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1(再)

 目を開けると、青い空が見えた。それ以外に見知らぬオヤジが一人、コータローを(のぞ)き込んでいる。口髭(くちひげ)をたくわえた丸顔。如何(いか)にも人が良さそうだ。

「あ、目を()ました。」

 コータローはゆっくりと上体を起こして、周囲を観察する。

 町の路地裏(ろじうら)だ。石畳(いしだたみ)の路上に(じか)に寝転がっていた。心配そうにコータローの様子を(うかが)う見知らぬオヤジの隣に幼いエカテリーナが立っている。こっちは、心配している(よう)には見えない。ぼーっと、ただコータローを(なが)めている。その向こうに並んだ土壁の家が見える。

 そうだ、この世界では、白デブモンスターと(なぐ)り合いをしていて、そのまま一つ下の階層に飛ばされたんだっけ。少女のエカテリーナの、そして大人のエカテリーナの願いを(かな)えるために奮闘(ふんとう)している間、路地裏の石畳(いしだたみ)の上でコータローは転がっていた事になる。

「なんともないかい?」

 オヤジが心配そうに声を掛ける。

「あ、大丈夫です。」

「そうかい、それなら良いが…。いや、びっくりしたよ。道に転がって意識が無いあんたの横で、この子が何も出来(でき)ずに立っているだろ。いやあ、気が付いて安心したよ。本当にどこも悪くないかい?」

 心配してくれるのは有難(ありがた)いが、何故(なぜ)、自分がここに倒れている事になったのかは、理解している。

「ほんとに大丈夫です。心配しないでください。ちょっと、眠くなって寝ていただけですから。」

 いくら眠くても、いきなり路上で眠ってしまうのは病気だろうと半分思いながらも、こんな言い(わけ)しか出来ない。

「そうかい。じゃ、行くけど、良いかな。」

「はい、ありがとうございました。もう平気ですから。」

 そう。下の階層の願いは(かな)えて来た。最初の何も知らない自分とは違う。ここのエカテリーナの願いを叶える事だって、きっと出来るに違いない。

 オヤジが後ろを気にしながら行ってしまうのを待って、コータローは立ち上がる。自分の服についた土埃(つちぼこり)を払い落としてから、(ひざ)を折ってエカテリーナと向かい合う。

「えっと、カチューシャ。もう一度、君の願いを整理させてくれないか。」

 重要なのはこの点だ。それを今までの経験で学んだ。

「どうして、『無限の辞書』が欲しいんだい?」

内緒(ないしょ)。」

「教えてくれ。探す上で大切な事なんだ。」

「駄目。」

「じゃ、もし、『無限の辞書』を手に入れたら、何に使うつもりだい?」

「ん~、別にぃ。」

「そんな事ないだろ?何か目的があるから、探してるんだろ?」

「ううん、決めてない。良いから、欲しいの。」

 こんな所に障害があるなんて。理屈(りくつ)が通じる少女や大人のエカテリーナよりも、こりゃ、一番厄介(やっかい)じゃないか。これ以上、問い詰めても、意固地(いこじ)になって言わないだけだ。話を変える。

「じゃ、『無限の辞書』の事を、カチューシャはどうやって知ったのかな?」

「話に聞いた。」

「ええと、それはいつ、誰に聞いたのかな?」

「知らない。」

 知らない(わけ)が無い。あれ?同じ様な会話を最初にこのエカテリーナに会った時にしたように思える。こうやって質問攻めにしてもしょうがないと言う事か。じゃあ、どうするか。

 おい、出て来いよ。

 コータローは目を(つむ)って念じる。

「あ、お()け。」

 エカテリーナが(つぶや)く。

 ゆっくり目を開けると、石畳(いしだたみ)の路面の上でマイクロモンスターがこっちを見上げている。さっき半分置いてきてしまったから、最初に比べれば随分(ずいぶん)か弱いモンスターになってしまった。

