第39話
「ふぅ……。だいぶ片付きましたわね。」
自分めがけて飛びかかってきた鳥型の獣物を射落としたサラが、辺りを見回してそう呟いた。クロエとシーラが離脱してしばらくの時間が経過したが、やはり数の利というものは侮り難く、三人で戦っていた時よりもかなり早く敵を処理することができたのだ。
現在、もはや敵の数は片手で数えられるほどにまで減少している。そしてその最後の数匹も、仲間の闇森族たちの手によって始末された。
「お疲れ様です、お嬢様。お見事でございました。」
いつのまにかサラのそばに近づいていたミーナが、水の入った入れ物をサラへ手渡した。それは現代日本で言うところの瓢箪のようなものであり、中に液体を入れて持ち運べることからこの世界で広く栽培されているものである。
サラはミーナに礼を言ってその植物水筒を受け取ると、中の水を一気に飲み干した。ミーナはサラから空の器を受け取ると、【パンドラ】の中にそれを収納する。
「おう、ミーナ。もうこれでここいらは全部みたいだな。」
「ええ、そのようです。ご助力感謝いたします。」
「本当、助かりましたわ。」
サラとミーナから、特に大長老の娘であるサラから感謝の言葉を受け取ったアレクサンドリア家族長のゾーンは照れ臭そうに鼻の下を擦った。そして、大きなよく通る低い声で、周囲の闇森族たちに指示を飛ばす。
「よしお前ら! お前たちは一度大長老様の元へ行け! そっからは大長老様の指示で動け。俺ももうしばらくしたらそっちへ行く。いいな?」
ゾーンの指示に闇森族たちは無言で頷くと、各自国の中心部へ向かって移動した。その行動は迅速で、すぐにその場に残されたのはサラとミーナとゾーンだけとなる。
「それにしても、少し見ないうちにだいぶ腕を上げましたなぁ、お嬢様。百年ほど前に泣きべそかきながら弓の練習してたお嬢ちゃんが、こんな立派な弓手になるなんざ……。長生きはするもんですなぁ。」
ゾーンが懐かしそうに目を細めて、うんうんと頷いている。ミーナもその言葉に思い出すものがあるのか、口元に手を添えて小さく笑みを漏らしていた。ただ一人、ゾーンの言葉にあった話の張本人であるサラだけがその顔を真っ赤に染めていた。
「いい、今はそれ関係ないですわよね⁉︎」
「ふふ、久し振りにお嬢様と戦えて族長も嬉しいのですよ。ねぇ?」
三人で話すその様子は慣れ親しんだ間柄特有の遠慮ないものだった。楽しげな時間が流れる。その楽しげな雰囲気の中、三人は何かが地面に降り立つ音を聞きそちらへ視線を向けた。その視線の先にいたのは、先ほど群のボスを倒すべく戦線より離れたクロエだった。
彼女は見える部分に細かな傷をこさえているものの、全体的に元気そうである。ニコニコと笑みを受かべるようすはとても可愛らしい。
「あらあら、服もボロボロではありませんか。髪もボサボサに……。もう、仕方ありませんね。」
ミーナが困ったものだといった様子でクロエの方へ歩いて行った。メイドを自負する彼女としては、目の前でお世話しがいのある人物がたっていては我慢できなかったのかもしれない。
その場にいたゾーンも「帰ったか、そういやシーラはどこだ?」と笑みを浮かべ見ている。しかし、一人サラだけは黙って真剣な様子でクロエを見つめていた。
「(何ですの……? 何か、おかしいですわ。何処がどう、ってわけではないのですけど……。)」
拭いきれない違和感にモヤモヤとしたものを抱えていたサラだったが、ミーナがクロエに触れる寸前にあることに気が付き声を荒げた。
「ダメですわ、ミーナ!!」
「え? −−ッ⁉︎」
サラの声に不審な声を上げたミーナだったが、小さくうめき声をあげると素早い動きで後ずさり、後方へ大きく跳びサラたちの元へ帰ってきた。何事かと目を丸くするサラとゾーンであったが、ミーナの腹部に広がる赤色とクロエの手元に収まる黒色を目にすると、一気に目つきを変えた。
「ミ、ミーナ⁉︎ ミーナ、どうしたんですの⁉︎ ねぇ、ミーナ!」
