手遅れ
『――起きろ!』
『う、ん……』
切羽詰まったような声が近くに聞こえ、全身の気怠い感覚のまま薄く目を開けるが、視界は一面真っ暗で何も見えなかった。
……眠い。とてつもなく。
『さっさと起きろつってんだろ!』
『ひゃっ!?』
焦りを含んだ声音と共に、急にバシャーン! と全身を襲う冷たい感覚で流石に飛び起きることとなった。
急に水を人にぶっかけるなんて、どういう了見――。
『何をす……えっ、ここどこ』
『やっと起きたか……』
反射的に文句を言おうと体を起こして周囲を見回し唖然とした。どうやら見知らぬ場所――否。
周囲にある草木や花、遠くに見える城壁を見れば場所がどこかは分かった。
どうやらいつの間にか庭園で寝こけてしまっていたようだ。全身を覆っている闇に若干違和感はあるものの、特に害は無いのでひとまず放置。
……触れた地面が柔らかな芝であったのは救いだったのかどうか。何故か濡れてはいなかったが、全身草まみれにはなっていた。
起き抜けだからこそ、状況確認していた私の視界で何かが蠢いたのに気付く。と、思ったらすぐに話しかけられた。
……不思議と嫌な感じはしなかった。
『直前の記憶はあるか?』
『……直前の、記憶?』
思わず、どこから発しているのかようと知れない声に誘導されるままに直前の記憶を呼び起こそうとする。
――思い出した。アレから逃げようとしてたんだった!
『思い出したようだな』
『ええ、思い出しましたわ。私が闇に呑まれたところまでは……』
謎の闇に覆われながら、謎の蠢く闇に話しかけるという正気の沙汰ではない状況でも冷静でいられたのは、何故かその闇に親近感を得ていたからなのか。
『それは俺だ。時間が無かったから多少乱暴になったのは許してくれ』
――あるいは、助けられたと直感で悟っていたからだったのか。
闇に覆われているせいかどうにも声が籠って何重にも聞こえるままに、ひとまずお礼を述べようと居住まいを正した。
『……お助けいただき感謝致しますわ。あのままでは私はアレに囚われていたことでしょう』
『だろうな。ギリギリだったが、間に合って何よりだ』
『ところで、――』
話が良いところに落ち着き会話は終わり、というような空気を謎の蠢く闇から醸し出されたが、さすがにそれは無理がある。
この状況、真っ先に聞くべきことはもっとあるのだから。
『――貴方、何者ですの?』
実体の無い、ただただ蠢く闇。
そんな存在、見たことも聞いたことも無い。
『……俺のことは知らないほうがあんたの為だ』
『私は知らないほうが良い、と』
『そうだ』
含みをもたせた言葉に言葉を返すと、至極単純明瞭な返答をされてしまった。
何者かは知らないけど、危機的だっただろう状況から助け出してくれた存在であることに安心すべきなのか。
――味方、でいいのか。
『それより、だ。ここに逃れたのは一時凌ぎだ。まだ完全に逃げられたわけじゃない。とっととあんたの保護者のとこまで逃げるぞ』
『保護者……お母様のところですの? それなら城の広間で――』
『いや、違う。そっちじゃなくて――』
キャアアアアアアアアアアアアアアッッ!!
『『!?』』
私と蠢く闇、両者の声に被さるように突如として不自然なほど比較的近場で悲鳴が聞こえた。
私は思わず反射的に立ち上がり、駆けだす。
『待てッ! 罠かもしれな――』
聞こえた声に覚えがあり過ぎたのだ。気のせいなら、いい。けど――。
蠢く闇の制止を振り切って、気付けば庭園を勝手知ったる庭のように駆ていた。
――そして、とうとう悲鳴が聞こえた現場を見つける。
……見つけてしまった。
「――あらあら。意外と古典的でも引っかかるものね」
『お、かあさ、ま……?』
噴水を背に相対する二つの人影。――否。
ひとつは既に地に没していた――。
「……なあに、それ。とても厄介な守護を受けているのね」
私に話しかけていたのは、お母様だった。
そして地に倒れていたのも、お母様だった。
「まあ、いいわ。貴方がアレの手に落ちるくらいなら私のほうがいいでしょう?」
『なに、を』
「あら。まだ分からないの? 迂鈍なのは相変わらずなのねぇ」
まるで旧知の仲のようににこやかに話しかける、知らないお母様。
私が来てからもぴくりとも動かない、知ってるお母様。
二人の容姿はそっくりだった。普通なら区別はつかない。普通なら。
だが、二人には決定的な違いがあった。それは――。
『――食らえ!』
「ぐっ、小賢しい真似を……!」
背後から飛び出した闇が片方のお母様に飛び掛かり、襲う。
だが、そちらは私の知ってるお母様ではないから何とも思わなかった。
むしろ――。
――抑えきれない腐臭。溢れ出る瘴気のような障り。おどろおどろしい気配はまさしく死の気配。
これは、存在してはいけないモノだと直感した。
死体のような存在が動いてこちらに話しかけていたのだ。
危険物以外の何物でもないのは確実だった。
「う、ぐ……」
『お母様!』
どうしてこんなところにあんな悍ましい存在が……。
と、思考しているとわずかに呻く声が聞こえハッと反射的に駆け寄ろうとしたが、寸前で身体を覆う闇に動きを止められる。
そのまま力が拮抗したのは一瞬、自身の意思とは関係なくすぐさま身体が反対方向へと反転して動き出した。逃走へと。
――操られてる!
