第22話
部屋の外から風の音が聞こえてくる。どうやら外は、少し風が強いらしい。そんな風の音がわかるほどに静かな部屋の中、クロエはこの国へ来るまでの経緯を一切の偽りなくサーシャへ語った。
サーシャはクロエの話を黙って聞いていた。表情を動かさず、時折頷きを返していた。しかし、クロエがその全てを語り終えた後、目をつむると「ふぅ……」と大きく息を吐いた。
「そう、でしたか……。その様な事が……。転生者の転生の経緯を聞くのは初めてでしたが、ふむ、俄には信じがたい話ですね。」
「や、あの……、ほ、本当なんです……!」
サーシャの漏らした言葉に焦りを得たクロエは、立ち上がらんばかりの勢いで弁明した。しかしサーシャはその様子を見ると軽く右手を上げてクロエを止める。
「いえ、疑っている訳ではありません。先ほどの話も、文献で読んだ転生の話に類似していますし、こうして会話が成り立つ時点であなたが転生者であることは疑いようがありません。そして何より、この紙……。」
そう語ったサーシャは、テーブルに置かれた紙を手に取った。それは、クロエが元々身に着けていた服に入っていた物、クロエの転生に関することが記された例の紙である。クロエは先ほどの話の過程で、サラの家から持ってきていたその紙を提示したのだった。
サーシャはしげしげと紙を見つめる。クロエは紙を見つめるサーシャを不思議そうに見つめていた。クロエが自らの言葉の続きを待っていることを察したサーシャは、紙から視線を外しクロエへ向ける。
「ここに記されている文字は、『神代文字』と呼ばれるものです。古い時代に使われていた文字で、もはやこの文字を日常会話で用いる者はこの世界にいないでしょう。私でさえ、かろうじて読める程度です。おそらく、この国でもこの文字を読むことができるのは数人でしょう。この紙を持っている時点で、あなたが尋常の存在ではない証明になり得るのですよ。」
「そうなんですか?」
「ええ。ですが、正直この紙に書かれた内容、そしてあなたが語った話……。とてもじゃないですが、おいそれと信じられるものではないのです。この世界に来たばかりのあなたは、分からないでしょうけどね。」
サーシャはそこまで言うと、手に持っていた紙をクロエへと返した。クロエは紙を元通りに畳むと、再び服へと仕舞う。
「取り急ぎ、二つの事を教えておきましょう。まず一つ、あなたの持つ『無属性』と言う魔法属性。これは私も聞いたことの無いものです。」
「やっぱり、ですか……。」
「この世界の魔法には、10の属性があります。火、水、氷、風、雷、鋼、土、木、光、そして闇。これは不変の理であり、真理であるとされてきました。ですが、あなたの話が本当であるならば、これはこの世の常識を瓦解させかねないものです。」
サーシャの言葉の迫力に、クロエは我がごとながらどこか他人事のように感じていた自らの異端さを突きつけられたような気持ちになった。現時点においても、クロエは自らが異世界にいることは理解していても魔法の存在は半信半疑である。しかし実際の魔法を見ていないことを踏まえれば、それもむべなるかなと言えるだろう。
「そして、もう一つですが……。これはこの国で生活するうえで必ず心に留めておいてもらいたいものです。」
「は、はい……。」
「先ほどの紙に書いてあった『ロール』と呼ばれる物、あなたが聞いた話を踏まえるならば『運命』に近しい物らしいですが、あなたが背負いしロール『魔王』……。この国において『魔王』という言葉は迂闊に口にしないでください。」
サーシャの言葉は力強かった。有無を言わせぬ力がある。その迫力に若干気圧されそうになるクロエだったが、その理由ぐらいは聞いておかねば納得は出来ないと考えた。
「そ、それは……、どうしてなんですか?」
「……少し、長い話になります。」
サーシャはそう言うと、おもむろに立ち上がり壁際の本棚の一角へ向かった。そして少し高い位置にある分厚い本を手に取ると、それをパラパラとめくりながら再びソファーへ腰を下ろした。
「この世界の歴史などを一から説明することはしませんが……、簡単に言うと今からおよそ二千年以上昔、この世界は大きな戦火に見舞われました。それは、人類種とそれ以外の種族の争い。俗に『人魔大戦』と呼ばれる戦争です。」
「戦争、ですか……。この世界でも、やっぱりあるんですね。」
