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気付くとコータローは草原に立っていた。風が右手前から左後ろに向けて吹き過ぎて行く。緩やかな下り斜面の向こうには、申し合わせた様に赤茶色の瓦葺きの家が肩を寄せ合う町が見える。町のシンボルだろうか、石造りの背の高い時計塔が1つそびえている。
「ねえ、どうしたの?早く行きましょ。」
女の子の声だ。極近くから聞こえる。自分の足元を見下ろすと、見上げる少女の視線とぶつかる。小学生低学年くらいだろうか。金髪の少女。長く伸びた髪をそのまま垂らしているから、風に吹かれて彼女の顔に纏わりついている。しきりと手で髪をかくが、絶え間なく吹く風に弄ばれている。白地に水色の細い線が入ったチェックのワンピースは、裾や襟に付いた小さな青いリボンがアクセントになっている。
誰だ?
コータローは状況が呑み込めず、じろじろと少女を観察する。その視線に臆する素振りも見せずに、少女はコータローを見返してくる。
「えっと、誰?」
すぐさま、彼女の右足がコータローの脛を蹴る。小さい割に暴力的な少女だ。
「馬鹿、なにすんだ!」
「惚けてないで、早くして!」
少女の目が吊り上がる。
この子は、自分の親とか家族とかとコータローを間違えていないか?まさか父親と?おい、こっちは17歳だぞ。流石にそれはないでしょ。それじゃ、お兄ちゃんとか?それにしても、これだけ近くでまじまじと見ていれば、人違いなら流石に気付くだろう。と言う事は、この子は本当にコータローを知っている?それとも、世の中には3人のそっくりさんが居るっていう、あれか?
「嬢ちゃんは」コータローは屈みこんで、視線の高さを少女に合わせる。「お兄ちゃんの事を知っているんだよね。」
少女は、あからさまにがっかりした態度を見せて溜息をつく。
「これ、何のお芝居?」
「いやいやいや、お芝居なんかじゃないよ。お兄ちゃんは、本当に君の事を知らないんだ。」
「そんな訳ない。」
強い口調で即答だ。
「いや、きっと、お兄ちゃんに良く似た別の人と間違えているんだよ。どんなにカッコいいお兄ちゃんでも、世界には、そっくりな人が居るんだ。」
「…これに付き合えば、探しもの始めてくれる?」
幼い子はストレートに感情が態度に出る。如何にもうんざりという表情をされると、心が折れそうだ。
「君が知っているお兄ちゃんの名前はなんていうのかな?」
少女の訴えなど無視して、質問を投げかける。
「コータロー。」
「ほうら…、え?同じ名前?そこまで一緒になる偶然ってあるのか?」
「一人で馬鹿やってないで、動いてよ。」
しびれを切らした金髪少女は、コータローのズボンを掴んで左右に揺する。
こりゃ、本当に変な事になっている。身に覚えがある訳じゃないが、ここでこの子を放り出して行くと、保護責任者遺棄に間違われて捕まりかねない。きっとこの子の保護者もすぐ近くに居るに違いない。この子を連れながら探して引き渡そう。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「…まだ、続けるの?」
年端も行かない子供くせに、相手の心を砕くのに、ほんとに効果的な落胆顔が出来る。
コータローは堪えて笑顔で頷く。少女はもう一度大きな溜息を漏らす。
「…エカテリーナ。」
気力の感じられない、如何にも面倒臭そうな声。
「エカテリーナちゃん。じゃ、お兄ちゃんはなんて呼べば良いかな?」
「好きにすれば。」
全然、乗って来てくれない。
「じゃ、え~と、エカちゃん?」
「何言ってんの、馬鹿じゃない?そんな略し方しない。」
好きにしろと言ったくせに、意外と文句ったれだ。そうか、エカテリーナって言うのは、よく聞く名前だ。ロシア辺りじゃ一般的なんだろう。だったら、愛称も決まった呼び方があるって事か。
「じゃ、普通はなんて呼ばれているのかな?」
「…カチューシャ。」
視線を逸らして、何故だか恥ずかしそうだ。
