守り人、故に
ゆっくり振り返って目を真っ直ぐ合わせ、柔和に微笑みながら問いかけた。
「殺さないの?」
ぴく、と一瞬ぼうたんくんの鼻に皺が寄った。
「――――」
でもそれだけ。こちらの様子を確認するように微動だにしない。
「ありがとう」
わたしの感謝の言葉を聞き、荒れ狂う激情がだんだんと凪いでいく。
「いつも痛くないように、苦しくないようにって殺してくれて」
わたしがこの世界に永らく留まっていたのは単に、そう仕向けるように多くの要素が意図的に重ね合わされていたからに過ぎない。
可愛らしい悪戯だった。神の性質を存分に利用しきった、可愛らしい悪戯。引っかかった後も、そうかと受け入れるだけだった悪戯。
――これも、そのひとつ。
「今回はどんな風に、優しく殺してくれるのかな」
「――――」
わたしの言葉に触発されたのか、それとも確認が終わっただけなのか頑なに組んでいた腕をするりと解き、わたしの方へとスッ……となめらかに片手を伸ばして首を鷲掴み、壁へと押し付けた。
痛みは全くもってない。外から見れば首を掴まれてとても苦しそうな態勢であっても、実際には壁を背に預け立ってるだけだから。
――この器の損傷や軋みが全く無いから、すぐに分かった。
「躊躇しなくても大丈夫だよ」
「――――」
慣れたように鮮やかな手並みに、わたしは反応することが出来ない。しない。
神になる前、鈍臭かったせいで反応出来ない、というのもあるのだろうけど――それよりも。そもそも何かしらの反応をする必要性が全く無いから何の反応もしない、というのが正しかった。
「殺せない? 殺したくない?」
微笑みかけながら穏やかに問いかける。
「大丈夫だよ。わたしは何も感じてない」
安心させるように微笑みかけて、行動を促す。
「痛みも、苦しみも、辛さも全部――だからまた殺しても大丈夫だよ」
ゴス、とわたしの首を柔らに掴んでいたぼうたんくんの指が、強烈に食い込むようにして壁に深く埋め込まれる。壁に食い込む手指には少し力を入れただけで、簡単にわたしの首が砕け折れてしまうほどの力が籠められていた。
……何度繰り返しても慣れることのない、苦悩。葛藤。責務。渦巻く激情は、覚悟の凪ぎを超えたさざ波を立てるようにして深い水面下で激しく騒ついていた。
――だからわたしが苦しくないようにと、僅かに隙間は空けられたまま。
「真面目で優しい、ぼうたんくん」
眉間にぐっと皺を寄せたまま、目を合わせないようにと下がる視線。
酷い役目だ。辛い役目だ。悲しくて苦しい役目だ。葛藤が伝わる。
「――ありがとう」
わたしを殺す――ここで殺し続けることで、この世界に留め続ける役目。
それは滅して終わることとはまた違う、殺して生かし続けること。
――神を守る、ただひたすらそのためだけに。
「初めて殺されたのは、紫苑の記憶を消そうとした隙だったね」
おかげで、好きなものでいっぱいの世界が出来た。出来てしまった。
そんなつもりは無かったけど、創られてしまったのなら放置は出来なかった。
「それからずっと、わたしの器を殺して殺して殺し続けて――今回も」
この可愛らしい悪戯で創られた、好きなものでいっぱいの世界は特別な領域に係るように出来てしまっていて、それはいくら神であろうとも好きにどうこうとするには条件がたくさん付き纏った。
身動き取れない原因のそのひとつに、この世界で創った器が無いとわたしは移動すらままならないという事実がある。
だからこそ、わたしの器を殺し続けることでわたしをこの世界に留めておける。
「ありがとう」
実は、正規の手段を選ばずとも移動するだけなら――移動だけであればいつでも可能ではあった。ただその場合、彷徨う神との繋がりが薄くなった管轄下の世界が、不安定になってそのまま成すすべなく消えるのが問題だというだけ。
まさか世界を調和する存在である神が、その存在意義から外れた方法を選ぶことはない。もし仮に神に感情があれば焦りや混乱、もしくは不安等で一か八かそういった方法を選ぶこともあったのかもしれない。
――けれど、博打に等しいその方法が神に選ばれることは決してなかった。
「ずっと守ってくれて。守り続けてくれて」
だってこの紫苑の記憶を元に創られ、なし崩しで神が管理することになってしまったこの、紫苑の好きなものでいっぱいの世界が在るのは神の管轄外の領域であり、さらに言えば数多の星々と神々、世界を大きく分かつ『黒』と『白』の境目――『無』の領域なのだから。
