そうだ、ご隠居に聞こう
どうにも話したいことがあるとやはりここに足を向けてしまう。
某の庵というたたずまいの門を潜り抜け、簡素だが造りのしっかりした板づくりの扉を私は二度ほど叩いた。
「はぁい」
この中にいる隠居老人の身の回りの世話をしている年増の女中だ。扉を開いて敷居をまたいで中に入り、私は頭に被っていた笠を取る。
見知った顔というのもあってかこちらに小走りでやってきた女中も顔を崩して、
「大旦那様は今暇を持てあましているんでございますよ、どうぞ上がってくださいまし」
と中に入るよう手早く促し、それに従うように私も中に入った。
そしていつもの小さい待ち部屋に通され座ろうとするが、すぐさま、
「こちらにお入り」
と声がかかったので私もふすまを一枚開いて中に入っていく。
中にいるのはどこぞの大店の大旦那らしい。らしい、というのは本人が一切どこの誰かというのを未だに明かしていないからである。
今は隠居して店を離れ、自分一人の趣味の家を作り上げ雑踏の少ないこの場所に住んで趣味に生きるただの老人だという事以上は聞き出せない。それなのにどこまでも突っ込んで聞きだすのも野暮というものかと自分も知らないままにしている。
その御隠居はいつも福福しい優しい微笑みを称えて、どこぞの俳人ともいえる質素だが渋く仕立てのいい身なり。齢は五十も超えているのだろうか、正確な年齢など聞いたことは無い。
「おう、来たな若侍」
御隠居はこちらを向いて口端を上げた。
通常の顔は福福しい微笑みだが、一たび口端を上げ目じりを弓なりにして笑うと、昔はどこぞの高名な悪ガキだったのではと思うほどのしたり顔になる。
そして若侍と呼ばれたが私はそこまで自慢できるほどの立場ではない。
現在一人暮らし、両親はおらず妻もいない。
腰に二本の大小を差してはいてもその実貧乏で、壁の薄い長屋に住み、傘を作っては売ってわずかばかりの金を手に入れるという生活を送っている。
この御隠居と出会ったのは傘だけでは生計が心元ないと菊でも栽培して売ろうかと思い菊について調べ始めた時だ。
貸本屋を町中で掴まえ、金を払いたくなかったので自分に必要な内容かを改めるだけと言い切り菊の育て方の本を熱心に立ち読みしていると、通りがかったこの御隠居に、
「おや菊という顔ではないお侍さんが熱心に」
と声をかけられた。
いささか腹が悪くなり、
「無礼な」
と一言返し睨みつけた。
いくら落ちぶれていてもこちらは武士、相手は立派な身なりをしていてもせいぜい商人だ。
それでも私の情けない服装や整え切れていない髷、金も払わず貸本を堂々と道端で立ち読みしているのを見てこちらの懐具合を察したのだろう、
「菊というのは少々育て方が大変かと存じます、それよりならおもとを栽培するほうが遥かに楽ですし、今は買い手も多ございますよ。もしやる気があるのなら私がお教えできますが」
と、ある程度丁寧な口調で返された。
おもとというのは観賞用の植物である。
どうやら趣味人の中で流行りになっていたそうで、それもその辺で発見できるし栽培も簡単で、この御隠居のおかげで前よりは幾ばくか暮らしぶりも良くなった。
そしてご隠居が丁寧な口調だったのはその時の一度きり。あとはこちらを武士とも思わない口調になったが、それでもおもとの事について教わる身分になるとすぐさま頭の上がらない御仁だと思い知らされた。
この御隠居は随分と道楽をしてきたと見えて、句に始まり三味線に唄、茶も立てれば踊りも踊れ、歌舞伎や役者などの流行りにも聡く、芸者や吉原の太夫にも詳しいので道楽助兵衛爺かと軽んじれば古典文学の一節をそらんじてみせる。
