第37話
「――お遊びはそこまでですよ、シーラ。この近くに、群のボスにあたる敵がいるはずです。隙を見てクロエさんと共に見つけ出し、仕留めてください。」
「りょーかい。クロエちゃん、ここから抜けられる?」
シーラがクロエに問いかけた。普通に考えれば無理そうな状況だが、クロエにはある考えがあった。
「……うん、抜け出すだけなら。ミーナさん、少しの間援護お願いできますか?」
「お任せを。」
その言葉を聞いたシーラは満足そうに頷くと、スッと素早い動作で姿を消した。それを見たクロエは持っていた虚鴉を消すと、頭の中でとあるものを想像する。足元の影が蠢き出した。クロエが魔力を流し込んでいる証である。
「【影操】……。飛べ、影羽切!」
足下の影から黒い線が二本飛び出してきた。それはクロエの体を這うように駆け上ると、クロエが広げた両腕にそれぞれまとわりつく。見る間にその影はとある形となっていった。
それは翼だった。クロエの肩から先がすっぽりと影に覆われ、巨大な翼となっているのだ。クロエは両腕、今や両翼となったその腕を大きく頭上へ掲げると、バッサと大きく地上へ打ち下ろした。同時に凄まじい風が辺りへ吹き付ける。その反力を糧に、クロエの体はふわりと浮き上がっていった。
敵の頭上を越え、空を覆う枝葉も越え、クロエは見事敵の包囲を突破した。数度の羽ばたきの後、クロエは両腕を包む翼を消し、適当な木の幹へ着地する。周囲には敵の姿はない。「ふぅ……」と小さく息を吐き呼吸を整えたクロエの横に、見慣れた影が現れた。
「クロエちゃん何さっきの⁉︎ めっちゃかっこいいじゃん! バッサーって空飛んでさ、あれ無敵じゃない⁉︎」
興奮したような様子ではしゃぐシーラだった。無敵の意味がイマイチ理解できなかったクロエだが、変な勘違いをされては叶わないとシーラの言葉に修正を加える。
「あれでずっと飛ぶことはできないよ。いくらボクが影の重みを感じないっていっても、
腕を上下させ続けるのはものすごく疲れるもん。」
「へぇ、そうなんだ。ウチの国じゃ【浮遊】使えるのは大長老様ぐらいだから。クロエちゃんが飛べるんだったらお仕事手伝ってもらおうと思ってたんだけど……。」
シーラが少し残念そうな表情を浮かべた。しかしそれは決してクロエに失望したからなどではない。仲が良いからこそのちょっとした悪ふざけであった。クロエもそれをわかっていたからこそ、笑みを浮かべ冗談を返すことができる。
「シーラは魔法苦手だからね。でも、もっと勉強すれば使えるようになるんじゃない?」
「あー! 言ったね⁉︎ クロエちゃんだって未だにキノコ食べられないじゃん!」
「そ、それは関係ないでしょ!」
「ありますー。人それぞれ苦手はあるってことが言いたいんですー。」
「ぬぐぐ……。」
かしましく言い争いをしていた二人だったが、突如感じたとある存在に口をつぐんだ。二人揃って同じ方向を注視する。その視線の先では何か、途轍もなく重たいものが地を這うような、あまり聞きなれない音が発生し二人の耳朶を叩く。
「クロエちゃん……。」
「うん、分かるよ。なんか来てる。」
クロエは無言で固有魔法【影操】を発動させると、足元から漆黒の打刀虚鴉を取り出した。クロエが詠唱せずに発動する無式詠唱の【影操】で、唯一作り出せる武器である。
クロエは虚鴉を正眼に構えると、まっすぐ正面を見据えたまま音の発生源を注視した。シーラも同じく黙り、この場は重たい雰囲気に支配されていた。そして、その重たい雰囲気を破壊するように、音の主が姿を現わす。
「……な、なに、これ……?」
呆けるように、絞り出すようにクロエが言葉を漏らした。クロエ達の目の前にいたのは、一言で表すのならば大蛇であった。しかしただの大蛇ではない。その胴回りはクロエとシーラ二人分を合わせてもなお余裕があるような巨躯。蛇と対峙してその体格差を持つことは、即ち丸呑みされてしまう恐れがある事を指す。