『待って! お母様が!』
『諦めろ! ――くそっ、次から次へとキリがない……!』
視界の端で交戦していたらしい闇から切羽詰まった余裕の無さそうな声がした。
その姿に一瞬迷うも、やはり母を見捨てられないと踏みとどまろうとする。が、――。
「――に、にげ、なさぃ……」
『お、お母様!』
か細い声だが、母の声が風に乗って私へと確実に届いた。いつものように正確ではあるが、それにしても母の魔法にしては弱々し過ぎる。
母ほどの人がそれほど弱っているのか、と心臓がきゅっと締まるように不安で脈打った。
「れ、おんのところ、へ……」
レオン……母が言ってるのはおそらく父だろう。なにせ、私の知ってるレオンというのは父の名前しかないのだから。
何故兄ではなく父なのか、多少の違和感はあったものの、母が言うのなら兄の元より父の元のほうが安全なのだろう。
そう納得しつつも父の元へ逃げろと、あのいつも強気で飄々と何でも自ら解決してしまおうとする母が、家族とはいえ他を頼るように口にするだなんて、と一抹の不安を覚える。
そんな不安からか、それとも単純な心配からか私は判断を迷った。
しかし……。
『ですが……!』
「――行きなさい! 邪魔よ!」
『う……』
私が迷っているうちに、いつの間にか立ち上がっていた母が魔法ではなく直接の怒声を発した為に反射的に母の言葉に従おうと意思が傾いた。
――明らかにやせ我慢だ。そうは思いつつも、その発する迫力がやせ我慢には見えず、思わず母の命令に反射で従ってしまっていたのだ。
一体全体、今現在何が起こっているのか。
みるみるうちに距離が物理的に離れて行く私をよそに、背後では凄まじい交戦音が鳴り響き始めていた。
振り返って最後に見えた母は、しっかりと地に足ついてこちらに背を向けていた頼もしいものであった。
……母一人なら心配だったけど。あの謎の闇が一緒なら――。
『――あっちはあんたの母親に任せるしかないな』
『へっ?』
と、不安になりつつあの謎の闇が母の手助けをしてくれるのなら……と考えていた矢先にいつの間に現れたのか、すぐ横から声を掛けられ驚いた。
思わず素っ頓狂な声で走りながら問い質す。
『!? ッあなたは、母の手助けをしてくれるのではっ』
『馬鹿言え! あいつらの狙いはあんただ! みすみすあんた一人で逃走させても逃げ切れなきゃ全員無駄死にだろうが!』
『わ、わたしが狙い!? それにむ、無駄死に!?』
『そうだ!』
走りながらなせいか半ば叫ぶように会話しているが、即座に中々に物騒な怒声で返答されて肝が冷える。
先程、母が倒れていたのを見て真っ先にその可能性を考えた身としては只事として流せなかった。
『だ、誰かお亡くなりになりましたの!?』
『真っ先に気になるのはそこか!? 命の危険はあんたのほうが上なのに悠長だな!』
実体が無いはずなのに、妙に荒い声で同じように半ば叫びに近い返答をする闇がそこで一旦、言葉を止めてから告げた。
『――まだ大半は生きてる。虫の息だがな!』
『し、死んではいませんのね!?』
『まだな! お前が捕まれば大勢死ぬが!』
『そ、それは大変な事態ではありませんの!?』
『だからあんたを逃がしてる!』
どういう絡繰りで私が捕まると死人が出るのかは分からなかったが、事態は私が何かを思うより先に進展し、裏で何かが進行していたらしい。
全くもって事前に何も知らされていなかったし現在も教えられてないが、……ひとまず、謎の闇の語る内容の真偽はともかく、今は母の言う通りに父と合流したほうがいいことだけは理解出来た。
『聞きたいこと、知りたいこと、沢山ありますけれどもっ!』
『今は逃げることだけ考えろ!』
『後で教えて下さいますわね!』
『前を見て走れ! 話は逃げ切れた後だ!』
『――っ!』
それだけ言い残すと、私を若干先導するようにもやもやと追従していた闇の蠢きが素早く背後へと回った。
振り返ようとする前に荒々しい戦闘音らしき音が間近に聞こえた為、まだ追われているのだと察して言われた通り前方に集中した。
殆ど全力で走っていて、再び足を挫いてしまいそうだった。
いつの間に治っていたのか、バルコニーで負傷したはずの足首から痛みを感じていたらどうなっていたのか。