「そう。」エカテリーナとは、随分発音が違うが、合っているのだろうか。聞き間違えているとも思えない。「じゃ、俺もカチューシャって呼んで良いかな。」
「好きにすれば。」
それはさっきも聞いた。それで言われた通りに好きにしたら、文句を言われたんだ。
「それじゃ、カチューシャ、そう言えば、さっき探し物とか言っていたね。」
「…それも、説明が必要?」
またも、如何にも面倒臭いというしかめっ面が返って来る。こっちは彼女より、なんぼも大人なんだから、もう少し耐え忍ぼう。
「ああ、カチューシャが俺に何を望んでいるのか、一度ちゃんと教えておくれよ。」
エカテリーナは、しゃがんだコータローの顔を真正面から見て、三度大きな溜息をついてから説明を始める。
「『無限の辞書』探してくれるって約束だったでしょ。早く探して。」
「無限の辞書?それって、どんなやつ?」
「知らない。兎に角探してよ!」
おいおい、説明ってそれでお終いかよ。幼い子には、相手に分かる様な説明は無理なんだろうか。それにしたって、適当過ぎる。だが、何故だろう。既にこの子の為に自分が探してあげなければならないと言う気がしている。何か訳の分からない物に追い立てられている様な気分だ。
「カチューシャは、それを見た事あるのかい?」
「ない。」
「どうして、それを知ったの?」
「話に聞いた。」
「誰に?」
「知らない。」
気にしない様にしているつもりでも、イライラが腹の中に溜まってくるのを感じる。
「じゃ、その辞書が、どこにあるかは聞いたかい?」
「知らない。」
「…一体、どんな話を聞いて、カチューシャは、それが欲しいと思ったのかな。」
「良いでしょ、何だって!」先に、エカテリーナの方がキレる。「欲しいんだから、探してよ!」
こりゃ、このまま話していても、1ミリも解決に近付かない。兎に角行動あるのみか。
コータローは立ち上がる。
「じゃ、あの町に行ってみよう。」
草原の斜面を緩やかに下った向こうに見える家並みを指差して、エカテリーナの反応を確認する。彼女は、肯定も否定もせずに、口を少しへの字に曲げて、町を見ている。コータローは半ばヤケになって、エカテリーナの手を取ると、草原の斜面を歩きだす。
草は思ったよりも深い。振り出す足に絡みついて歩きにくい。
「ね、どうして、あの町なの?」
随分歩いてしまってから、少女はそんな事を言い出す。
「どうしてって…、探すのは辞書なんだろ?」
「そう。」
「じゃ、叢には落ちていない。木の上にも生っていない。本はきっと、本が集まっている所にあるさ。」
「それだと、なんで町なの?」
えぇ?
コータローは思わず、エカテリーナを振り向く。エカテリーナは、コータローに手を引かれながら、彼を見上げている。冗談で言っているのではない。真剣な表情だ。
「えっと…、町に行けば、人がいるだろうし、本は人間が読む物だ。だから誰か知っている人に出会えるかも知れない。」
「ふーん。」
エカテリーナの顔は冴えない。何が不満なんだ。もしかして、名前は『無限の辞書』というけれど、それは電子辞書みたいに本の見た目をしていないとか?そう言えば、フェイスブックっていう、到底本と関係ない物にそれらしい名前が付けられている例だってあるじゃないか。
「…因みにだけど、その『無限の辞書』ってぇのが、どんな見た目しているのか知ってる?」
「それ、さっきも訊かれた。知らない。」
だよね。聞く前から答えは分かってたけど、もしかしたらって思ったんだ。さて、どうやって探そう。
コータローはエカテリーナの手を引きつつ考え、これという良い思いつきも浮かばないまま、迷い迷いエカテリーナと歩いて、いつの間にか町の入り口に行き着いてしまった。こうなったら、兎に角探すしかないが、闇雲に探しても無駄だ。だったら誰かを掴まえて訊くのが常套手段だ。
人通りは、時々1人、2人とすれ違うくらいだ。物を訊く相手を選んでいられる状況じゃないが、なんにしても最初が肝心だ。ちゃんと対応してくれる人でないと、こっちの心が折れる。