自分には到底及ばない人物だと察してからは武士も商人も無く素直に万事の師として接するしかあるまいと思い至った。人とはあまりに凄すぎる人に会うと何もかもどうでもよくなるように作られているのかもしれない。
そしてなによりこの御隠居の優れているのが人の話を聞くことだ。
水を吸い込むかのようにすいすいと耳から言葉を吸い取り、そしてこちらが世間で起きた事件や不可解な話をすると御隠居は、自分考えを作り話、単なる話としてその口から出す。
その作り話がまた人を引き込むような話で、いいやそんなはずはない、という考えが、もしかしたらそうなのかもしれないと思える話を繰り出してくる。
だからだ。何か話したいことがあるとついこの御隠居の元に訪れてしまう。
「で、今日はどうした?」
煙管に火をつけながらプカプカとふかし、こちらを見てくる。
「それなのですが」
もう今となってはこちらが下手に出て丁寧な口調になっている。しかしこの御隠居の前なら気にもならない。
「実は今朝、そばの川で仏さんが上がりまして」
「水死体とは面白そうな話だな」
この御隠居は至極普通に不謹慎な話を堂々と茶化す。ひとまず話を続けた。
「それが心中だという話で」
「ほお、ますます面白そうな話だな」
ご隠居は身を乗り出して続きを聞かせろとばかりに目を輝かせる。全くこの御仁はと思いながらも、そうなると分かったうえで話をしに来たのだからと続けた。
その仏さんを私は見てはいない。見る前に身元はすぐにわかり手早く運ばれていった。それでも話を聞く限り、隣町の男女で抱き合うような形だったという。
「若い男女が身分の差に苦しんでってところか。…それとも大金を友人に貸したかな」
「それは曽根崎でしょう」
曽根崎心中。少し前にでた浄瑠璃の演目でだいぶ人気があると聞くが、自分はそこまで興味の引かれない男女の心中話だ。そしてこの御隠居は流行りのものとみてとっくに見に行ったものと思われる。
だが、自分が持ってきた話はそんな曽根崎のような物ではない。むしろそんな男女の仏が上がった程度ならわざわざこの御隠居のところまで話をしに来ない。
「実はそれというのが結ばれない若い男女などではなく、男は四十、女は三十を過ぎている夫婦だったのですよ」
そう言うとご隠居の顔が噂を楽しむ表情から、軽く驚いて見開く目へと変わった。
恐らくご隠居の頭の中にはうら若き男女の悲恋の話が浮かび上がっていたのだろう。
乗り出した身を後ろに戻し、煙管をプカプカと吸いながらご隠居は、
「長年連れ添った夫婦か」
「いいえ、その男の方は一度目と二度目の妻は病で亡くなり、今のが三度目の妻だったそうで。それも仲が悪いわけではなく近所でも評判のおしどり夫婦だったと」
私は近所の奥方集が井戸端で話していたのをそっくりそのまま伝えていく。
別段聞くつもりもないのだが、なんせ薄い壁の貧乏長屋で井戸が近い。それで声高に喋られたら自然と耳にも入ってくる。
煙管をプカプカ吸いながらご隠居はこちらに煙管を向けてきた。
「三度も結婚するんだ、女が少なすぎて妻が迎えられねえって男が嘆くこのご時世、その男ってのは何かしら商売をやっていて跡継ぎが必要な野郎なんじゃねえか?」
そう言えば店を持っている旦那だと伝えるのを忘れていたが、ここまでの話だけでそこまでの考えに辿り着いてしまった。
おみそれしました、と心の中で舌を巻きながら、
「その通り、店を構えている旦那です」
「店の具合はどうなんだ、商売は上手くいってなかったのか」
「いいえ、羽振りは良く寺社にも寄進なさっていたそうです」