「またかよ。」

「固い事言うな。困ってるんだから、協力しろ。」

 モンスターのくせに溜息(ためいき)をつく。

「手掛かりなしだ。」コータローは(かたわ)らのエカテリーナは放っておいて、マイクロモンスターに話し掛ける。「この先どうすれば良いと思う?」

「手掛かりなしって事はないだろ。お前が今までやってきた事、全て手掛かりだ。」

「そりゃ、本屋に行って、図書館に行って…」

「おいおい、何言っているんだ。そりゃ、それも手掛かりだが、お前、下の階層で課題を達成して来たんだろ?」

「うん、まあ。」

「じゃ、それも考えてみるんだな。」

「それで、分かるのか?」

「ここは何処(どこ)だ?」

「え?知らない町だ。」

「そうじゃなくて。…ここ、お前の夢の中だろ?」

「ああ、…ま、そうだな。」

「じゃ、何とかしろ。」

「お前が偉そうに言うな。」

「お前もな。」

「こんなので、なんとかなるのかなぁ。」

「それよりお前、自分の課題も分かっているだろうな?」

「なんだそりゃ?」

「高山藤吉(とうきち)。」


「俺、石川さんの事好きなんだよね。」

 下校途中であいつは急にそんな事を言い出した。


「それか…。」

「ああ、それだ。」

 コータローは(うつむ)く。

「一番重たいじゃないか。」

「だからって、逃げられないぞ。」

 そうだ。確かにその通りだ。

「…ああ、分かった。」

「じゃあな。」

 マイクロモンスターは、あっという間に小さくなって消えた。

 気を取り直さなければ。こうしていても解決しない。まずは、エカテリーナの願いを(かな)える方法を考えよう。あいつの言う通り、最初にエカテリーナに出会った時の自分とは違う。2人のエカテリーナの望みを叶えたんだ。その経験を生かして考えるんだ。

 そうだ、『無限の辞書』がどんな物なのかは、本屋の主人に聞いた。この世の全ての事が載っているという本。本当に存在するか分からないと、本屋の主人も言っていた。確かに、載っていない事柄(ことがら)が無い本なんて現実的じゃない。可能な限り載せたとしても、膨大(ぼうだい)な情報量になってしまい、本という規模には収まりようがない(はず)だ。でも、お伽話(とぎばなし)の中の存在で実在しないだろうと思えた『おしゃべり(からす)』は居た。ここは夢の中なんだから、そのくらいの融通(ゆうづう)は簡単に()くのだろう。じゃあ、探せば有るかも知れない。本屋を訪ねた、図書館にも行った。(あと)はどんなところに本はあるんだ?『羽毛のペンダント』も宝飾店(ほうしょくてん)を探し回ったっけ。結局、どこかに売っているって話じゃなかった。じゃあ、本も作る?ペンダントは、大人のエカテリーナの願いが分かったから対応出来た。幼いエカテリーナはそれを教えてくれない。上手(うま)く説明できないからかも知れない。いずれにしても、それじゃ、彼女の願いに(こた)えられない。やっぱり、存在する事に()けて、探せるだけ探してみよう。何処(どこ)を?『羽毛のペンダント』で分かったじゃないか。新しい物を売っている(よう)な場所を探してもしょうがないって。

 コータローは立ち上がると、エカテリーナの手を取る。

「さあ、『無限の辞書』を探しに行こう。」

「ある所、分かったの?」

「確信は無いけどね。どういう所を探せば良いかは何となくわかった気がするんだ。」

 コータローは、エカテリーナの手を引いて歩き出す。まずは、町の中心に向かって進みながら、声を掛けたら(こた)えてくれそうな人を物色(ぶっしょく)する。中央に小さな噴水(ふんすい)のある円形広場で、コータローは人の良さそうな中年男を(つか)まえる。

「すいません、この町に古本屋は有りませんか?」

「何だって?」

 男は、急に声を掛けられてまごつく。

「古本屋です。古い本を買い取って、もう一度売っている店です。」

「あー、古本屋ね。確か、西の(はず)れの方に1軒あったように思ったな。」

「あ、それ、道教えてもらえませんか。」

 男は、(つたな)い説明ながらも、一生懸命分かるように説明してくれる。途中までは理解出来(でき)たが、コータローにはその先の説明は雰囲気くらいしか分からない。それでも、男に礼を言って、説明を受けた方向に向けて歩き出す。古本屋がある事は分かった。でも、今受けた説明だけでは辿(たど)り着けそうにない。コータローは道すがら、何人にも声を掛けて、何とか間違わずに目的の店に辿り着いた。

