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 気付くとコータローは草原に立っていた。風が右手前から左後ろに向けて吹き過ぎて行く。緩やかな下り斜面の向こうには、申し合わせた(よう)に赤茶色の瓦葺(かわらぶ)きの家が肩を寄せ合う町が見える。町のシンボルだろうか、石造りの背の高い時計塔が1つそびえている。

「ねえ、どうしたの?早く行きましょ。」

 女の子の声だ。(ごく)近くから聞こえる。自分の足元を見下ろすと、見上げる少女の視線とぶつかる。小学生低学年くらいだろうか。金髪の少女。長く伸びた髪をそのまま()らしているから、風に吹かれて彼女の顔に(まと)わりついている。しきりと手で髪をかくが、()え間なく吹く風に(もてあそ)ばれている。白地に水色の細い線が入ったチェックのワンピースは、(すそ)(えり)に付いた小さな青いリボンがアクセントになっている。

 誰だ?

 コータローは状況が()み込めず、じろじろと少女を観察する。その視線に(おく)する素振(そぶ)りも見せずに、少女はコータローを見返してくる。

「えっと、誰?」

 すぐさま、彼女の右足がコータローの(すね)()る。小さい割に暴力的な少女だ。

「馬鹿、なにすんだ!」

(とぼ)けてないで、早くして!」

 少女の目が()り上がる。

 この子は、自分の親とか家族とかとコータローを間違えていないか?まさか父親と?おい、こっちは17歳だぞ。流石(さすが)にそれはないでしょ。それじゃ、お兄ちゃんとか?それにしても、これだけ近くでまじまじと見ていれば、人違いなら流石(さすが)に気付くだろう。と言う事は、この子は本当にコータローを知っている?それとも、世の中には3人のそっくりさんが居るっていう、あれか?

(じょう)ちゃんは」コータローは(かが)みこんで、視線の高さを少女に合わせる。「お兄ちゃんの事を知っているんだよね。」

 少女は、あからさまにがっかりした態度を見せて溜息(ためいき)をつく。

「これ、何のお芝居(しばい)?」

「いやいやいや、お芝居なんかじゃないよ。お兄ちゃんは、本当に君の事を知らないんだ。」

「そんな(わけ)ない。」

 強い口調(くちょう)即答(そくとう)だ。

「いや、きっと、お兄ちゃんに良く似た別の人と間違えているんだよ。どんなにカッコいいお兄ちゃんでも、世界には、そっくりな人が居るんだ。」

「…これに付き合えば、探しもの始めてくれる?」

 (おさな)い子はストレートに感情が態度に出る。如何(いか)にもうんざりという表情をされると、心が折れそうだ。

「君が知っているお兄ちゃんの名前はなんていうのかな?」

 少女の(うった)えなど無視して、質問を投げかける。

「コータロー。」

「ほうら…、え?同じ名前?そこまで一緒になる偶然ってあるのか?」

「一人で馬鹿やってないで、動いてよ。」

 しびれを切らした金髪少女は、コータローのズボンを(つか)んで左右に()する。

 こりゃ、本当に変な事になっている。身に(おぼ)えがある(わけ)じゃないが、ここでこの子を放り出して行くと、保護責任者遺棄(いき)に間違われて捕まりかねない。きっとこの子の保護者もすぐ近くに居るに違いない。この子を連れながら探して引き渡そう。

「お(じょう)ちゃん、お名前は?」

「…まだ、続けるの?」

 年端(としは)も行かない子供くせに、相手の心を(くだ)くのに、ほんとに効果的な落胆顔(らくたんがお)出来(でき)る。

 コータローは(こら)えて笑顔で(うなず)く。少女はもう一度大きな溜息(ためいき)()らす。

「…エカテリーナ。」

 気力の感じられない、如何(いか)にも面倒臭(めんどくさ)そうな声。

「エカテリーナちゃん。じゃ、お兄ちゃんはなんて呼べば良いかな?」

「好きにすれば。」

 全然、乗って来てくれない。

「じゃ、え~と、エカちゃん?」

「何言ってんの、馬鹿じゃない?そんな(りゃく)し方しない。」

 好きにしろと言ったくせに、意外と文句(もんく)ったれだ。そうか、エカテリーナって言うのは、よく聞く名前だ。ロシア(あた)りじゃ一般的なんだろう。だったら、愛称(あいしょう)も決まった呼び方があるって事か。

