やがて『』になる
※残酷な描写があります
『――将来の夢はね、お嫁さんになるの!』
溌剌とした言葉が、きらきらと木霊する。
『それでね、あのね、お母さんみたいなお母さんになるの……』
それから少し、緊張を噛み締めながらしょぼしょぼと、先程とは一転した気恥ずかし気な自信の無い様子で舌足らずに、それでも一生懸命に想いを零して恐る恐ると相手の様子を伺った。
『――そう、素敵な夢ね』
燦燦と陽光が降り注いでいて、見上げたら眩しいから目を細めてしまう。
光の隙間に垣間見た穏やかな微笑でふんわり、頭を撫でる手が居心地良かった。
『……きっと、あなたなら叶えられるわ』
穏やかな温もりに身を任せ、くすぐったさが楽しくて首を竦める。
肯定の言葉には、天にも昇る心地でぱあっと自然に笑み零れていた。
『――うん! 叶える!』
……あの時、お母さんはどんな顔をしてたんだろう。
どんな想いで、私の残酷な夢を優しく肯定してくれたのだろうか。……今さら思い返そうとも、この記憶はあまりにも美しく残っていて、色褪せないから。
あまりに幼くて、自分の発したなんてことないはずの未来がどれほど残酷な未来だったのか、当時は知る由なんてまるで無かったから――。
『どうしてお母さんにあえないの?』
会ってはならない、そう告げる家族のおじさんに納得がいかなくて聞き返した。
それでも会ってはならない、その言葉以外が発されることは無かった。
私は、とうとう慣れない様子で私を叱ってくれてまでお母さんに会わせようとは決してしなかったおじさんに、それでも全く納得がいかなかった。きっと、幼心に不穏な雰囲気を敏感に感じ取っていたから。
普段通りなら、いつかお母さんみたいになれるようにと良い子に過ごして、きっと上手に叱れないおじさんを慮って大人しく引いていただろう。
……けれどあの時は、もうずっと大好きなお母さんに会えなくて、お話出来なくて、妙に焦って不安で、すごくすごく――ものすごく、寂しかったから。
『――やめてッ! いや……イヤあああアアアアッッッ!!』
『おかあさんっ!』
お家の奥にある、小さな小さな隠されたひみつのお庭。小さな池の真ん中に佇む、おっきな木のお膝元。お母さんに会えなくなる前は、毎日のように入り浸り、安らぐ景色に心綻ばせ過ごしていた。
お母さんはいつもそこに居て、そこに居るのが当たり前だったから。だから当然そこに居ないなんて疑わず、おじさんに見つからないようにこっそりと会いに行った。
いつもは掛かってないはずの鍵が掛かっていてすぐには入れなかったけど、お母さんに教えてもらったひみつの合鍵があったから、お母さんの悲鳴が聞こえてもすぐに駆け付けることが出来た。
転んじゃったのかな、おばけでも出てきたのかな、びっくりしてお怪我してたら痛いの痛いの飛んでけってしてあげないと、そんな風に考えていたのは、きっとそれほどまでにそこが安穏とした場所だったから。
でも、そのいつも安穏としてるはずの場所で――お母さんは壮絶な姿でいた。
『やああああああああああッッッ』
『――っ』
私が想像していた安穏としたような、ちょっと転んじゃって、それから私にそれが見つかって、恥ずかしそうに和やかに笑って迎えてくれるだろうお母さんの姿。
そんな優しい幻想のままに扉を開いてしまったから、鍵が掛かっている意味なんて分からなかったから、ただ……お母さんに会いたかったから。
――視線すら、合わなかった。
『おかあさん……おかあさん……』
そのあまりに想像外の光景に咄嗟に何を言えばいいのかが分からなくて、忘れて、そのあまりに筆舌に尽くし難い壮絶なお母さんの姿に目を奪われたまま言葉を失って惑うだけ。
分かったのは、お母さんが叫ぶたびに全身が更に赤黒く染まって、きらきらだった青いお水をどろどろの赤黒い色へと変色させている、たったそれだけ。
――幼い私にとっては、あまりに凄惨な光景だった。
『おかあさん……おかあさん……』
