第46話
「……、……。……う、んぅ、……、……ハッ!」
クロエが目を覚まして、その薄暗い視界に入ってきたのは薄汚れた石壁だった。苔が蒸していて、どう見ても安心感のあるものとは言えない。
クロエは突然の光景に混乱で満たされた。とりあえず体を起こそうとするが腕が動かせないことに気づく。そこでようやくクロエは自らが拘束されていることに気がついた。
「え、ちょ、何で……⁉︎ な、何でボク、拘束されて――」
クロエが言葉を止めた。意識が冷めたばかりの頭に怒涛の勢いで様々な光景がフラッシュバックする。
浮かんでくる光景は戦いの記憶から始まった。群れなす獣物の軍勢、突如現れた魔物、駆けつける仲間、イビルワームとの戦い、そして。
「あ――」
クロエは唐突に思い出した。いや、思い出したと言うよりも見て見ぬ振りをしていた記憶を突きつけられたと言った方が正しいだろう。
クロエは思い出した。自らが謎の人物に怪しげな液体を飲まされたことを。そしてその後に意識をなくし、仲間たちに攻撃の手を向けたことを。意識はなくしていても、その後に自らではない何かが目覚めたことを。
「うっ……!」
喉の、胃の奥から熱く酸味の強いものが駆け上がってきた。クロエは慌てて口を塞ごうとするが、両腕は拘束されていたために動かせない。我慢も虚しく、クロエはその場に嘔吐してしまった。
「ハッ、ハッ、ハッ……! ぅぶっ! ゲホッ、ゴホッ!」
元々胃の中に入っているものが少なかったのか、すぐに出る物がなくなった。燃えるような胃液が喉の奥に絡みつき、クロエは不快感に涙を流した。だが、流れる涙はそればかりが理由ではないらしい。
「(ボクは、ボクは……! この手で、仲間を……! ゾーン族長、シーラ、みんな、みんな、みんな……、ボクが……!)」
「あ、ぁあ……! ぅあああああああぁぁぁ……!」
クロエはその場に倒れ伏せ、ただひたすらに涙を流した。懺悔の涙なのか、後悔の涙なのか、己への怒りの涙か。クロエ自身も自らがなぜ泣くのか分からなかった。だが嗚咽が止まらない。冷めた石壁に号哭が、どこか空々しく響き渡った。
「(嫌だ、嫌だ、嫌だ! 思い出したくない忘れたい消えたい! ボクは……、ボクはこの手で! あんなにお世話になったみんなを! この手でこの身体で!)」
様々な感情が混ぜこぜとなった訳の分からない何かに心を支配され、クロエは床に転がり咽び泣いた。突然足で立ち上がるとそのまま倒れこむように壁へ額をぶつけた。痛みを感じていないかのように何度も、何度も。
額から出血するのも構わずに何度か額を石壁にぶつけたが、バランスを崩しその場に再び倒れた。するとクロエは叫びをあげながら床に再び額をぶつけ始めた。
「な、何の音だ――って、おい! お前何をしている⁉︎ 誰か来てくれ! 奴が目を覚ました! 自傷行為に走っている! 追加の拘束と回復薬を!」
喚く声と響く不穏な音に牢の外の見張りが気づく。見張りは牢の手前まで様子を見に来るとその異様な光景に助けを呼んだ。
すぐに常駐していたと思わしき数人の森精族と闇森族が駆けつけた。見張りのエルフが牢の鍵を外すと、屈強な闇森族数人がクロエの動きを封じた。
「あああああっ‼︎ 離して、離して! 嫌だ、目を覚ますんだ! 夢だ、これは夢なんだ、嫌だ、ぅあああぁぁぁ……ッ!」
クロエは叫びながら抵抗するが、魔法も使えないクロエが屈強な闇森族達に敵うはずがない。あっさりと身動きを封じられると、追加の拘束を施され身動き一つ取れなくなる。ご丁寧に猿轡まで咬まされた。
しかしクロエはそれでも何かを叫んでいた。それをみた見張りが追加で何かを叫ぶ。しばらくすると一人の森精族が液体の入った小瓶を持ってきた。見張りはそれを受け取ると、クロエの鼻先で蓋を取りその香りをクロエの鼻腔へ送る。
