風邪
その日、私は致命的なミスを犯した。
今思えば予兆はあった。
久しぶりに連勤が続いていて疲れていたし、そのためか寝る前の身体は随分とだるかった。いつもは中々寝付けないくせに、その日はすぐに眠りに落ちたのだ。
しかしその割には眠りの質は悪く、目覚めもまた最悪だった。
私は不愉快なスマホの着信音で目を覚ます。
高音で鳴るカノンが頭にガンガン響いて、電話に出る声も思わず素が出てしまう。
ヒロシ、か。
「なに?」
「ゆいこ? 大丈夫か? 今どこにいる?」
カノンとは対照的な低音ではあったが、あまりの大声に私は思わず、スマホから耳を離した。いつになく慌てているヒロシの声に驚き、不機嫌さよりも冷静さが勝った。
「どこって、家、だけど……」
「……あー、わかった。ゆいこ、とりあえず、もうすぐタクミがそっちに行くから、大人しく温かくして寝とけ。余裕があるなら、体温測っとくんだぞ。俺も少ししたらそっちに行くから」
「え?」
そこまで言われて、ようやく私は何故こんなタイミングでヒロシから電話が掛かってきたのか理解した。そう、私は何ヶ月ぶりかのヒロシとタクミとの予定を、何年振りかの風邪ですっぽかしたのだ。
「本当に申し訳ない」
「別にいいけどさ、もう少し自分の身体を大切にしてもらえると、こっちの心配も減るんですがね、お姫様?」
ベッドで寝ている私のもとに、タクミはお粥を持ってきてくれた。どうしてこの男は料理を作れるのか、しかも見た目は母のお粥そのものだ。流石チャラ男、この辺は抜かりがない。連絡をとってくれていたヒロシは、買い物を済ませてくるらしい。先に着いたタクミが私に朝食兼昼飯をつくってくれることになった。
私は身体を起こそうとするが、思ったよりも体力を消耗していたのか、起き上がれなかった。
「どうかした?」
「うー、ごめん、タクミ。……起こして」
(いつもこれくらい素直ならいいのに)
「え? なんて?」
「なんでもないよ、ほら、いくよ」
タクミの右腕が私の背中に差し込まれる。少し冷たくて気持ちよかった。自然と近づいてくるタクミの顔がすぐ側にある。こうしてまじまじと見つめると、やっぱり顔が整っていた。あ、香水の匂いがする。……私の好きなやつだ。
「じゃあ、ベッドから降りるよ」
「大丈夫、降りるくらいはーー」
「いいのいいの、今日は俺らに甘えてなさい」
布団を剥がされると、たくみの左腕が膝に回り、そのまま抱えられてしまった。
パジャマのままタクミにお姫様抱っこをされている。いつもならタクミをぶっ飛ばすところだが、今日の私にはそんな気力が湧きもしなかった。タクミは割と細身なのだけれど、こうして抱きかかえられると、ちゃんとつくところに筋肉がついているのがわかる。女にはない硬さがあった。腹筋とか割れてるんだろうか?
「はい、こちらが昼食会場ですよ、お姫様」
「ありがとう、タクミ」
「……なんか調子狂うな」
失礼な話だ。お礼を言っただけなのに。
お粥はとても美味しかった。
私は布団にもう一度お姫様抱っこで戻って眠りに入った。
夕方目を覚ますと、少しまだ頭はぼーっとしていたが、比較的朝の状態よりも気分はまだマシになっていた。ベッド横を見るとヒロシが私のそばにいた。
「おはよう、なんか飲むか?」
「ん」
喉が渇いていたせいか、声がちゃんと出せなかった。それでもヒロシは私の言いたいことを察してくれて、スポドリを持って来てくれた。
飲むと喉に一滴一滴が染みていく。
「何か他にあるか?」
お腹は特に空いていなかった。
強いて言えば汗をかいたからか、少し気持ちが悪かった。
「シャワー浴びたい」
「んー、シャワーはあんまり良くないから、風呂入っとけ。さっき沸かしといたから」
「そうなの?」
「風邪ひいた時は身体しっかりあっためないと意味ないから、シャワーは逆効果なんだ」
ヒロシは時折変な知識があったりする。しかし、私が入ると言ったわけでもないのに、風呂を沸かすとは……。ヒロシ、なかなかやるな。
「立てるか?」
「んー、多分大丈夫」
とは言ったものの、ベッドから立ち上がろうとしたら、ふらついた。
思わずヒロシに抱き寄せられる。
「まったく大丈夫じゃないな。今日は風呂はやめとけ。タオル持ってくるから、それで身体拭いとくといい。シーツの替えが有れば、ベッドのシーツ変えとくけど」
胸元についた右耳からヒロシの心臓と音が聞こえた。一定のリズムはとても心地よくて、さらに軽く背中に添えられた右手に安心した。
タクミとは違う厚い胸板の底から響く低音は、私の聴覚にダイレクトに伝わった。
思わず掴まれた右手首が少し圧迫されて痛かったが、熱のせいかなんだかその刺激も気持ちが良かった。
「おい、ゆいこ、大丈夫か? 聞こえてるか?」
「うん、大丈夫。……そうだね、タオル持ってきてもらっていい? お風呂場に出てると思うから」
ゆっくりとベッドに座らされる。その場からヒロシが離れるとき、ヒロシから知らない香りがした。あらためて、そういえば今日は2人と出かける予定だったのを思い出した。
彼女は眠っていた。
彼らはひっそりと彼女を見つめていた。
そして2人して同時にため息をついた。
苦笑が溢れる。
2人は今日、本当はそれぞれが彼女に告白する予定だった。
中途半端をやめる予定だったのだ。
そう彼女は、致命的なミスを犯した。