 この世界の状況は、本屋と図書館に行った事で大体(つか)んだ。どんなに(あや)しそうな店でも怖がる必要は無い。それらしい店を見つけると、ためらわず中に入る。

 先に入った本屋とはまるで違う雰囲気だ。本屋は薄暗いお化け屋敷の様な店内に、一つ一つの本を仰々(ぎょうぎょう)しくケースにいれて展示していたが、古本屋は、本を整理して陳列(ちんれつ)するのも手を抜いて、品物が(いた)むかどうかも考えずに、やたらと積み重ねて、いくつもの本の(とう)を店の中に林立(りんりつ)させている。それらの塔に囲まれて、店の(あるじ)(おぼ)しき()せこけて背中の曲がった白髪(しらが)の老人が、眼鏡(めがね)をかけて一心不乱(いっしんふらん)に本を読んでいる。まるで商売する気が無い。それにしても、この店も薄暗い。この町の店はみんな明かりをケチっているのか?

「あの…、すいません。」

 (くず)さない様に細心(さいしん)の注意を払いながら塔と塔の隙間(すきま)を抜け、店主に近付いて声を掛ける。店主は声も出さずに、ただ顔を上げてコータローの顔を(なが)める。

「本を探しているんですが。」

 そう言っても反応しない。気の無い(よう)な目つきで見上げているだけだ。

「聞いてるか、おっちゃん。探している本があるんだ。」

 身を(かが)めて、店主の前に顔を突き出す。

「聞こえてる。何を探している。」

「『無限の辞書』。」

 2人は一瞬互いに(にら)み合ったまま、動きが止まる。

「…珍しいな。そんな本を探しに来る客もいるのか。」

 店主はコータローから目を()らすと、(おもむろ)に椅子から立ち上がる。(ひざ)が悪いのか、夫々(それぞれ)(ひざ)に手を()えながら、そろそろと動くが、如何(いか)にも危なっかしい。

「それで、ここにあるのか?」

「まあ、待ってろ。」

 腰も膝も曲がったまま、そろそろと()を進めて、店主は店の奥に消えていく。コータローは(あら)く一つ息を()くと、自分の(わき)で事の次第(しだい)を見ていたエカテリーナを見下ろす。イライラしているコータローとは違い、エカテリーナはあっけらかんとコータローを見上げる。

 なんて呑気(のんき)なんだ。お前の(ため)にこっちは頑張っているっていうのに。

 怒る気持ちよりも、(あき)れてしまう。何だか、カリカリ動き回っている自分がおかしいんじゃないかと疑いたくなる。

 本の(とう)(かげ)から店主がぬっと姿を現す。生気が抜けてしまった(よう)な老人が薄暗(うすくら)がりに突然現れるから、心臓が口から飛び出そうな思いをさせられる。いつ倒れるかと心配になるくらいヨボヨボ歩いていたくせに、(わず)かな物音もたてずに近づいて来るとは、この店主、何者(なにもの)だ?手にはA4版(ほど)の大きさの、薄いパンフレットの様な本を持っている。一言も(しゃべ)らずに、ノロノロと元居た椅子に戻り、恐る恐る腰を下ろす。こういう瞬間に何度も(ひざ)に痛みを感じて来たのに違いない。

「ほれ。」

 しっかり座ってから、店主は手に持った冊子(さっし)をコータローの方に突き出す。

 これが『無限の辞書』だと言うのか?本屋の店主の言う事が本当なら、この世の全ての事柄(ことがら)が載っている(はず)。こんな薄い冊子に入る(わけ)が無い。それとも、『無限の辞書』と呼ばれる物は(いく)つも存在するのか。

「これは、何でも書かれている。」差し出された物が本当に求めている物か怪しんでいるコータローの気持ちを見透(みす)かして、店主は冊子を自分の手元に引き寄せながら、話し始める。「世の中のあらゆる知恵が詰まっているのさ。」

 ゆっくり冊子を開くと、内側から青白い光が()れる。開いたページ全体が光っていて、紙面から浮いたように細かな字が紙面一杯に並んでいる。店主がページをめくると、新しいページにも青白い光の中に文字が浮かび上がっている。店主がまたページを()る。何度、それを繰り返しても、新しいページが現れ、同じ様に光に包まれた黒い文字の列で埋まっている。どんなにページを(めく)ろうとも、()きる事なくページが()いて来るようだ。コータローは目を見張った。