「子供は」
「いませんでした」
「ふーん…」
そこで一旦区切ってご隠居はまた煙管を吸っている。
「唯一夫婦の心残りというのは、その子供が居なかったということか」
「恐らくは」
「それで死んだってぇのかい、養子を取るという手もあったというのに?」
奥方衆の話を聞いていて、自分も、そして奥方衆も疑問に思っていたのがそこだ。
「夫婦仲もいいし、お金の羽振りもいいし、別段二人で死ぬようなことなんてなかったんじゃないかねえ?子供のことだって、養子を取ればいいことじゃないか」
と。
誰かがそう言うと奥方衆の一人が、もしかして…と憶測の話に取りかかった。
なのでそこからはその夫婦はこのような家の人物だ、という真実の話ではなく噂好きの奥方衆の作り話の考えが行き交った。
そこまで言うとご隠居が、
「もしかして番頭が夫婦を殺して自分がその店の主人に収まろうとしたってぇお話でもしてたか?」
「…御推察通り」
真っ先に上がったのがそれだ。
番頭とは店の主人の次の地位にいる者。だからゆくゆくは子供の居ないその店の主人にと望んでいた番頭だったが、どうにも主人は自分の子を諦めていない。
それならどちらも殺してしまえば自分が店を乗っ取れる…。
という番頭の凶行ではと奥方の一人は言っていたが、別の奥方がその考えを否定した。
「あの番頭さんは念願かなって暖簾分けしてもらって隣町に新しい店を構えようとしてるらしいよ、そんな番頭さんがどうしてそんな時に主人と奥方を殺すってんだい」
その話をすると御隠居は、
「それなら旦那が妾でも囲っていて奥方が嫉妬して無理心中だの、奥方が不貞を働いたのを見て怒り狂った旦那が奥方を道連れに殺したなんてぇ話は出たかい」
「…」
この御隠居はうちの長屋に来て奥方衆に混じって話をしていたのだろうかと疑うほど皆が言っていた言葉をことごとく言ってのける。
「だがまあ、どちらも考えられんな。女の力じゃあ男を道連れに川に入るってのはまず無理だし、奥方が不貞を働いたってぇならその場でなんらか折檻でもするだろう。わざわざ川に連れて行って、ってのを考えると辻褄が合いやしねえ」
ご隠居は自分で言ったことを自分で否定してから身を乗り出した。
「で、その夫婦はどこから川に入ったんだい」
「…どこから、というのは…」
「橋か、土手か、堀か」
「…そこまでは」
と言うが、ふっとここに来る途中で耳に入った言葉を思い出す。
「そういえば随分と土手の地面がえぐれたような跡がある、誰かここで喧嘩でもしたのだろうかと道すがらに聞きましたが」
そういえばあそこはあの夫婦が暮らすという町の外れではないか?
「まあ、今の話の流れからいけば夫婦は土手でもみ合って落ちたというように考えられますが…」
それでも本当にその夫婦がもみ合って落ちたなどという確証はない。土手での小競り合いだの喧嘩だのというのは喧嘩っ早い者たちの間ではよくある事だ。
「酔い覚まし」
ふすまの向こうから女中の声が聞こえてきたので言葉を止めてそちらを見る。するとスッとふすまが開いてお茶を用意された。
「お話が盛り上がっていたので中々お邪魔できませんで」
と立ち聞きしていた訳ではないと断っているが、本当にそうなのかは分からない。
お茶を自分たちの前に置きながら、
「どうやらその夫婦は昨日家で二人晩酌をしていて、主人が中々酔ったので酔い覚ましに川まで行きましょうと夫婦水入らずで出かけて行ったそうでございますよ。先ほどお使いに行った時にそのようなお話をお聞きしました」
それでは、と女中は部屋から出て行ってふすまを閉めた。