「あの、すいません。」
中でも気の良さそうな顔をした、通りすがりの中年男に声を掛ける。男は、酷く遠慮がちなコータローの言葉を無視せずに足を止めてくれた。初手で躓かなかった事に少なからずほっとする。
「『無限の辞書』って知りませんか?」
単刀直入に訊く。まどろっこしい事をしている気持ちの余裕は無い。
「なんの住所だって?」
男の反応に不安をかき立てられ、コータローはエカテリーナに矛先を向ける。
「『無限の辞書』で良いんだよな?」
少女は、コータローを見上げて、一つ頷く。
「『無限の辞書』です。」
もう一度、はっきり男に告げる。
「え?」
「無限の、辞書、です。」
「辞書?辞書って、あの、いろんな言葉の意味が書かれている、あれ?」
「そう。…そうだよな?」
やっぱり不安になって、エカテリーナにすがる。少女は、只不安そうな眼差しで二人の会話を見上げている。
「辞書なら、本屋で訊いてみたら。」
そりゃそうだ。ごもっとも。
「あの、本屋って、この町にありますか?」
「ああ、あの角を左に曲がって…」
男は親切に道を教えてくれる。コータローは彼の言葉に神経を集中させて、それを頭に叩き込む。男に礼を言って別れると、コータローは、言われた通りの道筋をエカテリーナの手を引きながら辿る。
「人に尋ねるのね。」
一緒に歩きながら、金髪少女が呟く。
「そうだよ。もしかしたら、その辞書を知っている人が居るかも知れない。」
「それなら、私にも出来るわ。」
彼女の言葉がコータローの癇に障る。
「カチューシャ一人で出来るって事か?」
「うん。教えてくれるようにお願いすれば良いんでしょ。」
「そう。カチューシャは誰とでも話せるのか?」
コータローが物を訊くよりも、可愛らしい金髪少女が尋ねた方が、相手が親切に教えてくれる確率はきっと高いだろう。
「じゃ、今みたいに、誰か掴まえて、教えてもらえば良い。カチューシャ一人でも出来るね。」
一人で出来るなら、好都合だ。後はエカテリーナ一人で探せば良い。
「ううん。私、教えてもらっても、言ってる事が分からないから無理。」
「分からない訳ないだろ。今、俺の話にちゃんと返事しているじゃないか!」
思わず大声を出す。びっくりして立ち止まったエカテリーナは、繋いだ手がいっぱいに張るくらいコータローから後ずさる。鳶色の瞳をまん丸に見開いて、コータローを見ている。
やばい。ついつい、大声を出しちゃった。
みるみる金髪少女の鳶色の瞳に涙が溜まる。
「だって、分からないもん。あたし、分からないもん。」
「御免よ。びっくりさせて。」
「分かんないもん!そんなの分かんないもん!」
駄々をこねるエカテリーナの目から、大粒の涙がぽろぽろと零れる。
「御免、御免。分かった、分かったよ。カチューシャじゃ分かんないんだよな。」
正直、何が分からないのか分からない。取り敢えず、この場を収めない事にはどうにもならない。
人さらいだと誰かに疑われていないか、周囲を気にしながら何とかエカテリーナを黙らせると、手を引いてその場を離れる。彼女の主張している中身の理解は、この際どうでも良い。さっき教えてもらった本屋の道順は、この騒ぎで頭から消し飛んでしまった。仕方ないから、手あたり次第目に付いた人に声を掛けて、本屋への道を訊き直して、なんとか辿り着く事が出来た。
そこは、想像していた所とは、少し違っていた。本屋と聞けば、店の中に棚がスペース一杯に配置され、そこにぎっしりと本が並べられている店を想像する。本が売り物なんだから、品揃えがあって当然だ。だが、この店はそうなっていない。確かに本は置いてある。本はあるが並んでいない。勿論、棚なんて無い。四角い木枠で、ガラス張りのショーケースの様な中に、いかにも高そうに勿体をつけた分厚い本を1冊ずつ入れて飾ってある。本屋と言うよりも博物館の展示室の様だ。店内は薄暗く、客の気配はまるで無い。細長い店の奥の奥に、古びた木製の机が据えられていて、その向こうに丸眼鏡に前歯が2本出た目つきの鋭い男が座っている。きっとあの男がこの店の主だ。