 これが『無限の辞書』か。この一見(いっけん)薄っぺらな本の中にどういう構造か分からないが、無数のページがあり、そこにあらゆる知識が書かれているのだろう。

「おやじ、それ、手に取って見せてもらう事は出来(でき)ないか。」

 コータローは店主の様子を(うかが)う様にそう言ったが、店主は即座に『無限の辞書』を閉じて、コータローの方へ突き出す。慎重に伸ばした手でそれを受け取り、表紙と裏表紙を調べる。表紙は全体があずき色の硬い装丁(そうてい)になっており、読めないタイトル文字が(いか)つい金文字で大きく記されてある。その下には、樹下(じゅか)(たたず)む女性の絵があしらわれている。裏を返せば、同じあずき色のトーンの中央に出版社のマークと(おぼ)しき、ヒエログリフのような楕円(だえん)のデザインが施されている。それ以外は無地(むじ)だ。覚悟を決めてからコータローは本の表紙を開く。(あわ)い青白い光を放つページが現れる。携帯の画面よりも(まぶ)しいくらいだ。読み方のわからない未知の文字が黒く、紙面から浮く様に並んでいる。

「ねえ、見せて。」

 隣からエカテリーナがコータローの服の(すそ)を引っ張る。コータローはしゃがみ込んで、手に持ったそれをエカテリーナに向けてやる。薄暗い店内で、本からの光を受けて、エカテリーナ顔が青白く浮き上がる。みるみるエカテリーナの表情が明るくなる。目が輝き、(ほお)()みが浮かぶ。

「ねえ、これが『無限の辞書』なの?」

 事の真偽は知らない。だが、こんな不思議な書物なら恐らく本物だろう。

「自分で手に取って、確かめてご(らん)。」

 コータローはそれを開いたまま、エカテリーナの両手に渡す。彼女は、その本を床に置いて、ゆっくりとページをめくる。何枚も何枚も。めくる(たび)に新しいページが()きる事なく現れる。

「すごい。これが『無限の辞書』…。」

 エカテリーナの自由にさせたまま、コータローは立ち上がり、店主に向き直る。

「これが探していた物だ。それで、これはいくらするんだ。」

 コータローは内心気が気ではない。これだけ珍しい本だ。相当()が張るに違いない。その上、買い手が欲しがっているのも見えている。足元を見て値を()り上げてくる可能性だってある。もしかすると、売れないと言うんじゃないか。

「それ、あんた等、本当に欲しいのかい。」

 無表情のまま、店主はコータローの顔を見上げる。

「あ、ああ。」

 なんて答えれば正解なのか、悩みながらそれだけ言う。

「それなら、持ってってくれて良いよ。」

 店主はさらりと言ってのける。

「え?お金は?」

()らないよ。それ、ここに置いてあっても、邪魔なだけだから。」

「本当に?」

「本当だ。」

 コータローは、瞬時に頭を使う。これは何か(わな)があるんじゃないのか?

「これ、本当に『無限の辞書』なんだよね?」

「見た通りだ。」

「本物なら、こんな、なんでも載っている本なのに、邪魔って事は無いでしょ。かさばる(ほど)大きい(わけ)じゃないし。」

「いや、長いこと、この商売しているけどね。この本が欲しいって言ったのは、あんた等が初めてだよ。…うちは、そうじゃなくても、本がいっぱいでね。」店主は(あご)でコータロー達の背後に林立(りんりつ)する本の(とう)を指す。「こんな状態だから、売れない本は要らないんだ。」

「でも、そんな状態なら、なんで今まで持っていたんだ。」

「本をゴミにしちまうのは(しの)びない。第一、そんな不思議な本はもう作れないだろ?わしの手で(ほうむ)(わけ)にもいくまい。」

「じゃ、じゃあ、本当に(もら)って良いんだな?」

「ああ。」

「もう、後から何か言っても駄目だぞ。」

「そう心配しなくても、何も悪い事は無いよ。」

「よし、貰っていく。」

 コータローは勢いよくそう言うと、足元で床に置いた『無限の辞書』に見入(みい)っているエカテリーナの手を取り、そそくさと古本屋を後にする。エカテリーナは、飛び上がらんくらい元気に、コータローの歩く速さに合わせて半分走る様にしてついて来る。

