春宵一刻 夜桜 (後)
サクラちゃん視点Ⅴ
もくもくと立ち込める煙の中、ふぅふぅと専用の筒で窯の火を調節する灰色髪の少女と、それを遠巻きに壁にもたれ掛かって眺める桃色髪の少女がいた。
灰色髪の少女が火に息を吹きかける音だけが響く部屋に、壁にもたれ掛かって眺めていただけだった桃色髪の少女からの声が不意に混ざった。
「――臭うぜ」
「えっ? ……あっ、換気が不十分でしたね。すみません、まだ調理中で……もしかして、この匂いのせいでお腹を空かせてしまいましたか?」
「違ェわ! オレ様をただの食いしん坊みたいに言うんじゃねェ!」
桃色髪の少女の荒々しい語調と共に、バンッ! と勢いよく半開きになっていた窓が独りでに全開になり、爽やかな一陣の風が部屋の中を駆け巡って吹き抜け、煙と共に匂いを外へと連れ出した。
食事を催促したように見られたのが桃色髪の少女――ミル様の気分を害したのか、その顔にはありありと不満が見て取れた。
「そもそもオレ様の食事はいつも要らねェつってんだろうが!」
「そうですけど……」
不思議なことに、ミル様が食事を摂ることもさることながら睡眠をとっている場面を誰も見た事がなかった。
本人曰く、ちゃんと食事も睡眠も摂っているらしいが……それが事実かどうかは実に怪しかった。
「臭ェのは窯の飯のせいじゃねェ――アスターが近付いて来てることだ」
「何かあったんでしょうか?」
「あいつは単純だからな、大体の予想は付くぜ」
「そうなんですか?」
ミル様と過ごす想像以上に過酷な修行の日々に慣れてきたおかげなのか、ここ最近では彼のことが少し苦手くらいにまで気持ちは落ち着いていた。
だからか、近付いて来てると言われてもそれほど緊張することなく私はこの日の夕飯作りを続けていた。
――相変わらず、彼と視線を合わせることだけは避けていたが。
「お姉ちゃん! またあのお兄ちゃん来たよ!」
「えっ、もう?」
つい今しがたミル様が言葉にしたばかりなのに、と驚いて言葉を溢す。ちょうど小麦粉を取り出していた途中だったせいで、少しだけ粉が宙へと舞ってしまい慌てて袋の口を閉めた。
「……どうやらよほどの緊急の用らしいな。嫌な予感がするぜ」
壁越しに何が見えているのか、不穏な事を言いながら目を細めたミル様を後目に、私を呼びに来た子どもが勢いよく服を引っ張って早く早くと外へ連れ出そうとした。
慌てて小麦粉を「オイ……」と嫌そうな顔をしつつも受け取ったミル様に託し、小さな孤児院の出口から一体何の用件で来たか分からない彼を出迎える為に戸を開けて出た。
「わあわあわあ! そんなに引っ張らないで!」
「早く来て! キラキラだよ!」
「えぇ~……?」
確かに彼は外見が美しい人ではあるが、それはキラキラというよりも鋭くキンキンに冷えていると表現するほうが的確ではないだろうか。
なんて、少し怖いもの知らずな感想を抱きながら顔を上げて――。
「えっ、し、シオン様!?」
どうしてシオン様がこんな辺鄙な田舎に……!?
