第8話
その考えに至った際、クロエは背筋にゾッとした物を感じた。まるでとてつもなく大きなものに裏から操られているような、もう後戻りのできない岩壁に立たされているかのような、そんな危機感に近い何かだ。
しかし、クロエはその謎の感覚について深く考えることは出来なかった。それについて考えようとしたその時、不意にクロエの背後の茂みが音を立てたのだ。
泉に向かう格好のクロエは、あわてて背後へ振り返った。クロエが抜けてきた茂みとは異なる茂み、音をたてて揺れるそこからとあるものが現れた。そしてそれを見たクロエは、今自分がいる世界が、自らのいた世界とは異なる世界であることを心から理解した。
「……な、なんだ、あれ?」
クロエの視線の先にいたのは、二頭の犬だった。いや犬と言うより、その大きさは狼だろう。しかしクロエとて野生動物を見たからと言ってここが異世界だと判断したわけではない。その動物に、ありえない特徴があったのだ。
「(いくら何でも、目が三つある狼なんて、地球にはいない……!)」
茂みから出てきた狼には、瞳が三つあったのだ。そしてなお悪いことに、この狼たちはクロエに対しよくない反応を見せている。歯をむき出しにし、低い唸りをあげ、じりじりと、まるで獲物を狙うかのように迫ってきているのだ。
「あ、ちょ、えぇと……、お、おすわり!」
何をとち狂ったか、クロエは狼たちに対し「おすわり」と声をかけた。当然狼たちはそんな言う事を聞くことはなく、依然として唸りを上げて迫って来る。
「ぅえ!? なんで、あ! えっと、ま、待て! ステイ! ゴーホーム!」
「ヴァウッ!!」
「ひ……ッ!」
クロエは諦めずさまざまな指示をかけるが、それらは狼の一吠えにかき消された。そしてクロエも、初めて聞く純粋な野生動物の敵意満載の方向に気圧され、悲鳴を上げて尻もちを着いてしまった。
もし、これが元の世界の男子大学生の黒江であったのならば、驚きはすれど悲鳴を上げて尻もちまではつかなかっただろう。それがここまでの反応を見せるのは、精神が今の姿に引っ張られているという証なのだろうか。
「(なに、これ……!? なんでいきなりこんな敵意向けられてるの!? って、敵意……? なんかこれ、敵意って言うより、どっちかと言うと、狙われてる……?)」
クロエは自らが置かれている現状を正しく理解した瞬間、素早い動作で踵を返し、自分が抜けてきた茂みへと飛び込んだ。そしてそのまま止まることなく、一目散に駆けていく。
とっさの判断であったが、それは正しかった。逃げ出したクロエを追うように二匹の狼がクロエを追いかけてきたからだ。もしあのまま腰を抜かしたままならば、そのままクロエの第二の人生は幕を下ろしていただろう。
しかし、齢十歳前後の少女と殺気立つ野生の狼の追いかけっこなど数十秒で決着がつくように思われたが、予想に反し、先程の湖から始まった逃走は数分経っても続いていた。クロエの身体は見た目こそ十代前半の少女のそれだったが、人外のその身体は見た目以上の身体能力を秘めているらしく、足の速さや持久力は大したものだった。
また、この生い茂る木々もクロエの逃走を助けていた。この森に住む獣と言えど、流石に生い茂る木々を前に全速力で追いかけることは出来ないようである。クロエは木々をうまくかいくぐり、狼たちに追いつかれないよう逃げていたのだ。
「(認めたくはないけど、認めたくはないけど! 身体が小さくなってて助かった……! いくら何でも、前の身体だったら、……っと! 今みたいに、木の隙間なんかくぐれなかったし!)」
しかし、クロエの身体がいかに高い身体能力が高かろうと、いかに木々を利用し逃げていたとしても、所詮は付け焼刃。狼たちとクロエとの距離は徐々に短くなってきている。このままでは、追いつかれるのも時間の問題だろう。時折チラッと背後を振り返るクロエの顔には余裕が感じられない。呼吸もかなりギリギリであった。
息せき切って走る、走る、走る。懸命に腕を振り、脚を動かし、命辛々走りゆく。もはや後ろを確認する余裕などない。終わりの見えない森の光景と、背後から迫る死の気配。その恐怖に、もはやクロエは涙を流していた。
一体、自分が何をしたというのだ。余裕があればそう叫びたいとクロエは考えていた。いきなり事故で死に、見知らぬ異世界に半ば無理やり送られ、全くの説明もなく少女の身体にさせられる。もはや喜劇だ。人によっては諦めてしまうだろう。