「殺さないの?」
――今回は、いつもより躊躇が長かった。
わたしを殺す時、それはいつも一瞬だったから。刹那に痛みを感じさせないように、ぼうたんくんは殺してくれていたから。
だからこうして面と向かって殺される、という状況は今までに数少ない。
「……恐いんだね。分かるよ」
「――――」
壁に指を埋めたまま、それからずっと微動だにせず俯いて目線を合わせようとはしてこない。そんなことをしても意味が無いのに。
隠そうとしても無駄だった。神に対し、取り繕うような嘘偽りは通じないから。
――わたしを殺すたび、次が来ないかもしれない恐怖に怯えているのが伝わる。
「頑張ってここに留め続けてもいずれ、それでもわたしは消えるから」
終わらないよう引き伸ばしても、終わりがあることに変わりはない。
それは唐突だ、その瞬間は唐突に訪れる。神でもなければ分からない。
「次の器を創るにも、それなりに時間は掛かるから」
――ただし。ここが神の管轄領域内なのであれば、とつくけど。
「だから一度わたしが目覚めかけた時も結局、一旦わたしを放置したんだよね」
あの時は、殺すよりもゆずとくんの想いと紫苑をよく知る魔女を神に気付かれない極限まで近付けさせることで、なんとかこちら側に引き留めさせるという荒業でギリギリ神に気付かれずにやり過ごせた。
……ただ、もうわたしを留める為にもう一度と再現しようにも、既に不可能だけど。あの時にそんな荒業が効いたのは、単にわたしがまだ気付いていなかっただけだったから。
その前提条件がなくなった今ではもう、まるで意味の無い手段だった。
――だからもう殺すしか、この器の神をここに留められる方法は残っていない。
それが理解出来ないぼうたんくんではない。わたしはここであっさり器を殺されたとしても、たとえそのせいで世界を救うことが間に合わなくて結果、消えてしまっても未練はない。芽生えない。
かつてのわたしの好きなものでいっぱいのこの世界も、それと同時に消えてしまうだろうけど……惜しむことなく、全てが共に消えることを受け入れる。
元々、無かった世界。可愛らしい悪戯に引っ掛かって出来た、なし崩しに管理することになった曖昧だった世界。わたしにつられて消える必要が無いから在れるように救う、ただそれだけの世界。
紫苑の世界も同じだった。神を滅して星を再構築するのは、単にそれが星から生まれた神の、星から求められた救世の役目を果たせる方法だったから。
――元々の紫苑の意思じゃない。
紫苑はただ、小さな領域を守りたいだけだった。ただそれがいつしか、星から救世としての役割を果たすようにと神の役を押し付けるように与えられてしまっていたというだけのこと。
たとえ救世の役目を果たせないままに消えても、問題はない。とうの遥かな昔に紫苑が果たしたかったものは、既に全て果たせた後だったから。生命が無意識に息をし続け、生きるのが当然であるように神もまた、そう在ることが当然であった。
だからそういう結末、とただ受け入れ消えるだけ。神とはそういうものだった。
「覚醒の間隔が狭まって、とうとうほぼ完全に起きちゃったから不安なんだよね」
神の狭まる目覚めの間隔こそが、世界の終わり――消滅が近付いている証拠。
そして今までと比べてこれ以上ないほどに、特に今回はかつての紫苑が好きだったものにこれでもかとあからさまに囲まれていたから。
……もし今回わたしの器を殺せば、次の器が無い可能性が非常に高かった。それはすなわち、殺すことでむしろ消滅の時期を逆に早める要因にもなりかねない、という意味でもあった。
だから――迷ってる。果たして、殺すべきかどうか。殺していいものか。
「ぼうたんくんは、どっちがいい?」
「――――」
ぐ、と答えの代わりに首の隙間を埋められた。どうやら、迷いは晴れたらしい。
訪れる結末――その答えを、わたしの問いかけで分かっちゃったから。
「そっか」
ぐいん、と首を鷲掴まれたまま外へと身体を勢いよく引き摺り出される。
そのまま強く叩き付けるようにわたしを大地にドンッと勢いのまま押し付け倒し、ビキビキと大きな地割れをわたしの背に起こした。
「――無駄だよ、ぼうたんくん。この世界は神を絶対に傷つけない」
分かってるでしょ、と無傷のままで微笑む。
「……拙者は神の守り人、故に」
チャキ、と苦手な武器を取り出して刃を月明かりに煌めかせた。
壮絶な激情を瞳の奥に押し込め、凪いだ面差しで鋭い切っ先をわたしへ向ける。