壮絶に苦しみ悶えるお母さんの姿に、見ているだけで何も出来ない自分に、どうしよう、どうしたらいいのかと、おろおろとどうすればいいのかが分からなくって涙をぽろぽろと零してお母さん、とひたすら同じ言葉で呼びかけるだけ。
――どうして? 叱るおじさんの言う事を聞かずに、こっそりお母さんに会いに来た悪い子だから? どうして? おっきなお怪我はどこにも無いのに、どうしてとても痛そうなの? どうして? どうしてお母さんの全部からたくさん赤いのが出てくるの? どうして? こんなに呼びかけてるのに、まるでわたしが見えてないみたい――。
『おかあさん……おかあさん……』
たくさんの色んな感情がごちゃ混ぜになってとにかく泣いて、痛いの痛いの飛んでけって必死にしてもお母さんの苦悶は終わらなくて、私はお母さんのこの世のものとは思えない悲鳴につられ、大声で泣いてお母さんに必死にしがみつくしか出来なかった。
――鮮明に覚えているのは。
『これは……何という……』
泣き疲れて、それでもお母さんに必死にしがみついたまま黙って静かにそこに居ただけの私を、どこにも居ないと私をあちこち必死に探し回っていたおじさんが見つけ、お母さんの姿を見ても助けることなく放置し、私だけを危ないものから引き離すようにお母さんから遠ざけたということだけ。
散々叫んで悶え暴れていたお母さんは、泣き疲れて私が静かにしがみついている間に体力が底を尽いたのか、息も絶え絶えの姿でひゅー、ひゅー、とか細い息を吐いているだけだった。
私もお母さんより先に、とっくに体力が底を尽いていたから……抵抗する気力も無く、おじさんが私をお母さんから遠ざけるのをぼんやりされるがままに任せていた。
ただ視線と心だけは、お母さんから最後まで離さなかった。だから――。
『――あなたを、産まなければ良かった』
空耳、だったのかもしれない。いつも通りの、とても穏やかで優しい大好きなお母さんの笑顔だったから。……ただ、不器用だけど正直者の優しいおじさんが咄嗟に力強く私の耳を塞いだから。
――痛くて、痛くて、もう出ないと思ってた涙がぽろぽろ零れ落ちてしまった。
『忘れろ。……忘れるんだ』
おじさんの震える手が、私の視界を塞いだ。もう、お母さんの笑顔は見えない。
――最期に見られた、とても大好きな笑顔だったのに。歪んでおぼろげだ。
『紹介しよう。これから君の義弟になる。――家族になるんだ』
『…………』
お母さんは亡くなった。詳しい理由を、おじさんは私に教えてくれなかった。
教えない代わりに、養子縁組で私の家族に――お義父さんになってくれた。
『よろしくな!』
『…………』
明るく元気で……おじさん――お義父さんに似て、とても正直で素直な私ともそう歳の変わらない優しい義弟。
このほんの少し前の私だったならば、この素敵な機会を心から喜んで新たな家族として受け入れたのだろうか、と過ぎたことを意味も無く自問自答してしまう。
無表情でこくり、と頷く私の愛想の無さを気にせず受け入れてくれる新たな家族を前に、私は頑張っても笑みひとつ零すことが出来なかった。
『た、たすけてー!』
……この新しい義弟は物凄く元気なドジっ子で、目を離すとその隙によくどうやってそうなったのかが意味不明なトラブルに陥っていた。
特に、住んでいるのはジャングルでも何でもない趣きゆかしい古い屋敷なのに、どこから調達したのか不明なツタにぐるぐる巻きになって木にミノムシ状態だったときは驚くより呆れた。
……どうせ家族になるなら、頼りになるお兄ちゃんのほうが良かったな。
やいのやいのとあれこれ楽しそうに構ってくれる優しさに笑みのひとつも零さないくせに、生意気にもそう思った。
そうした無駄にわちゃわちゃと明るくてひょうきんな日々を否応なく過ごしていたおかげか、気付けば私はいつの間にか少しだけ、ほんの少しだけ前のように笑えるようになっていたらしい。
『――また魚かよ! もう飽きたって! 肉が食べたい! 肉! 肉肉!』
ある日の食卓、いつものごとく義弟が元気に騒ぎ始めた。