「…ただの不幸な出来事だったようで」
なんの不思議な事はなかった、どうやらあの女中の言葉を聞く限り、酔いを覚ましに二人で外に出かけたはいいものの、不幸な事に酔っていた二人は足を滑らせ川に落ちてしまったのだ。
ここ最近雨も降ったり止んだりとせわしなかったので川の水も随分と増水している。酔った二人が無事に助かることなど出来なかっただろう。
自分の持ってきた疑問の話があっさりと終わってしまったと思いながらご隠居の顔を見ると、どこか納得していない顔をして少し考え込むように黙り込んでいて、煙管の火をトンと捨て、そのまま煙管を立てかけ明後日の方向に目を向けている。
「…酔ってたからって二人同時に抱き合う姿勢で川に落ちるもんかね」
「おしどり夫婦と聞きましたし、どちらかが落ちそうになったのを慌てて引っ張ろうと思ったらそのまま一緒に落ちたのでは?」
「…なるほどな」
ご隠居は一言そういうと、
「将棋でも指すか」
と私の持ってきた話を切り上げた。
が、恐らく作り話をするには自分の納得のいかないことがあるのだろう。この御隠居は自分で納得いかない所があると絶対に口に出そうとしない。
そこが近所の奥方衆の当てずっぽうともいえる作り話とは違うのだ。
きっと自分の考えがまとまったころに自分の考えた話を聞かせてくれるはず、それまで待とう。
* * *
ご隠居の女中が私の貧乏長屋の戸を叩いたのはそれから三日後のことであった。
明日にでも来てくれと言うので、承知した明日伺うという事を伝えて帰し、私はご隠居の住んでいる所へと向かった。
「先日持ちこした話の件だ」
中に入るといつもは女中がまず玄関で客人を出迎えるのだが、待ちきれなかったと見えて御隠居が自ら玄関まで出迎えにきた。
その目と雰囲気いうのが土産を待ち遠しくしていた子供のようで思わず笑いそうになったが、流石にそれは失礼なので口元がかゆいというのを装って口元を手で隠しつつ急いで一文字に引き結び直す。
「お前さんが帰った後にな、俺もツテを頼りながら話を集めた」
この御仁は大店の大旦那で商売方面でも顔は広いだろうが趣味の面でも顔が広いだろう。だからそのような話を集めるというのはいとも容易かったと思われる。
「そうしたらな、俺はある考えに行きついてしまったのだ」
私は軽く頷いてご隠居の話の続きを待ったが、先ほどの土産を待ち構えるような子供の顔は消え失せ、今度は親が子供の期待している顔を見てちょいと意地の悪い心が芽生え、おあずけを喰らわせたらどうするか見てやろうかな、という顔になっている。
少し待っていても御隠居はズ、と茶をすすって口の中で茶を転がしいつまでも天気のいい庭を眺めているので私も次第に耐えられなくなり、
「それで、どのような考えに行きついたというのです」
と先を促した。
「まあまあ、一服茶でも飲みなさい。これは上喜撰だ、お前さんじゃあ滅多に飲めないだろう」
軽くこちらを馬鹿にするようなことを言ってのけ、顔までもが馬鹿にしているが…。
上喜撰といえば随分と値の張る茶だというのは分かる、このようなもの滅多に飲めないどころかお目にかかった事すらない。
いつも安い茶っぱの出がらしの出がらし…要は色のついただけの白湯を飲んでいる始末なので、これは湯気の立っているうちに飲まねば損だと思ってしまう。
一口すすり、いつも飲んでいる色のついた出がらしの白湯と比べてなんと口に広がる香味も匂いも違うと感動を覚え、御隠居と同じように口の中で茶を転がしつつ、二口目、三口目とすすった。
「まるで土産物を頬張る子供みたいだな」