コータローは、エカテリーナの手をしっかり握って、恐る恐る店の中へと進む。
「ここ、本屋なの?」
エカテリーナが憚る様子もなく、コータローを見上げて訊く。
「うん、多分ね。」
店主に眼を向ければ、鋭い目がコータローとエカテリーナを捉えている。暗い店内の空気が張り詰める。何だか居た堪れない。取り敢えず、手近なショーケースの中の本を覗いてみる。革の装丁がされた立派な本だ。題名が書かれてあるが、一体何と書かれているのか判読できない。何とか読み下そうと仔細に見れば、知っている文字の形に似ている様な、でも知らない文字だ。その様子を見て、エカテリーナもショーケースの中を覗く。
「これ、何なの?」
エカテリーナの質問の意味は本の内容についてだと理解したが、題名が読めずに苦労している時点で回答者の資格が無い。
「うん、それが、よく分からない。」
「コータローでも、分からない事が有るんだ。」
「そりゃ…、沢山あるさ。」
のろのろ歩を進め、次のショーケースを覗く。これも同じ様な本だ。革装丁の染色や箔押しされたタイトル文字のデザインの差くらいしか違いが分からない。
「うーん。」
これじゃ、この中に『無限の辞書』が存在しても、見つけられない。タイトルが読めれば何とかなるのに。
コータローは店主の方を盗み見する。相変わらず鋭い目が眼鏡越しに光っている。目を輝かせているあの光は、この薄暗い店内のどこから来ているんだ?目玉だけをぐるぐる動かして店の中を見回してみるが、そんな光源は見当たらない。もう一度、店主の様子を窺ってみる。やっぱり、コータロー達を睨む目だけがギラギラと輝いている。
こいつは何だ?俺達の事を怪しんでいるのか?俺達が何か怪しい行動をしているのか?そもそもここは、こんな風に客が訪れるような場所じゃないとか。まずい、まずいぞ。知らない内にヤバい状況にハマっているなんて事ないよな。もしかして、万引きでもしそうにみえるのだろうか?大体、こんなショーケースに入っている本ばかりじゃ、万引きなんかできないだろう。は!そうか。万引きが横行するから、こんな風に厳重にショーケースの中にしまってあるのか!このまま怪しまれているのはまずい。警察に連絡されて、お巡りさんがやって来て職務質問されたら、エカテリーナとの関係をどう説明すれば良い?知らない女の子を連れ回していたら、それこそ犯罪だろ。早い所、用を済ませてしまわなけりゃ。
コータローは警戒しながら、そろそろと店主に近づく。その間も、暗がりでぎらつく店主の目は、コータローから一瞬も離れない。二人は妙な緊張感を孕みながら距離を詰める。思わずエカテリーナと繋ぐ手に力がこもる。
「あの…。」喉が渇いて、声が上手く出ない。「ここ、本屋ですよね。」
「お前さんがさっきから見ていた物は、何だと思ってたんだい?」
質問に質問で返された。こいつは一筋縄ではいかない。
「探している本があるんですが、ここに置いてないですか?」
「お前さん、どこの人間だい。」
え?何でそんな質問になる?
コータローが反応に困っているのを見て取ると、店主は言葉を継ぐ。
「ここじゃ、本は注文して作るもんだ。お前さんが、望む本を言ってみな。」
そうか、だからあんな豪華な装丁をしているんだ。
「いや、立派な装丁の本じゃなくて良いです。既成の本を探していて。」
「装丁の話なんかしていないだろ。どんな内容の本が望みだと訊いているんだ。」
なんじゃそりゃ。
「望みの内容って、こっちが言った内容を本にしてくれるって事ですか?」
「ま、多少出来ない場合もあるが、大抵の望みには応えられる。」
「え?それは、自分で勝手にストーリーを考えて、的な?」
「だから言ってみな。」
コータローは考える。こりゃ、上手く行くかもしれない。ここで『無限の辞書』とかいうものを作ってくれと言って、もし作れるのなら役目は終了だ。エカテリーナはたいそう感謝して、どこかに行ってくれるだろう。いや、待てよ。本を作るって、いくらかかるんだ?