「――話がある」
「あ、シオン様のお兄様も……」
不本意ながらも最近は聞き慣れてしまった声に、ハッ! と我に返ってなるべく不自然にならないように言葉を紡いだ。
が、やはり不自然だったらしい。彼からの視線が痛いほどに突き刺さっていた。
「今いいか」
「えーっと……はい。大丈夫です」
拒否権なんて最初から無い、と彼の視線が物語っているのはいつも通りなので気にならない。
気になったのはシオン様の前に汚れた格好で出てしまったことだった。せめてもと軽く距離を取ってから服の埃を払って身だしなみを整えてから改めて姿勢を正した。
……もしも訪問がいつも通り彼だけだったのならきっと、こんなこと全く気にしなかったのだろうなあと思うとシオン様はやっぱり特別なんだなあと自分の事ながら呆れてしまった。
ミル様もシオン様が来てると知ってたなら教えてくれれば良かったのに……。
「あの……それで、お話しって……?」
「……お前のことについてだ」
「わたしの……? あっ、もしかして、この前のことですか……!」
「それもある」
私が彼と積極的に話す機会はそれほどないが、それでも毎回ここへ訪れる度に彼は私へ必ず彼女の力が扱えているかと確認をしていた。
きっと、彼にとっては彼女の消耗はミル様とは違ってついでのことではないのだろう。何故かという理由は何も知らないけれど。
前回、彼が訪問した時にもその確認の為に修行のついでとして彼と手合わせをした。
その際に彼からとある提案があった。……とても魅力的な提案だったのに、断ってしまったけれど。
「――お前の身の寸法を教えて欲しい」
「え? 寸法?」
……もしかして今後は私の体調の変化も確認する、ということ?
「……えーっと、上からでいいですか?」
「ああ」
「ああ、じゃありませんわよ!?」
シオン様のお声と共にぺちーん! と軽い音が鳴って虚しく響いた。何やら彼を怒っている様子のシオン様の言葉を聞く余裕もなく青褪めた。
――私は知っている。彼の身体が尋常じゃないほどの凶器であるということを。
手合わせをした時、少し触れただけで自らの骨が砂のように粉砕していった痛みを超越した気色悪い感触を。
「シオン様、大丈夫ですか!?」
大丈夫なはずがない! 血の気が引いてサアアアと分かりやすく青褪めるのが自分でも分かった。
自分の事のようにはらはらと彼が治癒魔法をシオン様に掛けているのを見守っていると、シオン様が気丈にも涙目になりながら私をお叱りになった。
「あなたもよ! 聞かれたからと軽々しく己の寸法を明け透けに殿方へ教えるなんて、恥を知りなさい!」
「ええっ!? も、申し訳ありませんっ……!」
と、殿方……? 今までの彼からの扱いに、その分類に入れて良いものか一瞬困惑してしまったが、どれほど彼のシオン様以外への扱いがぞんざいであろうとも彼が男性であることに変わりはない。
シオン様が正しい。私は彼を同じ人としてすら見ることが出来ていなかったのかもしれない。流石は慈悲深いシオン様である。
すぐには難しいだろうけれど、今後は気を付けて私もシオン様を見習って彼への態度を改めよう。
「あ、――ごめんなさい。あまりのことに我を忘れてしまったわ……」
「い、いえ! 私こそ至らぬばかりでシオン様にはいつもお助けいただいて――!」
「いいえ、いいの。あなたが全て悪いわけではないもの。……でもね、これからはもう少し考えてから発言することよ? 自分の事に関してなら特に」
「はい……。以後気を付けます」
「私も強く言って悪かったわ」
シオン様が悪いわけではないのに、私のために落ち込んだ表情で心を痛めて忠告して下さっているのが分かって不躾ながら感動してしまった。
本当に、シオン様はなんて慈悲深いお方なのか……。
「――だが、寸法は」
「……私が! 代わりに聞きますわ!」
「そうか」
……よほど私の体の変化を確認することが重要なのだろうか?