『おまえなあ……父さんはな、お前にもこのサンマがこの食卓に並ぶまでの父さんの苦労をもっと知って、しっかり味わってほしいよ』
箸を置き、諭すように訥々とお義父さんが義弟へと神妙な顔で向かい合った。
『苦労って、どうせ近所のスーパー特売で買ったってだけだろ! たむろってる近所のおばちゃんたちが、今月は魚介以外にも大捕り物だから逃せない目白押しだって、こそこそ隠れて噂話してたぜ!』
『なにぃっ! 特売はサンマだけじゃなかったのか!? 騙されたっ!』
意気揚々と盗み聞きした情報を披露して得意げな義弟に、近所のおばちゃんたちと何かの裏取引でもあったのか、頭を抱えて「やられたー」と嘆くお義父さんを、影の薄いお義母さんと二人で眺めていた。
……そんなふとした日常の光景になんとなく、なんとなく久しぶりにくす、と口角を上げて笑った時にはお義父さんたちが揃ってぎょっと固まって、それからすぐにあーだこーだと大騒ぎで構ってきたのは物凄く、大変だったけど。
――この時に零れた私のふとした微笑はその後、枯れることなく、そのまま少しづつ蕾が花開くように穏やかに成長していってくれた。
『――はじめまして』
『は……はじめましゅて……』
艶やかな黒髪に黒目、白珠のように美しい少女が私を訪ねて来たのはその頃。
ぽや、と美少女にのぼせ上がって代わりに噛み噛みで応えた義弟を気にする余裕もなく、私はその美少女を緊張感でいっぱいのまま出迎えた。
――母の、歳の離れた実の妹らしい。
『よろしくね』
そう言って穏やかで優し気な笑みと共に手を差し伸べて来た姿に、遠くなりつつあった記憶がぶわ、と蘇るように重なった気がした。
勇気を出して、手をぎゅっと握ろうとして――。
『よ、よろしくなっ!』
……やっぱり、落ち着いたお兄ちゃんのほうが良かったかな。
最近はドジっ子でも明るい義弟なら悪くないかもしれない、と考え直してたところだったのに。
私に差し出された手を、少し年上の綺麗なお姉さんに見惚れて真っ赤な顔で横取りした義弟にジト目を送りつつ、そんなことを考えていた。
……ある意味、この義弟のおかげで当初の緊張感は丸ごと吹っ飛んでくれた。
『これは好き? これは?』
『……はい』
それからずっと仲良くなろうと、あれこれ構ってくれた優しいお姉ちゃん――叔母さんと言うと怒る――に緊張しつつも懐かしい面影が重なるせいか、私は次第に心を開いていった。
……お姉ちゃんが訪ねるたびに、乱入してくる義弟の影響も多分にあったけど。
『私ね、今度結婚することになったの』
がーん、と乱入するタイミングを計るためにいつも通り得意の盗み聞きをしていた、お姉ちゃんの後ろのほうで大口開けて悲惨な空気を醸し出す義弟を完全無視し、心からの祝福の言葉を送るために口を開いた。
……今までの日頃の行いにより、ここぞとばかりに天罰が下ったに違いない。
『おめでとう』
……かなり、年齢的にも心象的にも早い気がして寂しかったけど。
おめでとう、と私は素直にお姉ちゃんの幸せを祝福出来た。
『……ありがとう』
ぎこちない笑みで答えたお姉ちゃんの表情、その意味は分からなかった。
ただ、激しく落ち込む義弟を慰めるという一大時がその後にあったから、あまり深く考えるようなことはしなかった。
……この時、深く考えてもどうしようも出来なかっただろうけど。
『りりぃたーん!』
あれこれと失恋を慰めようとしているうちに何がどうしてそうなったのか、義弟がいつの間にか嫁、嫁、と連呼するオタクと言われる新生物へと進化していた。
……あまりの失恋のショックに耐えられず、義弟の精神は脆くも壊れてしまったのだろうか? 紙切れに頬擦りちゅっちゅする姿は、誰がどう見てもまるで正気には見えなかった。
『――結婚することになった』
『そっか。おめでとう』
それがある日のこと、急展開にもほどがあるが義弟が真剣な雰囲気と神妙な顔をしてそんなことを宣ってきたので、私は特に驚くこともなく適当な祝福の言葉で流した。
日頃から絵の何々ちゃんと結婚するんだ! などと本気で吐いていたから、ついに法的効力はないが疑似的なものでも結婚証書を取ろうとしたのだろうと思ったのだ。