「――滅封、神殺し」
この世界に在るものでは神を、神の宿る器は絶対に殺せない。
この世界のものでないものでは、器よりも神を傷つけてしまう。
だから、この世界に在ってこの世界だけのものではないものを集めた、神の器だけを殺すためだけに用意した――神の器殺し専用の超特化武器。
この特定の神を殺すためだけに在る歪な武器が在るための代償は、使用者が神と一緒にこの世界に閉じ込められること、そして――これの使用のたびに己の実体を都度失い、神と同じように器を移り続けること。
ただし、神のように気軽に魂をあちこちに移ることは常人には出来ない。――ユストが、イベリスがそうであったように、どうしても他と混ざってしまうから。完璧に移ることは不可能だった。
……さらにいえば、これの使用者と認めらるのは己の本来の実体を失ったもののみ。もう、この世界から出ることすら容易なことではない。
たとえ他の世界に出たとしても、その器はそう長くは保たない。この世界にのみ在れる司源が混ざってしまった魔女の魂ごときでは、器を確と保つことが出来ないのだから。
「ありがとう」
痛くも苦しくもないようにと配慮だけで用意した対単体専用の際物武器。
使用するにも維持するにも、大変な制約と苦労があるそんな武器をわざわざ毎回使用してくれる事に、その努力と勤勉さを慰め労うために感謝の言葉を口にした。
「――問答、無用」
苛烈な激情を凪いだ面の下に押し込んで、鋭い刃をわたしへ振り下ろす。
わたしはただ、迫る刃をただただじっと眺めていた。眺めて――。
「――ぬおぉっっっ!?」
振り下ろす、直前に吹っ飛んでしまったぼうたんくんをそのまま眺め見送った。
「……そっか」
そういえば、ここはまだガッツリ魔女の領域内だった。
わたしに対して害があるという判定を、今さらになってようやく受けたらしい。てっきり、わたしたちには機能していないのかとそこまで気にしてなかったのに。
だってぼうたんくん、最初から――護衛としてやってきてた時からすごく、わたしを殺す気満々だったから。もういつ目覚めの前兆があってもいいようにって。じゃなきゃ四六時中、神に気付かれるリスクを負ってまで近々の傍に張り付かないだろうし。
すでに吹っ飛んで見えなくなってしまった、ぼうたんくんの行き先に大体の見当はついている。愚直なぼうたんくんとはとても相性が悪そうだ。
だってこれもある意味、時効と思わせておいて最大の隙を狙った狡猾な罠だし。
「ま、いっか」
ぼうたんくんってば、苦労性だよね。
待つ必要もないから、先に行っちゃうけど。
ボヲォン。
「――ありがとう」
眼前に突如として出現した黒いワープホールを躊躇なく、通り過ぎた。
通り抜ければそこは――久方ぶりの、学園構内だった。
「ひどいよね。ロックを掛けておいて、更にパスワードを抹消しようなんて」
開いたままのワープホールに向かって声を掛けたが、何某かの返答も無かった。
特に返答を期待していたわけでもないので、スタスタと学園内に侵入する。
「……うーん。なるほど。紅薔薇、――薔薇だったか」
教室の標識を読んで確認した直後、脳裏に鮮やかな色彩の豪奢な薔薇の園が確固としたイメージとして過ぎり、虫食い状態だった記憶の大事な箇所にしっくりカチッとハマってくれた。
――足りなかったほぼの部分があっさりと埋まる。何故だか、わたしを学園からどんどん遠ざけているようだったからもしかして、と推測しただけだけど大当たりだった。
しっかりと記憶が埋まった今だから分かったけど、ここ以外に薔薇に関するものはこの世界のどこにも一切存在していない。
さっきは可愛らしい悪戯だと例えたけど、たぶんクソゲー過ぎるにも程がある。
もしここに居るのがかつてのままの紫苑なら、きっと確実にコントローラーを全力でぶん投げていたことだろう。この世界にコントローラーは無いけど。
今の神は特にこれをやられたことに対して全く何とも感じないので、地団太を踏むこともなくそのままUターンして黒いワープホールに逆戻りした。
「あ……」
「ん?」
戻ってみれば、前に学園で見かけたことのある謎の美形くんが待機していた。
いや……もう謎じゃなかった。
「椿ちゃん……くん?」
「くん、だ!」
「うん。椿くん」
道案内、よろしくね――と続けて言葉を掛けた。
「――ああ。行こう、母さん」
先導されるように、再びワープホールに躊躇なく踏み込み、世界を出た。