はっはっはっ、とご隠居は可笑しそうに笑うので、多少の恥ずかしさを感じ茶を一旦おろした。
これでも私は武士である。茶の一杯でそのように言われるのは心外だ。
…まあ確かに恥も外聞も武士としての誇りも無かったら次々に飲み干したいほどであるのは認めるが。
「して、考えとはどのような」
話を逸らすかのように先ほど聞いたことを言うと、ああ、と御隠居は頷いた。
この三日の間で奉行所の調べが入ったようだが、やはり二人で酒を飲んで酔い覚ましに外に出かけたこと、土手の土がおおいにえぐれていたこと、そしてしばらくの雨で増水している川というのをみて、川辺りまで来たときに酔っぱらったどちらかが足を滑らせ、もう片方が思わず手を出し共に川に落ちて流されたのだろうと奉行所でも世間でも片がついた。
それでもこの御隠居はその考えに納得しておらず、自身で色々と調べたうえで私を呼び寄せた。一体この御隠居は不幸な出来事以外にどんな話をしようとしているのか…。
「まあまずはあの店…太物屋の主人の話からしようか」
太物とは、綿や麻などの反物などを取り扱う店のことだ。
「あの旦那はそりゃあ大らかで太っ腹。気も大きく人付き合いも上手いという商人の中の商人という男であったらしい。悪くいう奴は誰も居ねえだろうってくらいの御仁であったそうだよ」
そのような話は私の耳に入っていた。惜しい人物ってのは早くに死ぬもんだと商人風の者たちが話し合っているのも。
「そしてそんな主人の一人目の妻の話だ。最初に結婚したのが旦那が二十、相手は十六のころだ」
まあ妥当な年齢だろうと頷いた。
「それでも三年たっても子ができねえ。これは子のできない女だとあの主人の両親がやむなく離縁…というところを主人はせめてもう一年と願い、それならと受け入れられたが結局子は産まれなかった。
両親は可哀想だがしょうがないと今度こそ離縁を妻に申し付けたが主人はそれを承知しない。妻も何度か離縁を受け入れようとしたが主人は必死にとどめた。
まあそれほど気に入っていたのだろうがね、子も出来ないのにいつまでも店にいて子を望まれてるというのに段々気を揉まれたか、妻は度々床に臥臥せることが多くなりそのうちに病死したそうだ」
なんと、可哀想に…。思わず同情しているとご隠居は話を続ける。
「それから主人は妻の弱っている姿を思い出すと次の妻を娶る気が起きないと後妻を迎えるのを突っぱねていたそうだが、なんせ店の跡取り息子であるし両親と周りの強い勧めもあって数年後に二人目の妻を娶った」
そこに女中が失礼します、と現れ、お菓子を置いていくのでご隠居は湯呑を軽く持ち上げ、
「一杯茶は縁起が悪い。こちらの若侍様も随分気に入ったようだからおかわりをくれ」
女中は承知しました、と手早く下がり、ふすまを閉めて去っていく。
「…」
何とも言えない心を抱えご隠居を見ていると御隠居は脅えたように後ろに体を傾け、
「そのように睨まないでくださいませ、善良な私を無礼打ちにでもするおつもりですか」
とわざとらしいへりくだった態度で言ってくる。
多少苛、としたが、どんなに怒ろうがこの御隠居はそれでも私の怒りをかわしたうえで余計に人の気に障ることを言ってくるのでこちらも大人の態度で臨まねばならない。
「それで、二人目の妻というのは」
なんだつまらん、という顔をしながらご隠居は元々の態度にもどり、
「二人目の妻ってえのはそりゃあ非の打ち所がない出来た妻だったらしい。店の仕事もすぐに覚えて止まることなくクルクルと動き続け、主人を立てるのも上手。
