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途轍もなく嫌な気分だ。胸やけがする。頭もぐらぐらしている。目を開けると、真っ暗な視界の中に、微かにゴツゴツした岩が見える。どこからか射し込む僅かな光を、湿っている岩肌が反射しているらしい。
ここはどこだろう。さっきまで、何か矢鱈と感じ悪い化け物と闘っていたと記憶している。なのに、今は真っ暗な世界に横たわり、ぼんやりしている。
不意に、岩肌の凹凸を這うムカデが視界に入る。
「うわ!」
コータローは慌てて飛び起きる。自分が地面に直接寝ころんでいた事をその時自覚する。
「あ、起きた。」
女性の声に驚いて振り向けば、暗闇の中に少女がいる。長く伸びた金髪を緩く一つの三つ編みに束ね、細い両足の膝を、これまた細い両腕で抱えて、コータローを見ている。闇に溶け込む紺のブレザーで身を包み、こんなゴツゴツした岩場に不向きな、茶色のローファーを履いている。白いシャツに白い靴下、それに金色の彼女の髪が闇の中に浮かび上がって見えている。
あれ?成長している。
さっきまで、幼い金髪少女と一緒だった。今目の前にいる少女も金髪だが、もっと年上、外人は大人びて見えるって言うけど、自分と同い年ぐらいだろうか。だとしたら、高校生だ。確かに、着ている服装は、まさに制服その物だが。
「大丈夫?」
何とか聞こえるくらいの小さな声。周囲が静かだから良いが、都会の雑踏の中じゃ、とても聞き取れる声量じゃない。
「あ、俺、どうしてここに居るか知ってる?」
薄暗いから彼女の表情は良く見えない。それでも膝を抱えていた腕に力が入り、コータローと距離を取ろうとする仕草で、彼女がどう感じたのかは想像できる。
無駄な質問だったかな。
「もう、動ける?」
どういう事だ?俺が倒れている間、付き添っていてくれたと言うのか?何故?そもそも、この少女と自分は知り合いなのか?状況を把握したい。
周囲を見回す。どっちを見ても暗闇にうっすらとゴツゴツとした岩が見えるばかりだ。唯一、少女が座っている向こう側に通路がつながっているのか、何も無い真っ黒な穴がある。その向こうから光が差し込んでいるのだろう。何かに反射した僅かな光で、湿っている岩が光っている。
「ここは何処?」
答えてくれないだろうと半ば覚悟しながら、質問してみる。
「洞窟。」
単純かつ、的確な回答だ。これで動けると回答したら、どうなるのだろう。えらく不安だ。両足、腕、指、肩、首。一通り動かしてみる。特に痛くもなく、意思通りに動く。
「大丈夫。心配させたね。」
きっと、この子も俺の事を知っているのだろう。これ以上心配させない様に、明るく振舞う。
「じゃ、探すの続ける?」
え?
全身の神経に電気が流れる。
探す?何か探してた?それって。
「…もしかして、探すのって、『無限の辞書』?」
少女はぶるぶると首を大きく横に振る。
「『おしゃべり鴉』」
「おしゃべり鴉…?」
これまた聞いた事の無い言葉だ。でも、やっぱり、どうしても探さなければならない気持ちになっている。きっと、自分が忘れてしまっている何か約束の様なものがあって、彼女の為に探してやらなければならないのだろう。洞窟に入ってくる光からは陰になってよくわからないが、きっと彼女は不安になっている。頼りにしていたコータローが理由も経緯も不明だが、こんな洞窟で倒れてしまったのだから。ここはひとまず安心させてあげなければ。
「じゃあ、探しに行こう。」
コータローは、ゆっくりと立ち上がる。それを見て、金髪少女も立ち上がる。立つと頭に気を付けなければならないくらい、洞窟の天井は低い。彼女がコータローの次の動作を待っているので、先に立って洞窟の入り口に向かった。外は昼間だ。洞窟の中とは比べ物にならないくらい明るいが、それでも周囲は木に覆われた薄暗い森の中だ。仰ぎ見ても空は殆ど見えず、周囲から伸びた枝と木の葉が頭上を覆いつくしている。
さて、どうしよう。辞書の次は鴉。辞書なら本のある場所を探せたが、鴉ってどうやって探せば良いのか。そうそう、まず、『おしゃべり鴉』って言うのがどういう代物か訊かなければ。
「えっと…、『おしゃべり鴉』って、どんなのだっけ?」
「え…。」
コータローに続いて洞窟を出てきた少女は戸惑う。
「俺、頭打ったのか、忘れちゃったから教えてくれる?」
「どんなのって…、鴉。良く喋る鴉。」
そのまんまだ。
「ん~、もうちょっと、詳しく教えてくれるかな。どんな色しているかとか。」
「多分、黒。」
ま、そうだよな。
「じゃ、大きさとか。」
「知らない。」