 何だか、尻がチリチリする気がして夢中で歩いた。噴水のある広場まで戻って来て、来た道を振り返り、誰も追って来ないのを確認して、(ようや)くコータローは足を止めた。

「ありがとう。コータロー。」

 エカテリーナは、大事そうに『無限の辞書』を両腕で胸に(かか)えている。

「ああ、これで良いんだね。」

 コータローはほっとする。これで役目は果たした。一気に気が抜けて、近くの家の壁にもたれると、その場にしゃがみ込む。

 思い返してみれば、それ(ほど)大変でもなかった。本屋と図書館と古本屋を回っただけでお目当(めあ)ての本に行き着いた。上出来(じょうでき)じゃないか。

 おや?

 コータローは顔を上げて周囲を見回す。

 おかしい。エカテリーナの願いを(かな)えたのに、何も変化しない。これまでは、エカテリーナの願いを叶えれば、その階層は終わりになっていた(はず)。今回は何が足りないんだ?

 おい、出て来い。

 コータローは目を閉じて念じる。

「全く、自分で何とかできないのか。」

 マイクロモンスターの声がする。コータローはゆっくり目を開ける。目の前でマイクロモンスターがコータローを見上げている。

「それそも、俺はお前を監視する立場だったのに、助けてばかりじゃないか。」

「そう愚痴(ぐち)るなよ。俺とお前は一心同体。ミッションコンプリートしなきゃ、お前だって困るだろ。」

「で?」

 マイクロモンスターは、コータローに背中を向け、(かたわ)らで『無限の辞書』を開いて(うれ)しそうにしているエカテリーナを見る。

「こうして、エカテリーナの願いは(かな)えた。なのにどうして、この世界が終わらないんだ?」

「お前、本当に彼女の願いを叶えたのか?」

「叶えたさ!カチューシャが持っているのが、『無限の辞書』だろ?…あ、もしかして、それは偽物(にせもの)か?」

「いや、そう言う事じゃない。お前、彼女の本当の願いを理解したのか?」

「本当の願い?『無限の辞書』を手に入れる事じゃないのか?」

「そりゃ、表面上の願いだろ。『羽毛のペンダント』はどうだった?」

「どうって、エカテリーナさんに作ってあげた。」

「それは、本物の『羽毛のペンダント』だったか?『おしゃべり(からす)』はどうだった?」

「え?逃げられた。でも、代わりにお前の相棒(あいぼう)を置いてきた。」

「そうだ。お前、勝手にそんな事しただろ。」

「あ、それが悪かったのか?勝手にルール変えちまったかな。」

「そうじゃない。…頭の悪い(やつ)だな。もうちょっと悩め。」

「お前は俺なんだから、ちょっとは教えてくれても良いだろ。」

「お前は俺なんだから、教えなくても分かるだろ。」

「何だよ、意地悪だな。」

「それ、自分に向かって言っている事になるぞ。それに、お前の課題が全然じゃないか。」

「あ、あれか。」

 コータローのテンションが落ちる。

「そう、それだよ、それ。」

「つまり、高山との件をどう決着させるか決めなきゃならないって事だな。」

「高山藤吉(とうきち)に対してじゃない、お前がどうするかだ。」

「俺が?どうするって?」

「ん~、もう知らん。もっともっと悩め!」

 コータローが次に口を開く前に、さっさとマイクロモンスターは姿を消す。

「あ、おい!」

 もう一度呼び出そうと、目を(つむ)る。(いく)ら念じてみても、もうマイクロモンスターは姿を現さない。

「あの、ちょっと良いですか?」

 男の声に顔を上げると、初老(しょろう)の男が立っている。コータローもエカテリーナも彼を見上げたまま、何も応答しないでいると、男は再び口を開いた。

「ヤトラシュ記念館を探しているのですが、知りませんか?」

「え?」

 聞いた事も無い場所だ。大体、コータローはこの町に初めて来たのだから当たり前だ。

「あたし、教えてあげる。」コータローが答え方に悩んでいる間に、エカテリーナが(いさ)んで(こた)える。「ちょっと待ってて、すぐ分かっちゃうんだから。」

 エカテリーナは地べたに座り込むと、『無限の辞書』を石畳(いしだたみ)の上に広げる。青白い光を放つページが現れる。初老の男は、驚きもせずに、ただ彼女の様子を見守っている。