何よりも異様なのは、その首から上のどこを見ても目らしき物が見受けられない事だ。蛇といえば丸く大きな蛇眼が思い浮かぶものだが、クロエの目の前の大蛇にはそれがない。根源的恐怖を喚起させられるような、なんとも異様で、なんとも不気味な外見である。
クロエが初めて見る恐怖に内心慄き汗を垂らして黙っていると、隣のシーラが小さな声でクロエに耳打ちした。
「まずい、イビルワームだ。」
「イビルワーム……? アイツの名前?」
「うん。ジーフ樹海の食物連鎖の上位に入る魔物だよ。土属性の魔法を使ってくるんだ。普段は地中とか暗い洞窟にいるはずなんだけど、なんでこんな明るい場所に……?」
「……え? アイツってミミズみたい奴なの?」
「蛇とミミズの中間かな。鱗はあるし、牙もある。でも目はないし土に潜るよ。注意して、アイツ目が無い分、耳がやたらめったらに良いんだ。あと、たぶん……、それ以外にも何かある。」
クロエは改めてイビルワームを観察した。姿形はまるっきり目のない蛇であるが、シーラの言を信じるならばそれはミミズであるらしい。ミミズと聞くと途端に恐怖感は薄まるが、クロエはこれまでの経験から油断してはいけないと構えを崩さなかった。
「……ボクが前に出るよ。」
クロエの言葉にシーラは一瞬驚いた目をしたが、すぐにその言葉に頷いた。
「……わかった。あたしは隙をついて攻撃を仕掛けてみる。」
「お願い。」
シーラは頷きで返事をすると、風に吹かれるようにその姿を消した。隣にいたクロエでさえシーラがいつ消えたのかわからないほどの隠密性である。これならば敵に見つかることはないだろう。クロエは安心して敵に向き直った。
「(サラさん達は、まだ戦っている……。あまり長引かせるべきじゃない。シーラが控えていてくれている。ここは、ボクが囮になる場面だ。)」
「――おい、バケモノ! ボクが相手だ、かかってこい!」
クロエが声を荒げイビルワームを誘うクロエ。敵はシーラの言の通りかなり聴覚が発達しているらしく、声を荒げたと言ってもそう大きくはなかったクロエの声を耳ざとく拾い上げ、その大きく横に裂けた口唇をゆっくりと開くのだった。
イビルワームの口腔内は、ほとんど蛇のそれと似通っていた。ものを噛み砕くためではなく、獲物に突き立て毒を流し込むための牙。暗く底の見えない夜の如き喉。唯一違うことといえば、蛇の細長いそれとは異なる、太く粘液したたる妖しげな舌だろうか。
心の底から沸き起こる嫌悪感や恐怖を押し殺し、クロエは刀を正眼に構える。視界の端でシーラの姿を捉えた。音もなく木の陰に隠れているが、その位置は完全にイビルワームの死角である。
「(よし、これならシーラの不意打ちで一気に決められる。今だよ!)」
クロエが無言で頷いた。シーラも頷きを返し音もなく腰のナイフを抜く。そして完全な不意打ちの形でシーラがイビルワームに斬りかかった。
「(――獲った!)」
クロエが勝利を確信し口の端をわずかに上げた。それ程までにシーラの襲撃は完璧だった。しかし次の瞬間、信じがたい光景が繰り広げられる。
なんと、イビルワームはまるでシーラの存在を初めから分かっていたかのようにその鎌首をシーラの方へ向けると、ナイフを構えるその腕を長く太い舌で絡め取ったのだ。突然のことに反応もできず呆気に取られるクロエとシーラ。しかしギリギリと締め上げられる腕の痛みに上げたシーラの呻き声に、クロエは正気に返った。
「シーラ!」
「痛ッ……! は、離せ気色悪い……!」
シーラが至近距離から自らの腕を搦めとるイビルワームに向かって魔法を放った。闇属性の攻撃魔法の一つ、【暗黒小魔法】だ。魔法が不得意なシーラの放ったそれは大した威力は無かったが、イビルワームはシーラを地上に投げ捨てた。
投げ捨てられたシーラは素早い動きで空中で体制を整えると、少しふらついた動きではあったがしっかりと地面に着地した。そこへクロエが駆け寄る。
「だ、大丈夫⁉︎」
「なんとか、ね……。でも、何で……? あたしは音なんて一切立ててないはず……!」
痛む腕をさすりながら、シーラは訝しげにイビルワームを睨みつけた。だが、クロエはとある記憶を思い返していた。どこで聞いたかは思い出せないものの、記憶の片隅にあるとある知識を。