「じゃ、どこに棲んでいるとか。」
今度は黙ったまま、首を振る。
「例えば、呼び寄せる方法とか。」
只々、首を振る。
そうだ、エカテリーナは、他人が『無限の辞書』について話しているのを聞いて知ったと言っていた。
「え~、君はどうやって、『おしゃべり鴉』の存在を知ったんだ?」
「小さい頃からお話で聞いた。お喋りする鴉。」
「そうなんだ…。」
そうか~、つまり、これもノーヒントで探せって事かぁ。相手は大きくなったけど、あんまり頼りにならないかな。そうだ、大事な確認を。
「変な事を訊くと思うかもしれないけど、ちゃんと答えて欲しい。君は俺を知っているんだよね。」
少女は、真っ直ぐにコータローを見たまま、ゆっくりと一つ頷く。
「俺の名前言ってみて。」
「…コータロー。」
小さな声だが、はっきり発音する。
「じゃ、君の名前教えてくれるかな。」
直ぐに答えない。彼女の碧眼が微かに左右に揺れて、コータローの真意を探っている。
そうだよな。年頃の娘が知らない男に、簡単に名前を教えちゃいけない。
「エカテリーナ。」
ん~、なるほど。言われてみれば、何だか当たり前の様な気がしてきた。この子もエカテリーナ。もしかして、成長した?それとも姉妹?最初のエカテリーナは、腰くらいの背丈だったけど、この子は自分と同じくらいある。白人は背が高いから、このくらいは特に大きい訳じゃないのだろう。さあ、兎に角『おしゃべり鴉』とやらを探さないと埒が開かない。
「ここまでどうやって探して来たのかな。」
エカテリーナは黙ったまま、反応しない。
「この洞窟まではどうやって来た?」
これも反応なし。
何となく、分かっている。これは訊いちゃいけない質問なんだって。じゃあ、もう探すしかないだろう。
コータローは周囲を見回す。洞窟正面の森の中へは、人が通れそうな道が続いている。それ以外に、右手側にも道と思える、草が生い茂っていない筋が続いている。背後は、洞窟が口を開けている崖だ。行動を起こすとなれば、正面か右手の小径を使って進むのが常識的だろう。意表を突く選択肢として、崖をよじ登るという手もあるが、今そんな奇策に出る理由はない。
「カチューシャ、あっちの道を行こう。」
コータローは右手の小径を指差す。エカテリーナが気味悪そうに顔をしかめて、身を縮める。
「あれ?あっちの方角は何かまずいのか?」
彼女が首を振る。
「呼び方がキショイ。」
「え!呼び方って、カチューシャって事?」
彼女が細かく何度も頷く。
「でも…」
幼いエカテリーナはそう呼べって言ったぞ。どういう事だ。年頃の娘は、些細な事でも何かと気にするのか?
「じゃ、なんて呼べば良い?」
投げやりに訊き返す。視線をコータローから逸らして、暫く彼女は考える。
「…カーチャ?」
疑問形で言われても。嫌がったのはあなたでしょ。カチューシャとカーチャでどれだけの差があるんだか。
「じゃ、カーチャで。」どうでも良い。「じゃ、カーチャ、あっちに行くぞ。」
彼女の同意を確認せずに、コータローは右手の小径へと歩を進めた。
と言って、当てもない。『おしゃべり鴉』の姿も知らないのに、どうやって探せば良いんだ。『おしゃべり』ってなんだ。普通の鴉よりもカアカア余計に鳴くのか?それ、おしゃべりって言うのかな。おしゃべりっていうくらいだから、人間の言葉を喋るのか?童話や空想世界なら、違和感なくあり得る設定だ。でも、だとしたら、『鴉』の部分だって普通の鴉を想像していたら間違ってないか?図体が人間並みに大きいとか、もしかしたら、顔は鴉だけど、胴体は人間だとか。いや、逆にデカい鴉の胴体の上におばさんの顔が乗っているなんて事もあり得るかも。
「なあ、カーチャは、『おしゃべり鴉』をお話で聞いていたって言ったよな。」
返事がない。コータローは自分の後ろを歩いているエカテリーナを振り返る。彼女の、コータローを見る視線と出会う。
何だ、聞こえているのか。
「その、お話ってどんな話か教えてくれ。」
「…あの、」自分の足元を見る合間にちらちらとコータローに視線を向けながら、とつとつと話し出す。「ある少女が森で道に迷って、いろんな森の住人に助けてもらう話です。…見た目は怖いけど、本当は優しい『怖がり熊』とか、底なし沼に行かない様に通せんぼしてくれる『胴長蛇』とか、家に帰る道を見つけるヒントをくれる『気紛れ狐』とか…。少女が寂しくないように、ずっと話し相手になってくれるのが、『おしゃべり鴉』です。」
「ふーん。だから森の中ね。」
だったら、コータローがいなくなって、エカテリーナ一人だったら、寂しそうな少女を元気づけようと現れたりするんじゃないか?