ここまで食い下がる彼を見たのは初めてだった。
「――それよりもですわ、お兄様。まさか、当てというのは彼女ですか? ……彼女を今回のことに巻き込むおつもりなのですか」
「……そうだ」
そのままシオン様が険しい顔で何やら彼と小声で言い合いを始めてしまった。
そして途切れ途切れの言葉を拾うに、今回彼が急にやってきた理由と私は関係あることらしかった。
……彼が私を必要としているなら、よっぽどのことだ。
ならば私の答えは最初から決まっているも同然。
「ですがそれは――……」
「いいんです、シオン様。詳しくは分かりませんが、役に立つのなら私も一緒に行きます……!」
きっと私の為に抗議しているのだろう優しいシオン様の御言葉を失礼ながら遮って意思表明をした。
驚いたように手を口に当てて暫し言葉を止めたシオン様を真っ直ぐに見つめ、心から本気の想いを届けた。
「……まだ、何も言ってませんわよ」
「いいえ、言われずとも分かります。何か困りごとがあって、シオン様のお兄様は私が適任だと判断し頼りにしてくれたんでしょう。それを今知ったシオン様が私を心配してくれたんですよね?」
「…………」
私の言葉に、シオン様が眉を顰めた。不快だからではない。
私への心配によるものであることは分かっていた。
だから、――。
「ありがとうございます。でも、私は大丈夫です。だって、シオン様はいつだって助けてくれましたから」
「……!」
そう。いつだってシオン様は私を助けてくれた。
目の届いていた時も、――そうでなかったときでも。
「それに、私はシオン様の力になりたいんです。私の知らないところで苦しんでいるのは嫌なんです。だから――お願いします」
「――――」
本心からの願いだった。私はシオン様の為ならきっと、何でもどんなことでも頑張れてしまうのだろう。
私にとってシオン様はどうしようもなく特別な方で、――この世で唯一の尊い方なのだから。
「……分かったわ」
「ありがとうございます! シオン様!」
仕方ない、とため息を吐きながらもお許しを頂き笑顔でお礼を述べた。
――これできっと、私がお近くで守れる!
「手間が省けた」
「……お兄様」
と、シオン様が彼の言葉に反応してそそそ、と彼に楚々に近づいて何やら小言を囁いたようだった。
……何を言ったんだろう? 聞こえなかった。
「……そうだな」
シオン様のお小言に珍しく分かりやすく嫌そうに顔を顰めた珍しい彼を眺める暇もなく、いつの間にか見下ろされるような距離まで接近されて威圧感たっぷりに突き刺すような視線を向けられた。
……何か気に障るようなことでもしただろうか。
「――お前が必要だ。黙って俺についてこい」
「は、はい!」
「……――や、やり直し! やり直してくださいませ!」
何を言われるのか、と彼の威圧感に身を竦ませていたが、思ったより何てことない命令だったことに安心してホッと安堵の息と共に返事を慌ててした。
けれど、シオン様が何を言ったのかは分からないが彼が何かのダメだしを食らってしまったようだった。
やり直しって、何を……?
再びシオン様のお叱りを受け、とぼとぼとあまりに頼りなげな足取りでシオン様の元へ彼が引き返したものだから、呆気に取られてしまった。
そのまま迷子の子犬のように、先程までの威圧感などまるで全て夢だったかのように小さく項垂れている彼の初めて見る姿に釘付けになってしまう。
す、すごい。流石シオン様……。
――なんて。シオン様が彼を完全に手懐けている様子に感心している暇もなく、急に彼がとてつもなく胡散臭い顔で振り返って近づいてきて再び呆気にとられた。
ハッ! と気付いた時には既に片手を取られた後であり、あの彼が……あの彼が! 跪いて私を見上げているところだった。
だ、ど、どちらさまで……?
「――君の名前を知りたい」
「……さ、……サクラ・クローバー……です」
眩しいまでに胡散臭い笑顔に内心引きつり笑いになっていないか心配しつつなんとか返事をした。
……そういえば、今更ではあるが彼には初めて名乗ったかもしれないと気付いた。
本当に今までが無礼千万であった。態度を改めなければ……。
「サクラか。――ふ、美しい名だ」
「あ、ありがとうございます……」
……きっと、名前を褒められたはずなのに背筋が凍るような感覚がしたのは気のせいではない。
脳裏に先程『嫌な予感がするぜ』と渋い顔で言っていたミル様のお顔が咄嗟に浮かんだ。
……同感です、ミル様。私も今! とても嫌な予感がしています!