「あの、お高いんですかね。」
コータローは、一転、おずおずと尋ねる。店主はフンと鼻で笑う。
「要らぬ心配をするじゃないか。そんなの、お前さんの気持ち次第だ。そんなくだらない事よりも、先に要件を言いなよ。さっき言ってた、探している物ってのがあるんだろ。」
「そう。『無限の辞書』ってありませんか。」
何故だか、これを口にするのは勇気がいる。口にしてしまってからも、店主の反応が気になりドキドキする。
「はっ!」店主は一つ大声を発しながら、上体を反らせ、天井を仰ぐ。「とんだ要求だ。そりゃ、誰が使うんだい。」
店主は反らせた上体を戻して、エカテリーナとコータローを交互に見る。刺すような視線を向けられて、エカテリーナがコータローの陰に隠れる。
「この子が」正直に答えて良いものか一瞬迷いはしたが、ここで嘘をつかなきゃならない理由も無い。「この子が探しているんだ。」
「ふん、そうかい。そう言う事かい。」店主は、エカテリーナからコータロー、コータローからエカテリーナへと視線を移動させながら、口をもぐもぐさせて呟いている。
「それで、『無限の辞書』は作れるんですか。」
「そいつは無理だ。」店主は実にあっさりと口にする。「ありぁ普通の本じゃない。」
「普通の本じゃないって、どういう事だ。」
しつこく欲しい物を言えと催促しておきながら、結局出来ない事に悪びれた様子もない店主に腹が立ってくる。
「そのままだよ。俺の様な普通の人間が作ろうとして作れるものじゃないって事さ。悪いが、他を当たってくれ。」
ちょっと待て。少なくとも、この店主は『無限の辞書』がどんなものか知っている。今手掛かりになるのは、このいけ好かない店主だけだ。
「他を当たれって言われても、どこを当たれば良いか検討もつかない。どこにありそうかくらい教えてくれないか。」
古びた大きな机に両手をつき、店主の鼻先に顔を近づけ迫る。店主は顔をしかめて、身を仰け反らせる。
「知らん、知らん。第一、そんなものが存在しているかも怪しいもんだ。」
「知らんって、さっきのあんたの口ぶりじゃ、知っているみたいだったじゃないか。何でも良いから、知っている事を教えてくれよ。」
「何でそんなにその本に拘る。…このお嬢ちゃんのためになら、他にもっと気の利いたプレゼントがあるだろ。」
そうだ。本当にそうだ。大体、何で俺がこの子のためにこんなにしているのだろう。
言われて考え込むコータローの表情を見上げて、店主はフンと鼻で笑う。
「ま、良い。だが、本当に大して知っている事は無い。聞いた話じゃ、あらゆる知識が詰め込まれている本だと言う。この世の事なら載っていないものは無い。そんな代物だ。」
「この世の事が何でも載っている…」
百科事典の様な物だろうか。それとも、分厚い国語辞典みたいな。それにしても無限とは、たいそうな名前だ。
「悪い事は言わん。諦めて他の物にするんだな。他人の趣味をどうこう言うつもりは無い。そのお嬢ちゃんのご機嫌を取りたいなら、もっとこの子にお似合いの物を選んだ方が良い。」
「待て。あんた、今なんて言った。勘違いしているだろ。この子は別に…」
コータローの後ろに隠れているエカテリーナを振り返った時に、彼を見上げる不安な眼差しとぶつかる。無理もない。こんな薄暗い店の奥で、目つきの悪いオヤジの横柄な言い草を聞かされているんだから。
「邪魔した。」
言い捨てると、エカテリーナの手を引いて店を後にする。これ以上ここに居たら、オヤジが更に酷い暴言を吐かないとも限らない。嫌な思いをさせられるのは御免だ。
店を出て数十歩歩く内に落ち着いて来る。つい気持ちで動いてしまったが、さて、これからどうしよう。行く当てなど無い。かと言って、ぶらぶらと彷徨ったところで解決するとは思えない。いっそ、大声でエカテリーナの保護者を呼び回ってみようか。
「本屋ってあんな所なのね。」