紙切れに頬擦りちゅっちゅするなんて正気じゃない、とまでドン引きしていたのに、気付けばあれよあれよという間に義弟の洗脳もかくやな布教の影響により、私は立派なオタクに成長していたので特にそれを不思議に思わなくなっていた。
誰がなんと言おうと、義弟が洗脳した成果で私に素質があったとかではない。
『家族が増えて更に、にぎやかになるぞ。もっと喜べって!』
『うんうん、分かった分かった。わーい、うれしいナー』
カタコトの返事にも、によによと気持ち悪い顔で嬉しそうに絡んできた義弟の結婚相手――相手にとって再婚相手となる――が、まさかお姉ちゃんだったと後で知った時には、その時までの人生で一番本気で驚いたと思う。
幼く人見知りそうな男の子を腕に抱え、義弟に招待されていた結婚式前にお姉ちゃんが「これから一緒に住みます」と久々に挨拶してきた時にはあまりの衝撃で義弟のドジっ子が移ったのか、何も無いのに其の場ですっ転んでしまったほどに驚いた。
結婚式の招待状を貰った時は、げっ、思ったより本格的だなあ……面倒だなあ……としか思わなかったのに。まさかの物凄いサプライズであったから。
『お前にも好きなやつとか居ないのか? 寂しい奴め!』
ガハハ! と初恋が叶って天狗になって怠絡みしてくる義弟には久々にイラッとしたが、お姉ちゃんと一緒に住む家族になれること自体は素直に嬉しかったので、お姉ちゃんに免じて義弟の有頂天は許してやった。
それに……義弟は明るい調子で何気ないような雰囲気で聞いてきたけど、きっとそれは私を心配してくれているからなのだろうから。
……私は、誰かと一緒になれる想像が出来なくなった――あの日から、ずっと。
『――あなたを、産まなければ良かった』
お義父さんたちと家族になることは、そんなに難しくはなかったのに。
……何故だかいざ、自分の家族を築こうと考えて行動しようとすると、どうしてもあの日に聞こえた母の言葉が脳裏を鮮烈に過ぎってくるから――恐くて、どうしようもなかった。
『……またあそこに入るのか』
『うん、お役目だから』
苦い顔を隠さないお義父さんに、いつもよりも明るい笑顔で答えてみせた。
……母がどうして亡くなったのか、私はもう知っていたから。
これまで普通の子のように私を育ててくれたお義父さんに、これ以上外部からの圧力による心労や迷惑をかけたくなかった。
――私は遥か昔、神と呼ばれた方の直系らしい。
ただの末裔ということだけなら、実を言うとこの平和な島国にはその血筋自体は絶えずに広く浅く、大量に存在しているのだろうが……この意味するところは、身体を流れる遺伝子や血筋という意味の直系ではなく――魂の系譜で直系なのだそうだ。
神の純粋な素質を子々孫々、粛々と引き継ぐ。そんな役割を担う一族。
『……だれ?』
母が亡くなって、私にお義父さんが出来て、暫く経ってのことであった。
『――拙者は、神の守り人でござる故に』
変な口調の不審者が、我が家を堂々とうろうろしていた。
『なにそれ? ……ふほうしんにゅうだよ。おにいさん』
『う、うむ……すまぬ』
お兄さん、と言ったのはなんとなくだった。そのお兄さんは明らかに、お兄さんには決して無いだろう大きなものを持ち運んでいたので、普通ならお兄さんとは誰も呼ばないだろう。
……つまり、正確には外見上はお姉さんだったのだ。不審な、と頭につくけど。
『よくわからないけど――もりにお帰り、おにいさん』
『……森林には住んでおらぬ故に』
その不審者は、たびたび我が家にやってきて私と軽く会話をしては、お義父さん……とついでに義弟から苦々しい顔をされていた。それでも訪問はやめなかったけど。
私は、この不審者とよく縁側で日向ぼっこしながら謎の会話をよくした。
『――ねえ、神様って本当に居るの?』
『うむ。存在する故に』
この不審者は神様の居る森の人ではなく、神を守る人だったらしい。
私に会いに来るのは私の魂が神の魂を引き継ぐ、その最後の直系だから。