「ええ。他の転生者の語る話を、書物でですが読んだことがあります。あなたのいた世界でも戦争があったそうですね。ですが、人魔大戦はこれまでの歴史にあった戦争とは規模が異なる物なのです。」
サーシャはページをめくる手を止めた。そしてそのページに目を落としなら言葉を続ける。
「酷い争いだったと、聞いています。人魔大戦は規模もそうですが、その期間もまた長い戦争でした。私が生まれた頃はすでに終戦近くでしたが、その頃になるとお互いの陣営の中でも争いが起きていました。もはや、誰が敵で誰が味方か分からない様相であったと、先代の大長老である私の母は語ってくれました。」
クロエはサーシャの話に聞き入っている。サーシャは顔を上げ、クロエの顔を見つめた。
「我々森精族は、括りこそ魔族側でしたがその立場は中立を保っていました。しかし、どの世界でも同じようですね。魔族側からは『裏切者だ』と罵られ、人類種側からは『バケモノ、不気味だ』と嫌厭されました。そして終戦近くの混乱の時代、我々森精族は魔族の一部から本格的に虐げられ、排斥されるようになったのです。」
サーシャの瞳には、何の感情も宿っていない。それは一国の長と言う立場故に、ただ歴史を客観的にとらえねばならないという責務もあるのかもしれない。
「その扱いは、一言で言えば『奴隷』でしょう。労働力として、戦力として、そして性欲の捌け口として。我々森精族は様々に利用されたようです。無論当時の森精族は恨みました。非戦を貫いていただけなのに、平穏を、平和を望んでいただけなのになぜこんな目に合わねばならないのか。その恨みは自らを虐げる者たちに、そして徐々に彼らを統治する者たちに向かいます。その者たちこそが、人魔大戦において魔族側を指揮した存在、魔王です。」
サーシャはそこまで語ると、先程から開いていた本をテーブルの上に置いた。クロエの視線がそのページに注がれる。
そこには、おそらく活版印刷で記されたであろう文字の他に、ただ一文、手書きで記された文字があった。
『我らの痛みを、屈辱を忘れるな。』
文字は心を表すとはよく言った物だと、クロエは内心舌を巻いた。そこに記されたものはただの文字であるはずなのに、ありありとその文字を書いたであろう者の怒りが感じられた。
「二千年ほど過去の出来事ですが、我々森精族は長寿ゆえに当時の大戦を経験した者が数名残っています。そして、種族としての森精族において、一般的に魔王と言う存在に対し好意は抱いていません。」
「それって……、もしかして、この世界にはまだ、魔王と呼ばれる人たちがいるんですか?」
「ええ。詳しくは、また今度教えてもらった方が良いでしょう。どれだけ簡単にしても、一つの世界の歴史です。それなりの時間をかけねば理解できないでしょう。」
サーシャは腕を伸ばしパタンと本を閉じると、あらためてクロエの目を見つめた。その視線は特に、クロエの右目に注がれている。クロエはその事実に気が付くと、連鎖的にある事を思い出した。ここへ来る前、サラもクロエの右目を覗き込んだのだ。
「(何か関係があるのかな? そう言えば昔、冒険者の目を覗き込んで倒した敵とかを把握する漫画があったけど、もしかしてこの世界の人たちはそれができる……? いや、ないか……。)」
「長々と話してしまいましたが、まとめるとこの国で過ごすにあたり注意すべきは先ほど述べた二点です。覚えていますか?」
「あっ、はい。えっと、ボクの魔法属性についてと、魔王について言及しない事ですよね?」
クロエが先ほどの会話を思い返しながら答えた。サーシャは満足そうに頷く。
「ええ、その通りです。前者については、今後の調査で何かしら明らかになるかもしれません。後者に関して、『ロール』と言う物の正体が分からない以上明言は出来ませんが、あなたが魔王である可能性は低いでしょう。『罪の証』がありませんからね。」
「『罪の証』……。サラさんもその言葉を言ってました。それって、何なんですか?」
クロエはサラが自分の目を覗き込んだ時に発した言葉を思い出した。サラもまた、クロエの右目を覗き込み、「罪の証」がないと言っていたのである。
「『罪の証』とは、簡単に言えば魔王であることを証明するものです。この世界にいる魔王の右目には、『罪の証』と呼ばれる刻印が浮かび上がっています。魔力の高ぶりと共に気炎を発するこの紋章は強者の証であり、唯一無二です。あなたの右目にはそれがありませんから、魔王ではないと判断できるのです。詳しくは、後日教えてもらうと良いでしょう。」
