第30話
視線を迷わす目の数は徐々に増えていき、遂には全ての球がぐるぐるぐるぐるぐるぐると焦点を失った。一目でわかる異常事態である。クロエ以外の三人が不安そうにアルゴスを見つめることから、何も知らないクロエであっても現状が異常であることが察せられたのだ。
次の瞬間。目をまわしていたアルゴスの瞳たちがカッと目を見開いた。そしてぐるんと目のすべてが裏返ると、球が再び膨張し始めたのだ。ぐんぐんと膨張する球は、天頂を覆っていた枝のドームを押し広げてなお膨張する。
「クロエさん! 手を離してください、危険ですわ!」
サラの叫びに反応したクロエは、パッとアルゴスから手を離し急ぎ距離を取った。すると、球の膨張は止まり風船が縮むように縮小する。数秒の後に元の大きさに戻った。
「なっ……、いったい何が……!?」
何が起きたか分からず混乱の声を上げるクロエ。呼吸が荒い。しかし何が起きたのか分からないのはクロエだけではなく、むしろその場にいた全員が分かっていなかった。一体何が起きているのか、そして何が起きてもいい様に緊張した面持ちで装置を見つめていた。
すると、球の表面に何かが浮かび上がった。それは一見して文字には見えない。転生者特有の「自動翻訳」の能力を持つクロエであっても、それは意味の分からない表示としてその目に映っていた。
「……これは、どう言う事ですの?」
静寂を打ち破り、困惑の声を上げたのはサラだった。その声にミーナが口元に手を添えながら答えた。
「おそらく、私たちの予測が的中した結果ではないでしょうか? 球の色が透明のまま、読めない謎の文字群が表示される。透明なのは『無属性』を意味し、謎の文字群は適性値のエラーを示しているのだと思います。」
「ふぅん、正直信じにくいけど……。でもこうして結果が出ちゃってるのよねぇ。それで、結局クロエちゃんは何がどう凄いのかしら?」
「えっと……。魔法適性値がないという事は、つまり無制限に魔法が使えるという事ですの?」
「ええ。この世から魔素が消えない限り、クロエ様は魔法を使い続けられるでしょう。それだけではありません。魔法属性には相性が存在します。火は水に弱く、水は雷に弱い。光と闇が相克である以外は円環のように弱点が連なる属性ですが、クロエ様の『無属性』はそれらの外にあります。おそらく、相性を無視して魔法攻撃を通すことができるでしょう。」
ミーナの言葉に皆が押し黙った。魔法の事をいまだよく理解していないクロエであっても、その恐ろしさは感じ取れた。重たい雰囲気がその場を包む。
「……まぁ、これに関してクロエちゃんは何も悪くないからねぇ。どうこう言うつもりはないわ。でも、クロエちゃん?」
「は、はい……?」
「クロエちゃんの持つ力はとっても強力よ? でもだからって調子にのっちゃダメ。しっかり魔法のお勉強して、ちゃーんと魔法を制御するように。いい?」
まるで母親のように腰をかがめクロエの視線に合わせ、サーシャは念を押すように語った。しかしその声は優しげであるが、その雰囲気のどこかに有無を言わせぬ迫力もある。クロエはコクコクと小さく小刻みに頷いた。
「わ、わかりました。頑張ります。」
「うん、良い子ね。ミーナ? ちょっと来てくれるかしら。これからのクロエちゃんの事について話ししたいわ。サラちゃん、クロエちゃんを連れてご飯に行ってらっしゃい。私たちも後で行くわ。」
「分かりましたわ。クロエさん、行きましょうか。今日のご飯は私が以前に取って来たキノコを使ったものらしいですわよ?」
「キ、キノコですか……。ボク、キノコあんまり好きじゃ……、や、何でもないです。」
サラがクロエを連れてこの場を後にした。クロエはキノコと聞いて嫌そうな顔を一瞬浮かべたが、サラの笑みを見て押し黙った。階段を降りる後ろ姿がいつもより小さく見えたのは見間違いだろう。
