第26話
旧版とは異なる話です。
翌朝。爽やかな朝日と少し冷えた新緑の風に包まれたシドラにおいて、クロエの姿は大長老宅の大食堂にあった。
昨夜、数多くあるという大長老宅の一室に案内されたクロエは、サラの家のベッドより数段上等であろうベッドのふかふかに包まれて眠ったが、今朝になってミーナのモーニングコールで目を覚ましたのだった。用意された服にもそもそと着替え、濡れたタオルで顔を洗う。そして案内されるままにミーナの後ろを歩き、長机が幾つか置かれた広い空間へとたどり着いたのだ。
元から朝に強い方であったクロエだったが、転生してからの疲労もあってか今朝の眠気と倦怠感はすさまじく、いまだに目をこすり眠たそうである。周囲を観察する事もなく、ただぼーっと、焦点のやや合わない瞳で目の前の机の木目を見つめていた。
「ふぁ……あ。」
「あっれー? 初めて見る顔だね? 新入りさん……、にしてはダークエルフじゃない、って言うか森精族ですらない!? わぉ! 驚きだよ!」
クロエのぼーっとした頭が舟をこぎ始めたその時、早朝という事を一切感じさせない元気に満ち溢れた声がクロエの耳に飛び込んできた。びっくりして身体を跳ねさせたクロエが声のした方へ顔を向ける。そこにいたのは周囲にいるダークエルフと同じ褐色の肌と短めの銀と紫の髪を持つ、快活そうな少女だった。
クロエと同じ年の頃に見える少女は朝食の乗ったお盆を手に持っている。そして「隣しっつれーい!」と、クロエに断る事もなくクロエの真横に陣取ると、今度は無言でクロエの顔をじっと見つめてきた。
「あ、あの……。」
「んー?」
「いや、その……」
「あっ! そっか、君の分がないね! 待ってて、取って来てあげる!」
その少女はそう言い残すと、クロエが制止するのも聞かず立ち上がりどこかへと去ってしまった。クロエはまるでその少女に元気を吸われたかのように、どっと疲れを感じる。ついつい、目の前の長机に身を投げ出してしまった。
すると、ドサッと言う重たい音がクロエの隣で鳴った。クロエが顔を上げる。するとそこには、身の丈二メートルは優に越すであろうというダークエルフの偉丈夫が座っていた。その人物は立派な顎髭を蓄え、そして周囲の人物よりも年齢を重ねていた。顔を含め見える肌には傷跡らしきものもある。
クロエが突然現れた大男にビクビクしつつ警戒していると、その大男は図体に見合わぬ人の好さそうな笑みを浮かべ、クロエに話しかけてきた。
「うちのモンが朝から騒がしくてスマンな! あれは、久しぶりに見た同年代の存在にはしゃいどるんだ。喧しいだろうが、まぁ受け流してやってくれ。」
「……えと、そんなことより、ど、どちらさまですか……?」
大男の話す内容よりも、大男の存在自体が疑問であったクロエは恐々と尋ねた。クロエの言葉に大男は目を丸くする。そして大きな口を開けて笑った。その様子はまさに「豪快」と言う言葉が当てはまる。まるで物語に登場するドワーフだ。クロエは脳内で作り上げていた森精族という存在に対するイメージが崩れていくのを感じた。
「ガッハッハッ! そう言やぁそうだ、嬢ちゃんとは初対面だからな、知らねえのも無理はねえ! すまんすまん、俺は昨日のうちにミーナ経由で聞いてたからよ。俺の名はゾーンだ。ゾーン・アレクサンドリア。見ての通りダークエルフさ。よろしくな!」
「えっと、ボクはクロエです。種族は、その……。」
「おう! それも含め聞いてるよ。まぁ、これから俺たちと過ごすうちで分かる事もあるだろうよ。なんせ、この国で他の国に出入りするのは俺らダークエルフの役割だからな!」
ジークと名乗るダークエルフはそう言うと、またも豪快に笑った。ジークの威圧感たっぷりの容貌と、相反する親しみやすい雰囲気。その個性的な人柄をクロエは心地よく感じた。
「お待たせ! ご飯持って来たよ……って、族長!? おはようございます!」
「朝から元気良いな、シーラ! 今日の勉強もそんな調子で頼むぜ!」
「えっ!? そ、それはちょっとぉ……。」