サラはその大きな目に涙の粒を浮かべ、ミーナの体を抱きしめていた。ミーナは普段は涼しげな表情を浮かべるその顔に大粒の汗を浮かばせている。
一方のゾーンはその目つきを鋭く尖らせ、まるで敵に相対しているかのようにその雰囲気を不穏なものへと変えていった。そして重々しい声色でクロエへ言葉をかける。
「おい、てめぇ……。いったい何の冗談だ、ぁあ?」
気の弱い者ならそれだけで失禁しそうなほどの迫力であったが、その対象のクロエはどこ吹く風といった様子で手元のナイフを見つめている。血に塗れてもなお漆黒のナイフはクロエの固有魔法【影操】で作られた証左であった。
無邪気な笑みを浮かべていたクロエであったが、不意にその笑みを邪悪な物へと変貌させると、ナイフの表面についた血を舌でペロリと舐めた。その頰に飛んだ血の雫が頰の丸みに沿って弧を描き垂れた。
「黙ってねぇで何か言えよ……! 今俺ぁ、ブチギレる寸前の、ギリギリなんだぜ……⁉︎」
額に青筋を浮かべ、自分の拳を握り潰さんが勢いでその両手を握るゾーン。怒りに打ち震え今すぐ目の前の存在に殴りかかりたい気持ちを、必死に抑え込んでいることがありありと見て取れる。
しかし当のクロエは相変わらずニタニタと、不気味で邪悪な笑みを浮かべたままであった。その様子にもう我慢の限界だとゾーンが一歩踏み出した瞬間、不意にクロエが口を開いた。
「おい、そこの森精族の小娘。なぜ我に気がついた? 我は内臓をかき乱す予定だったのだが、貴様のせいで刺しただけで終わってしまったわ。」
その言葉は普段のクロエからは考えられないほど、不遜な響きを含んだものだった。同じ声色であるから故か、違和感が半端ではない。まるで世界の全てが矮小であるとでも言いたげなその雰囲気である。
「おい、何ゴチャゴチャ言ってんだ。いいからさっさと俺の質問に答え−−⁉︎」
要領を得ない返答に業を煮やしたゾーンがもう一歩歩みだした瞬間、凄まじい勢いで巨大な何かがゾーンへと飛来した。咄嗟に両腕を交差して受け止めるものの、受け止めきれず大きく後方へ飛ばされてしまった。
サラが視線を向けると、そこにあったのはクロエがよく作り出していた虚腕であった。しかしその大きさはクロエのそれとは段違いである。
「貴様じゃないのだよ、肉達磨が。我はそこの森精族に聞いたのだ。口を慎め。」
半開きの薄ら寒い笑みを浮かべたクロエである。表情一つでこうも別人に見えるのかと、サラは内心驚愕していた。だが、それよりもまずは腕の中でぐったりとするミーナの治療が先だ。サラはミーナを抱き上げ、後方へ下がろうとした。
「待て。」
冷たいクロエの声とともに、サラの足元をその行く手を遮るように黒色の棘が地面に刺さり遮った。「ひっ!」と短い悲鳴をあげてサラはその動きを止める。恐々と振り返ると、そこには変わらず冷たい笑みを浮かべたクロエが、ややイラついた様子で右手をサラの方へ伸ばしていた。
「あ、あ……。」
「我を無視するとはいい度胸だ、小娘が。早く答えよ。我の寛容も長くは持たんぞ?」
サラの足が細かく震える。ミーナを支える手にも、無意識のうちに力がこもった。しかし、なけなしの勇気を振り絞り、精一杯気丈な声で答えた。
「あ、あなたの、その表情ですわ!」
「表情……?」
「クロエさんは、私たちのよく知るクロエさんは! 今のあなたのように冷たい笑いは浮かべませんの! それに、クロエさんは仲間を置いて一人帰ってくるような人ではありませんわ。小さな違和感の連続ですけど、確信はありましたわ……。」
サラの言葉を聞き、クロエらしき者は首を傾げた。自分の顔を片手で撫でて、何か異常がないか確認している。だが、自分では結局わからなかったようだ。再び笑みを浮かべると、諦めたように首を左右に振った。
「ふん、長い付き合い故というやつか……。貴様らはそう言った曖昧なものが好きだな。だがそれに見破られたのもまた事実。今回は我の負けだな。」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべるクロエらしき者。その笑みにサラは嫌悪を抱いた。あんなに大好きだったクロエなのに、今のその表情は虫唾が走るほど気味が悪かった。