「でも、いつもはどこにいるのかは分からなくて。」
「それで、その鴉ってのは、普通の鴉の大きさなんだよね。見た目が鴉なんだよね。」
「たぶん…。お伽話では、鴉さんの見た目は書かれてなくて。」
「おとぎばなしぃ?」
コータローは思わず、足を止める。後ろを歩いていたエカテリーナも立ち止まり、びっくりしてコータローの顔を見ている。
「お前、それ、架空の話だろ。」
「でも、きっとほんとにいます。」
「じゃ、さっき言ってた、なんとか熊とか、狐とかもいるのかよ。」
「うん、…たぶん。」
なんてこった。有りもしない怪物を探しているのか?辞書を探すよりも、圧倒的に見つからない気がして来た。どうすりゃ良いんだ。
「いるの。絶対。」
コータローの様子が一気に不安そうに変わるのを見て、エカテリーナは無理に力を入れる。それにしても根拠のない言葉に説得力はない。
「えっと、カーチャ、それじゃ、期限を決めよう。」
「期限…?」
「そう、『おしゃべり鴉』を探す期限。」
「どういう事?期限内に見付からなかったら、諦めるって事?」
「今すぐじゃない。でも、探しても探しても見付からない時に、どこかで区切りを付けなきゃ。もう一度、よく考えて、作戦を練ってから探索に挑戦しないと、効率が悪いだろ。第一、二人ともまいっちまう。」
エカテリーナが俯く。
「それって、やっぱり諦めろって事でしょ。」
そうだが、なんだかそうは言いづらい。
「出来るだけ頑張るさ。でも、限界はあるだろ。」
「今からそれを言うのって、違う!」エカテリーナはこんな大声を出せるんだ。「それじゃ、最初から諦めてる。」
「分かったよ。御免、撤回する。…兎に角探そう。周囲に注意して、何か気付いたら教えてくれ。」
女の子は苦手だ。どのくらい強く言って良いのか分からない。泣かせてしまったら、きっと罪悪感が半端ないに違いない。
コータローはまた前を向いて歩き出す。エカテリーナもそれ以上何も言わずに、彼の後ろをついて行く。
森の中を適当に歩きながら、コータローは考えた。
これはどういう事だろう。最初に気付いた時は、小学生に上がるか上がらないくらいのエカテリーナに出会い、白デブモンスターと闘っている内に今度は自分と同い年くらい、高校生相当のエカテリーナに変わっていた。つまり、これは幻だ。現実世界とは異なる。夢の中なのか、架空世界なのか知らないが、いずれにしても非現実的な空間だ。ここで、こうやって森を彷徨っている内に、きっとまた白デブモンスターのような奴が現れて、この世界は終わるんだ。だったら、それまで『おしゃべり鴉』を探している真似事をしておけば良い。そうすれば、エカテリーナの機嫌を損ねる事も無い。
「おーい、おしゃべり鴉ぅ~。」
こうやって、時々、呼び掛けていれば、探している風に見える。
「おーい。カーチャが会いたいそうだ。おしゃべり鴉出てきておくれ~。」
「…恥ずかしいからやめて。」
「え、でも、黙って歩いていても、見つけられないだろ。だって、相手は黒い鴉だ。こんな薄暗い森の中の枝にとまっていても、見分けがつかないよ。」
「じゃ、私の名前を出すのはやめて。」
「さっき話してくれたお伽話じゃ、迷子の少女が寂しがらない様に話し相手になっていたのが、『おしゃべり鴉』なんだろ?だったら、カーチャが会いたいと言った方が、向こうから寄って来てくれると思わないかい?」
「…でも、それは駄目。他のやり方にして。」
案外主張するな。
分かれ道に出る。どっちに行っても、薄暗い森の中の道には変わりない。そこで二人は立ち止まる。
「さ、カーチャ。どっちに行った方が良い?」
コータローは、左右の道を交互に指差す。エカテリーナは、道ではなく、コータローの余裕が漂う顔に不満気な視線を送る。口を半分尖らせたまま、喋る気配が無い。
「どうした?カーチャがこっちと思う方に行くよ。」
エカテリーナの顔が俯き、視線が上目遣いになっただけだ。
「俺に鴉の気配は分からない。道だって知らない。」
「…ずるい。」
消えそうな声が、やっと彼女の口から漏れる。
「だって、どっちも同じ様にしか見えないよ。だったら、カーチャが決めた方が…」
「探してくれるって。」
「え?」
「探してくれるって言った。」
「そうだけど…。俺にだって、どっち行った方に居そうかなんて分からないよ。」
「…」
また、だんまりだ。いよいよ非難がましい上目遣いの視線を強めてる。
コータローは小さく溜息を漏らす。
「分かった。じゃ、こっちに行こう。」
左の道を指差す。
さっきは右に行ったから、今度は左だ。
エカテリーナの反応を見ずに歩き出す。
やれやれ、全部俺任せか。俺が探すって設定になっているから、そうなんだろうけど、一緒にいるなら、少しは手伝ってくれたって良いじゃないか。大体、エカテリーナのために探しているんだから。
暫く行けば、また分かれ道に出る。
「これは、どっちに行きたいとかある?」
一応訊いてみる。
「え?」
とぼとぼコータローの後を歩いていたエカテリーナは急に声を掛けられて顔を上げる。
おいおい、探す気あるのか?