もう一つ食事の乗ったお盆を持ってきた少女が、クロエの隣に座るジークを見て姿勢を正し、器用にもお盆を持ったまま頭を下げた。ジークはその反応に対しても笑いを浮かべている。
「族長?」
何も知らないクロエはただ首をかしげるばかりだ。シーラと呼ばれた少女はクロエの前にお盆を置く。それを見たジークは辺りをぐるっと見渡す。クロエも顔を上げて見渡すと、広い空間には多くのダークエルフが揃っていた。よく見るとそこにはミーナもいる。ミーナの側、部屋の上座に当たる部分には大長老ことサーシャも座っていた。
ジークはぐるっとそこにいる人々の顔を確認すると、サーシャの方へ顔を向けた。
「お待たせしました、大長老様! 当直以外の奴は揃いましたぜ!」
「そう? それじゃあ朝ごはんにしましょうか。」
サーシャの言葉と共に、その場の皆が食事に手を付け始めた。別段食事の挨拶などはないらしい。クロエはこれまでの習慣から、ほとんど無意識に手を合わせる。
「いただきます。」
「んぐむぐ……、ゴクンッ。なぁにそれ? 『いた、だきます』?」
「え? あっ、えっと、これはボクの国での食事の挨拶で……。」
「へー! 食事の挨拶かぁ……。そんなこと考えた事なかった。イタダキマス!」
シーラはひとしきり感心すると、クロエを見習い手を合わせ、少し調子の外れた音で「いただきます」と言った。それを見た周囲は朗らかそうに笑う。どうやらシーラはこの空間のムードメーカー的存在のようである。何も知らないクロエであっても、シーラの笑みに釣られて笑顔を浮かべてしまった。
「そう言えばまだ自己紹介してなかったよね。あたしの名前はシーラ。シーラ・アレクサンドリアって言うの。シーラって呼んで。君は?」
「えっと、ボクはクロエです。よろしく、シーラ。」
「クロエ……、だけ? ファミリーネームは?」
「おう、シーラ。その辺にしとけ。嬢ちゃんの事は飯の後にみんなの前で紹介すっからよ! お楽しみだ!」
「うぇー? 族長のケチ……」
「あん? 何か言ったか?」
「何もないですー!」
シーラはそう言うと、凄まじい勢いで食事を口に詰め込み始めた。咀嚼も間に合わず、口に食べ物がたまるその様子はリスのようである。早く食事を終えたいという気持ちが逸っているようだ。
ゾーンをはじめとする周囲の人々は、そのシーラの様子を見て笑みを浮かべていた。彼らからすれば年の離れたシーラは、娘か妹のような存在なのだろう。
そして十数分後、皆が食事を終えた。何人かは先に食堂を後にしたが、ほとんどの者が食堂に残り会話をしたりゆっくり飲み物を飲んだりとリラックスしている。シーラは一人誰よりも早く食事を終えていて暇だったのか、頬杖をついて足をプラプラとさせていた。
「ねーぇー、クロエちゃーん! 食べ終わったときはなんて言うのかしらー?」
遠くからサーシャがクロエに声をかけた。サーシャもクロエの「いただきます」を聞いていたようだ。サーシャの問いかけに周囲の皆もクロエに注目する。不意に注目を集めたクロエは緊張しながらもサーシャに返答した。
「えっと、『ごちそうさまでした』です!」
「ゴチソウサマデシタ! ……こんな感じ?」
クロエの言葉をいち早くシーラが真似をする。クロエが手を合わせ言ったからか、それを真似して手も合わせていた。
サーシャは一人何か納得したように数回頷くと、立ち上がって皆に向かい声をかけた。
「食事の時に、せっかくだから私たちも挨拶しましょ。じゃあみんな、手を合わせて……」
サーシャの声に合わせて周囲に皆が手を合わせた。クロエも場の雰囲気に乗り手を合わせる。サーシャは皆が手を合わせたのを見ると、堂々とした様子で口を開いた。
「ゴチソウサマデシタ。」
「「「ゴチソウサマデシタ。」」」
「ごちそうさまでした。」
サーシャを始めとした森精族の皆の言葉は、やはりどこか調子がおかしかった。しかし自らの文化を受け入れてくれたという喜びがクロエの胸には広がっていた。
クロエが一人ニヤニヤしていると、隣のゾーンが立ち上がり手のひらをパンパンと打ち合わせた。手のひらが硬いのかその音は大きく食堂に響き渡り、その場の皆が鎮まってゾーンへ注目する。