『どこに居るの? 近く? 会いたいと思ったら会えるの?』
『今、この星には居らぬ故に……』
『じゃあどこにいるの?』
『……拙者は、この星のことしか知らぬ故に』
私のそこそこ真剣な問いにも毎回変わらず真顔で答えるから、言っている内容が嘘か本当かはよく分からなかったけど……こまめに訪問したり、義弟から悪戯されても危ない事はしっかり説教して泣かせたり、とにかく真面目だったから信じることにしてあげた。
この不審者――ぼうたんくんを信じると決めた刹那、私の世界は一変した。
『……ねえ、ぼうたんくん。私、神になれるかも』
『うむ――なぬっ!?』
いつも眉一つ動かさない鉄仮面っぷりなのに、この時ばかりは驚天動地とばかりに驚き、謎の動きで慌てていた。
……ぼうたんくんの動きはよく見えなかったけど、連動するように遠くのほうからドゴオオオオオオッッ……! と音が轟いて地面も遅れて大きく揺れたから、急な地震にでも驚いたのだろうと納得した。
『なんかね、分かるの。まだちょっとだけど』
揺れが収まったのち、続きを口にした。
『……この星、もう完全に滅びそう』
『――――』
ぽつり、と表層だけの少ない情報で得た結末をそのまま何も考えずに告げる。
ぼうたんくんは、私の言葉を肯定するようにしかめ面で黙り込んでしまった。
『ねえ、ぼうたんくん。それよりびっくりしたんだけど――あなたって、魔女だったのね。なんか……すっごく、似合わない!』
『……うむ。拙者とて率直な言葉には傷付く故に』
『ごめんなさい』
――それから、私の日常は二つになった。
ひとつはお義父さんたちと過ごす楽しい日々。そしてもう一つは――。
『ぃぁあああっっぁぁぁぁあああっっっぁぁぁあぎぃぃ……――ッ!!』
絶え間なく、襲い来る苦痛、絶望、喪失、惨酷、終わることない負の感情。
――星に住まう、全ての生命から漏れた綻び。
『痛い痛い痛い痛い痛い痛いいっ、いたいよぉ……っ!』
ほんの少し、大元から換算すれば砂粒程度のほんの少しでこの有様であった。
――果てしない苦痛に身悶え、あの日の母の姿と己の惨状が重なる。
『苦しい苦しい苦しい、くるしいってばぁ……っ!』
……母は、その身が朽ち滅びるまで――亡くなるまで、どうしてこんな苦痛を人の身に受けられ続けたのだろうか。これは、とても――。
――とても、生命に耐えられるような苦痛じゃない。
特に、既に私を産んで神の魂を移した後の母では、とても。
神の魂が私の実体を守ってすら、このザマだというのに。どうして。
『……ねえ、ぼうたんくん。どうして神は救っちゃうんだろうね』
今日も、私がこの美しい場所で一人苦しみ悶えている様を、近くでただただ黙って眺めているだけだった彼に問うように言葉を出したが、別に何かの答えを求めたわけじゃなかったから相手の反応を待たずに勝手に言葉を続けた。
『神も、誰かに救われたいって思わなかったのかなあ……』
過去に、この星に在った数多の神々。その永過ぎる記録を、苦悶の度に否応なく閲覧してしまう。……救世の役目を終え、去った神。残って救世の為に死んだ、神様。どちらも、救わないという選択肢が存在しなかった。何故だろう。
……私はただ、未だ色褪せないほどに美しかった記憶の残る世界だったから。それに、せっかく楽しく想えるようになってきた平凡な日々を、ここで終わらせてしまうのが心の底から名残惜しかったから――ただ、それだけの理由で苦悶に身を投じたどこにでも居る、平穏を好む凡人。
神の魂は表面的にこの身を守りはするが、内側は別だった。もうボロボロ。
――きっと、私はもう、生まれ変われない。激しい魂の損耗、余命幾何か。
『……逃げたくば、拙者が逃す故に』
『どこに?』
『それは……』
あーあ。ほんとに――。
『とんでもなく最悪な誘惑したね、今。このひとでなしぃ! ……ひどいよぉ』
『すまぬ……』
中途半端に希望を見せないでほしい。もう無理だから。
最初の頃だったらともかく、今の私はもう、とっくにどこにも逃げられない。
