2食目:どろどろのパンがゆ
外へ飛び出たサージおねえちゃんがお家に帰ってきた。きっと、隣にいる人が、“せんせい”だ。
フレディスおかあさんが、せんせいが持ってきたカバンってやつを受け取ると、せんせいはいつも家族がごはんを食べるテーブルまで、ゆっくりと歩いてくる。それは、ぼくの寝ている赤ちゃんのベッドの近くに寄ってくるということなので、ぼくはせんせいに向かって唸り声をあげる。
「うーっ!」
残念だけど人間の赤ちゃんからは犬の時みたいに唸り声が出ない。それでもぼくは「おまえなんかきらいだぞ」と、言っておくのをやめない。先に行っておけば、どんなせんせいだって気が付くものだ。犬の時のせんせいたちだって、そのくらい気がついてくれた。
だけどサージおねえちゃんが連れて来たせんせいは、ぼくの「おまえなんかきらいだぞ」に、まるで気が付かない。それどころか、なんにも聞こえていないんじゃないかってくらいに、ぼくのほうを向かない。
せんせいは、「よっこいしょ」と言いながら、いつもサージおねえちゃんが座っているところへ、座ってしまった。
「さてと、ヒルシュホーンの奥さん。今日はご子息のルカくんの様子がおかしいと、朝起きてすぐにサージちゃんから聞くには、聞きましたけどもね。やれやれ、さて、どんな状態ですかね?」
「ヨハン先生、朝早くからごめんなさいね。ルカに朝いつも通りにお乳を与えようとしたんですけど、吸い付かなくて……」
「いつもならすぐに吸い付くんです。それなのに、母様のお乳を飲もうとしないから、わたし心配で……」
「それで、サージが先生をお呼びしたのです」
「ふむ、なるほど。念のため、調べさせてもらいましょうかね。ルカくんを見せてください」
ぼくは赤ちゃんのベッドから、おかあさんに抱きあげられて、せんせいの前に連れてこられる。せんせいは、犬だった時のせんせいと一緒で、ぼくのいろんなところを触ってくる。
今は痛いところも、気持ち悪いところもないけど、ぼくはせんせいに触られるのが、どうしても嫌で、嫌で仕方がないから、とにかく暴れた。暴れるぼくを、おかあさんとサージおねえちゃんは一生懸命に抑える。これも犬の時と変わらなくて、余計にぼくは嫌な気持ちになる。
せんせいはそんなぼくのことも、抑えるおかあさんとサージおねえちゃんのことも気にせずに、とにかくぼくのいろんなところを触るだけ触って、最後に口を無理矢理開けさせた。そして中を覗き込んで「ふむ」と、鼻を鳴らした。
「……見たところ、健康そのものですな。なんなら、暴れまわる元気がある。順調に育っていると見ていいでしょうな」
「そうですか、安心いたしました」
おかあさんは、ぎゅっとぼくを抱きしめて、頭を撫でてくれる。ぼくはまたせんせいに触られないように、おかあさんにしがみつく。
「でもヨハン先生。ルカが母様のお乳を飲まないのは、どうしたらいいんですか? コルザの時は、こんな事なかったのに……」
心配そうにしているサージおねえちゃんに、おかあさんもせんせいも笑う。
「大丈夫、大丈夫。お乳を飲まない赤ん坊なんぞ、珍しくもないからな」
「……そうなの?」
「そうさ。サージちゃんは、それは、それは、大変だったとも」
せんせいが面白そうに笑っているのを、サージおねえちゃんが不思議そうな顔で見ている。その二人を見たおかあさんは、ぼくを揺らしながら笑って、サージおねえちゃんとお話をする。
「そうねぇ。サージは最初、母様のお乳もなかなか飲まなくて」
「そうなると、ヤギのお乳なんかで代用するもんだがの。サージちゃんはその辺のヤギの乳じゃ満足いかないのか、乳を口に入れたらすぐに出すわ、果実の絞り汁を試してもだんだん飽きて飲まなくなるわ、結局、リヒト様がハンターたちに無理言って、山で魔獣のツィーフェルを探し回って、やっとその乳を飲むようになったんだからなぁ」
「それだって二日あげたら飲まなくなって、結局、母様のお乳に戻ったのよ」
せんせいとおかあさんは楽しそうにお話をしているけど、サージおねえちゃんはちょっと怒った感じで、そのお話を止める。
「わ、わたしの事はもういいじゃない! それより、ルカ、ルカの事よ。母様のお乳を飲まないなら、代わりでヤギのお乳……それよりツィーフェルのお乳を用意した方がいいの?」
「まずはヤギから試せばいいと思うが、ふむ。……フレディス様。ルカくんが生まれたのは、一の月だったはずだったかね」
「えぇ、白い月に変ってしばらくしての頃です」
「ふむ。……少しばかり早い気もするがの、どうかね。離乳食を始めては?」
「離乳食をもう、ですか? あの、ヨハン先生。まだ五の月の色になったばかりだと思うのですが……」
「たしかに、早いかもしれんがの。無理ではない。……それに、ルカくんはもう歯が生え始めている」
「え、歯がもう?」
おかあさんが、ちょっと不安そうにぼくを見つめる。ぼくが、心配しなくてもいいよってにっこり笑うと、サージおねえちゃんが横からぼくの口の中を覗き込んできた。
「……本当だ。ちょっと白いとこがある」
「あら、本当」
みんながぼくの口の中を見てびっくりしているので、ぼくの方が不安になってきた。
“は”が生えてきたって、もしかして、また痛くなったり、気持ち悪くなったりして、家族と離れてびょういんにいなきゃいけないの?