「おう、交代の奴は先に行かせたがみんなもうちっと話聞いてくれや! 今日から新顔が一人増えた。驚け、森精族じゃねぇどころか転生者だとよ! よし、嬢ちゃん。自己紹介頼むぜ。」
肩を叩かれ促される。その力が存外強く、クロエは少しむせた。クロエは注目を集める中で更なる注目を集めることに一瞬ためらったが、まさかこの流れで自己紹介を拒むことなどできはしなかった。そろそろと立ち上がる。
「えっと……。さ、さきほど紹介されたクロエと言います! 先日この世界に転生しました! よ、よろしゅくお願いしましゅ! ……うぁ」
緊張のあまり、最後の言葉を噛んでしまったクロエ。勢いに任せ半ばやけくそのように大声で言ってしまったせいでもあるだろう。クロエは顔から火が出そうなほどに顔を真っ赤にさせて、縮こまるように座った。
「あー……。まぁそう言う事だ! クロエは国の近くに転生したみてぇで、サラお嬢様がクロエを保護なさった。そんで、何も知らねぇから俺たちと生活していろいろ勉強するってこった。要は新しい家族だ! みんな優しくしてやってくれ、以上!」
クロエの恥ずかしがる姿を見たゾーンがそれまで見せた事のない気まずそうな表情を浮かべたが、勢いに任せてまとめ上げた。周囲の皆もあえてクロエが噛んだことには触れることはない。
クロエはその優しさに感謝した。相変わらず顔は真っ赤だが、仮にも前世で二十年以上は生きてきた経験があるのだ。何とか精神力で羞恥心を抑え込む。
「へぇー、転生者だったんだ! だから森精族でもないのにここにいたんだ。うん? でも、クロエちゃん人類種じゃないよね? 耳尖ってるし。」
「ク、クロエちゃ……!?」
明らかに自分より年下であると思われるシーラからちゃん付けで呼ばれ驚くクロエだったが、それは自らが少女となっていたことを半ば忘れていたからであった。自らの容姿を思い出し、ちゃん付けで呼ばれるのも仕方ないかと思い直したクロエは改めてシーラの問いに応える。
「え、えっと……。転生させられて、気が付いたらこの姿になってて。ボク自身分かってないんだ。」
「――それも含め、クロエ様が抱えていらっしゃる幾つかの謎も明らかに出来ればと考えております。」
「あ、ミーナ姐さん!」
いつの間にかクロエの背後に立っていたミーナの姿にシーラが気付いた。ミーナはシーラに対し手を振って応じると、ゾーンへ向かって話し出す。
「族長。昨夜お話ししました通り、午前は座学で午後から訓練と言う形で進めていきたいと思います。」
「おう。俺は座学に関しちゃ力になれねぇから、午前中は若いの連れて森を回ってくるわ。午後から顔を出させてもらうぜ。あ、あと……。」
ゾーンは何か思いついたように片手を上げると、ポンッとシーラの頭に手を置いた。
「こいつもついでに座学受けさせてやってくれ。」
「……えーっ!? 何であたしまで!?」
突然の展開だったのか、シーラがとても驚いた様子で抗議の言葉を上げた。抗議したという事は、シーラは座学が苦手であるらしい。出会って間もないクロエであったが、何となくシーラに抱いていたイメージ通りであることに謎の安心感を得ていた。
「座学なんてやるより訓練したいー! あたし別に魔法使えなくてもいいもん!」
「じゃかぁしい! いくらダークエルフっつってもお前は女だろうが! 純粋な力だけじゃいつか痛い目見るぞ! 大人しく嬢ちゃんと座学受けてこい。これは族長命令だ。返事は!?」
「あーはいはい! わかりました!」
ふくれっ面で納得していないことを前面で押し出す様子のシーラ。その様子を見たゾーンは軽くため息を吐くとミーナに対し「んじゃ、よろしくな。」と言い残し食堂を後にした。食堂に残ったのは不機嫌なシーラと先ほどの言い合いにおろおろしているクロエ、平然としているサラ、そして食器を片付けている者だけである。
「さ、もうすぐお嬢様もいらっしゃいますし、さっそく資料室へ向かいましょう。クロエ様は私と一緒に、シーラは準備をしてから来てください。遅れてはだめですよ?」