客との話し合いも、困った客のあしらいも上手で主人の両親との付き合いも上手、ここまで完璧な妻というのも居ないだろうというほどの妻であったそうだ」
そこで一旦口をつぐみ、菓子を口に入れてから続ける。
「それでも子は出来なかったらしいな」
「…まさか、娶った妻たちに原因があったのではなく、その主人に子種がなかったのでは」
二人目どころか三人目の妻との間にも子は出来なかったと聞く。それならその事を疑うのが自然だろう。
ご隠居はまた菓子を口に入れ、そして茶をすすってからこちらに目を向けた。
「さあてな。子っていうのは天からの授かり物だ。めぐり合わせが悪かったってのもあるだろうし、主人に子種が無かったのかもしれねえし、女の方にも何か悪い所もあったかもしれねえ。そんなのが分かる世の中なら苦労しねえや」
それはその通りだと私が口をつぐむとご隠居は続けた。
「その出来た妻は心まで良くできた女でな。自分に問題があると思い、主人に妾を持つことを勧め、それも生活に困っている女を探し出し妻公認の妾としてそこに通っても良いことにしたそうだ」
妾との間に子が出来ればそれを引き取って跡継ぎに…という考えか。
「だがまあ、その妾との間にも子が出来ることはなく、二度目の妻は毎日神社にお参りをしたらしいがね。寒いのに周りが止めるのも聞かず続けていたせいで風邪をこじらせそのまま病死したんだと」
そこまで話しを聞いていてふと私は思い当たり、割り込むように口を開いた。
「もしや三番目の妻というのがその妾ですか」
ところがご隠居は首を横にふり、
「妾との間にも子が出来なかったのだからと妾は妾のまま。そして新しい妻…その心中みたいに死んだ三度目の妻を迎え入れたそうだ」
それなら、と私は身を乗り出し、
「二度目の妻が死んで、自分が店の奥方にと思っていた妾が恨みを募らせ凶行に走ったのですか」
御隠居は私をしげしげと見て、
「随分と程度の低い作り話だな」
頭の中に思いついた考えを軽く否定され、小馬鹿にされたのに腹が立つやら恥ずかしいやらで少々口をとがらせ黙り込むと、そこに茶のおかわりが持って来られたので菓子をとりわけ口に入れ、茶を一口すする。
この菓子の甘さの後の茶の味は…美味い。
「…妾だがな、どうやら元々体が弱く自力で生活もろくにおくれない者だったそうだ。だからそれを憐れんだのもあったのか妻がその女を妾にと持ち掛けたらしいがな。それでもその妾は寺参りの帰りに転げて体を打ってからろくに動けなくなってそのまま死んだんだと」
茶を飲んで私の機嫌が直ったと見た御隠居が話を続ける。
「…で、その三度目の妻だが。わけあって実家に出戻っていたようだが、望んで太物屋に嫁入りしたらしい。顔は飛びぬけた美人だが、二度目の妻と比べたら…まあ二度目の妻が出来過ぎていたせいで比べるのは可哀想だというくらいの差があったらしい」
御隠居も茶をすする。
「三度目の妻も悪くはない、だが二度目の妻が良すぎて平凡に見えるんだな。店の者もことあるごとに前の妻の話でも切り出していたんだろう。
前の出来過ぎた妻とはことあるごとに比べられ、子も出来ない。それでも主人とは仲も睦まじくやっていたそうだが、段々と肩身が狭くなってきたのか少しずつやつれていたそうだ」
「…」
とりあえず、その主人のことと三人の妻たちのことは良くわかったが…。
「それで」
私が話の続きを促すと、ご隠居は軽く袖の中で腕を組み私を真っすぐに見た。
「ここまでの話を聞いてどう思う」
「え…」
三度結婚し妾を持っても子ができなかった男と、子が出来なかったせいで寿命を縮めた妻たちという…どこかやるせない話だと私は思った。