 そうか、何でも載っているんだっけな。エカテリーナに任せておけば良いか。

 エカテリーナは次々とページをめくる。薄い本に見えるのに、いくらでもページが現れる。その様子を男とコータローが黙って見守る。そうやって(しばら)く過ぎた。

「カチューシャ、どうだい?」

 一向(いっこう)にエカテリーナのページをめくる動作は止まらない。不安を覚えて、つい、コータローが声を掛ける。エカテリーナは応えない。只々(ただただ)、ページをめくる。

「カチューシャ?」

 (ようや)く彼女の手が止まる。見つけたのかとほっとしていると、彼女の目から涙が(こぼ)れる。

「おい、どうした!」

 『無限の辞書』を開いたまま、エカテリーナは声を上げて泣き出す。(あわ)てて、彼女を抱き寄せると、初老の男を見上げる。

「すいません、どうも分からないみたいです。お役に立てなくてすいません。どうか、他の人に()いて下さい。」

「あ、ああ、良いです、良いです。大変な事をお願いしてしまって、すいませんでした。」

 男は何か悪い事をした(よう)にそそくさとその場を離れる。広場には泣きじゃくるエカテリーナとそれを(なだ)めるコータロー、足元に開かれた『無限の辞書』が残された。

 コータローはエカテリーナを抱き寄せ、頭の()ぜてやる。彼女が落ち着くまでそうしていた。

「一体、どうした?」

 まだ、時々すすり上げるエカテリーナを出来(でき)るだけ刺激しない様に声を掛ける。

「…分からない。」

「え?何?」

「書いてある所が分からないの!」

 イラついて、彼女は大声を出す。

 書いてある所?

 コータローは足元の開かれた『無限の辞書』を見遣(みや)る。青白いページに黒い文字の列が浮かび上がっている。

「文字が読めない(わけ)じゃないんだね?」

 エカテリーナは黙って(うなず)く。

「えっと、辞書って、文字の順番に並んでいるんじゃないかな。」

「文字の順番って?」

「俺達の世界だったら、あいうえお順なんだけど、ここの文字の並びは知らないんだ。」

 エカテリーナに反応は無い。この世界の文字を知らないから、これ以上の説明は出来ない。それに、もし、そんな文字の順番があったとしても、幼いエカテリーナが知らない可能性だってある。

「ああ、こういう本は、最初に目次(もくじ)とか、最後に索引(さくいん)が付いているから、それを使えば…」

「最初ってどこ?」

 コータローは手を伸ばして『無限の辞書』のページを(めく)る。捲っても、捲っても新しいページが現れ、目次や索引と(おぼ)しき物は出て来ない。

 コータローの頭に古本屋の店主の顔が思い出される。彼は本当にこの本が欲しいのかと()いた。この本が欲しいとやって来たのは、コータロー達が初めてだと言った。何でも載っている。知りたい事なら必ず書いてある。なのに、なぜ誰も欲しがらないのか。あの時、古本屋の店主にそれを(たず)ねれば良かった。確かにこの本には無限の知識が詰め込まれている。きっと何でも書いてある。だが、求めている知識が一体どこに書いてあるのか、読む者にそれを知る(すべ)は無い。

 それじゃ、何も書かれていないのと一緒だ。

「カチューシャ、」(つら)い宣言をしなければならない。「この本は駄目だ。カチューシャの欲しかった本かも知れないけど、この本は使えない。」

 エカテリーナは無言で『無限の辞書』を拾い上げると、しっかりと胸に抱く。

「カチューシャ…。」

「そんな事ない。そんな事ないもん。いっぱい書いてある。…だったら、毎日1ページずつ読んで覚える。そうすれば、あたし、いろんな事が分かる(よう)になる。そうすれば、あいつらに馬鹿にされない。」

 あ、そうなのか。

 コータローは赤く()れた目で石畳(いしだたみ)を見つめるエカテリーナの横顔を見守る。彼女が何故(なぜ)『無限の辞書』を欲しかったのか教えてくれた(わけ)じゃない。でも、想像はできる。きっと相手はエカテリーナよりも年長の者達だろう。一度や二度じゃない、きっと会う(たび)に彼等は、エカテリーナが自分達よりも幼くて知恵が足りないのを馬鹿にして、自分達のストレスを解消している。『無限の辞書』への執着(しゅうちゃく)は、彼女がその時受けた(つら)い思いの裏返しだ。