「ここは、どっちに行きたいとかリクエストがあるかな。」
彼女は黙って首を横に振る。
ま、そうだよね。
「じゃ、こっちに行くか。」
今度も左を選択する。
「あ、でも。」
行きかけたコータローの服の裾をエカテリーナが摘まむ。コータローは立ち止まって彼女を振り返る。
「左ばっかり選んでいると、結局元に戻ってしまったりしない?」
なんだ、意見が言えるじゃないか。だったら、最初から言えば良いのに。
「じゃ、右ね。」
別に左に拘るつもりは無い。彼女に意見があるなら、変えれば良い。
「え、でも、本当に良い?コータローは左に行きたかったんじゃないの?」
「いや。どっちでも良いよ。カーチャがぐるぐる回っちゃうのを心配しているなら、右に行ってみようよ。」
「でも、私が言ったからって、なんの根拠もないよ。」
「良いよ。なら、俺がこっちを選択したって事で。こっちに行こう。」
八方ふさがりだ。『おしゃべり鴉』の手掛かりは何も無し。エカテリーナはただコータローの後を付いて来るだけ。見つけ出す手立ては思い浮かばない。ただ、こうやって森の中をうろついているだけ。自分達の位置も、どれだけ広い森なのかも分からないまま、彷徨い歩いたところで、到底見付けられるとは思えない。その上、『おしゃべり鴉』が実在する根拠は、お伽話の中に登場する鴉を、エカテリーナが信じていると言う希望とか願望レベルの話だ。
早く、白デブモンスターでも何でも良いから現れて、この世界をリセットしてくれないか。
「コータロー、見付かりそう?」
背後からエカテリーナがおずおずと話し掛ける。
なんだ、その当事者意識の無い発言は。
「見つかりそうって。カーチャはどうなんだよ。」
歩きながら、思わず強い調子の言葉が口をつく。
「え?」
それ以上、言葉が返って来ない。振り向けば、彼女は、5、6歩後ろで止まったまま、コータローを見ている。
「どうした?」
「コータロー、怒ってる?」
怒ってるだって?
「このままいくら探したって無駄だ。もっと手掛かりが無いと無理だよ。」
「でも…。」
エカテリーナは下を向く。
「カーチャが鴉に会いたいんだろ。だったら、何か手掛かりになりそうな事思いつかないか?このまま、あっち行ったり、こっち行ったりしていても、とても見付けられない。」
「そんな事言われても…。」
「カーチャは、さっきから、俺の後を付いて来てるだけじゃないか。それじゃ、二人で探している意味が無い。せめて周りを良く見て、何か気付いたら、ちゃんと…。」
「男子、ちゃんとやってよ。間に合わなくなっちゃうでしょ!」
石川綾香さんが顔を赤くして怒っている。
あれ?なんだ今のフラッシュバックは?
「アウトォー!」
脇の草むらから突然白デブモンスターが飛び出して来て、コータローの脇腹にジャンプキックを食らわせる。
「オウ!」
勢いに押されてコータローがよろける。2、3歩後ずさる先、道の脇には崖が口を開けている。慌てて踏ん張る間も無く、コータローは崖に転げ落ちる。
さっきまで両側とも下草に覆われた平坦な場所だと思っていたのに、いつの間に崖が?
斜面を滑り落ちながら、遠ざかる白デブモンスターとエカテリーナを見上げて、コータローは思った。