広い空間にはサーシャとミーナだけが残された。風が吹き二人の間を駆け抜けた。サーシャは無言で装置に近づくと、装置アルゴスの球に手を置いた。アルゴスはこれまでと同じように起動し、そして正常にサーシャを測定し終える。
「故障してはいないみたいね。でも困ったわ、この国の最高戦力の座を奪われちゃうわね。」
「ご冗談を、経験と踏んだ場数が違います。」
茶化したようなサーシャの言葉をミーナは即座に否定した。その声は真剣そのもので、サーシャの冗談に乗るつもりはない事が伺えた。サーシャは「分かってるわよ。」と短く言葉を返した後、ミーナの側へ近づく。
「クロエちゃんの事、これまで以上に厳しく監視してちょうだい。あの力は軽視できないわ。」
「……分かりました。私の目が届かない所はシーラを使っても良いかもしれません。」
「そうね。シーラは隠し事が出来ないタイプよ。上手く別の理由を付けて見張らせた方が良いわ。」
「かしこまりました。それではさっそく、シーラの元へ行ってまいります。失礼します。」
一礼を残しミーナもその場を後にした。最後に残ったサーシャもため息を一度だけ吐いて階段を降りる。風がまた吹いて、そして消えた。
「さて、お待たせしました。これから魔法の実践を行っていきましょう。」
「クロエちゃんおまたせ! 大変だったんだってね。大丈夫、あたしがついてるから!」
食事を終えたサラとクロエが訓練場で待っていると、ミーナとシーラが連れ添って現れた。シーラはクロエを見つけるや否や開口一番、クロエの手を握って目を輝かせていた。
ミーナはサーシャと別れた後、食堂へ向かおうとしていたシーラを捕まえたのだった。そしてシーラに対しクロエの謎の真実を伝えた上で、「自身に不思議な事が起こって混乱しているだろうから支えてやって欲しい」と伝えたのだった。
無論それは監視の意味を含んだ言葉であったが、シーラの性格を考えた上でミーナは「支える」と言う言葉を使ったのだった。これならばシーラはクロエの事を喜んで監視するであろう。自らが監視人となっているとも知らずに。
「(それにしても、まさか開口一番このような行動に出るとは……。やはり大長老様の仰る通り誤魔化して伝えて正解でしたね。)」
内心でため息を吐いたミーナ。しかしその感情を表には出さず、普段通りの表情で言葉を続ける。
「これからクロエ様には『属性魔法』を試してもらいます。シーラ、あなたは出来ましたよね?」
「出来るけど……、小魔法レベルだよ?」
「では、中魔法が撃てるように訓練なさい。戦闘においては中魔法ぐらいまで使えなければ戦えませんよ。お嬢様、申し訳ありませんが見てやっていただけませんか?」
「良いですわよ。シーラちゃん、練習しましょうか?」
シーラとサラが少し離れたところに移動した。残されたクロエはミーナの方へ向き直る。座学で魔法についてほんの少しだけ学んだクロエであったが、とうとうその実践に移るのだ。ワクワクとした心持で瞳を輝かせていた。
「ではさっそく……。まずは魔法をご覧いただきましょう。少しだけ離れていてください。」
ミーナの言葉にクロエは一歩後ろへ下がった。それを確認したミーナが静かに右手を顔の高さに上げる。スッと息を吸って、止めた。
クロエはその瞬間、自分の周りの空気がざわつくような錯覚を感じた。初めて感じるはずの感覚だが、それはどこか懐かしさすら感じる不思議さがある。いわゆるデジャヴのようなものかもしれないが、その正体までは理解が及ばずクロエは内心で首をひねった。
「満ちて、広がり、受け止め、潰せ、【暗黒小魔法】。」
ミーナがそう唱えた途端、その掲げられた右手のひらに濃い紫色の発光体が現れた。バレーボール大まで一瞬で膨らんだ発光体は手のひら大まで凝縮され、次の瞬間にはミーナの手から射出された。