『私、どうなっちゃうのかな……って』
ぽつり、漏れた不安は即座に神々の記録が天啓のように私へと降りてきて、悩む暇も与えられずに自己解決してしまった。
少しだけ、あと少しだけ――ほんの少しだけ、星に生きづく流れを整える。微々たる延命を繰り返し、ほっと息を吐く。
そうやって少しづつ、少しづつでも星の終わりを必死に遠ざけ誤魔化しているうちに……その代償が、神へと至る寸前の今の状態となった。
他の人より少し、感受性が高い。いわば、ただそれだけの一族。その能力に目をつけられて、子々孫々と救いの神を生むためだけにひっそり、けれど脈々とこの力が受け継がれてきた。
世界各地、満遍なく散らばっていたはずの一族は長い時の中で異端と狩られ、厄病に倒れ、役目を忘れ――と、もう神の魂を宿す存在は、もう世界で私だけしか残っていない。
この星の調整が各地でしっかり分担出来ていれば、きっともっと負担が少なかっただろう。それも無い物ねだり。星を守護する魔女らが世界を隅々まで血眼で探し尽し、見つけ守り、それでも果ててしまってもう私しか残されていないのだから。
……先程のこの世のものとは思えない苦悶の時間も既に慣れたもので、少しだけ感じる苦痛が却ってだんだんと自分が何とも思わなくなっていく感覚を、私が私として在れるよう残されている時間を敏感に教えてくれていた。
――本当に、もう逃げられない。雁字搦めだ。
『すまぬ……』
ぼうたんくん、本当は私が産む子――神となる子を守る為、その母体を守る為にやってきたのに、まさか神を産む前に母体自身が神に至ろうとは、想定外だったことだろう。
でも、仕方ないよね。私だって、神になる予定なんてなかったし。誰だって、人生予定通りにいかないものだから。お母さんの言葉は、神に至りかけていても呪いのように私を縛っている。
――だからきっと、子どもを産むことを厭う私への処置なのだ、これは。
『……あーもう! こんなことなら、誰かと大恋愛でもしとくんだった!』
『それにはまず、引き篭もりをどうにかすべきでござる故に』
痛いところを突かれ、顔をしかめた。
――私は今の家族以外と、碌な交流をしていない。
というより、外に出て私に万が一のことがあってはならないと、こんなに広い屋敷にも関わらず、かごの鳥のように閉じ込められているも同然だった。
……つい数年前、同じように直系であったお姉ちゃんに娘が産まれた。
だけど小さな子に――それも神の魂を宿せばたちまち呑み込まれ朽ち果てるだろう、自我も芽生えていないような幼子に、このお役目はとても任せられない。
そうなれば、たとえ私がほんの少しだけ生き延びられたところで詰む。ほんの少しの些細な時間と引き換えに、対価として星が終わり、みんな終わる。
――星は、それほどまでに油断ならないほど危篤状態であった。
お姉ちゃんが加わっても、子を産んで力を減じたかつての母のように魂を消耗し尽くし、一度も持たずに亡くなってしまうだろうから……この損なだけの役目を押し付け、任せることなんて到底出来ない。
……結婚する、と言われた時の微妙な雰囲気はこれのせいだったか、と後で気付いても私はお姉ちゃんへ特に何も言わなかった。
だって私も……こわい、いやだ、その感情が深く身に沁みていたから。
きっと母の亡骸を目撃しただろうから、私よりも長い間ずっと葛藤していただろうお姉ちゃんを、一方的に逃げたと責めることなんてとても出来なかった。
きっと、私に会わなかったのは母の面影から私を一時でも遠ざける意味があったのだろうが、それよりもこの家に居るのを厭うた為だったのだろうから。
……思い返せば、義弟と良い雰囲気になっていることもちょこちょこあったのに、それでも義弟と結婚することを最初に選ばなかった。
再婚してこの家に戻ってきた時に、お姉ちゃんは深々と私へ頭を下げていた。何かの許しを請うように、深々と。その身体は、小さな子どもを抱えた腕は、ずっと震えていなかっただろうか――。
――だから私が、最後だ。
『うぐぐ、最近はネット恋愛だとご存じでない? はーっ、時代おっくれ!』