だが、クロエは諦めなかった。
「(クソ……! 絶対、絶対逃げ切ってやる! こんなとこで、死ねるか……!!)」
歯を食いしばって、荒れる呼吸を無理やり捻じ伏せて、生きるためにただ走る。しかしクロエ自身、うすうす気が付いていた。このままただ走っていたとして、そこに救いなどありはしないという事を。
そんな心の奥底の動揺が体に影響したのだろうか。クロエの右足が少しふらついた。そしてそれをカバーしようと左足を無理な挙動で動かす。しかしそのせいで歩幅が狂い、何もせずとも超えるはずだった木の根に躓いてしまった。
「あ……ッ」
木の根に躓いたクロエは、懸命に走った勢いそのままに空中で半回転する。そしてそのまま、正面の大木に背中を激しく打ちつけた。
「がッ!! ……カハッ! あ、ぐ、……うぅ。」
背中を打ちつけたせいで肺が押しつぶされ、強制的に呼吸が殺される。突然の衝撃と背中の鈍い痛み、呼吸ができない混乱とが一気に重なり、クロエの心を砕きにかかる。
クロエからすれば、全ては突然かつ瞬間の出来事であった。足がふらついたと思ったら、次の瞬間天地が逆様となり背中に鈍い痛みが発生していたのだ。
「あ、う、……ぐ、ゲホッ! な、い、一体……?」
現状の把握は出来ていないが、それでも自らが命の瀬戸際にある事は覚えている。クロエは混乱する頭と霞む視界に苦心しながらも、何とか眼球の動きだけで周囲を見回した。
いた。クロエを追いかけて来ていた狼たちだ。狼たちは獲物が追い詰められていることを理解しているのだろうか。先ほどまでとは違い一歩一歩確実に脚を詰め、哀れ行動不能となったクロエを確実に仕留めようと狙っている。
クロエは必死の形相で、仰向け状態からうつ伏せへと体勢を変えた。そして燃えるような背中の鈍い痛みを、目に涙を浮かべながら堪える。何とか肘をつき、手のひらをつき、上体をそらし、顔を上げ、狼たちを正面から見据えた。
見るも痛々しい姿である。これまで必死に木々をかき分けてきたせいだろうか。体中に細かな切り傷が出来ており、一部からは真っ赤な血が垂れている。口の端から流れる血は、先程の衝突のせいだろう。
クロエはもぞもぞと無様な芋虫のように体を必死に動かし、ふらふらと体をふらつかせながらもなんとか立ち上がることに成功した。
意識が遠のく。ふらっと身体がよろめき、そのまま後ろに倒れ掛かるが、そこには先ほど背中を打ちつけた大木があった。先ほどまでの衝撃ではないがそれでも強めに背中を打ちつけてしまった。クロエはその衝撃と上書きされた痛みに、「ぅぐ……ッ」と鈍い声を上げる。
「(……ふざけるな。)」
しかし、クロエの瞳からは光が失われていなかった。満身創痍の全身にズタボロの見た目、もはや瀕死と言っても過言ではないだろう。だが鋭く狼たちを睨みつける瞳には、生きる意思が燃えている。
「……ふざけるなよ、クソッ! かかって来いよ! こっちはもう、一度死んでるんだ! タダでは死なないぞ! お前らの、耳でも目でも、喰い千切ってから死んでやるからな!!」
脳内麻薬でも出ているのかもしれない。この命の危機に、血反吐と共に、獣相手に啖呵を切る。擦れた言葉がクロエの目の前の畜生に届くとは思えないが、狼たちも得物が逃走を止め抵抗することを察したようだ。体勢を低くし、攻撃を仕掛けようと唸りを上げた。
「(……あぁ、死んだかな。まぁ元々運は悪い方だったし、死んだ後にみんなと会えただけでもマシか。)」
狼たちが同時に飛び掛かって来た。命の危機が目前に迫るというのに、クロエの心は驚くほどクリアな思考を保っている。そんな事を自覚しながら「ああ、これが走馬燈か。」などと呟く余裕すらあった。
その時だった。
【トライウルフ】
イグナシアラントの赤の大陸に広く分布する獣物。主に群れで行動する。群れは一頭のメスが率いており、オスは働きアリ的存在。特徴はその名前の由来にもなった三つ目である。三つ目になった理由は明らかになっていないが、得物を多角的視界から捉えるためではないかと言われている。ただし、視神経が占める脳の処理情報の多さ故に、長い時間狩りを行うことができない。故に狩りの際は5匹以上のグループで行動するのが常となっている。また、目が三つの代わりに頭が三つある逸脱種も確認されている。