「じゃ、普通はなんて呼ばれているのかな?」

「…カチューシャ。」

 視線を()らして、何故(なぜ)だか恥ずかしそうだ。

「そう。」エカテリーナとは、随分(ずいぶん)発音が違うが、合っているのだろうか。聞き間違えているとも思えない。「じゃ、俺もカチューシャって呼んで良いかな。」

「好きにすれば。」

 それはさっきも聞いた。それで言われた通りに好きにしたら、文句(もんく)を言われたんだ。

「それじゃ、カチューシャ、そう言えば、さっき探し物とか言っていたね。」

「…それも、説明が必要?」

 またも、如何(いか)にも面倒臭(めんどくさ)いというしかめっ(つら)が返って来る。こっちは彼女より、なんぼも大人なんだから、もう少し耐え忍ぼう。

「ああ、カチューシャが俺に何を望んでいるのか、一度ちゃんと教えておくれよ。」

 エカテリーナは、しゃがんだコータローの顔を真正面から見て、三度(みたび)大きな溜息(ためいき)をついてから説明を始める。

「『無限の辞書』探してくれるって約束だったでしょ。早く探して。」

「無限の辞書?それって、どんなやつ?」

「知らない。()(かく)探してよ!」

 おいおい、説明ってそれでお(しま)いかよ。幼い子には、相手に分かる様な説明は無理なんだろうか。それにしたって、適当過ぎる。だが、何故(なぜ)だろう。(すで)にこの子の(ため)に自分が探してあげなければならないと言う気がしている。何か(わけ)の分からない物に追い立てられている(よう)な気分だ。

「カチューシャは、それを見た事あるのかい?」

「ない。」

「どうして、それを知ったの?」

「話に聞いた。」

「誰に?」

「知らない。」

 気にしない(よう)にしているつもりでも、イライラが腹の中に()まってくるのを感じる。

「じゃ、その辞書が、どこにあるかは聞いたかい?」

「知らない。」

「…一体、どんな話を聞いて、カチューシャは、それが欲しいと思ったのかな。」

「良いでしょ、何だって!」先に、エカテリーナの方がキレる。「欲しいんだから、探してよ!」

 こりゃ、このまま話していても、1ミリも解決に近付かない。()(かく)行動あるのみか。

 コータローは立ち上がる。

「じゃ、あの町に行ってみよう。」

 草原の斜面を緩やかに下った向こうに見える家並(やな)みを指差(ゆびさ)して、エカテリーナの反応を確認する。彼女は、肯定(こうてい)も否定もせずに、口を少しへの字に曲げて、町を見ている。コータローは(なか)ばヤケになって、エカテリーナの手を取ると、草原の斜面を歩きだす。

 草は思ったよりも深い。振り出す足に(から)みついて歩きにくい。

「ね、どうして、あの町なの?」

 随分(ずいぶん)歩いてしまってから、少女はそんな事を言い出す。

「どうしてって…、探すのは辞書なんだろ?」

「そう。」

「じゃ、(くさむら)には落ちていない。木の上にも()っていない。本はきっと、本が集まっている所にあるさ。」

「それだと、なんで町なの?」

 えぇ?

 コータローは思わず、エカテリーナを振り向く。エカテリーナは、コータローに手を引かれながら、彼を見上げている。冗談で言っているのではない。真剣(しんけん)な表情だ。

「えっと…、町に行けば、人がいるだろうし、本は人間が読む物だ。だから誰か知っている人に出会えるかも知れない。」

「ふーん。」

 エカテリーナの顔は()えない。何が不満なんだ。もしかして、名前は『無限の辞書』というけれど、それは電子辞書みたいに本の見た目をしていないとか?そう言えば、フェイスブックっていう、到底(とうてい)本と関係ない物にそれらしい名前が付けられている例だってあるじゃないか。

「…(ちな)みにだけど、その『無限の辞書』ってぇのが、どんな見た目しているのか知ってる?」

「それ、さっきも()かれた。知らない。」

 だよね。聞く前から答えは分かってたけど、もしかしたらって思ったんだ。さて、どうやって探そう。

 コータローはエカテリーナの手を引きつつ考え、これという良い思いつきも浮かばないまま、迷い迷いエカテリーナと歩いて、いつの間にか町の入り口に行き着いてしまった。こうなったら、()(かく)探すしかないが、闇雲(やみくも)に探しても無駄(むだ)だ。だったら誰かを(つか)まえて()くのが常套(じょうとう)手段だ。

 人通りは、時々1人、2人とすれ違うくらいだ。物を()く相手を選んでいられる状況じゃないが、なんにしても最初が肝心(かんじん)だ。ちゃんと対応してくれる人でないと、こっちの心が折れる。