『拙者には恋愛の必要性がござらぬ故に。出歩く際に群がられるのは、鬱陶しいことこの上ない苦行でござるよ』
『何それ、モテ自慢?』
軽口を叩きながら、日課を終えたからと美しい神域からさっさと出た。
……昔はあれほど好きな場所だったのに、今は必要最小限しか居たくない。
『――あー!』
長い廊下の先、その向こう側から、もうとても小さいとは言えないほど身長が伸びて大きくなった男の子の、変声前だろう高めの叫びが聞こえて来た。
『ゆずとくん』
『またお前か、変なやつ!』
この場に変なやつは一人しかいない。
私はぼうたんくんを見た。首を傾げられた。……そっか。
『なあなあ、またそいつと遊んでるのか? おれとも遊べっ!』
近所のお姉さんを取られるような気持ち。お姉さん凄く分かる。
ので、笑顔で頷いて了承した。ぱあっと綻ぶ笑顔が実に可愛らしい。
『どこで遊ぶ? カルタとかはどう?』
『はあ!? カルタぁ!? ばっかじゃねーの! 普通に外だろ、外!』
『だって私、鈍臭いから……楽しくないよ?』
『何言ってんだよ』
ちょっと呆れた風にやれやれ、という顔で言われる。むっ。
『――シオンと居るだけで、全部が楽しいんだろうが!』
…………。
『だから外で遊ぼうぜ! おれが連れ出してやるから!』
…………。
『……うん。分かった。先に靴履き替えて待ってて』
『おう!』
タタタ、と軽快に走り去っていくゆずとくんに自然と笑みが浮かんだ。
『……ちょっと今のは、キュンと来たかも』
『拙者の時は即刻拒絶したでござる故に……』
何を言っているんだ、この朴念仁。
『あまりに無鉄砲で無計画だからでしょ』
『違いが分からぬ故に……』
『受け身のままでいるから簡単な口説き方も分からないのね、可哀想に』
『む……』
からからと、楽し気にからかって可愛くも口説き上手な少年の後を追いかけた。
――楽しかった。そんな平凡なようで平凡でない、けれど掛け替えのない日々。
「……私ね、きっと凄く楽しかった。幸せだったんだと思う」
『――――』
「辛くても、悲しくても、痛くても、幸せだったんだよ」
独白しながら、仰向けに見上げて一方的に告げた。
「だからね、とうとう実体を――身体を失ったときも、平気だった」
『――――』
「みんながずっと、あの美しい庭で私に話しかけてきてくれたから」
わざわざ教えてくれなくとも、全部知っているのに。全部。
日々あった小さな幸せな出来事を、私へ語って聞かせてくれていた。
「……たとえ、最期まで視えなくても」
波紋が、私たちを中心に広がる。
美しい暗闇の境目に起こった、小さな小さな波紋。
「ねえ、私はまだ私のままなのかな」
「――――」
何も答えてくれない。けれど、優しく頬を撫でられた。
……いつの間にか、膝枕をされていたみたい。
慰めるように触れる手つきは拙いけれど、きっと温もりが籠められている。
「何も、感じないの」
何も――。
「あの日から――ゆずとくんが、神に至った私を最期の瞬間まで人に引き留めて、私の在処をかろうじて細々と私たらしめてくれていたあの子の存在が――朽ちてから、何も」
――神とは何と不憫なものだろうか。
喜怒哀楽を理解しているのに、それに左右されることはない。出来ない。
だから嘆く場面だと理解していても、嘆く感情が存在し無いから嘆けない。
そう他人事のように考えるが、それは己への憐れみからでも何でもなかった。
――人だった頃の記憶で、そう推測しただけ。私はずっと、何も感じていない。
「……ねえ、かみさま」
わたしの、かみさま。
わたしをすくう、かみさま。
「わたし、もう、必要ないよね」
だって、人だった私が守りたかった日々は既に朽ち消えてしまったもの。
ただせめてお礼に、最後の役目だけは果たさないとだけど。
私に与えてくれた、星に。わずかに残った美しい記憶が残る、あの星に。
――かつての、神々がそうしたように。
「だからわたしを――」
――滅してね。死にゆく神の、最初で最期のお願いだよ。