すると、拘束具を五月蝿く鳴らしていたクロエの動きが徐々に小さくなった。数分もするとクロエは身動きもせずにトロンとした目になる。
見張りは一安心したように胸をなでおろすと、改めて傷ついたクロエの額の血を綺麗にし、そこへ回復薬を塗り込んだ。
見張り達は立ち上がると牢の外へ出て再び鍵をかけた。錠の落ちる重苦しい音が静かになった石壁に冷たく響く。見張り達は無言で地上へと繋がる階段を登った。
しかしその集団のうちの一人、歳若い男の闇森族は途中で足を引き返すとクロエの牢の前までやってきた。クロエは朦朧とする意識でそれを感じると、何とか眼球の動きで牢の外を見た。
「……裏切り者め。大長老様の命令がなけりゃあ今すぐぶっ殺してやるのによ……! よくも俺の、俺たちの家族を殺してくれたな……!」
掛けられた言葉は怨嗟の恨みだった。クロエの心を支えていた何かにヒビが入る。すでにクロエは仲間に見限られ裏切り者として認定されていた。その事実はクロエの脆い心をひどく苛んでいく。
闇森族の男はクロエに恨みつらみをぶつけていたが、その時別の闇森族が牢の前までやってきた。そして牢の前で恨みをぶつける男を見つけると慌てて止めに入った。
「おい、やめろ。薬を嗅がせたんだ。今のこいつに何を言っても意味ねぇだろ? 帰るぞ。」
「だからって、恨みの一つや二つぶつけたくならないんですか⁉︎ こいつは俺たちの家族を殺したんですよ!」
後から来た闇森族が恨みを吐き出す若い闇森族を諌めたが、若い闇森族は止まらなかった
それを見かねた年長の闇森族も声を上げた。
「それも含めてこいつに言ったって仕方ねぇって言ってんだよ! 大長老様の話を聞いてなかったのか? クロエは第八魔王の魂に乗っ取られていたんだ。俺たちに危害を加えたのはこいつの意思じゃねぇんだよ。納得いかねぇのも分かるが、こんな子どもに憂さ晴らしてどうすんだ、な?」
「でも納得いかねぇ。大体、大長老様やお嬢様、ミーナさんたちはどうしてこいつをかばうんです⁉︎ 族長が殺されて、俺たちの仲間も半分以上殺されて、シーラだって行方不明だ! 誰がこの責任取るって言うんですか⁉︎」
「……誰のせいでもないさ。強いて言うなら運が悪かったんだ。俺たちもこいつもな。さぁ、いい加減帰るぞ。これ以上言うこと聞かないなら大長老様に報告しなきゃならん。これ以上仲間が非難されるのは見たくねぇんだ。頼む。」
年長の男の言葉に若い闇森族は無言で牢を後にした。足音も荒々しく階段を上る様子に、年長の闇森族は深くため息を吐いた。
「……クロエ。聞いているかどうかしらねぇが、今この牢の外でのお前に対する見方は大半があれだ。俺だってお前に言いたいことが無いわけじゃねぇ。大長老様とお嬢様とミーナ、この三人がお前に対する恨みを引き受けている。感謝するんだな。」
年長の闇森族はそう言い残すと、静かに地上へ戻っていった。再び石牢に静寂が満ちる。
「(あぁ、消えてしまいたい……。元の世界に帰りたい。嫌だ、何でボクがこんな辛い目にあうんだ。何も悪いことしてないよ。これなら、あの時そのまま死んだほうが楽に……。)」
クロエの思考が続いたのもここまでだった。クロエは完全に気を失う。静かな石牢にはクロエの静かな呼吸音が聞こえるだけであった。
翌日、クロエは闇森族の女性に連れられて牢の外に出た。拘束をつけられたまま冷たい水をかけられ、強制的に身を清められる。そしてびしょ濡れの体を乱暴に拭かれ、その首に首輪と鎖をつけられそのまま地上へと引き連れられた。