「あの、すいません。」

 中でも気の良さそうな顔をした、通りすがりの中年男に声を掛ける。男は、(ひど)遠慮(えんりょ)がちなコータローの言葉を無視せずに足を止めてくれた。初手で(つまず)かなかった事に少なからずほっとする。

「『無限の辞書』って知りませんか?」

 単刀直入に()く。まどろっこしい事をしている気持ちの余裕は無い。

「なんの住所だって?」

 男の反応に不安をかき立てられ、コータローはエカテリーナに矛先(ほこさき)を向ける。

「『無限の辞書』で良いんだよな?」

 少女は、コータローを見上げて、一つ(うなず)く。

「『無限の辞書』です。」

 もう一度、はっきり男に告げる。

「え?」

「無限の、辞書、です。」

「辞書?辞書って、あの、いろんな言葉の意味が書かれている、あれ?」

「そう。…そうだよな?」

 やっぱり不安になって、エカテリーナにすがる。少女は、(ただ)不安そうな眼差しで二人の会話を見上げている。

「辞書なら、本屋で()いてみたら。」

 そりゃそうだ。ごもっとも。

「あの、本屋って、この町にありますか?」

「ああ、あの角を左に曲がって…」

 男は親切に道を教えてくれる。コータローは彼の言葉に神経を集中させて、それを頭に(たた)き込む。男に礼を言って別れると、コータローは、言われた通りの道筋(みちすじ)をエカテリーナの手を引きながら辿(たど)る。

「人に(たず)ねるのね。」

 一緒に歩きながら、金髪少女が(つぶや)く。

「そうだよ。もしかしたら、その辞書を知っている人が居るかも知れない。」

「それなら、私にも出来(でき)るわ。」

 彼女の言葉がコータローの(かん)(さわ)る。

「カチューシャ一人で出来るって事か?」

「うん。教えてくれるようにお願いすれば良いんでしょ。」

「そう。カチューシャは誰とでも話せるのか?」

 コータローが物を()くよりも、可愛(かわい)らしい金髪少女が(たず)ねた方が、相手が親切に教えてくれる確率はきっと高いだろう。

「じゃ、今みたいに、誰か(つか)まえて、教えてもらえば良い。カチューシャ一人でも出来るね。」

 一人で出来るなら、好都合(こうつごう)だ。(あと)はエカテリーナ一人で探せば良い。

「ううん。私、教えてもらっても、言ってる事が分からないから無理。」

「分からない(わけ)ないだろ。今、俺の話にちゃんと返事しているじゃないか!」

 思わず大声を出す。びっくりして立ち止まったエカテリーナは、(つな)いだ手がいっぱいに張るくらいコータローから(あと)ずさる。鳶色(とびいろ)の瞳をまん丸に見開いて、コータローを見ている。

 やばい。ついつい、大声を出しちゃった。

 みるみる金髪少女の鳶色(とびいろ)の瞳に涙が()まる。

「だって、分からないもん。あたし、分からないもん。」

御免(ごめん)よ。びっくりさせて。」

「分かんないもん!そんなの分かんないもん!」

 駄々(だだ)をこねるエカテリーナの目から、大粒の涙がぽろぽろと(こぼ)れる。

御免(ごめん)、御免。分かった、分かったよ。カチューシャじゃ分かんないんだよな。」

 正直、何が分からないのか分からない。取り()えず、この場を収めない事にはどうにもならない。 

 人さらいだと誰かに疑われていないか、周囲を気にしながら何とかエカテリーナを黙らせると、手を引いてその場を離れる。彼女の主張している中身の理解は、この際どうでも良い。さっき教えてもらった本屋の道順は、この騒ぎで頭から消し飛んでしまった。仕方(しかた)ないから、手あたり次第(しだい)目に付いた人に声を掛けて、本屋への道を()(なお)して、なんとか辿(たど)り着く事が出来(でき)た。

 そこは、想像していた所とは、少し違っていた。本屋と聞けば、店の中に(たな)がスペース一杯(いっぱい)に配置され、そこにぎっしりと本が並べられている店を想像する。本が売り物なんだから、品揃(しなぞろ)えがあって当然だ。だが、この店はそうなっていない。確かに本は置いてある。本はあるが並んでいない。勿論(もちろん)(たな)なんて無い。四角い木枠(きわく)で、ガラス張りのショーケースの(よう)な中に、いかにも高そうに勿体(もったい)をつけた分厚(ぶあつ)い本を1冊ずつ入れて飾ってある。本屋と言うよりも博物館の展示室の様だ。店内は薄暗く、客の気配はまるで無い。細長い店の奥の奥に、古びた木製の机が()えられていて、その向こうに丸眼鏡(まるめがね)に前歯が2本出た目つきの(するど)い男が座っている。きっとあの男がこの店の(あるじ)だ。