サーシャは立ち上がった。そして微かに口の端を上げてうっすらと笑みを浮かべると、クロエに向かって右手を差し出した。
「これが転生者の挨拶だと文献で知りました。エルフの隠れ郷シドラへようこそ、クロエさん。我々森精族の名において、あなたを保護し支援します。」
どうやらサーシャはクロエを認め、握手を求めているらしい。それに気が付いたクロエは慌てて立ち上がると、両手でサーシャの手を握り返した。
「よ、よろしくおねがいします!」
「ふふ、こちらこそ。さて、と……」
先ほどよりも分かりやすく笑みを浮かべたサーシャは大きく息を吐いた。すると、先ほどまでの張り詰めた雰囲気は一変し、サラが部屋を去る前のほんわかとした表情に戻る。
「あー、疲れたわぁ……。真面目なお話って肩がこるのよねぇ。クロエちゃんも緊張しちゃったでしょ? サラちゃんのとこへ行きましょうか?」
そのあまりの豹変具合に、クロエは開いた口が塞がらない思いだった。視線を左右に流し迷いながらも、どうしても気になってしまいサーシャへと尋ねる。
「あ、あの……。ど、どうしてそんなに違うんですか? その、雰囲気とか……。」
「んー……、本当はね? さっきみたいな雰囲気でずっといるべきなのよ。私も分不相応だけどこの国の長だし、威厳とか緊張感に溢れているべきなんだけどね。でも、疲れるじゃない? 相手もだけど、私自身も疲れちゃうの。だから、切り替えているのよ。大長老としての私と、ただの森精族サーシャ・エルゼアリスとしての私をね?」
クロエの質問に対し、サーシャは苦笑を浮かべながらそう答えた。このようなオンとオフの切り替えができるのはやはり一国の長に立つ者故かと、クロエは感心した。と同時に、前世では社会人などの経験がなかったが故にサーシャの言葉をうまく理解できなかった。
クロエの当惑を感じ取ったのか、サーシャは懐からとある物を取り出した。それに気が付いたクロエの目が大きく開かれる。
「あっ! それ……。」
「ンフフ、これ、見覚えあるでしょ?」
サーシャが手に持つそれは、クロエが先ほど署名した紙、「真実の誓約」だった。署名した者は一切の嘘がつけなくなる魔法の紙。そう説明されたそれを、サーシャはあろう事かクロエの目の前で破り捨ててしまったのだ。クロエはあまりの驚きに声も出ない。
紙を破り捨てたサーシャはそれを部屋にあったゴミ箱へ捨てた。そして一連の行動に対し驚き声も出ないクロエの様子を、いたずらっ子のような顔で笑う。
「クロエちゃん、さっきの紙の事信じちゃってたでしょ? あれ、実はただの紙なのよ?」
「えっ……、う、嘘……。だ、だって! なんかパァーって光ってたし、凄い感じだったじゃないですか!」
クロエの立場からすれば嘘であった方が良いはずなのだが、何故かクロエはサーシャに対し反論する。そんなクロエの様子に対し、笑みを浮かべたままのサーシャがネタばらしをした。
「紙を光らせたのは、普通魔法の一種の【発光】よ。紙の下に小さく光の球を出したの。全然気が付かなかったでしょ? もちろん、クロエちゃんが転生者で魔法について全然知らなかったのもあるけど、そうじゃなくても騙されていたんじゃないかしら。」
サーシャの説明を信じるならば、クロエが署名した紙はただの紙であり、署名の後に光ったのはただの魔法であるというのだ。聞いてみれば単純な話である。クロエは【発光】と呼ばれる魔法について知らなかったが、聞く限り嘘を許さないなどの効果は無いらしい。つまり、いわゆるハッタリである。
それを知ったクロエは、まるで全身の力が抜けるような感覚を得た。思わずソファーに身を投げ出したくなったが、ぐっと堪えサーシャを見上げる。
「な、何でそんな事……。」
「ごめんなさいねぇ。でも、さっきも話した通り、私はこれでも国を守らなきゃいけないのよ。クロエちゃんの事疑ってるわけじゃないんだけど、これぐらいの駆け引きはしなくちゃいけないの。そ・れ・に――」
そこまで言葉を発したサーシャは、ひざを折ってクロエの目線に身体を合わせた。そして怪しげなほどに魅力的な笑みを浮かべると、片目を閉じて囁くような声色を奏でる。
「――女は、秘密で美しくなるのよ。クロエちゃんも女の子になったんだから、覚えておいて損はないわ。」