「サクラ、君に折り入って頼みがある」
「……な、なんでしょうか!?」
た、頼み!? 彼が!? 私に!?
先程の話の続きだろうか? それなら承諾したはずだったのに。
それならもしや、それとはまた別のことを……?
……この前は、彼の提案をすげなく断ったばかりである。
視線を合わせないように気を付けながらぼんやりと焦点をぼやかしながらもよくよく見れば、彼の目は笑っているようで目がまるで笑っていなかった。
……絶対に断るなってことなんだろう。
「――俺の婚約者になってほしい」
「は、はい! ……はい?」
とにかく否、という返事は出来ないし決してしてはいけないのだという圧力を彼からひしひしと私は感じ取っていた。
だからこそ、彼の言葉をよくよく理解する前に返事をしてしまった。
――こっ、こんやくしゃっ!? ……ってまさか婚約者!?
「――言葉が足りませんわよ、お兄様!」
「……そうか?」
シオン様のお叱りの声にスッ、とまるで何事も無かったように手を引いて呆気なく去った彼に気を取られる余裕もなく、私は困惑していた。
シオン様が慌てて補足説明をしてくれたことによると、どうやら私は彼の女避けみたいな役割を期待されているらしかった。
……確かに見目麗しい方だから、彼のシオン様以外どうでもいい態度を知らなければ貴族のお嬢様方にはただの優良であるとしか分からないのだろう。
貴族の世界では殿方を巡って貴族女性が陰湿な刀傷沙汰を起こすこともままあるらしいから、特に婚約者の居る貴族男性に近付いてしまった時は対応に気を付けるべきだ、と真っ先に教えてくれたのはシオン様である。
……なるほど。その点、私はミル様との修行のおかげである程度自衛が出来るようになったから、きっと都合が良いと白羽の矢が立ったのだろう。
……やけに私の実力どうこうについてミル様に確認していたのは、こういうことだったのか……と納得であった。
「――なるほど! そういうことでしたらお任せ下さい!」
「えぇ、よろしくお願いしますね――では、時間が無いのでこれからすぐにご同行願いたいのだけど、よろしいかしら?」
「はい! すぐに準備してきます!」
そうとなれば取る物もとりあえず、急いで支度をしてしまわないといけない。そろそろ夕暮れが完全に闇へと変わる境目にシオン様を長々と外でお待たせするわけにはいかない。
見苦しくない程度の小走りで急いで孤児院へと戻ってギョッとした。ミル様がお腹を両手で抑えたまま、床に倒れて蹲っていた。
「み、ミル様!? 大丈夫ですか!?」
「ひ、ひぃ……だ、大丈夫じゃねェ……ククク……クソッ」
「ミル様……何がそんなに可笑しいんですか」
せっかく心配して駆け寄ったのがバカらしくなるほど、ミル様は「久々に面白いモン見たぜ!」とだらしない顔で笑い転げていただけだった。
遠くからこっそりと一部始終を覗き見でもしてたのか、私たちのやり取りの何かがよほどツボに入ってしまったようで修行では息一つ乱したことなかったミル様が息切れするほど腹を抱えて笑っていたのだ。
「わ、悪ィ。テメェらの寸劇があまりに滑稽でよォ」
「もう! 酷いです! 見てたならお助け下さっても良かったのに!」
何度驚きで呆気にとられ、肝が冷えたことか。
「それは出来ねェ! まだな!」
「まだ……?」
まただ。ミル様は時々、何かの時期を見計らっているような発言をする。それがいつなのかは分からない。
……けれど一体、いつなら良いというのだろうか。私がそれを教えてもらえることはきっとこの先、無いのだろうけど。
