第36話
クロエが死の瞬間を覚悟し目をつぶった。襲い来るのは体を貫く爪か、体を潰す豪腕か。いずれにせよこれで終わりだ。
しかし、クロエがどれだけ待ってもその最後の瞬間は訪れなかった。強張っていた全身から少し力を抜き、恐る恐る薄眼を開ける。すると、その視線の先には驚くべき光景が広がっていた。
先程クロエを殴り飛ばしたゴリラの獣物が、クロエを叩き潰そうと拳を突き出していた。しかしその拳はクロエへ届くことなく途中で遮られている。クロエの眼前に立ちはだかるのは、大きな背中だ。鍛え上げられた背中のなんと頼もしいことか、それだけでクロエの背丈はあろうかという巨大な拳を両腕で受け止めるのは、アレクサンドリア家族長のゾーン・アレクサンドリアであった。
「あ……、ぞ、ぞく……、ちょう……?」
「おうよ、遅くなったな! よく戦った、あとは俺らに任せな!」
「俺ら……、って……。」
疑問の声を上げたクロエだったが、不意にその体が優しく抱え起こされた。体の横から走る鈍痛に顔をしかめながら目線を向けると、そこには闇森族の少女がいた。シーラだ。
シーラは懐から薄緑色の液体の入った小瓶を取り出すと、それをクロエの脇腹に服の上からかけた。そして半分ほど残った液体をクロエの口へ流し込む。
「ん……、むぐ、んぐ……。」
「ゆっくりでいいよ、クロエちゃん。ごめんね、遅くなっちゃって。もう大丈夫だからね。」
暖かな光景が繰り広げられる背後では、力と力のせめぎ合いが繰り広げられていた。
「よぉ、クソ猿……。うちのモンを可愛がってくれたみてぇじゃねぇか、ぁあ? 久し振りだぜ、こんなにぶん殴ってやりてぇ相手に出会えたのはよぉ……‼︎」
ゾーンの筋肉が一回り盛り上がった。ただでさえ身体能力値に優れた闇森族であるのに、さらに修練を積んだゾーンの肉体は闇森族史上最高峰と言って過言でないほどに鍛え上げられている。
その鍛えられた肉体を存分に駆使し、ゾーンは受け止めたゴリラの獣物の腕をねじ上げる用にひねる。そして捻り上げた腕を脇に抱え、自身を軸に獣物を回し始める。ジャイアントスイングの動きだ。
「う、お、ぉぉおおおおおッ‼︎」
恐ろしい勢いで十数回の回転を重ねたのち、ゾーンは豪快に獣物を天高く頭上へ投げ飛ばした。抵抗するすべもなく、獣物は自由落下の軌道に乗り上げる。
「おっし、シーラ! 肉体強化かけろ!」
「了解! 【ストレングス】!」
シーラが魔法の名を唱えた。掲げた左手から光の帯が素早く伸び、ゾーンの体を包み込む。ゾーンの筋肉がさらなる盛り上がりを見せた。
ゾーンが右足を引き、右手を緩く握り振りかぶる。そして、獣物がちょうど目の前より少し上あたりに落下した瞬間、爆発的な動きで拳を射出した。
「でぇりゃぁあああッ‼︎」
何かを殴りつけたとは思えないような恐ろしい音が響き渡った。同時に落ちてきた獣物が弾丸の如き速度で吹き飛んでいく。木々を何本かへし折った後、獣物は地に倒れ伏した。その顔面はもはや原型をとどめていない。即死だろう。
ゾーンは大儀そうに肩を回し、大きな歩幅でクロエの元へ歩み寄った。それと同時に、ゾーンとは別の足音が急いだ様子でクロエの元へ近づいてくる。
「クロエさん!」
「クロエ様!」
ミーナとサラだった。二人は自身が疲れ果てているにもかかわらず、そんなこと御構い無しにクロエの元へ走り寄り、その側に膝をついた。
「あ……、サラさん、ミーナさん……。」
「心配しましたわよ! どうしてあの時諦めましたの⁉︎ 私、本当に、もうダメかと……!」
「クロエ様、心臓に悪いことはおやめください。もしあのままクロエ様が死んでしまっていたら、私は立ち直れませんでしたよ。」
二人からの轟々たる非難を浴び、クロエは居心地悪そうに目をそらした。そんなクロエの頭を、ゾーンの大きなゴツゴツとした手で付ける。
「二人の言う通りだ、あんま心配掛けんじゃねぇぞ?」
「う……。は、はい……。」
「どう? クロエちゃん。もうそろそろ体の痛みは取れてきたと思うんだけど……。」
