夜闇の章
「うん、そろそろ外に出て歩けそうかな」
「はい!問題ないゲホッゲホッ」
二人で夕食をとっていると、やっとライラがそう言った。
ここ一月くらい、掃除をしたのも、三回食事を作ったのもリアムだ。魔法なんて使わずに一切出来るくらいなのに、一向に家の中から出る許可だけはくれなかった。
リアムへの不信感もあるだろうと分かってはいたが、本来従者がするべき買い出しや洗濯はずっと手伝わせてもらえず、不十分だという焦りはあった。
やっと来た機会にリアムが食いぎみに返事をしてむせてしまい、ライラは苦笑した。
「毎朝、一緒に買い出しにいくといって大騒ぎだからね。もうそろそろ私も根負けさ」
「ありがとうございます。僕が十分動けること、見ていただけると嬉しいです」
「ははっ、それは頼もしいね」
いつもライラはそうやって軽くあしらうので、リアムは一生懸命、自身がどれだけ出来るか説明しなければならなかった。
自分が以前の町では夜明けから狩りに行っていた話や、皆と比べても狩りはなかなかうまい方だったこと、今日窓からウサギが見えて、捕まえたいのに家から出られないからどうしようもなかったこととか。
自分でもたいしたことないと思うような事を並べているけれど、彼女はうんうん、すごいね、と相槌を打ってくれて。そしてまた今日も夜は更け、机の上のキャンドルは溶けて高さを失っていく。
保護されてから、満月が三回過ぎた。あの頃はまだ少し日中でも肌寒かったのに、もう暖かさの中に乾いた暑さがじわじわとやって来る頃。
最初に起きた場所は宿の一室だったらしく、すぐに森の中のこの小さな家に連れてこられてから、リアムはライラの献身的な看病を受けていた。
回復の過程で何度か熱も出たが、今は家事の後に家の周りを走り回れるだろうくらいには体力も戻ったし、体内の魔力不足で出てしまったらしい尻尾も消えた。
同時に、三才の幼児くらいだった容姿も少しずつ元に戻ってきて、おそらく10才の時くらいには戻った。
本来に比べたらまだ小さいが、いずれ戻るだろう。
「体はまだ小さいままだから、無理しないようにね?」
「はい!ライラさん、明日は何をすればいいですか?」
ライラはまたか、と苦笑している。毎日、リアムがそうやって必死に聞いてくる事に飽いていないか不安になるが、こればかりはどうしようもない。
「明日は何もしなくていいよ。この辺でつんだ薬草を売りに出すのと、君の正式な身分証明をしにいくんだ。王都にいくよ」
ふうっ、とライラが息を吹き掛けると、二人の空の食器はゆっくりと浮かんで、洗い場に自ら進んでいく。リアムはそれをじっと見つめた。自分がした方がいいことなど今は何一つないのだと分かっていた。
彼女が魔法で出来ないことを、リアムは知らないから。
「一応国に書類も出した方が、君の元主人が変な気を起こしても対処しやすいからね」
リアムの心は曇った。やっぱりそうなったか。
「僕、師匠と一緒にいちゃ、いけないですか……」
しおらしくうつむいて、ちらりと様子を伺うも、ライラに動揺はみられなかった。彼女は軽く微笑んだまま。
「私は弟子をとったつもりはないよ。従属に君を戻す気もない。見ず知らずの人間についていくより、ここを出て好きに生きたほうがいい」
「僕、ここがいいです……」
リアムには、したい事も、行きたい場所も、訪ねたい人もいなかった。優しくしてくれた人に、好きにしろ、と言われても、途方にくれるしかなかった。
赤子の時に前の主人に拾われて、そこからずっとあの屋敷で召し使いとして働いていたのだ。
日中は外に出ず、内周りの小間使いばかりだったリアムは、明るい日光に照らされた外の世界について、実物はほとんど知らなかった。
ただ、本来、弟子でもない人間を教育もせず幼いうちから働かせる事は禁止されているらしく、世界についての断片的な知識だけは元主人からもらっていた。
6才になった日、破れたりすりきれたりした古い本を山のように渡されて。その意味も分からず受けとるしかなかったが、ただでさえ狭い召し使い達の部屋を圧迫してしまった。
心優しい他の召し使いは、怒りもせず、綺麗に並べ、外干しを手伝い、寝る前に彼に古い本を読んで聞かせてくれ、主人の書き損じをこっそり持ってきてはきれいに延ばし、暖炉の炭を練って文字がかけるよう手習いもしてくれた。
朝早くから仕事はあるので、皆寝たかったと思う。それでも、彼らは自分に優しかった。彼らの主人の一切の癇癪をリアムが受け止めていたせい、というのもあるが。
しかし、主人に殴られ蹴られした後に泣きながら塗り薬を塗ってくれたり、食事抜きになってもこっそり食料を分けてくれたりと、感謝してもしきれない。
リアムは、彼らの献身的な教育のお陰で、おそらく自分一人で生活できるほどの知恵はあるという自負はあった。
読み書き計算も出来るし、薬草の知識も狩りの仕方も分かる。農耕牧畜は元主人の元で働いていたから分かるのは当たり前だし、それが分かっていれば、他の所でも働ける事も知っていた。
ただ、一つ気がかりなのが、元主人がなぜ自分をそこまで嫌うのか、だった。
彼は事あるごとにリアムを脅した。
「お前なんかは他では雇ってもらえない。お前とやれるのは俺くらいだ」
「ここで一生飼い殺されるがいい」
そんな言葉を浴びせられ、何度か逃げ出そうとも思ったけれど、自分が住む小さい村の人々に話しかけようとする度、こんな少年に怯えたような顔をするのが気にかかって、動けなくなった。
もしかしたら自分は、何かの理由で望まれて生まれてきた子ではなかったのかもしれない、と。
そう思ったら怖くて、新天地でもっとひどい何かが明るみになって放り出されるのも恐ろしくて。ある程度の八つ当たりはあるが、元主人が拾って育ててくれている事に感謝すべきだと思うようにしていた。
だから、ライラに拾われ、目が覚めた時に尻尾が見えてぞっとした。