「――ほらよ、とりあえず必要な荷物はまとめておいたぜ」
「あ、……ありがとうございます」
まだ床に寝転がったままひぃひぃ言いながらも、ミル様が荷物を私の手元に出現させてくれ、更に魔法なのかいつの間にか着るだけで時間の掛かる煩雑な学園の制服へと着替えさせられたことに感謝の言葉を述べた。
ちらりと奥の食堂を見れば、いつの間にか子どもたちがきゃいきゃいと食事を摂るために集まっていく風景が垣間見えた。
「子どもたちのお食事の用意も……」
「別に。オレ様に掛かればあの程度、大したことねェからな」
……なんだかんだでミル様はとても面倒見が良い。監視されているとは分かっているものの、申し訳なくなるほどいつもお世話になりっぱなしであるのに変わりはない。
ひとまず、さっき助けてもらえなかったことはそれに免じて不問にし、今はシオン様の元へ急ぐべきだと踵を返そうとした。けれど――。
「――待て」
「はい? あっ、もしかして忘れ物でも……?」
「まあ似たようなもんだが――」
打って変わってあまりに静かな声で私を引き留めたミル様に、少しだけ恐ろしい何かを感じて振り返らずに足を止めてしまった。
……今、ミル様を振り返ってはいけない気がする。
「オレ様とシオン、ダリア以外の魔女は信用するな――何があってもな」
「ダリア様というのは……」
「シオンの母親だ、――今は、な」
今は? どういう意味……?
「とにかく今言った三人だけだ。縛られてねェのは。……意味は、分かるな?」
「はい……他の方は私を殺そうとするかもしれない、ということですね」
「かも、じゃねェ。必ず殺そうとするだろうぜ。――必ずな」
確信に満ちた言葉を最後に、ミル様の言葉が少しだけ途切れた。
「……ま。オレ様も遠巻きながら見てっからよ。あんまし心配すんな」
「――ありがとう、ございます」
「それだけだ。早く行け。――妹狂いがそろそろ苛ついてる頃だぜ」
「はっ……!」
そうだった! シオン様をお待たせしたままだった!
「お待たせしました!」
「ああ、遅か」
「そこまで待ってないわ」
ミル様のおかげで大幅に準備の時間が短縮されたとはいえ、そのミル様が居ることを知っている彼からすれば支度が遅いと思うのは間違いでもなかったから少しだけ申し訳なく思った。
それなのに、そのことを知らないだろうシオン様が彼を睨んで私を庇ってくれたことに思わず嬉しさで笑みを浮かべてしまい、それを見た彼にシオン様が見てない隙に睨まれ、今度は苦笑を漏らしてしまった。
「じゃあ行くぞ」
「はい!」
「えぇ、参りましょう」
ぷい、と拗ねたように顔を逸らしてスタスタ先を歩き始めた彼の幼い子どものような、年相応らしい姿に少しだけ微笑ましく思って笑みが浮かんだ。
彼がいつの間にか手懐けたらしい大きな魔獣に乗っかって遊んでいた子どもたちを食事の時間だと諭して誘導し、こうして私たちは夕暮れから闇夜に染まりつつある空へと飛び立った。
「わああ! すごい景色ですね、シオン様!」
「そ、そうね。……サクラさんあなた、高い場所は怖くはありませんの?」
「えっ? ……そうですね。もしもこの高さから落ちれば、私の全身の骨はきっとボキボキのぐちゃぐちゃの粉々に折れてしまって、血もどばどばどばばあっと一杯吐いて、かなり痛いだろうなあとは思ってます」
そこまで言ってハッ! と気付いてシオン様の顔を窺い、今しがた自身の出した配慮の無い言葉を後悔した。
シオン様の顔は完全に血の気が引いていた。
「結構生々しい御想像ですわね……?」