 コータローは、エカテリーナの手をしっかり握って、恐る恐る店の中へと進む。

「ここ、本屋なの?」

 エカテリーナが(はばか)る様子もなく、コータローを見上げて()く。

「うん、多分ね。」

 店主に眼を向ければ、(するど)い目がコータローとエカテリーナを(とら)えている。暗い店内の空気が張り詰める。何だか居た(たま)れない。取り()えず、手近(てぢか)なショーケースの中の本を(のぞ)いてみる。(かわ)装丁(そうてい)がされた立派(りっぱ)な本だ。題名が書かれてあるが、一体何と書かれているのか判読できない。何とか読み(くだ)そうと仔細(しさい)に見れば、知っている文字の形に似ている(よう)な、でも知らない文字だ。その様子を見て、エカテリーナもショーケースの中を(のぞ)く。

「これ、何なの?」

 エカテリーナの質問の意味は本の内容についてだと理解したが、題名が読めずに苦労している時点で回答者の資格が無い。

「うん、それが、よく分からない。」

「コータローでも、分からない事が有るんだ。」

「そりゃ…、沢山(たくさん)あるさ。」

 のろのろ()を進め、次のショーケースを(のぞ)く。これも同じ様な本だ。革装丁(かわそうてい)染色(せんしょく)箔押(はくお)しされたタイトル文字のデザインの差くらいしか違いが分からない。

「うーん。」

 これじゃ、この中に『無限の辞書』が存在しても、見つけられない。タイトルが読めれば何とかなるのに。

 コータローは店主の方を盗み見する。相変わらず(するど)い目が眼鏡(めがね)越しに光っている。目を輝かせているあの光は、この薄暗い店内のどこから来ているんだ?目玉だけをぐるぐる動かして店の中を見回してみるが、そんな光源は見当たらない。もう一度、店主の様子を(うかが)ってみる。やっぱり、コータロー(たち)(にら)む目だけがギラギラと輝いている。

 こいつは何だ?俺達の事を(あや)しんでいるのか?俺達が何か怪しい行動をしているのか?そもそもここは、こんな風に客が(おとず)れるような場所じゃないとか。まずい、まずいぞ。知らない内にヤバい状況にハマっているなんて事ないよな。もしかして、万引きでもしそうにみえるのだろうか?大体、こんなショーケースに入っている本ばかりじゃ、万引きなんかできないだろう。は!そうか。万引きが横行(おうこう)するから、こんな風に厳重にショーケースの中にしまってあるのか!このまま怪しまれているのはまずい。警察に連絡されて、お巡りさんがやって来て職務質問されたら、エカテリーナとの関係をどう説明すれば良い?知らない女の子を連れ回していたら、それこそ犯罪だろ。早い所、用を済ませてしまわなけりゃ。

 コータローは警戒しながら、そろそろと店主に近づく。その間も、暗がりでぎらつく店主の目は、コータローから一瞬も離れない。二人は(みょう)な緊張感を(はら)みながら距離を詰める。思わずエカテリーナと(つな)ぐ手に力がこもる。

「あの…。」(のど)(かわ)いて、声が上手(うま)く出ない。「ここ、本屋ですよね。」

「お前さんがさっきから見ていた物は、何だと思ってたんだい?」

 質問に質問で返された。こいつは一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない。

「探している本があるんですが、ここに置いてないですか?」

「お前さん、どこの人間だい。」

 え?何でそんな質問になる?

 コータローが反応に困っているのを見て取ると、店主は言葉を()ぐ。

「ここじゃ、本は注文して作るもんだ。お前さんが、望む本を言ってみな。」

 そうか、だからあんな豪華(ごうか)装丁(そうてい)をしているんだ。

「いや、立派(りっぱ)な装丁の本じゃなくて良いです。既成(きせい)の本を探していて。」

「装丁の話なんかしていないだろ。どんな内容の本が望みだと()いているんだ。」

 なんじゃそりゃ。

「望みの内容って、こっちが言った内容を本にしてくれるって事ですか?」

「ま、多少出来(でき)ない場合もあるが、大抵(たいてい)の望みには(こた)えられる。」

「え?それは、自分で勝手にストーリーを考えて、的な?」

「だから言ってみな。」

 コータローは考える。こりゃ、上手(うま)く行くかもしれない。ここで『無限の辞書』とかいうものを作ってくれと言って、もし作れるのなら役目は終了だ。エカテリーナはたいそう感謝して、どこかに行ってくれるだろう。いや、待てよ。本を作るって、いくらかかるんだ?