ぼくは、すぐ側にあったおかあさんの洋服をぎゅっと掴んで、行きたくないよってアピールしてみた。おかあさんにはそれが伝わったのか、ぼくをしっかりと抱きしめてくれた。
「もしかしたら、ルカくんは他の赤ん坊よりも成長が早いかもしれん。……それが良いことか、悪いことかは、今は置いておくとして、今朝お乳を欲しがらなかったのは、お乳以外を求めての事かもしれんですな。とはいえ、赤ん坊のために母親のお乳はなるだけ飲ませてやった方がいい。離乳食を少しばかり与えてみて、それからまたお乳を飲むようなら与えてやれば、大きくなれずに死ぬことはないでしょう」
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せんせいはそれからちょっとおかあさんとお話したら、すぐにお家を出て行った。サージおねえちゃんも、せんせいのカバンを持って、一緒に出て行く。
「じゃあ、母様。ヨハン先生をお送りしたら、ヤギのお乳を……それからツィーフェルのお乳もね。念のため持ってから帰ってくるわ」
「えぇ、お願い。ツィーフェルは無理しなくてもいいからね」
サージおねえちゃんが出て行った変わりに、眠そうに目をこすりながらコルザおねえちゃんが子ども部屋から出てきた。コルザおねえちゃんは、ゆらゆらと歩いてかまどの側にやってくる。
「……かあさま、おはよう。……ルカもおはよう。あさごはんは?」
「おはようコルザ。ルカを少し見ていてくれない? 母様、これから朝ごはんの用意をするから」
「んー……わかったぁ」
おかあさんは、ぼくを赤ちゃんのベッドに入れると、かまどにおなべってやつをぶらさげて、中に入っている美味しい匂いのするスープっていうのを長い木の棒でくるくると回す。おなべの中のスープは、コルザおねえちゃんやサージおねえちゃんたちは食べられても、ぼくはまだ食べられないものだ。ぼくはそれが早く食べてみたくて仕方がないのに。
そういえば、さっきせんせいが“りにゅうしょく”を始めるようにおかあさんに言っていた。もしかして、おかあさんが今くるくるしているスープは、ぼくの“りにゅうしょく”になるのかな? もしそうなら、それってすごく嬉しいことだ。ぼくはないはずの尻尾が揺れている気がするくらい、楽しみになった。
おかあさんはスープをおなべからお皿に移してテーブルに置くと、コルザおねえちゃんを呼ぶ。どうやら、スープはぼくの“りにゅうしょく”じゃなかったみたいだ。ぼくはちょっと悲しくなった。
コルザおねえちゃんは、大きくあくびをしながらスープの前に座ると、テーブルの上に置いてあったパンをぐぐぐっと力をいれてちぎっては、スープの入っているお皿にいれていく。
「かあさま、パンがかたい」
「あら、買ってからもうそんなに日にちが経ったかしら? あんまり硬いとルカの離乳食にならないのだけど……」
おかあさんもパンを手に取ると、少し困ったように「うーん」と首を傾ける。
コルザおねえちゃんは、ちょっと不機嫌そうな顔で、お皿の中のパンをスプーンっていうやつで掬って、口をもぐもぐとずっと動かしている。
コルザおねえちゃんのお口のもぐもぐが止まったころに、サージおねえちゃんが帰ってきた。さっきまでせんせいのカバンを持っていた手にはカゴを持って、反対側の手にちゃぷちゃぷと音のする入れ物を持っているサージおねえちゃんは、上手に足で玄関のドアを開けて入ってきた。
「母様、ただいま」
「おかえりなさい、サージ。帰って来たばかりで悪いのだけど、パンを新しく買ってきてくれないかしら? 家にあるものだと、離乳食にするにはちょっと硬くて……」
「それなら、ヤギのお乳を分けてもらおうと思ってベッカーさんのところに行ったら、離乳食には必要だろうからって、新しいパンも頂いてきたの。お代は後でいいからって」
サージおねえちゃんは入れ物をテーブルに置いてから、カゴの中からとてもいい匂いのするパンを取り出した。
ぼくは思わず鼻を動かすようにして、匂いを嗅ぐ。香ばしくて、ちょっと酸っぱい匂いがするのが、ぼくにとっては不思議だ。
犬だった時に、おねーちゃんからコッソリもらっていたパンは、どちらかというと甘い匂いがしていたし、それに白かった。今サージおねえちゃんが持っているパンは、コルザおねえちゃんの目の色みたいで、かまどの中に入れる“まき”ってやつみたいだ。