「……おいおい、あいつクロエじゃねぇのか? 見た目は同じだが……。」
ボロボロになったゾーンが、いつのまにかサラの横に来ていた。大きな怪我はないものの、
「ペッ!」と吐いた唾の中には赤いものが混ざっていた。
「ええ、どうやら。見た目はクロエさんそのものなんですけど、まるで中身だけ違うみたいで……。」
「そうか……、そうか、そうだな。あいつがミーナを傷付けるワケねぇもんな……。クソッ! 一体全体何だってんだ!!」
不機嫌そうな様子で荒立つゾーン。それはサラも同じだった。全くもって意味がわからず、何が起こっているかも正直理解しきれていない。だがそれでいても、最優先すべきことはわかっていた。サラはゾーンにそれを伝える。
「ゾーン。色々考えたいことはありますけど、先ずはミーナの治療が先決ですわ。少し下がったところに集会所がありますの。そこに行けば回復薬がありますわ。」
ゾーンはサラの言葉に、ほんの少しだけ考える様子を見せた。しかしすぐに小さく頷いて口を開く。
「わかりやした。お嬢様はミーナを連れておさがりください。ここは俺が……。」
「……任せますわ。ミーナ、歩けます?」
サラの言葉に辛うじて意識のあったミーナが小さく頷いた。サラはミーナの腕を自らの肩に回し、ゾーンの真後ろを歩くように注意して後方へ下がった。
「(さて、と……。もうあいつのことはクロエだと思わん方がいいだろうな。『偽物』とでも呼ぶか。)」
ゾーンは二人が撤退したことを気配で確認し、改めてクロエ、いや目の前の偽物に視線を向けた。偽物は薄ら寒い笑みを浮かべたまま、サラたちが下がるのを黙って見ていた。
「いやに大人しいじゃねぇか、ぁあ? あいつらを行かせちまっていいのかよ。」
「構わん。貴様を含め小物には興味ない。何分、我は目覚めたばかりで記憶もなくてな。自分が何者か、ここがどこか。そう言ったことが何も分からぬ。だが、何と無く分かる事があるのだ。」
「ほう、言ってみろよ。」
ゾーンが口の端を歪めて促した。ゾーン自身、本当に興味があったわけではない。単純にサラたちが逃げるまでの時間稼ぎとしか考えていない。しかし、目の前の偽物は話を促されたことに機嫌を良くしたらしく、今までよりは僅かに温かみのある笑みを浮かべた。
「先ほど、貴様に魔法を撃った時だがな。あの瞬間に何か頭の片隅で閃く物があったのだ。おそらく我は、ああして魔法を使う事がよくあったのだろう。だからな?」
そこまで話した偽物は、その背後から多くの虚腕を生成した。その表情は冷酷を通り越し残酷な笑みになっている。ゾーンが構えた。
「我の記憶を取り戻すため、ちと手伝ってもらおうか。」
その言葉を皮切りに、偽物の背後に蠢く虚腕が一斉にゾーンの元へと飛んできた。ゾーンは前に踏み込んでそれらを躱す。そのまま一直線に偽物の方へ突っ込み、大きく腕を振り上げて偽物を殴りつけた。
しかしその拳は偽物に届かなかった。拳と偽物の顔面の間、そこにいつのまにか新しい虚腕が潜り込みゾーンの拳を受け止めていたのだ。ゾーンの腕の十分の一もない太さの腕であるのに、ゾーンの拳はビクともしない。
「チッ!!」
舌打ちを残してゾーンが少し下がった。そこへ間髪入れず虚腕の連撃が襲いくる。ゾーンは上半身の動き、そして僅かな体重移動でそれらを無駄なく避けた。今度は偽物が面白くなさそうな表情を浮かべる番だった。
「なんだ貴様、案外すばしこいな? 見た目からして力こそ正義というようなタイプかと思ったが。」
「部下からは脳筋だ筋肉ダルマだ言われてっがな、俺ぁ基礎をきちんと納めた上でゴリ押すんだよ。テメェのひょろいパンチなんざ止まって見えるぜ。」
「ほう、そうかそうか。どうやら貴様を侮っていたようだな。すまんすまん。なら、もう少し真剣に相手しよう。」