男の身の上だが、妻である女たちに同情してしまう。もしかしたら主人にこそ子種が無かっただけかもしれないのに、まるで自分たちが悪いのだと気落ちして追い込まれ…。
「さてその主人だが」
頭の中で考え事をしていたら声が飛んできたので頭を上げた。
「子供の時分、手習いにいっていた寺子屋の先生…まあ医者が本業だったらしいがな、この先生に随分と可愛がられ、そして主人もその先生を医者として随分と慕って薬草の採取から薬にするまでの手伝いなどをいたようだ」
そんな主人が子供のころまで調べていたのかと思いながら黙って私は話を聞いている。
「そして主人は医者になりたいと望むようになったらしい。それでもあいつは太物屋の一人息子だ、医者になんぞなれるわけがない」
うんうん、と頷きながらご隠居の話を食い入るように聞いている。
「その先生の元に通っていた寺子屋の者は、子供の時分の主人を見ながら先生がこう呟いているのを聞いたらしい。『あいつが店屋の跡取り息子でよかった、医者になっていたらどうなっていたことか』と」
医者というのはよほど腕が良くなければ儲けも少なく金のない相手からはツケ払いにされてと貧乏暮らしが多い。だからその先生とやらも医者の傍ら、寺子屋の先生もしていたのだろう。
通ってくる子の行き先を案じての言葉かと思ったが、御隠居のどこか悪い事を企んでいるような顔つきを見る限りその一言には何か考えられる節があるのだろう。
私も少し口を閉じて考えてみた。
『あいつが店屋の跡取り息子でよかった、医者になっていたらどうなっていたことか』
「…医者にはしたくなかった、ということですね」
御隠居はうんうん、と頷いているが、どうしてかというのを考えると次の考えが浮かんでこない。
私が何も言えないのを見て、御隠居はこれは詰まったな、と身を乗り出した。
「医者というのは何を病人に出している?」
「薬…」
その一言で何かが頭の中で繋がった。
『あいつが店屋の跡取り息子でよかった、医者になっていたらどうなっていたことか』
「まさか」
私が身を乗り出すとご隠居は笑いを浮かべるべきではないのに笑いを浮かべ、
「もしかしたら、先生は見抜いていたんじゃないか?その子供のころの主人は薬より毒に魅せられているってな」
背筋を粟立てながらも、そんな馬鹿な、と首を横にふり、
「それはただの一つのお考えでしょう?それなら…」
「あの主人も女遊びをしなかったわけじゃない」
私の言葉を遮りご隠居は話を続けるので私は言葉を引っ込めた。
「久しぶりに女遊びをしに行って、その主人のことについて知るものはいないか、馴染みの店は無いかと探してみた。見つけた、見つけたよ。そうして噂話程度にその主人のことについて聞いたら、どうもその主人の好みというのが病弱そうな女だという」
「病弱…」
「風邪を引いている、気分がすぐれない、目が回る…そんな女を好んで座敷に呼び寄せていたそうだ」
それは…女からしてみたらはた迷惑な客であったことだろう。
「そしてある時女が、『なぜ具合のいい時に呼んでくれぬのかえ』と拗ねて言ったそうだ。すると主人は『弱ってる女は物憂げで元気な時より数段色っぽい』と大笑いしていたと」
そう言うと御隠居は真っすぐに私の目を見てきて、どうだ?とばかりに見てきた。
その御隠居の考えをまとめるとすると…。
「主人は…子供の時分に医者の先生を慕い、薬…毒についても詳しく、そして弱っている女が好みで、そして…自分の好みに仕立て上げるために妻に…毒を…?」
「…と、俺は考えたがな」
それならなぜ、なぜその主人は三番目の妻と川に入り死んだ…?