コータローと手を繋いで歩きながら、エカテリーナが呟く。
「きっと、あれは特殊だ。普通の本屋はもっと、明るくて入り易い。店員もあんな怖い人じゃなくて、親切で愛想の良い人がいる筈だ。」
「あそこで本が貰えるの?」
何だ、本当に本屋を知らないのか。
「お金を払って本を買う所を本屋って言うんだ。」
「ふーん。」
何だか、今一つ、すっきりしていない返事だ。
「本を貸してくれる所とは違うのね。」
「カチューシャは、本を貸してくれる所を知っているのか?」
「本がいっぱい並んでて、読みたい本をお姉さんの所に持って行くと、貸してくれるの。」
「それ、図書館じゃないか。」
「さっきの所はちょっとしか本が無かったけど、もっと、もーっと、沢山本が並んでいて、背伸びしても届かないくらい高い所まで本が詰まっているの。それで、読みたい本が有ったら、入口の傍に座っているお姉さんの所に持って行くと、貸してくれるの。」
「だから、そこは図書館だ。」
ん?なんで、こんなに詳しく知っているんだ?
「カチューシャ、その場所に行った事あるのか?」
「うん。」
「もしかして、この町にもあるのか?」
「うん。」
おい、先にそれを教えろ。
「もしかして、『無限の辞書』はもう探してみたけど無かったとか。」
「ううん。」
「探して無いのか?」
「うん。」
待て待て、あんまり期待し過ぎるのは禁物だ。さっきの店主の話だと、『無限の辞書』って言うのは、普通の本じゃない。図書館あたりに普通に置いてあるなら、あんな言い方はしないだろう。第一、エカテリーナは探していないと言っているが、簡単に誰でも借りられる様な状態で存在するなら、この子が俺に探してくれとねだる状況は発生しないに違いない。それでも、ダメ元で図書館の線は潰しておくか。
「図書館へは、どっちに言ったら良いか分かるか?」
「うん。」
「カチューシャが案内してくれ。」
「でも、きっと『無限の辞書』はないよ。」
何だよ。分かってるじゃないか。
「でも、探していないんだろ?」
「うん。」
「じゃ、一応探してみよう。」
他に手掛かりは何もない。途方に暮れて何もしないよりは、可能性は僅かでも思いつく所から手を付けたい。
今度はエカテリーナがコータローの手を引いて、町の中を進んで行く。さっきまでは、本屋を探すのに集中していて周囲を眺める余裕は無かったが、こうして周囲を眺めてみると不思議な所だ。道は表面を平らに磨いた石を敷き詰めて造られていて、それの両側には、赤茶けた土壁で出来た家々が並んでいる。行き交う人は、簡素な服を着て歩いている。自動車どころか、バイクも、自転車すら見当たらない。まるで中世ヨーロッパに迷い込んだみたいだ。一体ここは何処だろう。何かで見た事が有る風景な気もするし、全く知らない世界の様にも思える。第一、そんな訳の分からない所にいるのに、なんで俺はこんなに冷静でいられるんだ。
程無く図書館と思しき場所に着いた。ここまでの道程にあった町並みは、中世を思わせる佇まいだったのに、何故か図書館は鉄骨二階建て、ガラスをふんだんに取り入れた近代建築だ。どこか、コータローが住んでいる市の図書館に似ている。
「カチューシャは来た事があるんだよな。」
エカテリーナは、黙って頷く。
「よし、じゃ分担だ。」コータローは図書館の入り口で立ち止まり、エカテリーナに話して聞かせる。「カチューシャは、あそこに座っているお姉さんの所に行って、『無限の辞書』って本が無いか訊くんだ。出来るよね?」
さっき、人に訊くのなら出来ると自分で言っていた。ここでその力を発揮してもらおう。
「なんて言えば良いの?」
「『無限の辞書』って本を置いてありませんかって言えば、調べてくれる。置いてないって言われたら、そのまま俺の所に戻っておいで。もし、あるって言われたら、ちょっと待っててもらって、俺を呼びにおいで。そこから先は、俺がお姉さんから内容を聞くから。」