久々に浴びる太陽の明るさにクロエは目をしかめた。明るさに眩んだ目がその明るさに慣れて捉えたのは、いたるところが破壊されたボロボロのシドラだった。
クロエはその悲惨さに絶望を顔に浮かべた。自らの行為が原因の惨状なのである。どうすれば償えるのかなどと考える前に、この場から逃げ出したいという感情がクロエの心を支配した。
しかしクロエはこの世界に転生した身空である。この国を逃げたとしてどこに行こうと言うのか。この世界のどこにもクロエの居場所などはありはしない。逃げることも許されず、罪悪感の刃に心を撫で斬りにされるしかない。
クロエが繋がれていた石牢は国の中心から少し外れた場所だったらしく、クロエを連れる森精族と闇森族はクロエの首元から伸びる鎖を乱暴に引いて歩き出した。クロエはつまづきかけながらもそれに合わせて歩き出す。
先導する者たちの足取りから察するに、どうやらクロエは国の中心部に連行されているらしい。それを察したクロエだったが、そんなことに心を動かす余裕がなかった。
何故なら、トボトボと連れられるクロエの視界に端々にとあるものが映っていたからだ。それはこの国に生きる森精族たちだった。クロエの姿を見かけると一様に距離を取り、怯えた目つきで、怒りを孕んだ目つきで、深い悲しみに沈んだ目つきでクロエを睨みつけるのだ。
クロエはまるで茨の道を歩かされているような心持ちだった。森精族たちはクロエから距離を取り睨みつけるだけで何も言わない。しかしクロエは言外に自分に対する負の感情を感じていた。
「(こんな反応されるぐらいなら……、いっそ殴りかかってきてくれた方がまだマシだよ……。)」
クロエを見つめる森精族たちの視線には、「関わりたくない」という感情がありありと現れている。まるで自分の存在そのものを否定されたような錯覚がクロエを襲った。
「着いたぞ。ここに跪け。」
鎖を持った森精族の一人が乱暴にそう吐き捨てると、クロエを背後から荒々しく蹴飛ばした。抵抗することもなく地面に転がるクロエ。先ほど水でびしょ濡れになっていただけにその顔や髪は土まみれになってしまった。
「ぅぐっ! う、うぅ……。」
痛みに小さく呻き声を上げたクロエは、何とか状態を持ち上げて周囲を見渡した。そこは大長老の家の前の、広場となっている場所だった。そこには多くの森精族たちがクロエを取り囲むように集まっており、例えるならば河原で処刑を待つ罪人のような状況であった。
クロエが無言で首を回し視線を巡らすと、視線が合いそうになった森精族たちは一様にサッと視線を逸らした。その中にはクロエと仲の良かった人物も多くいた。しかしその誰もが視線を合わせようとしない。クロエの目の端に小さな水の玉が浮かんだ。
周囲の森精族はクロエから目をそらしながらも、声量を落とした声で何かを話していた。クロエにはその会話の内容は聞こえない。しかしクロエはその内容を察することができた。自分に対する憎しみ、恐怖、嫌悪。そのいずれか、もしくは全てだろう。
その時、突然クロエを取り囲む人垣の一角が騒がしくなった。皆は足元に視線を落とし何かを言っている。クロエがその方向に視線を送ると、ちょうど人垣の足元から小さな影が飛び出してきた時だった。
クロエはその人影に見覚えがあった。クロエよりも少し小さな姿は、このシドラで森精族としては最年少の少女である。クロエはこの少女と何度か遊んだ記憶があった。少し大人しめの、優しい笑顔を覚えていた。
しかし、今クロエの視線の先にいる少女の顔に浮かんでいるのは笑顔などではなく、クロエに対する明確な敵愾心だった。少女はその小さな手に何かを握っている。クロエがそれに気がつくよりも前に、少女は大きく腕を振りかぶるとクロエに向かって何かを投げつけた。
「――つッ!」