「あの、お高いんですかね。」

 コータローは、一転(いってん)、おずおずと(たず)ねる。店主はフンと鼻で笑う。

()らぬ心配をするじゃないか。そんなの、お前さんの気持ち次第(しだい)だ。そんなくだらない事よりも、先に要件(ようけん)を言いなよ。さっき言ってた、探している物ってのがあるんだろ。」

「そう。『無限の辞書』ってありませんか。」

 何故(なぜ)だか、これを口にするのは勇気がいる。口にしてしまってからも、店主の反応が気になりドキドキする。

「はっ!」店主は一つ大声を発しながら、上体を()らせ、天井を(あお)ぐ。「とんだ要求だ。そりゃ、誰が使うんだい。」

 店主は()らせた上体を(もど)して、エカテリーナとコータローを交互に見る。刺すような視線を向けられて、エカテリーナがコータローの(かげ)に隠れる。

「この子が」正直に答えて良いものか一瞬迷いはしたが、ここで(うそ)をつかなきゃならない理由も無い。「この子が探しているんだ。」

「ふん、そうかい。そう言う事かい。」店主は、エカテリーナからコータロー、コータローからエカテリーナへと視線を移動させながら、口をもぐもぐさせて(つぶや)いている。

「それで、『無限の辞書』は作れるんですか。」

「そいつは無理だ。」店主は実にあっさりと口にする。「ありぁ普通の本じゃない。」

「普通の本じゃないって、どういう事だ。」

 しつこく欲しい物を言えと催促(さいそく)しておきながら、結局出来(でき)ない事に(わる)びれた様子もない店主に腹が立ってくる。

「そのままだよ。俺の(よう)な普通の人間が作ろうとして作れるものじゃないって事さ。悪いが、他を当たってくれ。」

 ちょっと待て。少なくとも、この店主は『無限の辞書』がどんなものか知っている。今手掛(てがか)かりになるのは、このいけ()かない店主だけだ。

「他を当たれって言われても、どこを当たれば良いか検討もつかない。どこにありそうかくらい教えてくれないか。」

 古びた大きな机に両手をつき、店主の鼻先に顔を近づけ(せま)る。店主は顔をしかめて、身を()()らせる。

「知らん、知らん。第一、そんなものが存在しているかも(あや)しいもんだ。」

「知らんって、さっきのあんたの口ぶりじゃ、知っているみたいだったじゃないか。何でも良いから、知っている事を教えてくれよ。」

「何でそんなにその本に(こだわ)る。…このお(じょう)ちゃんのためになら、他にもっと気の()いたプレゼントがあるだろ。」

 そうだ。本当にそうだ。大体、何で俺がこの子のためにこんなにしているのだろう。

 言われて考え込むコータローの表情を見上げて、店主はフンと鼻で笑う。

「ま、良い。だが、本当に大して知っている事は無い。聞いた話じゃ、あらゆる知識が詰め込まれている本だと言う。この世の事なら()っていないものは無い。そんな代物(しろもの)だ。」

「この世の事が何でも載っている…」

 百科事典の(よう)な物だろうか。それとも、分厚(ぶあつ)い国語辞典みたいな。それにしても無限とは、たいそうな名前だ。

「悪い事は言わん。(あきら)めて他の物にするんだな。他人の趣味をどうこう言うつもりは無い。そのお(じょう)ちゃんのご機嫌(きげん)を取りたいなら、もっとこの子にお似合いの物を選んだ方が良い。」

「待て。あんた、今なんて言った。勘違(かんちが)いしているだろ。この子は別に…」

 コータローの後ろに隠れているエカテリーナを振り返った時に、彼を見上げる不安な眼差(まなざ)しとぶつかる。無理もない。こんな薄暗い店の奥で、目つきの悪いオヤジの横柄(おうへい)な言い草を聞かされているんだから。

邪魔(じゃま)した。」

 言い捨てると、エカテリーナの手を引いて店を後にする。これ以上ここに居たら、オヤジが更に(ひど)い暴言を()かないとも限らない。嫌な思いをさせられるのは御免(ごめん)だ。