 でも、そうじゃない。彼女が毎日この辞書を読んだとしても、それじゃ、エカテリーナは(むく)われない。

「教えてくれないか。カチューシャが好きなものは何だい?」

 突飛(とっぴ)な質問に、エカテリーナは、コータローの顔を見上げる。

「お人形とか、子犬とか…、カチューシャが今、夢中になっているものは何かな?」

「…お花。」

「そうか、カチューシャはお花が好きか。」

 『無限の辞書』を抱いたまま、小さく(うなず)く。

「お花の中でも、一番好きなのは何かな?」

「…きんぎょそう。」

「きんぎょそう?」

 エカテリーナは、また小さく頷く。コータローは、初めて聞く名前だ。

「どんなお花だ?俺に教えてくれよ。」

「あのね、金魚の形のお花が咲くの。赤やピンクや白や、いろんな色があるの。春になると咲く。あたしは、低い所に咲くのしか見た事ないけど、背の高いのもあるのよ。」

 話すうちに彼女の表情はどんどん明るくなる。

「ふーん、そうか。カチューシャだって、知っている事があるじゃないか。」

 彼女は、黙ってコータローの顔を見ている。

「カチューシャは、お花の事をもっと知りたいと思うかい?」

「うん、知りたい。草原に咲いてる花がみんな分かるようになりたい。」

「そうか。よし、じゃあ、行こう。」

 コータローは立ち上がり、エカテリーナの手を取る。

何処(どこ)へ?」

「さっきの古本屋。」

 来た時の急ぎ足と打って変わって、しょげたエカテリーナの歩調に合わせてゆっくりと歩く。

「さっきの店に行ったら、この本返しちゃうの?」

 エカテリーナが不安そうな目でコータローを見上げる。

「いいや、それはもう、カチューシャの物だ。そんな事はしない。」

「じゃ、なんで行くの?」

「もう一つ、カチューシャに本を買いたいんだ。」

「あたしに?」

「そう。」

 それでも不安そうなエカテリーナを連れて、さっき逃げる様に出て来た古本屋に入る。店主は変わらず、同じ場所で同じ様に座っていた。人の気配に気づいたのか、本から顔を上げてコータロー達を無表情に見つめている。

「すまないが、もう一つ頼みがあるんだ。」

 店主の前まで進み、コータローは静かに話し掛ける。

「今度はなんだい。」

 言葉は平静を(たも)っているが、店主は身構(みがま)えている。きっと、コータローが何か文句を言うと思っているのだろう。

「草花の図鑑(ずかん)が欲しいんだ。小さい子が分かる、絵がふんだんに使われた物が良い。」

「…それは、この子が使うのかい?」

 店主はコータローから視線を(はず)さずに言う。

「ああ。」

「よし、ちょっと待ってな。良さそうな物を探して来てやろう。」

 店主は(ひざ)(かば)いながら、そろそろと立ち上がり、林立(りんりつ)する本の(とう)の中を()って消える。それきり、(ゆう)に5分は戻って来なかった。

 不意(ふい)にコータローの後ろの本の塔の(かげ)から現れた店主は、手に小振(こぶ)りの本を持っている。15センチ四方くらいの本。

「こんなのでどうだい?」

 店主は本をコータローに手渡してから、元の席に戻って座る。コータローは渡された本を(めく)ってみる。(あざ)やかに彩色された草花の絵が紙面に配置され、夫々(それぞれ)の絵の(すみ)には、解説が書かれている。コータローはしゃがみ込むと、本を開いて、エカテリーナに見せる。

「どうだい?カチューシャの好きな花について書かれた図鑑(ずかん)だ。」

 エカテリーナは警戒して、ぎゅっと『無限の辞書』を握りしめる。

「大丈夫、その本を取ったりしない。これも、カチューシャにプレゼントしたいんだ。」

 エカテリーナはそろそろと、手を伸ばして、本を手にする。『無限の辞書』を握ったままでは、ページが捲れないから、『無限の辞書』を床に置くと、その上にぺたりと座り、両手で草花の図鑑を持って、ページを捲る。

