驚いた様な表情でお兄様は私から顔を離した。
そして私の肩を子供らしい力でぐ、と掴むと決意を固めた表情で口を開いた。
「では、僕はエルドの傍にいるよ!いつまでも!お前が僕から離れようとしても離れてなんてあげない!いつか君がルティア家を出ようとも。僕は、君の為に出来る事を考えて、尽くしてあげる。それが僕の幸福だ、エルド。僕をどうか信じて。」
私の手をぎゅと握り顔を紅潮させて告げるお兄様を見て驚いた表情をするのは今度は私だった。
……………あれ?
この言葉何処かで聞いた気が。
私に言われた言葉ではない。
これは、
(リルシアに向けて言っていた言葉じゃなかったかしら…)
これもまた過去の話となってしまうが、学園生活の中でお兄様がリルシアに向けて言っていた言葉によく似ていた。
その時は確か「僕は、リルシアの傍にいるよ。いつまでも。君が僕から離れようとしても離れてなんてあげない。いつか君が聖女として戦いに出ることになったとしても。僕は、君の為に出来る事を考えて、尽くしてあげる。それが僕の幸福だ、リルシア。僕をどうか信じて。」と言っていた、はずだ。
お兄様に用があった私はお兄様を話しかけようとして二人でいる所を見てしまって思わず木の陰に隠れたのだった。
(それを、今、私に向けて…?)
違和感を覚えながらも私はお兄様の手を握り返す。
「お兄様、本当…?」
「勿論だよ。僕はエルドの為に生きよう」
お兄様は誓いをするように私の指先を掬いあげてキスを落とす。
まだ齢十二歳だというのに、まるで王子様の様なその姿に思わず顔が熱くなる。
それを誤魔化す様にくすくすと笑う。
「んふっ、お兄様ったら。私に婚約者が出来たり、お兄様にも婚約者様が出来るのに」
そんな表情を見せれば、お兄様は途端に慌てた。
「あっ、えっとそう、だね、でも、…もし、そうなる時が来たとしても。僕が君の味方であることは変わらないよ。頼りない男だったら僕が追い払ってあげる!」
慌てたり、顔を真っ赤にしたお兄様がおかしくて声を上げて笑えばお兄様はそんな私の様子に安心したのか、また抱きしめて背中を撫でてくれる。
「大好きだよ、エルド。僕の可愛い妹。君が何処までも幸福でありますように」
「私もよ、クレイお兄様。私のかっこいいお兄様。いつまでも貴方の幸福を願っていますわ」
子ども同士の淡い口約束だ。
その事を私はよく知っている。
この口約束だって、リルシアの目の前になれば簡単に崩れ落ちてしまう。
それでも、お兄様に愛されるこの瞬間だけは真実だと信じて、お兄様の幸福を願った。
「ふふ、お兄様。お食事が冷めてしまいますわ。」
「あ、そうだね!?僕も席に戻るよ」
慌てて席に戻るお兄様に私はくすくすと笑ってまたナイフとフォークを持ち直す。
お兄様の幸福がリルシアの元にあるというなら私はお兄様を手放すことにしよう。
でも、もしも、お兄様の幸福がリルシアの元でなく私の元にあるというのなら、
(お兄様も宝石箱に詰め込んでしまいましょう)
さくり、とナイフで切り込んだパンケーキからはクランベリーソースが溢れていた。