なんとなく、謎の闇が助けてくれた際に治してくれたのだろうということは分かった。
そんなことを考えながらインドアながら全力で走っていた庭園。いくら城の庭園とはいえ、その規模は永遠ではない。
出口は思いのほかあっさり見つかった。
『あそこを抜ければ――』
『待て! 様子がおかしい』
城内に入って父と合流を――と、私が言葉を続ける前に再び私の前方の視界全てを覆うように謎の闇が踊り出て警戒感露わに声を発した。
私には何も感じられなかったが、何かがあるのだろうと足を止め出口方面の様子を伺う。
『……私には何もおかしいところが見受けられませんけれども』
『いや、何かあるのは間違いない。俺の感覚を誤魔化せる存在なんて早々にいくつも存在しない』
『私、成り行きでここまで共に来ましたけれども、貴方の感知能力の多寡は全く存じ上げませんけれども?』
『……そういえばそうだったな。だが、あるものはあるんだ。俺を信じろ』
『――ひとまずは、分かりましたわ』
何の根拠も無い自信満々な言だけなら嘘と断じ信じなかっただろうが、状況が急で会話がままならなかったとはいえ、母が何も言わなかった存在なら一応は味方であるはず。
これで敵だったら私はまんまと騙されたことになるだろうが、何が起きてるか全く分からないこんな状況ではその時はその時である。
どのみち、敵対しても実体の無い存在に勝ち目があるとも思えなかったし。
『――何か来るぞッ!』
言われるがまま停止して、そんなことを考え始めていると何を察知したのか謎の闇から警告をされる。
何かってなんだ! と言い返す前にぴゅーんとほんとに何かの冗談のように宙を超高速で飛んできてすぐ横に深いクレーターを作った為に口を噤んだ。
『何が――』
飛んできて――。
「ぐっ……! 厄介な――」
え――。
『――お、お兄様!? 何が……』
「――なっ!? ノヴァ!? なぜここに……くそが!」
お、お口が悪いですわよお兄様!
そう口にする前に、クレーターから素早く這い出てきた兄が庇うように私の前に出て背中を見せた。
あの兄までもが急に吹っ飛んでくるなんて、本当に何が起こってるのか。
しかもよく見ると着ていた一張羅は既にボロボロとなっていて、よほどの激戦が現在進行形で行われているのが理解出来た。
こんなところで何と闘っているのか――答えはすぐにやって来た。
「……ここにいたのですか。手間が省けました」
「チッ」
『えっ……』
コツ、コツ、靴音を優雅に鳴らしながら生け垣の向こう側から現れたのは一人の少女であった。
しかし、こんな状況で現れる少女がただの少女であるわけなどあるはずもなく――。
『わ、わたし……?』
「今はそう見えるようですね」
少女が――私の姿をした少女が異様なまでに落ち着いた声で答えた。
その表情は人形のように抜け落ちており、造り物のように生気が感じられなかった。
さらに言えば、自分の声がどんな風に聞こえているか客観的なことは分からないが、気のせいでなければ声までもそっくりだった。
『な、ど……』
「――今すぐ逃げろ!」
なにが、どうして、――混乱で声にならない声を出す私を見ることもなく、兄が聞いたことのない焦った声で告げる。
――自分の下が世界で一番安全と常々宣うあの兄が逃げろと。
聞くことは一生ないだろうと思っていた言葉が兄から発されたことで、事態の危険性がこの時になってやっと実感出来た。
何も知らされていないまま、言われるまま促されるままにここまで誘導されて来てしまったせいか。
それともあまりにも急展開で現実味が無く、思考も混乱ばかりでままならなかった状況であっても心のどこかで母や兄がいれば大丈夫だと信じていたからだろうか。
母に続いてあの兄までもがすぐに逃がそうとするなんて――。
やっとどこか現実味が無くてどうにでもなるだろうと楽観視してふわふわしていた現在の危険な状況を実感したからか、今更身体が震え始めた。
――逃げなきゃ! 本気でそう思った時には少し、動きが遅かった。
「それは困りますね」
「くそ、ノヴァ早く逃げ――ッ!」
ぼとり。
『あ……う、そ――』
少女が静かに言葉を発した数瞬後。気が付けば目の前に首がひとつ、転がっていた――。