シーラが心配そうな様子で声をかけてきた。その言葉にクロエは鈍い痛みを覚えていた脇腹のあたりの痛みがすっかり消えていることに気がつく。同時に、精神を苛んでいた疲労感もかなり軽減されていた。
クロエがゆっくりと上体を起こす。よくよく感じれば未だ少し痛みは感じるものの、それもすぐに消えるだろう。この効力こそ、回復薬と呼ばれる特別な魔法薬の力であった。生き物の持つ自然治癒力を、使用者の負担にならないギリギリ且つ驚異的な速度に跳ね上げる力がある。ゲームのように即時回復というわけではないが、致命傷でなければほとんどの傷が治る代物であった。
「……ん、うん。ありがと。すごいね、これ。魔法みたいだ。」
「あはは、何言ってるのさクロエちゃん。『みたい』じゃなくて魔法の薬そのものだよ。」
クロエの的外れな発言にその場の雰囲気が少しほぐれる。クロエ自身も少し表情を和らげながら、この場になってやっと周囲を見回した。
先程までクロエとサラとミーナの三人だけで戦っていた修羅場だったが、クロエが視線を向ける先、少なくとも十人近い闇森族らが獣物を相手に戦いを繰り広げていた。劣勢が一転、優勢に傾きつつある。それ自体は非常にありがたいことだったが、こんなに人員を割いていいものなのだろうか。クロエの心中を察したかのように、ミーナがゾーンに向かって疑問の声を上げた。
「しかし族長。【魔力念話】ではこちらへ人員を割く余裕などないとおっしゃっていましたが、他の区域は大丈夫なのですか?」
ミーナの言葉にゾーンは心配ないとばかりに手を振った。と同時に、不意にクロエ達の方へ襲撃を仕掛けた犬のような獣物を、その飛びかかってきた喉元を右手一本で受け止め投げ飛ばす。あわれ獣物は木に衝突し、背骨がありえない方向へ曲がってしまった。
「この騒ぎを察知した哨戒の奴らが一目散に戻ってきてな。お陰で俺らが出張っていた区域は余裕ができたんだよ。それに、俺らの区域には魔物がいなかった。どうやら奴さん、どこかで方向転換したらしい。」
「それで、こちらへ来てくださったのですわね。助かりましたわ。」
「いやいや、エルぜアリス家を守護する立場としては当然でさ。なぁ、シーラ?」
「それもあるけど……。単純にお嬢様のこと好きだし、仲間だと思っているからね! 仲間を傷つけるやつは、あたし許さないよ。」
そう言って胸を張るシーラの言葉は、とても頼もしいものだった。サラが「私も大好きですわよ……!」と言ってシーラを抱きしめている。
「(仲間……、か。そっか、ボクもそう思われているんだ。そっか……。)」
単純な言葉だったが、クロエの心を温め振るわせるのに十分な言葉でもあった。クロエは立ち上がると、自分の体に異常がないことを確認する。それを見た仲間もそれぞれ立ち上がり、敵の方へ向いた。
「さぁて、仕切り直しと行こうか。俺たちの国、ここまで荒らしたツケは払ってもらわなくちゃなぁ?」
ゾーンが獰猛な笑みを浮かべる。その猛獣の如き笑みに薄ら寒いものを感じたクロエだったが、同時に安心感も得た。
「そうですね、次は油断しません。『汚名返上』、です!」
「オメイヘンジョー! ふふん、意味はわからないけど言いやすいね!」
「確か異世界の言葉で、新たな成果を上げて悪い評判を退けるという意味でしたね。ですが、勇みすぎて突出しないように。仲間を頼ってくださいね、クロエ様。」
「う……、気をつけます。」
クロエはバツの悪そうな表情を浮かべた。そしてそれを誤魔化すように意識を集中させると、自身の固有魔法を構築の詠唱から始めていく。
「『蠢く影よ 溟き焔 白痴の賢者 空空漠々の形而に存在を』 【影操】、来い、虚鴉!」
クロエの足元の影が蠢き出した。そして飛び立つように足元から影が飛び出す。クロエの手元に収まる頃には、それは一振りの刀へと変貌した。影に魔力を流し込み質量を与え自在に操るクロエの固有魔法【影操】、それにより作り出した折れ刃毀れ知らずの黒刀虚鴉である。
クロエが魔法を発動するに続き、仲間達も同じく戦闘態勢をとった。
「族長、念のためもう一回身体強化かけとくからね。【ストレングス】!」
「お、あんがとよ。おいミーナ、お前に預けていた鉄甲出してくれ。」
「はい、どうぞ。」