「……ボクの生きていた前世の世界のヘビには、生き物の体温を察知する器官がある種類がいたんだ。この世界のヘビにそれがあるかどうかは分からないけど、もしボクの知っているヘビと同じだったとしたら……。」
「そんな! じゃあ、あたしがどれだけ隠れても意味ないじゃん! ……どうしよう。あたし、正面から戦ったらあんな奴に勝てないよ……⁉︎」
「……でも、だからと言ってあきらめるわけにはいかないよ。」
「そりゃそうだけどさぁ……。」
シーラは文句を言いながらもナイフを両手に逆手で構えた。クロエも改めて刀を構える。お互いに目の動きだけで相手を見つめ、小さく頷いた。それを合図に、一斉に攻撃を仕掛ける。
「でやぁぁあああッ!」
まずは気合一閃、クロエがイビルワームの体を両断せんと斬りかかる。シーラの突貫とあいまり無防備な胴体へ刃を入れることができたクロエだったが、その刀は硬い鱗に弾かれて滑ってしまった。
「な、何これ? 刃が通らない⁉︎」
素早い動作で交代したクロエは手元の刀を見た。刃こぼれ知らずの黒刀であるが、その刃にはうっすらと、何やらヌメヌメした粘液が付着していた。
「うやぁっ! き、気持ち悪い!」
クロエが虚鴉を消し去った。霞のように消え、表面についていた粘液は地面に叩きつけられる。その液体はかなり粘性が高いらしく、地面に落ちても吸収されずにいた。
その粘液を気持ち悪そうに眺めるクロエの横にシーラが着地した。
「クロエちゃん、あいつに刃物は通らないみたいだよ。鱗も硬いし、全身筋肉が蠕動しているから刃がブレる。その上、この粘液で刃が滑るんだ。あーあ、あたしのナイフが……。」
シーラが自身のナイフを見て嘆息した。金属の流通していないシドラでは石材を加工して作られる武器が一般であるが、シーラの持つそれは珍しく金属製のそれであった。大切なものが悲惨な目にあったことを踏まえれば涙目にもなろう。
打開策に悩む二人は、頭上に迫る影に気がついた。とっさの判断で左右に飛びのくシーラとクロエ。次の瞬間、二人が先程までいた場所に腰ほどの高さはある岩石が叩きつけられた。その岩石は自然のそれではなく、緩く尖りのついた殺傷性の高いものである。
「シーラ、これっ!」
「気を付けて、これがあいつの魔法だよ。周囲の土を固めて攻撃してくるんだ。」
「……そっか、魔物だから魔力を扱えるんだよね。やりづらい……!」
歯嚙みをするクロエを他所に、イビルワームは獲物を前に舌なめずりをするが如く悠々と二人との距離を縮めてきた。ヌラリと口から出された舌の何とも気味の悪いことか。嫌悪の目でそれを見つめるクロエだったが、その視線がとあるものを捉える。
「(ん? あれは……。)」
「――クロエちゃん危ない!」
「へ? わぷっ!」
シーラの言葉に我に返ったクロエだが、気がついた時にはシーラに抱きかかえられ横っ跳びに転がっていた。そして先程までクロエがいた場所に、イビルワームの長く太い尾が叩きつけられる。
「ちょっ、クロエちゃん! ぼーっとしてちゃダメだよ!」
「ご、ごめん……。でもシーラ、あれ。あいつの口の右上のあたり見て。」
「右上?」
シーラがクロエの声につられてイビルワームの口元あたりを注視した。その視線の先には、黒っぽい焦げ目のようなものが付いている。
「アレって……、多分だけど、あたしが魔法でつけた痕……?」
「うん。あいつには刃物は聞きそうにないけど、魔法ならいけそうじゃない?」
「確かに……。でも、あたし小魔法までしか使えないよ?」
「……ボクは中魔法までは使える。でも、完全詠唱じゃないと使えないんだ。」
クロエが申し訳なさそうに言った。世界に満ちる魔素を変換し蓄積した魔力を、詠唱によって構築し放出する「完全詠唱」は魔法発動の基礎となるものだ。威力は申し分ないが、詠唱している間は完全な無防備となり、何より発動まで時間がかかる。実際の戦闘で使う機会はかなり限られる方法でもあった。
「どれくらいかかる?」