「…うん。」
何だか、自信なさそうだ。それとも、何か考えているのだろうか。
「俺は、辞書が置いてある棚がどこにあるのか探してみるよ。…大丈夫。棚の位置を確認するだけで、カチューシャが訊き終わる前に、戻ってくるから。」
多少不安があっても、そのくらい分担してもらわないと効率的に進まない。コータローは、カウンター向こうに座っている女性に向けて、エカテリーナの背中を押してやる。押されたなりに2、3歩前に踏み出して一瞬立ち止まるが、意を決したのか、今度は自分で歩き出す。
よしよし。
その後ろ姿を見送ってから、コータローは館内の案内図を見る。日本語で書かれている事を不思議にも思わず、辞書類が置かれている場所を探す。利用する頻度の少ない書物だ。図書館の奥の方、2階の隅にその棚はある。どう行けば辿り着くかを頭に入れたら、カウンターで女性と話しているエカテリーナの所に向かう。
彼女がちゃんと話せたからか、女性がパソコンを操作している。
「どうだい?」
ぼんやりと待っているエカテリーナの後ろに近付きながら声を掛ける。コータローを見上げるエカテリーナの瞳は助けて欲しいと訴えている。さっきは自分でも出来ると言ったくせにとんだ臆病者だ。
「この子から、相談されましたか?」
しょうがないから、カウンターの向こうの女性に声を掛ける。
「はい、調べていますが…、どうも無いみたいです。」
そうか、エカテリーナはちゃんと話が出来たのか。
「『無限の辞書』は無いんですね?」
一応、相手に趣旨が伝わっているか確認する。
「はい、リストには無いですね…。」
そうか。期待はしていなかったけど、はっきり言われると、力が抜ける。
「ありがとうございました。」
礼を言って、エカテリーナとその場を後にする。一応、万一と言う事もあるから、彼女を連れて、辞書類が置いてある棚を見に2階に上がってみる。
「ちゃんと話したよ。」
「うん、そうだ。よく出来た。」
頑張った事を褒めて欲しいのだ。ここは素直に褒めてあげよう。
「コータローは何してたの?」
「辞書が置いてありそうな棚の場所を調べてた。」
「そんなの後でも良かったでしょ。」
あれ?エカテリーナ様はご立腹なのか?
「でも、手分けして調べた方が早いだろ。カチューシャが質問している間に終わったし。」
「そんな簡単に終わるなら、後で良かった。」
「御免、御免。そうだね。」
辞書が並ぶ書棚の前に行き、目を走らせる。カビ臭いくたびれた分厚い本が並んでいる。ここにある本のタイトルはみな日本語だ。△△辞典、○○便覧、××用語集…。手に取って見たいとも思えない無機質な題名ばかり。
「ねえ、ある?」
棚に目を走らせるコータローを不安気に見上げる。
「いや、無い。」
それでも、見落としが無いよう、隅々までもう一度チェックする。
「もう、疲れた。」
エカテリーナはその場にしゃがみ込む。
一体、誰の為に探しているのやら。
「少し休もう。」
図書館には所々に椅子やテーブルが配置されている。通路に置かれた長椅子に、二人は並んで座る。
さて、これからどうしよう。
コータローは無言で隣に座るエカテリーナを見る。エカテリーナの鳶色の瞳もコータローを見上げている。
「諦めたりしないよね。」
俄かに彼女の視線に力が籠る。
「本当にあるんだよな。」
「うん。きっとある。」
『きっと』か。そりゃ、希望的観測がはいっているだろ。と言って、今エカテリーナを責めたところでしょうがない。それになんだか分からない衝動が、探してやらなければならない気持ちにさせている。
「じゃあ、次はどこを探すか…。」
金髪の少女と見つめ合ったまま、右手で顎を擦る。彼女は、表情一つ変えない。
こいつ、考えてないな。
「おい、カチューシャも少しは考えろよ。」
「あたし、無理。」