 店を出て数十歩歩く内に落ち着いて来る。つい気持ちで動いてしまったが、さて、これからどうしよう。行く当てなど無い。かと言って、ぶらぶらと彷徨(さまよ)ったところで解決するとは思えない。いっそ、大声でエカテリーナの保護者を呼び回ってみようか。

「本屋ってあんな所なのね。」

 コータローと手を(つな)いで歩きながら、エカテリーナが(つぶや)く。

「きっと、あれは特殊だ。普通の本屋はもっと、明るくて(はい)(やす)い。店員もあんな怖い人じゃなくて、親切で愛想(あいそ)の良い人がいる(はず)だ。」

「あそこで本が(もら)えるの?」

 何だ、本当に本屋を知らないのか。

「お金を払って本を買う所を本屋って言うんだ。」

「ふーん。」

 何だか、今一つ、すっきりしていない返事だ。

「本を貸してくれる所とは違うのね。」

「カチューシャは、本を貸してくれる所を知っているのか?」

「本がいっぱい並んでて、読みたい本をお姉さんの所に持って行くと、貸してくれるの。」

「それ、図書館じゃないか。」

「さっきの所はちょっとしか本が無かったけど、もっと、もーっと、沢山(たくさん)本が並んでいて、背伸びしても届かないくらい高い所まで本が詰まっているの。それで、読みたい本が有ったら、入口の(そば)に座っているお姉さんの所に持って行くと、貸してくれるの。」

「だから、そこは図書館だ。」

 ん?なんで、こんなに詳しく知っているんだ?

「カチューシャ、その場所に行った事あるのか?」

「うん。」

「もしかして、この町にもあるのか?」

「うん。」

 おい、先にそれを教えろ。

「もしかして、『無限の辞書』はもう探してみたけど無かったとか。」

「ううん。」

「探して無いのか?」

「うん。」

 待て待て、あんまり期待し過ぎるのは禁物(きんもつ)だ。さっきの店主の話だと、『無限の辞書』って言うのは、普通の本じゃない。図書館あたりに普通に置いてあるなら、あんな言い方はしないだろう。第一、エカテリーナは探していないと言っているが、簡単に誰でも借りられる(よう)な状態で存在するなら、この子が俺に探してくれとねだる状況は発生しないに違いない。それでも、ダメ元で図書館の線は(つぶ)しておくか。

「図書館へは、どっちに言ったら良いか分かるか?」

「うん。」

「カチューシャが案内してくれ。」

「でも、きっと『無限の辞書』はないよ。」

 何だよ。分かってるじゃないか。

「でも、探していないんだろ?」

「うん。」

「じゃ、一応探してみよう。」

 他に手掛かりは何もない。途方(とほう)()れて何もしないよりは、可能性は(わず)かでも思いつく所から手を付けたい。

 今度はエカテリーナがコータローの手を引いて、町の中を進んで行く。さっきまでは、本屋を探すのに集中していて周囲を(なが)める余裕は無かったが、こうして周囲を眺めてみると不思議な所だ。道は表面を平らに(みが)いた石を敷き詰めて造られていて、それの両側には、赤茶けた土壁(つちかべ)出来(でき)た家々が並んでいる。行き()う人は、簡素な服を着て歩いている。自動車どころか、バイクも、自転車すら見当たらない。まるで中世ヨーロッパに迷い込んだみたいだ。一体ここは何処(どこ)だろう。何かで見た事が有る風景な気もするし、(まった)く知らない世界の(よう)にも思える。第一、そんな(わけ)の分からない所にいるのに、なんで俺はこんなに冷静でいられるんだ。

 程無(ほどな)く図書館と(おぼ)しき場所に着いた。ここまでの道程(みちのり)にあった町並みは、中世を思わせる(たたず)まいだったのに、何故(なぜ)か図書館は鉄骨二階建て、ガラスをふんだんに取り入れた近代建築だ。どこか、コータローが住んでいる市の図書館に似ている。

「カチューシャは来た事があるんだよな。」

 エカテリーナは、黙って(うなず)く。

「よし、じゃ分担だ。」コータローは図書館の入り口で立ち止まり、エカテリーナに話して聞かせる。「カチューシャは、あそこに座っているお姉さんの所に行って、『無限の辞書』って本が無いか()くんだ。出来(でき)るよね?」

 さっき、人に訊くのなら出来ると自分で言っていた。ここでその力を発揮(はっき)してもらおう。

「なんて言えば良いの?」

「『無限の辞書』って本を置いてありませんかって言えば、調べてくれる。置いてないって言われたら、そのまま俺の所に(もど)っておいで。もし、あるって言われたら、ちょっと待っててもらって、俺を呼びにおいで。そこから先は、俺がお姉さんから内容を聞くから。」