でも、パンがどんな色をしていても関係ない。大事なのは、美味しいこと。
パンはとっても美味しい。ごほうびに貰えるおやつも、もちろん美味しかったけど、それよりも甘くて美味しいのが、パンだ。
ぼくは赤ちゃんのベッドの柵から手を伸ばす。コルザおねえちゃんも、サージおねえちゃんが持って帰ってきたパンが欲しいみたいで、さっきより目がパッチリ開いている。
「あたらしいパン! たべたい!」
「ダメ」
「なんで!?」
「コルザはスープに入れて柔らかくすればいいし、そもそも今スープに入っている分を食べたら、絶対にお腹いっぱいになるでしょ。新しいパンなんて、今いらないじゃない」
「スープにいれてもかたいからイヤなの! あたらしい、やわらかいパンがいいの!」
コルザおねえちゃんが怒りだしてしまった。それにつられて、サージおねえちゃんもちょっとイライラしているのがわかる。
犬の時も、家族の誰かが怒ったり、泣いたりしていると、なんだか不安で落ち着かなかった。
それは、人間の赤ちゃんになってからも変わらなくて、怒っているコルザおねえちゃんと、イライラしているサージおねえちゃんを見ていると、とっても不安になってきて、ぼくは悲しくて我慢ができなくなってしまう。
「ふ、ふぇぇえええ……」
ぼくが泣き出した声を聞いて、おかあさんが飛んできた。おかあさんはぼくを抱っこすると、ゆらゆらと揺らしながら、おねえちゃんたちを叱る。
「二人とも喧嘩はやめなさい。サージ、新しいパンは何のために使うの? ルカの離乳食の為でしょう。新しいパンでも、まだちゃんとした歯のないルカにはとっても硬いパンなのだから、もっと柔らかくしなくちゃ離乳食にならないわ。うちで一番小さいお鍋にヤギのお乳をコップ一杯分だけ入れて、パンの内側の柔らかいところだけを、いつもスープに入れてふやかす時よりも、うんと小さくちぎって浸しておいて頂戴」
「はい。母様」
「コルザ、新しくて柔らかいパンを食べたいのはわかるから、今スープに入っている分を食べてみてから、お腹がいっぱいにならなかったら、新しいパンを食べてもいいわ。でも、スープに入っているニンジンもお豆も残さずに全部食べるのよ? できる?」
「……わかんない」
「なら、お昼まで新しいパンは我慢しなさい。その代わり、お昼には必ず新しいパンを食べていいわ」
「うん!」
おかあさんのおかげで、サージおねえちゃんも、コルザおねえちゃんも落ち着いたみたい。ぼくはホッとして、涙が止まったけれど、おかあさんはまだぼくを抱っこしてくれている。ぼくは抱っこが嫌いじゃない。どちらかといえば、犬だった時から大好きだ。家族にぴったりとくっついていられる抱っこは、すごく安心するからだ。
おかあさんがぼくを抱っこしているから、ぼくのりにゅうしょくを作るのは、サージおねえちゃんがしてくれることになった。サージおねえちゃんは、スープの入った大きいおなべを、「ふんっ!」といって、かまどからテーブルへ移すと、そこへ小さいおなべをぶらさげて、さっきおかあさんがしていたように、その中を棒でくるくるとする。
「サージ、あんまり火に近づけすぎないで。お乳は温まり過ぎると、固まってしまうから」
「わかったわ」
サージおねえちゃんは、おかあさんに言われたとおりに動いているのか、かまどで揺れるあったかいやつから、おなべを離す。ぼくはかまどの中のあったかいゆらゆらが“ひ”というのだと、おぼえた。そして、サージおねえちゃんの毛の色は、“ひ”の色だということも、覚えた。
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コルザおねえちゃんがスープを食べ終わるころ、おうちの中が甘くて、美味しそうな匂いでいっぱいになってきた。ちょっとだけ、おかあさんのお乳みたいな匂いがする。
おかあさんはぼくを赤ちゃんのベッドに戻すと、サージおねえちゃんの側に立って、おなべの中を覗き込む。
「……そろそろいいわ。サージ、火から降ろして頂戴」
「はい」
サージおねえちゃんは、おなべをひからもっと遠くに離す。おかあさんは、おなべの中のものをお皿へ移す。お皿へ移つされたものは、スープとは違って、なんだかどろどろとしている。