「あっ! すみません! こ、こんなこと、わざわざ言葉にすることではなかったですよね……!」
思わず彼に結構な高さから地面へと真っ逆さまに容赦なく撃墜された時のことを思い出してしまい、すぐに頭を軽く横に振って痛々しかった記憶を忘れようとしながら答えたせいで要らないことまで言ってしまった。
慌ててシオン様に弁解してみたものの、顔色がかなり悪くなってしまわれたのがすぐ分かった。
……彼女が封印された時のことは勿論。ミル様との修行の過程でも、少し怪我というものに麻痺していたのかもしれない。
慌てて再び景色の話題に戻したものの、気付けば今までちょこんと抓む程度だったシオン様の手がガッシリと彼に捕まるような態勢に入っていた。
心なしか青褪めた表情のシオン様と対照的に、彼の顔がどことなく嬉しそうに見えたのは目の錯覚ではないかもしれない、などと暫くはシオン様をそっとしておくために綺麗な空へと失態への現実逃避のように私は視線を移して見惚れることにした。
……そういえば、あの時も闘ってる途中で暢気に景色に見惚れてしまっていたような気がする。
今まで機会が無くて全く気付かなかったが、もしかしたら私は高い場所の景色が好きなのかもしれない。
なんて、他愛のない会話をシオン様としながら私たちはシネラリア王国へととんでもない速度で移動していた。
……単純な一瞬での移動距離なら、あの黒玉のほうが時間は掛からないのだろうけど……総合的に見ればそれほど移動時間に違いはないのかもしれない。
「うわーっ! すごいですね!!」
「そうね」
少しだけ顔色がマシになった様子でシオン様が答えて下さった。
……良かった。今度はもっと言葉に気を付けよう。
「……でも、もう少し静かにしないとダメよ? 今はもう夜なのだから。皆さん寝ていらっしゃるの。あまり騒ぐと起こしてしまうかもしれないわ」
「あっ、すみません! つい興奮してしまいました……。そうですよね、こんな夜中に大声で叫んだりしたら近所迷惑ですもんね……」
景色が素晴らしかった、というのも勿論あるが、何よりもシオン様の気を逸らそうと話題を探していたというのもあった。
少しだけ子どものようにはしゃいでしまったことが恥ずかしくなって、顔を俯けた。
「サクラさん、」
「降りるぞ」
何か言葉を掛けようとしてくれたシオン様を珍しく彼が遮って、声を掛けて来た。
ジト目で彼を非難がましく見ていたシオン様からは見えていない角度なのだろうけれど、彼から「気を抜くな」という警告に等しい視線が私へと飛んできていた。
……ここから先、気を抜いて良い状況が無いことなどとうに分かってる、と無言で訴えるように私は彼へ向けて静かに頷いた。
「……ノヴァ。先に降りてくれ」
「――へっ?」
驚いたような声を上げたシオン様と違い、私はすぐに彼の意図が分かった。
ちらり、と下の地面を窺い見てこの高さなら問題なさそうだ、と目測で確認を終えた。
「……お兄様、この高さを一人では――」
「シオン様! でしたら私と一緒に降りましょう!」
「え……」
驚いた表情で私を見たシオン様の手をにこやかな顔のまま掴んだ。……彼はおそらく既に何かを警戒しているのだ。
だから私とシオン様は一緒に纏っていたほうが良い。そのほうがきっと彼も対処しやすく、守りやすいだろうから。
「どうしたんですか?」
「い、いえ。ですが、この高さでは怪我をしてしまうでしょう?」
「えっ?」
「え?」
……シオン様はわざわざご冗談まで言って、気負っている様子の私の緊張を解そうとして下さってるのだろうか?