「…うん。」

 何だか、自信なさそうだ。それとも、何か考えているのだろうか。

「俺は、辞書が置いてある(たな)がどこにあるのか探してみるよ。…大丈夫。棚の位置を確認するだけで、カチューシャが()き終わる前に、戻ってくるから。」

 多少不安があっても、そのくらい分担してもらわないと効率的に進まない。コータローは、カウンター向こうに座っている女性に向けて、エカテリーナの背中を押してやる。押されたなりに2、3歩前に踏み出して一瞬立ち止まるが、意を決したのか、今度は自分で歩き出す。

 よしよし。

 その後ろ姿を見送ってから、コータローは館内の案内図を見る。日本語で書かれている事を不思議にも思わず、辞書類が置かれている場所を探す。利用する頻度(ひんど)の少ない書物だ。図書館の奥の方、2階の(すみ)にその棚はある。どう行けば辿(たど)り着くかを頭に入れたら、カウンターで女性と話しているエカテリーナの所に向かう。

 彼女がちゃんと話せたからか、女性がパソコンを操作している。

「どうだい?」

 ぼんやりと待っているエカテリーナの後ろに近付きながら声を掛ける。コータローを見上げるエカテリーナの瞳は助けて欲しいと(うった)えている。さっきは自分でも出来(でき)ると言ったくせにとんだ臆病者(おくびょうもの)だ。

「この子から、相談されましたか?」

 しょうがないから、カウンターの向こうの女性に声を掛ける。

「はい、調べていますが…、どうも無いみたいです。」

 そうか、エカテリーナはちゃんと話が出来たのか。

「『無限の辞書』は無いんですね?」

 一応、相手に趣旨(しゅし)が伝わっているか確認する。

「はい、リストには無いですね…。」

 そうか。期待はしていなかったけど、はっきり言われると、力が抜ける。

「ありがとうございました。」

 礼を言って、エカテリーナとその場を後にする。一応、万一と言う事もあるから、彼女を連れて、辞書類が置いてある(たな)を見に2階に上がってみる。

「ちゃんと話したよ。」

「うん、そうだ。よく出来(でき)た。」

 頑張った事を()めて欲しいのだ。ここは素直に()めてあげよう。

「コータローは何してたの?」

「辞書が置いてありそうな棚の場所を調べてた。」

「そんなの後でも良かったでしょ。」

 あれ?エカテリーナ様はご立腹(りっぷく)なのか?

「でも、手分けして調べた方が早いだろ。カチューシャが質問している間に終わったし。」

「そんな簡単に終わるなら、後で良かった。」

御免(ごめん)、御免。そうだね。」

 辞書が並ぶ書棚(しょだな)の前に行き、目を走らせる。カビ臭いくたびれた分厚(ぶあつ)い本が並んでいる。ここにある本のタイトルはみな日本語だ。△△辞典、○○便覧(びんらん)、××用語集…。手に取って見たいとも思えない無機質な題名ばかり。

「ねえ、ある?」

 (たな)に目を走らせるコータローを不安気(ふあんげ)に見上げる。

「いや、無い。」

 それでも、見落としが無いよう、隅々(すみずみ)までもう一度チェックする。

「もう、疲れた。」

 エカテリーナはその場にしゃがみ込む。

 一体、誰の(ため)に探しているのやら。

「少し休もう。」

 図書館には所々に椅子やテーブルが配置されている。通路に置かれた長椅子に、二人は並んで座る。

 さて、これからどうしよう。

 コータローは無言で隣に座るエカテリーナを見る。エカテリーナの鳶色(とびいろ)の瞳もコータローを見上げている。

(あきら)めたりしないよね。」

 (にわ)かに彼女の視線に力が(こも)る。

「本当にあるんだよな。」

「うん。きっとある。」

 『きっと』か。そりゃ、希望的観測がはいっているだろ。と言って、今エカテリーナを責めたところでしょうがない。それになんだか分からない衝動(しょうどう)が、探してやらなければならない気持ちにさせている。