硬いものが空を切るような射出音と共にミーナの魔法は飛翔する。重力の影響を感じさせず直進した魔法は、壁に当たる瞬間に霧散した。まるで元から何も存在しなかったかのように、そこには何もない。
「如何でしたでしょうか。今のが闇属性の属性小魔法、【暗黒小魔法】でございます。威力は大したことありませんが、使用する魔力の量が少ない事が特徴です。最初なので詠唱を行いましたが、中魔法レベルまでは詠唱せずとも放てるようになるのが目標ですね。」
「……。」
ミーナが解説を行っているが、クロエは黙りこくっていた。ミーナもそれに気づき、クロエの顔を覗き込むようにする。顔を覗き込まれたことでクロエはようやく現実に戻って来た。
「あ……、あぁ、ご、ごめんなさい。えっと、は、初めて魔法って言う物を見たのでびっくりしちゃって……。」
「左様でございますか。いえ、無理ないでしょう。逆の立場なら、私も平静ではいられないでしょうから。」
クロエがとっさに言った言葉は決して嘘ではなかった。事実、クロエは始めて見た魔法に見惚れてもいた。それは間違いではない。
だが、それ以上にクロエを支配していたのは謎の高揚感だった。まるでカラカラに乾ききった喉に冷たい水を通したときのように、まるで巡る血潮が沸騰して暴れるかのように。目の前を通り過ぎた魔法を見た瞬間にクロエの心は踊った。
「(何だ? なんで……、なんでこんなに手が震えるんだ? 今すぐ、魔法を撃ちたい。分かる。感覚で、理屈じゃなくて感覚で、どうすれば魔法が撃てるのか分かる……!)」
「――と言う理屈で、魔法と言う物は放つことができるのです。だいぶ荒い説明になってしまいましたが、ご理解いただけたでしょうか?」
クロエが考え込んでいる間にミーナは魔法発動のしくみを簡単、且つ分かりやすく説明していた。貴重な話であったはずなのにそれをクロエは聞いていない。だが、それでも問題ない程には魔法発動の方法を――その理由は分からないが――クロエは理解していた。
「――大丈夫です、できます。」
「かしこまりました。では、狙いがないと撃ちにくいでしょうし、私目がけ属性小魔法を放ってください。遠慮はいりません。どうぞ。」
そう言うとミーナは軽やかに跳躍、クロエから十メートルほど離れた。普段のクロエであれば、いくら相手から言われたとはいえ他人目がけて攻撃を撃つことに躊躇いを覚えただろう。
しかし、今のクロエの頭にはそのような躊躇いは欠片もなかった。まるで思考が乗っ取られたかのように、好戦的な思考が止まらない。魔法を初めて見たという高揚感だけでは片づけられないその昂ぶりに、現在のクロエは気づけない、気付こうとしない。
右手をミーナに向け掲げ、静かに息を吸って、神経を集中させる。自らの周囲を渦巻き存在する魔力を濃密に感じながら、クロエはその魔力が自らに入り込むのを感じていた。一切の抵抗や違和は感じない。まるで水がザルを通るかのように、魔力が自らの力へすんなりと変換される。
「(これが、『魔法適性値なし』の力……。ク、ククク、この流動感は癖になりそうだ……!)」
止まらぬ興奮と高揚感に、クロエの口の端がニヤリと歪む。白い歯が隙間から覗くその表情は、さながら獣の威嚇の如き様相であった。まるで別人のごときその豹変に、本人を含め気づけた者はいない。
クロエの掲げた右手に魔力球が生成された。しかしそこに現れたのはどの属性反応にも見られない白色である。一番近いのは光属性の魔力色だろうが、光属性のそれが太陽の光によく似た温かみを感じさせる生成り色であるのに対し、クロエの右手に現れたそれの色はどこか冷たさを感じさせる白銀。それでいて感じる力強さのような物は、純粋な魔力が放つ圧迫感なのかもしれない。
現れた魔力球の姿に、流石にミーナを含めたその場の皆が異変に気付いた。周囲の皆は小声で会話をする程度であったが、相対するミーナは無言でその魔力球を、いやむしろクロエを睨んでいた。