だったら、もう少しすまなそうな表情をしろ。
「兎に角、外に出よう。」
このままここに座っていたら、どんどん嫌な感情が湧いて来そうで、エカテリーナの手を取って図書館を後にする。と言って、当てはない。いよいよ行き先が無くなった。土壁の家が並ぶ、狭い道を並んで歩く。不思議と彼女は何も訊いてこない。探す当てがなくて、ぶらぶらしていると言ったら怒るだろうか。コータローと並んで歩くエカテリーナは、寧ろ少し楽しそうに見える。
「もう降参か!」
路地から何かデカい物が目の前に飛び出してきて、出たなり大声で叫ぶ。気が緩んでいた所に突然の事で、訳も分からず二人は立ち止まる。よく見れば、白い餅の塊を何段も重ねた様な姿の怪物が立っている。顔を形成する塊の段と段の隙間に、目玉おやじの様な剥き出しの目が二つ。血管までリアルだ。口は無い。口が有りそうな位置にも、餅の塊と塊の重ね目があるから、隠れて見えないだけかも知れない。いかにも柔らかそうな塊が段々重ねになった体は、マシュマロマンというより、ミシュランマンの方が近いだろうか。
なんだ、こいつ。
2メートルぐらいの高さがある怪物なのに、怖くない。得体の知れない相手なのに、その姿を確認できた時から、コータローは舐めてかかる気になっている。
「お前は、その子にもっと考えてくれと思っているくせに、自分でもろくに考えちゃいないじゃないか。」
白デブモンスターはブヨブヨの腕をコータローの目の前に突き出して喚く。目の前でフラフラ動く腕が邪魔くさい。
「お前、なんか知っているな。お前がこんな面倒臭い事を仕掛けた張本人か!」
もし、こいつがぶつかってきたら、きっと押し潰される。向かって来るようなら、エカテリーナを連れて逃げられるように身構える。エカテリーナはコータローの陰に急いで隠れる。
「寧ろ、お前が知っている筈だ。」コータローの目の前で、モンスターは白い腕をふにゃふにゃと左右に振る。「自分の胸に手を当てて考えてみろ。」
「何を偉そうに。」目の前でフラフラしている奴の腕を払い除ける。「良いから、お前の知っている事を教えろ!」
白デブの胸倉を掴もうとするが、パンパンに張った表面は掴み処が無い。つるりと表面で滑って、空を掴む。
「お前が探している物は何だ。」
コータローの攻撃など何とも感じないのか、白デブモンスターが踏み込んでくる。
「なんでお前にそんな事を話さなきゃならないんだ。」
こいつのブヨブヨの体に埋もれてしまいそうだ。コータローは全身で押し返す。
「その子に頼まれたから探しているのか。」
「うるさい!知っているくせにわざとらしいんだよ。」
「なんの為に探している。」
「黙れ!」
体の大きさに任せて、浴びせ倒して来るモンスターの腹に右手のストレートをお見舞いする。手ごたえ無く、白いブヨブヨした胴体に腕が沈み込んだが、多少はダメージを与えたのか、白デブモンスターは後ずさり、両者の間に隙間が出来た。
「さっきから、訳の分からない質問ばかりしやがって。お前、一体なんだ?」
「フフン。それも分からないのか。」
目だけがギョロギョロしていて表情は一切変わらない。何を考えているのか表情に表れないのに、小馬鹿にされている気がして妙に腹が立つ。
「仕方ない。それじゃ、お前にヒントをやろう。…高山藤吉。」
下校時、コータローと並んで歩きながら高山藤吉が呟く。
「俺、石川さんの事好きなんだよね。」
その名前が出た途端、コータローの頭の中に昨日の下校途中の一場面が蘇る。
「お前、何でそいつを知っている!」
無性に腹が立つ。コータローはがむしゃらに腕を振り回し、白デブモンスターに殴り掛かる。
「おい、攻める相手が違うだろ。」
「うるさい!」
「逃げていたらお終いだぞ。」
「うるさい!」
「これじゃあ、もっと修業が必要だな。」
コータローの顔が白デブモンスターの腹に食い込んで、視界が真っ暗になった。