ミーナが自身の固有魔法【パンドラ】を発動し、中から無骨な意匠のガントレットを取り出した。ゾーンへ向かって投げ渡す。そしてもう一つ、愛用のハンマーを取り出し脇に構える。
「次は遅れませんわ。必ずクロエさんを、皆さんを守りますわよ!」
「あ、ありがとうございます。……でも、サラさんも気をつけてくださいね。」
息巻くサラを少し心配に思い、クロエが気遣いの言葉をかけた。その言葉にサラは少し恥ずかしそうに頬を赤らめ、「そ、そうですわね。」とこぼしていた。
「よし、行くぜ……!」
ゾーンの掛け声とともに全員が動き出した。それぞれがそれぞれの戦闘スタイルに沿って敵との距離を作る。クロエとミーナ、そしてゾーンは敵に向かって一直線に駆けていく。ゾーンはその鍛え上げられた体躯を活かし腕を体の前で交差し、敵陣へ真っ直ぐ突っ込んでいった。ほとんどの獣物がその衝撃で吹き飛ばされる。そして、ゾーンが切り開いた道にクロエとミーナが駆け込んだ。敵陣の中心で背中合わせに立ち止まり、眼前の敵を屠っていく。特にクロエは先程の回復薬がよほど効いたのか、先程よりも魔法のキレが上がり、数体をまとめて倒しているほどだ。
残されたサラとシーラは、各々別の方向へ動いた。サラは軽やかな動作で近くの木へ駆け上ると、太めの幹に膝をつけて弓を構える。そして、前衛で戦う三人を援護する形で固有魔法の【ウィンドアロー】を放っていった。その狙いは正確無比。多少のズレは射出後に修正し、確実に獣物を射抜いていく。そして時折場所を変え、多方向からクロエ達を援護した。
一方のシーラは腰に差した二本のナイフを逆手で抜き、木々の影を縫うように敵陣へ近づくと、スッと獣物の一体へ近づきその首元を掻っ切った。喉元から血潮の噴水をたちのぼらせる獣物。それに気づき周囲の獣物が唸りを上げながら周りを見渡すが、その時にはすでにシーラはその場にいない。また木の影を縫うように別の場所へ移動し、厄介そうな敵、孤立している敵を優先的に片付けていった。ヒットアンドアウェイ。闇森族とはいえ未だ力で劣るシーラが考え出した戦い方である。
先程までの三人だけの劣勢戦闘は一転し、今や優勢に戦いを運べている。そしてこの段になって、クロエはようやく戦闘に慣れつつあった。周囲を見渡す余裕が少しだけではあるが生まれ、目の前の敵以外の敵の姿を視界に収められる。時にはミーナやゾーンの背後に迫る敵を斬り伏せ殴り倒し、二人とうまく連携を取れるほどにまで成長しつつあった。
「おいクロエ! その魔法で俺の鉄甲作れるか⁉︎ クソッ、ダメんなっちまった!」
目の前の敵を殴り倒しながらクロエの元へやってきたゾーンが、ボロボロとなったガントレットをかざして言った。クロエは油断なく敵を見渡しながら返事をする。
「作れますけど、ボク以外は重さを普通に感じますよ? それでもいいんですか?」
「むしろそっちの方が良い! 頼まぁ!」
「わかりました、行きますよ! 【影操】!」
振り向きざまにクロエが固有魔法を発動させる。クロエの足元の影が蠢き、ゾーンの両手めがけて跳び上がった。そのままゾーンの両手を包み込み、数秒後にはその拳に沿った形を成す。
「……おう、初めて見る形だなこりゃ。だが、悪くねぇ。ありがとよ!」
クロエが作り上げたのは、日本の甲冑の小手のような手甲だった。しかしその指の根元にあたる部分には三本の棘が生えている。たとえクロエが使ったとしてもその腕力では役には立たないだろうが、ゾーンの豪腕ならば話は別だ。壊れることを知らない質量を持った影が繰り出す棘付きの連撃は、襲い来る獣物を次々とミンチに変えていった。
「ガッハッハッハッ! こりゃあ良いぜ! 今ならどんな奴でもぶっ倒せらぁ!」
「うわぁ……、只でさえ怪鬼族みたいだってのにあれじゃあそのままじゃん。」
いつのまにかクロエの背後にいたシーラが、げんなりとした声で呟いた。その言葉にクロエが文献で見た怪鬼族の姿を思い浮かべる。筋骨隆々、凶悪な怪物じみた姿が特徴の種族のそれは、言われてみれば今のゾーンに似通るところがあるかもしれない。思わず吹き出しそうになったクロエは、精神力でそれをこらえる。