「どうだい?気に入ってくれるかな?」

 エカテリーナは返事もせずに、絵と解説に夢中だ。

「カチューシャ、俺の言う事を一つ聞いてくれ。」コータローは、エカテリーナの両肩に手を置いて、彼女を自分の方に向かせる。「これから大事な話をするから。」

 エカテリーナは、図鑑から目を上げ、鳶色(とびいろ)の瞳でコータローを見つめる。

「この本に書いてある事を見て、カチューシャは面白いと思うかい?」

「うん。面白い。」

「それじゃ、この本を良く読んで、そこに書かれている事を自分のものにするんだ。全部でなくて良い。自分が興味を持った部分だけで良い。カチューシャが知っている事にするんだ。出来るかい?」

「うん、やってみる。」

「もし…、そう、もしもだけど、誰かが、カチューシャは何も知らないと馬鹿にする様な事があったら、正直に知らないと言ってやれば良い。知らない事は恥ずかしい事じゃない。代わりに『私は、花の事なら知っているんだから』と言って、自分の知っている事を話してやれ。相手だって、自分の知っている事をひけらかしたいだけだ。何でも知っている(わけ)じゃない。お互い知っているのは、興味のある事だけさ。カチューシャは、花に興味があるから、花に関する事を覚えて、逆に自慢してやれ。」

「うん。」

 エカテリーナはコータローの瞳を見つめたまま(うなず)く。彼は笑顔を見せる。

「それは、もうカチューシャの物だ。」立ち上がって今度は店主と対面する。「この図鑑を買いたい。いくらだ?」

「それじゃあ、こうしよう。」店主は、立ち上がったコータローを無表情に見上げながら、ゆっくりと口を開く。「お前さんの課題の答えを聞かせてくれ。それが納得できる物なら、その本は持って行って良いよ。」

「え?」

 何を言っているんだ、このおっさんは。

「忘れた(わけ)じゃないだろう。高山藤吉(とうきち)の件だ。」


「俺、石川さんの事好きなんだよね。」

 学校の帰り道、高山がコータローに打ち明ける。あいつは、コータローが時々石川さんと話している事を知っている(はず)だ。なのにどうして、自分の気持ちをコータローに話したのか。コータローも彼女を好きだって想像できている上で、コータローの反応を確かめたのに違いない。なのに、その時のコータローには、(とぼ)けて受け流す事しかできなかった。


 まただ。あいつの名前が出て来る(たび)に、フラッシュバックが(おそ)って来る。

「なんで、あんたがその名前を知っている。」

 店主は、コータローを見上げたまま、ニンマリと笑顔を作る。

「つまり、あんたもグルだって事か。」

「グルとは、ご挨拶(あいさつ)だね。お前さんの夢の中の登場人物なんだから不思議は無かろう。」

「白デブモンスターの代わりがあんたか。」

「それで、お前さんの答えはどうなんだ?」

「ああ、まあ…、カチューシャに正直に言えば良いなんて偉そうに言ったくせに、何だかみっともない。考えてみれば、別に俺が石川さんを好きだって隠す事じゃない。(たと)え、俺が石川さんと()り合わない出来(でき)の悪い人間だったとしても、堂々(どうどう)と好きだって言えば良いんだよな。」

「じゃ、その石川さんに告白するんだな。」

「いやぁ、それはちょっと、どうかな。」コータローは首の後に手をやる。「まだ、そこまでの決心は出来ないけど。高山にはちゃんと、俺も石川さんが好きだと言おうと思う。」

「ふん。ま、少しは考えたってところか。でも、それを高山に言えば、高山が先に告白するぞ。」

「そうだな。…でも、自分が告白するには、もうちょっと時間が欲しい。」

「後で後悔するなよ。」

「ああ、分かった。」

「じゃあ、もう、本はお前の物だ。」

「何だか、歯切れの悪い答えで済まない。」

「そう思うなら、もっと考えろ。」

「ああ、そうする。」

 コータローは足元で草花の図鑑に見入(みい)るエカテリーナに視線を落とす。

「カチューシャ、支払いが終わったよ。それは君の物だ。さあ、ここから出よう。」

「うん。」

 エカテリーナは、元気に返事をすると、立ち上がり、『無限の辞書』と草花の図鑑を(わき)(かか)えて、コータローと手をつなぐ。

「コータロー、ありがと。」

 彼女はとびっきりの笑顔を見せた。


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