「じゃあ、次はどこを探すか…。」

 金髪の少女と見つめ合ったまま、右手で(あご)(さす)る。彼女は、表情一つ変えない。

 こいつ、考えてないな。

「おい、カチューシャも少しは考えろよ。」

「あたし、無理。」

 だったら、もう少しすまなそうな表情をしろ。

()(かく)、外に出よう。」

 このままここに座っていたら、どんどん嫌な感情が()いて来そうで、エカテリーナの手を取って図書館を後にする。と言って、当てはない。いよいよ行き先が無くなった。土壁(つちかべ)の家が並ぶ、狭い道を並んで歩く。不思議と彼女は何も()いてこない。探す当てがなくて、ぶらぶらしていると言ったら怒るだろうか。コータローと並んで歩くエカテリーナは、(むし)ろ少し楽しそうに見える。

「もう降参(こうさん)か!」

 路地(ろじ)から何かデカい物が目の前に飛び出してきて、出たなり大声で叫ぶ。気が(ゆる)んでいた所に突然の事で、(わけ)も分からず二人は立ち止まる。よく見れば、白い(もち)(かたまり)を何段も重ねた(よう)な姿の怪物が立っている。顔を形成するかたまりの段と段の隙間(すきま)に、目玉おやじの様な()き出しの目が二つ。血管までリアルだ。口は無い。口が有りそうな位置にも、(もち)かたまりかたまりの重ね目があるから、隠れて見えないだけかも知れない。いかにも柔らかそうなかたまりが段々重ねになった体は、マシュマロマンというより、ミシュランマンの方が近いだろうか。

 なんだ、こいつ。

 2メートルぐらいの高さがある怪物なのに、怖くない。得体(えたい)の知れない相手なのに、その姿を確認できた時から、コータローは()めてかかる気になっている。

「お前は、その子にもっと考えてくれと思っているくせに、自分でもろくに考えちゃいないじゃないか。」

 白デブモンスターはブヨブヨの腕をコータローの目の前に突き出して(わめ)く。目の前でフラフラ動く腕が邪魔(じゃま)くさい。

「お前、なんか知っているな。お前がこんな面倒臭(めんどくさ)い事を仕掛けた張本人か!」

 もし、こいつがぶつかってきたら、きっと押し(つぶ)される。向かって来るようなら、エカテリーナを連れて逃げられるように身構(みがま)える。エカテリーナはコータローの(かげ)に急いで隠れる。

(むし)ろ、お前が知っている(はず)だ。」コータローの目の前で、モンスターは白い腕をふにゃふにゃと左右に振る。「自分の胸に手を当てて考えてみろ。」

「何を偉そうに。」目の前でフラフラしている(やつ)の腕を払い除ける。「良いから、お前の知っている事を教えろ!」

 白デブの胸倉(むなぐら)(つか)もうとするが、パンパンに張った表面は(つか)(どころ)が無い。つるりと表面で(すべ)って、(くう)(つか)む。

「お前が探している物は何だ。」

 コータローの攻撃など何とも感じないのか、白デブモンスターが踏み込んでくる。

「なんでお前にそんな事を話さなきゃならないんだ。」

 こいつのブヨブヨの体に埋もれてしまいそうだ。コータローは全身で押し返す。

「その子に頼まれたから探しているのか。」

「うるさい!知っているくせにわざとらしいんだよ。」

「なんの(ため)に探している。」

「黙れ!」

 体の大きさに任せて、浴びせ倒して来るモンスターの腹に右手のストレートをお見舞いする。手ごたえ無く、白いブヨブヨした胴体に腕が沈み込んだが、多少はダメージを与えたのか、白デブモンスターは後ずさり、両者の間に隙間(すきま)出来(でき)た。

「さっきから、(わけ)の分からない質問ばかりしやがって。お前、一体なんだ?」

「フフン。それも分からないのか。」

 目だけがギョロギョロしていて表情は一切(いっさい)変わらない。何を考えているのか表情に表れないのに、小馬鹿にされている気がして(みょう)に腹が立つ。

仕方(しかた)ない。それじゃ、お前にヒントをやろう。…高山藤吉(とうきち)。」


 下校時、コータローと並んで歩きながら高山藤吉が(つぶや)く。

「俺、石川さんの事好きなんだよね。」


 その名前が出た途端(とたん)、コータローの頭の中に昨日の下校途中の一場面が(よみがえ)る。

「お前、何でそいつを知っている!」

 無性(むしょう)に腹が立つ。コータローはがむしゃらに腕を振り回し、白デブモンスターに(なぐ)り掛かる。

「おい、攻める相手が違うだろ。」

「うるさい!」

「逃げていたらお(しま)いだぞ。」

「うるさい!」

「これじゃあ、もっと修業が必要だな。」

 コータローの顔が白デブモンスターの腹に食い込んで、視界が真っ暗になった。

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