そのような考えも見抜かれたようでご隠居は私を真っすぐに見てくる。
「あの辺りの知り合いに聞いたんだがな。二番目の妻と三番目の妻は元々近くに住んでいた同士であったらしい。互いに一度結婚したが故あって離縁し出戻った。それでも互いにどこに嫁ごうか出戻ろうが手紙のやり取りはずっとあったらしいんだ」
そこで一旦区切って、そしてこれからもっと不謹慎で楽しい話をするぞとばかりの顔つきになる。
「さあて、ここまでが俺が聞いた本当の話。これから先は俺の作り話だ」
ご隠居は手をすり合わせ、笑いながら講釈師のように扇を畳の上にパンパン、と叩きつける。
「二度目の妻はそれは出来過ぎるというほど出来過ぎる女だった。いうなれば聡い女であった。そこで自分の不調をどこかおかしいと感じ取った二度目の妻、はっと思い当たる節がある。
止まれば死ぬというほど動いている時分よりも、動きの鈍ってきた最近の方が妙に旦那が優しいと。
思えば最初の妻。聞くところによると主人の両親に離縁を申し渡され受け入れようとしたが主人は離しはしなかった。そのまま前の妻は死んでいく。
妻を本当に愛しいと思うのならばいっそ離してやるというのがせめてもの情けではないか、それなのになぜ死ぬまで手元に置いていた。
これはもしやと思っていた二度目の妻、三度目の妻となる女に疑問とも恐怖ともいえる自分の考えをしたためて送っていたが、次第に弱っていくその体にこれは単なる思い過ごしではないと考えた。
子ができないのを理由に離縁の二文字が頭をかすめるが、きっと一度目の妻と同じく離縁を切り出しても主人が認めることはありますまい。
このままでは殺されると二度目の妻は思ったが、それを誰に言えば信じてくれるのか。
奉行か、店の者か、客かそれとも実家の者か。いいや誰も信じる者などいないだろう、なんせどこへ行っても主人の評価は立派なご大尽、大らか太っ腹、そして一度目の妻を愛しきっているが二度目の妻も大事にしている心優しい旦那との言葉しか聞けやしない。
そこで妾を持ってみたらと促した。その妾というのも自分が探し出した体も弱く自力では生活のできない女。
元々体の弱い女に主人の寵愛が向いたのならば、相手の女も何もされず自分も助かると考えた。ただしそれは間違いだったと二度目の妻は気づく。間違いなく前よりも動けなくなっていくその体。
離縁寺の文字が頭をかすめたかもしれぬが、あんなに立派な旦那様の何がそんなに不満なのかとすぐたしなめられて、誰もまともに話を取り合ってくれる者などおらず、店をろくに離れることもかなわない。
こうなれば神社へ参り隙を見て逃げようと思ったが、店屋の妻ともなればいつでも供の者がついて来て、ついに命の灯が消えて二度目の妻も死んでいく。
もしや二度目の妻は旦那に殺されたのではと思ったのは手紙のやりとりをしていた長馴染みの女。あんなにいい子を殺したのならば許しはせぬと覚悟を決めて嫁入りを果たす。
そして表向きは仲睦まじくやり過ごしていくが、次第にやつれていく自分の体。やはりこれは間違いない、この男が自分の好みに仕立て上げるために女に少しずつ毒を盛り、次第に弱らせていたのだと悟る。
そして夜に晩酌として自分も少しの酒を、相手にはしこたま酒を飲ませ、少し酔い覚ましに夫婦水入らず、二人で散歩をしませんかと持ち掛けた。
酒も飲んで気も良くなっていて軽く承諾した主人、二人寄り添い川の土手に差し掛かる。
と、三度目の妻。おのれ二度目の妻の敵…!と土手の上から主人を突き飛ばした。
あっと驚いた主人、思わず三度目の妻を掴んで土手を転がって落ちていく、これには三度目の妻も驚いた。離せ離さぬの言葉を言うことなく二人は川に落ちていく。
すぐに土手に上がれれば良かったものを、なんせ主人は酒をしこたま飲んでいて頭も体も働かない。それに連日の大雨の水に飲み込まれて土手はどんどん遠ざかる。
溺れる者は藁をもつかむの言葉通り主人はしっかと妻を必死につかみ、妻は引き離そうと相手に掴みかかるが男の力に押さえつけられ逃げる術がない。
そうしたあくる日の明け方、二人は抱き合っている状態で隣町の川辺に心中死体のようにみえる形で発見された」
ふう、と一息ついてご隠居は、
「…単なる俺の作り話で御座いました」
と指をついて頭を下げ話し終えた。