魔女ならば多少の高さなら無いも同然であると、ミル様が山を軽くひとっ跳びしてみせながら豪語していた記憶が脳裏を過ぎっていた。
ミル様曰く、そもそも魔女は魔法で空を浮けるらしいけれど……。
「「…………」」
心配そうに私を見ているシオン様の表情に、これは完全に気を遣わせているのだ、と悟った。
……シオン様にはいつも気を遣わせてしまって申し訳ないことこの上ない。
声の震えが悟られないように明るい声でシオン様の気遣いに答えた。
「この高さなら全然大丈夫ですよ! それに私は回復魔法が得意なので、多少の傷なら治せます! だから安心して下さい! 行きましょう!!」
「あ……」
私を心配して遠慮して下さったシオン様の気遣いを無碍にしないためにも、と強く手を握って一緒に飛び降りた。
ふわ、と私が何かをするまでもなくシオン様の足元が柔らかくそよいで無事一緒に着地した。
「…………」
「シオン様?」
着地後、何故か目を瞑って固まったまま動かないシオン様に異変を感じて何度か声を掛けるも、どうやら私の声は届いていなかった。
声が届かないならば、とシオン様のお身体に触れてみたものの反応は薄かった。
……仕方がないので、真正面から肩を掴むようにしてシオン様のお名前を呼ぶことにした。
「――シオン様!」
「ハッ!」
やっと気が付かれたのか、息を思い出したように吐き出したシオン様に驚いて、改めて恐る恐るお声を掛けたが反応はやはり薄かった。
ここでやっと普通ではないと気付いて、ミル様に最も教わった回復の魔法を何度も重ね掛けしてやっとシオン様の反応が少しだけ返ってくるようになったが、私の覚えられた魔法だけでは回復効果は微妙であった。
シオン様に一体何が……。
「シオン様?」
「さ、さくらさん……」
少したどたどしい発音に、気付かないうちにシオン様に何かが起こっていたのだろうかと心配になって様子を窺った。
「シオン様、申し訳ありませんでした。気を遠くされてしまっていたのですが、私の回復魔法では精神的な治療は難しく……」
「え? も、問題ないですわ」
戸惑ったように、けれど今度こそ意識をはっきりとした様子でしっかりと答えられたシオン様の姿に思わずホッとした。
……どうやら原因は不明だが一時的なただの発作だったようで、何か特別悪い効果に掛かっていたわけではなかったらしい。
「そ、それより怪我の治療は……?」
「えっ? 誰も怪我してませんけど……」
「そうなの?」
真っ先に私の怪我の心配を……気付かなかったとはいえきっと今までずっと体調が悪いのに耐えて、ここで耐えきれずに意識を飛ばしてしまったのだろうに。
……そんな状態で私にまで気を配って着地して、さらに怪我の心配まで。
シオン様の心配りは積もるばかりで、お返しするべき恩にそのうち埋もれてしまいそうであった。
そうしてシオン様への尊敬を募らせていた私の耳に、――おどろおどろしいまでに畏ろしい魔女の声が届いた。
「――魔女の領域に不法侵入とは、度胸が有り余ってるようね」
その声は彼への言葉であって、私への言葉でもあった。
「……そう思って遊んであげようと来たのに、――」
何故か、暗闇の奥から魔女が現れたのが気配で敏感に感じ取れた。
魔女が言葉を紡ぐたび、私の心臓は縮んでしまったように鼓動の気配を消そうと小刻みに動いていた。
「……気付いたか」
「ええ、ええ、勿論。忌々しい力をいくら隠蔽しても無駄よ。あなた程の――」
「別に隠してないが」
「そう? まあいいわ。それで、もう一度問うけれど――」
「母上から聞いてないのか?」
「もちろん、聞いてるわ。けれど、――」
ひやり、と背中を突き刺すように冷たい空気がまとまり付いて離れようとはしなかった。どくどくと流れる血流が全身を巡って凍えた心へと到達し、また全身を冷やすために忙しなく送り出された。
不思議なことに彼と魔女の会話も聞こえているようで、耳からするりと抜けていく。特に、魔女の言葉が。
「――お望みなら、そうするわよ……!」
急に鮮明に聞こえた魔女の声に驚いて、心音までも止まった心地になる。――分かっている。聞こえている。言葉が彼へと向けられていることは。
けれど、それだけではない。私には分かる。彼女が中に居る私には。――巧妙に見え隠れする、ハッキリとした私への殺意を。
……甘く見積もっていたのかもしれない。私は。
――必ず殺そうとするだろうぜ。――必ずな。
その言葉の重みを。