ぼくは、そのどろどろを、犬だった時にも見たことがある。
犬だった時の家族とお別れしてしまうちょっと前、ぼくはどうしても、いつも食べているごはんが食べられなくって、食べたくなくって、そんなぼくにごはんを食べて欲しかったおねーちゃんが、一生懸命に作ってぼくに出してくれた、ささみの入った、白いどろどろのごはん。
”ささみぞうすい”。おねーちゃんはそう言っていた。
あのごはんはお乳の匂いがしなかったし、白かったけれど、どろどろで、べちゃべちゃだったのはいっしょだ。
あのごはんを食べると、お口の周りもべちゃべちゃになるから、ぼくはそれを家族の服にこすりつけて落とそうとしたり、家族もあったかいタオルを使ってお口の周りを拭いてくれたりして、それがとっても気持ちがよかった。
あぁ、なんだか、急にさみしくなってきたな。
「ふぇ……ふぇぇえええ……」
人間の赤ちゃんは、少しでも寂しくなったり、悲しくなったりするだけで、しょっぱい水。”なみだ”が出てしまう。
犬だった時とは違う身体の反応に、ぼくはびっくりすることも多いけれど。
「あらあら、温めたお乳の匂いにつられて、お腹が空いたのに気が付いたのかしら。大丈夫よ、今、ご飯を冷ましているからね。もうすぐ、食べられるわよ」
「ルカ、姉様、ルカのためにパン粥を作ったからね」
「ルカ! ルカ! いくよ。いない、いない……ばぁ!」
人間の赤ちゃんのルカも、犬だった時と一緒で、家族に囲まれているから、そんなびっくりもすぐになくなっちゃう。
そんな気がするんだ。
ぼくが泣き止んだら、おかあさんはどろどろの入ったお皿の前に座ると、スプーンでそれをちょっとだけ掬って、ぼくの口へ持って来てくれる。
やっと、やっと、人間になってからお乳じゃないものが、食べられる!
ぼくは大きく口を開けて、そのどろどろを口へ入れる。どろどろは、おかあさんのお乳を飲む時と変わらないように食べられた。
ん? あれれ?
どろどろの味は、犬だった時に食べたやつとは違って、甘い味がするのは一緒だけど、お乳と酸っぱい匂いのパンの味がするだけだった。
なんでだろう。ささみが入っていないからかな。それとも、犬だった時にた食べた白いどろどろと、このどろどろ……サージおねえちゃんは“パンがゆ”っていっていた。それとは、違う食べ物なのかな。
でも違う食べ物でも、おかあさんのお乳じゃないものが食べられることの方が、今は嬉しい。
ぼくはもっともっと、と、お皿へ手を伸ばす。
「ヨハン先生に聞いたときは、早すぎるんじゃないかと思っていたけれど、予想以上の食いつきね」
「コルザよりも、たくさん食べそうな気がするわ……」
「コルザのほうがもっとたべられるもん! コルザのほうがおねえちゃんだもん!」
「なら、お姉ちゃんのコルザは、今度は好き嫌いをなくさないとね。特にニンジン」
「……ニンジンは、おいしくないからきらい」
家族のみんながお話ししている間にも、ぼくはパンがゆをどんどん食べる。お皿にはいったパンがゆは綺麗になくなって、ぼくはお腹いっぱいになった。
おかあさんがぼくの背中をトントンと叩くと、ゲプッという音がお口から出て、お腹がスッキリする。お腹がスッキリしたおかげで、ぼくはそのまま眠たくなって、おかあさんに抱っこされたままウトウトとする。
「まさか、こんなにたくさん食べるだなんて……」
「コルザ、ニンジンも食べないと、このままじゃルカの方がずっと大きくなっちゃうかも」
「なんで?」
「ルカがたくさん食べるからよ」
ぼくはウトウトしながら、サージおねえちゃんの声を聞いた。
たくさん食べれば大きくなれるなら、ぼくはたくさん食べて、早く大きくなって、本物の、ささみのはいった、白いどろどろのごはんを探したいな。
わんこの医者嫌いは、お医者様の中でも共通認識。
どうもレニィです。
未だにお世話になった獣医の先生が、
「私たちは患者(犬・猫)に感謝されないんですよねー」
とちょっと寂しそうに笑っていたのを覚えています。
大丈夫です先生。家族は感謝していますよ。
白いべちゃべちゃのごはん。
これがこのお話のキーワードになります。
家族と食べた最後の食事。これを見つけることができるのか。
次回は離乳食の次の段階に進みます。
子育てとかしたことないので、全部手探り。
そんな感じです。
どうぞよしなにー!!!